第92話 カミサマの場所

 なるほど、この有様じゃ人を呼びたくても呼べないな。 

 橋田はしだのアパートのドアを開けた直後、そんな感想が浮かんだ。

 仲間内では頻繁に自宅の行き来があったのに、コイツだけは「とにかく無理だから」とか「見られたら困るから」とか言って、かたくなに拒んでいた。


「んっはっはっはっはっはぁ! いらっしゃはぁーい!」

「うるせぇぞ、酔っ払い」


 橋田の酒臭い呼気と、薄い腐敗臭とやや濃い酸化臭、それと芳香剤のニオイが混ざり、何とも言えない異物感が鼻腔びこうに居座る。

 目に付いたスイッチを三つ入れると、玄関の中と外とキッチンの照明が点いた。

 まだ『ゴミ屋敷』レベルじゃないが、ゴミとしか認識できない諸々が床を隠していて、キッチンを目にした段階で『汚部屋』呼ばわりされても仕方ない惨状だ。


「靴、自分で脱げるか」

「くとぅー? ムリダネェ!」

「だから声でけぇよ……ほら、そこ座れ」

「にぇーい」


 一人じゃ歩けないほど泥酔した橋田をタクシーに押し込んだが、それでもちゃんと帰れるかどうか不安だったんで付き添うことにしたのは、どうやら正解だったらしい。

 がりかまちにドカッと腰を下ろした橋田の足を掴み、まずは右から靴を脱がしていく。


「ったく、こんなベロベロになるまで飲むなっつうの」

「んぁあー……あ? でもでもでも、飲ませたのはオメーらじゃね」

「ま、半分くらい俺らのせいかもな」

 

