第91話 ずっと君を見てた

 満月数日前の月夜なのに、いつになく闇の濃さを感じる。

 十四時間分の疲労が溶け込んだ溜息が、眼鏡の内側をじんわり曇らせた。

 最寄り駅から自宅アパートまでの、およそ中間地点となる住宅街。

 二又に分かれた道の真ん中には、半ば風化した石像の置かれたほこらがあった。


 ここに何が祀られていたのか、今更ちょっと気になっている。

 だが、半月ほど前に起きた事故のせいで確かめようがない。

 結構な勢いで車に突入された祠は潰れ、石像もどこかに撤去されてしまった。

 立ち入り禁止のテープに囲まれたそこを横目に、いつも通りに左の道を選ぶ。


 今日はどうかな、と思いつつ歩いていると、また例の感覚があった。

 近くから凝視ぎょうしされている、あの独特の落ち着かなさ。

 以前から時々はあったのだが、最近では三回に二回のペースで発生している。


 勘が鋭い方でもないのに、視線の存在を確信できる。

 それはつまり、実際に何者かの監視に晒されている、ということだろう。

 どうにも気味が悪いけど、別の道を選んだ場合は十五分余計に歩くか、照明のない森を抜けるかの二択が待ち構えている。


 タクシーを使える経済的余裕があれば、などと思っても仕方がない。

 残業代もロクに払われない現状では、そんな願望は夢物語に等しい。

 忙しくて恋愛どころじゃないから、彼氏に迎えに来てもらうのも不可能だ。

 もう一つ深々と溜息を吐いて、意識的に歩調を早める。

 通知をチェックしようと、スマホを取り出したところで不意にバランスを崩した。

 

「ふえっ?」


 大きな手に、自分の右手首が掴まれていた。

 掴んでいるのは、黒いスウェットの上下を着た、年齢不肖な太った男。

 荒い呼吸で、無精ヒゲで、頭にタオルを巻いて、全身を震わせて、わたしを見ている。

 何が起きたのかを理解しようとするが、手首に痛みが走って思考が乱れる。

 呆然としている内に、ブロック塀で囲まれた家の敷地へと連れ込まれていた。


「ぎぁ――」


 危機を報せる渾身の叫び声は、湿った手で塞がれて軽々と封じられる。

 そのまま雑な感じに引き摺られ、開け放たれたドアから屋内に連れ込まれた。


「おぉおっ、大人しくっ、するんだ。いいか? いいな?」

「こっ声をっ、声をどすん、だっ出すんじゃ、ないぞっ」


 ドアを閉めた男は、大量のつばを飛ばしながら命じてくる。

 ここで鍵まで閉められたら、何もかもが終わってしまう。

 抱きつかれた上半身が動かせないので、両足をバタつかせて暴れに暴れる。


「ずっと、ずっと君を見てた……ずっとだ」

「しし静かに、死にたっ、くなければ、静かに」


 上擦うわずった声で、男はそんな言葉を告げてきた。

 当然ながら無視して、足の届く範囲をひたすら蹴りまくる。

 やがて中々の手応え、いや足応えがあった直後、抱きつく圧力がフッと緩んだ。

 チャンスだ、と拘束を脱してドアノブに手をかけるが、髪を引っ張られ阻止される。


「あぅうっ――」

「だぁらっ、ししっ、静かにっ、しろって、な? な?」


 私の首を掴んで、壁に体を押し付けながら男は顔を近づけてくる。

 興奮と緊張が高まりすぎて口が回らないのか、言葉がとにかく聞き取りづらい。

 血走った目で見据えてくる男からは、えたグラタンと洗ってない鳥籠とりかごを混ぜたようなニオイがした。


「ぅぐっ、かっ、はっ」


 息が詰まり、頭が熱くなる。

 男の腕を繰り返し叩いたら、ようやく手が離されて気管が開いた。

 床に崩れて四つん這いで咳き込んでいると、背後から何かを噛まされる。

 うめきながら男をにらむと、脂っぽい長髪がワサワサと揺れている。

 どうやら、タオルで猿轡さるぐつわをされたようだ。


「すぐに、すぐ終わるから」

「とにかく、とにかくジッとしてれば、大丈夫」


 男はそう言いながら、立ち上がろうとする私の肩を押さえつけ、無理矢理に座らせた。

 段々と冷静になってきたのか、声のトーンが落ち着いている。

 でも呼吸は荒いままだし、泣き笑いに似た奇怪な表情も異様すぎる。

 人生で初めて経験する問答無用の暴力に、恐怖心は果てしなく増幅されていく。


 辺りに散らばった様々なものが、男の手で一箇所にまとめられる。

 ダクトテープ、黒ずんだ木製のバット、古いビデオカメラ。

 錆の浮いた工具箱、液体の入ったビン、サバイバルナイフ。

 視界がぼやけて嗚咽おえつが漏れ、自分が泣いているのに気付いた。

 