 早口で反論してくる橋田に同意し、左足からも靴を脱がせる。

 そして腋の下から両手を入れて立ち上がらせ、半ば背負うように肩を組む体勢に。

 橋田の体重は軽いハズだが、力が抜け切っているせいか、それとも俺も結構酔っているのか、やたらと重く感じる。

 引きずり気味にキッチンを進み、その先にあるドアを開けた。


「うっ、コッチもひでぇな」

「ねっへっへっへ……苦手なーんだよ、片付け」

「苦手とかそんなレベルじゃねぇだろ、これ」


 キッチンの時点で大体想像はついたが、電気を点けてみると部屋のどうにもならなさがあらわになった。

 脱ぎ散らかされた服、積まれた本や雑誌、重なるアマゾンの箱、コンビニ弁当やカップ麺の容器、半端に中身の残ったペットボトルの群れ、口を縛られた大量のビニール袋。

 生ゴミっぽいのが少ないのが救いだが、文字通り足の踏み場もない状況だ。


 本棚やチェストといった収納家具は存在しているものの、機能しなくなって結構な年月が経っている様子だ。

 シャツやジャケットに半ば埋もれたベッドに橋田を転がすまでに、三回ほど何かを踏み壊した感触があった。

 最後の一回で鋭い痛みを感じ、足の裏を見ると灰色の靴下にポツンと血が滲んでいる。


「クソァ! 何か刺さったぞ」

「んー……まー、よくあるよくある」

「あるんじゃねえよ! つうかマジで掃除しろ。人の住む環境じゃねぇぞ」

「うー、にぉ……」


 酔いと眠気が限界なのか、橋田の反応が徐々に弱くなっていく。

 とりあえず、自宅まで送り届けるのは成功したんで帰るか。

 鍵を開けっ放しにするのは気にならなくもないが、こんな家じゃ侵入してきた泥棒も逆ギレするだろう。

 そう判断した俺は、もう一度グッチャグチャの室内を見回してきびすを返そうとした――のだが。


「ん?」


 ドア側の部屋の隅に、違和感があった。

 他はどこも壁に寄りかかるように物が積まれているのに、その一角だけ何もない。

 雑然としすぎた室内で、1/3畳ぐらいのスペースだけ床が見えている。

 普段はあそこに、何か置いてあったりするのだろうか。


「おいハッシー、部屋の一箇所だけ無駄に綺麗なの、何なん?」

「ぅ……あ? キレ?」

「いや、あの隅っこの、そこ」

「うぁん……ふぃ、グェェェェェェェェフッ」


 ダルそうに首をもたげた橋田は、俺が指差した方をチラッと見たが、すぐにベッドに突っ伏して長々とゲップを放つ。

 吐いたら危ないかも、と橋田の体を横向きに動かすと、ふにふにと自分の顔を撫でながら何か言い始めた。


「あー、あっこは……かみ、さぁ……ま、にょ」

「は? にょ?」

「かーみさぁ……の、ばーしょ、だぁら……」

「おい、寝るなって」


 完全に力尽きたようで、言葉を途切れさせた橋田の呼吸が寝息に変わっていく。

 よく聞き取れなかったが、カミサマがどうとか言っていたか。

 問題の場所を見れば、壁にパネル入りのポスターが飾られている。

 前世紀に人気だったバンドのギタリストを写した、ライブ中と思しきカットだ。

 

「昔、ギターとかやってたのか」


 このモジャ髪のおっさんが、橋田にとって神みたいな存在なのだろうか。

 神様のいる場所だから、その前のスペースだけは綺麗にしておく――ってのはわかるようなわからないような。

 だったら、汚れたパネルの拭き掃除もやっとけばいいだろうに。

 そんなことを考えながら、ポスターをよく見ようと二歩三歩と近づく。


 トトッ


   カサッ


      テンッ


 自分の足音とは別に、軽い何かが床を移動する音がした。

 手鞠サイズの赤い玉が、空きスペースに跳ね転がってきて停まる。

 橋田の仕業か、とベッドに目を向けるが、うつ伏せで潰れたままだ。

 じゃあこれはどこから――視線を落とすと、球体がブルッと震えて半回転する。

 

 顔があった。


 人間のそれではない。

 犬とか狐とか、そういう動物の顔。

 獣の頭部の皮を剥いでボールに被せたような、不自然な造形。

 赤くて短い硬そうな毛に覆われた顔面が、グニグニと脈動している。

 半開きの口から垂れる長い舌は、熱帯魚を連想させる光沢のある緑色。


「ぶぇ……」


 何なんだ、これは。

 飲もうとした息が吐き気に押し返され、濁った音が口から漏れる。

 その音に反応して、瞳のないクリーム色の目がコチラに向けられた。

 獣の丸い顔から感情は窺えない。

 身動きも取れないまま、自己主張の激しい毛玉を見つめ続ける。


 ピョッ


 不意に、幼児が履くサンダルみたいな音がする。

 直後に赤い玉が大きく跳ね、天井にぶつかると同時にパッと消えた。

 橋田が俺たちに見られたら困るのは、荒れ放題の部屋じゃなかったようだ。

 一瞬で酔いが吹き飛んだ頭の中に、そんな思考が湧き上がる。


「……じゃ、帰るわ」


 反応がないだろうと思いつつ、いびきに合わせて上下する橋田の背中に小声で告げた。

 ここに来る前は泊めてもらうのも視野に入れていたが、室内の惨状と部屋のアレを視界に入れてしまった今では、その選択肢は消滅している。

 スマホで確認すると、最寄り駅からの電車はまだ何本かある。

 大股でゴミだらけの床を通過し、急ぎ足で橋田の家から遠ざかった。


 それにしても、さっき見たあの――赤い玉は何だったんだろうか。

 橋田は神様と呼んでいるようだが、そんな有難い雰囲気はまるで感じられなかった。

 正体が何だろうと、サッサと忘れた方がいい。

 理性も本能も、そう告げてきている。

 けれど、どうしてもアレについて考えるのをやめられない。


 アパートを出てからずっと、ピヨピヨって音が聞こえてるせいで。

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