「傷つけるつもりは、ない。ないから」

「だけど、余計なことすると……死ぬぞ」


 矛盾した内容を語りながら、男は震える指先で小型のビデオカメラを操作する。

 いつも感じていた視線は、このカメラ越しに見ている男のものだったのか。

 一秒でも早く逃げたいのに、進路を塞がれていてドアに辿り着くのは難しそうだ。

 他の方法を考えたくても、収まらない耳鳴りと動悸が邪魔をしてくる。


「これでな、ずっと見てたってのが、わかってもらえるから」

「どうして君が、こうなってるかも全部、全部」


 汗だくになっている男は、ベタッとした調子で語りかけてくる。

 猫撫で声のつもりなのかもしれないが、どうしようもなく気持ちが悪い。

 こちらへの態度から好意らしき感情も伝わってくるけれど、それがまた深みのある怖気おぞけを掻き立てた。

 目をそむけたいのに目を離せず、男の一挙手一投足を追いかける。


「おっ、ほっ――」


 汗か脂で手が滑ったのか、男がビデオカメラを取り落とした。

 その瞬間、「ここだ!」という言葉が脳内に閃く。

 立ち上がろうとすると、下半身に力が入らず腰と膝がフワフワしている。

 それでもどうにか身を起こし、カメラを拾おうと背を向けている男の尻を全力で蹴り飛ばし、その反動を使って体ごとドアにぶつかる。


「んがっ」

「ぐぇっ」


 顔面から壁に突っ込んだ男と、思い切り背中を打った私の呻き声が重なった。

 はやる気持ちを抑え、しびれる手でノブを探る。

 体重をかけながらノブを捻り、転がるようにして家から抜け出た。


「こっ、ここにいなきゃダッ、ダメなんだ!」

「君をしっ、死なせたくないから! だから待っ――」


 口の中を切るか歯が折れるかしたらしい、男の水っぽい声が追いかけてくる。

 とにかくこの場から離れたくて走り、転び、起き上がってまた走る。

 警察に電話を、と思ったがスマホはどこに落としたかわからない。

 大声で助けを呼ぶか、どこかの家に逃げ込むか――こういう場合、「火事だ」って叫ぶのが有効なんだっけ。


 混乱しながら走っていると、また足がもつれて道路に転がる。

 その衝撃で外れた眼鏡が、地面を滑ってどこかに消えた。

 数年ぶりの全力疾走に、なまった体が完全についていけてない。

 両手をついて起きようとすると、左の足首あたりが鋭い痛みを主張した。

 どうしよう、動けなくなったらあいつに捕まって――

 

「おい、おまえ」


 焦りで目の前が暗くなったのかと思えば、誰かが頭上から声をかけていた。

 押し殺したような低い声は、あの男のものではない。

 やっと助かった、と思えた安堵あんどで瞳がうるむ。

 手の甲で涙をぬぐい、スッと顔を上げた。


「ありが、ヒュッ――」


 お礼を言いかけて、後半を飲み込んでしまう。

 見上げた相手は全裸で、輪郭りんかくがおかしなことになっていた。

 二メートル半はありそうな長身と、アンバランスに細くて短い腕と足。

 でっぷりと突き出した腹には、妊婦のような赤黒い肉割れが広がっている。

 いびつふくらんだ頭は、たぶん普通の倍くらいのサイズ。

 その顔の中心に一つだけある、大きすぎる目玉に私が写っていた。


「いいか、もう」


 唇のない、赤茶けた歯を剥き出した口が、よくわからない問いを発した。

 眼鏡をなくしたのに、どうしてこれ・・はハッキリ見えるのだろう。

 焦げるまで焼いたネギに似た臭気が、ムワッと周辺に広がっていく。

 濁った瞳に見据えられ、さっきまでのやりとりを思い出す。


 あの男は「死ぬ」とは何度も言っていた。

 けれども「殺す」とは一度も言ってない。

 だから、ずっと私を見ていたのは――

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