第82話 知らない弟
弟がこの一週間、無断欠勤を続けている。
その報せを受けて、まず思ったのは「私に言われても」という困惑だった。
薄情かもしれないが、昔からあまり仲が良いとも言えない相手に
現在の仕事も住所も知らないし、実家を出てからはお互いに連絡もまるでない。
五年以上も顔を合わせていないので、下手をすれば街中ですれ違っても気付かないだろう。
何だったら、週三ペースで顔を合わせる近所のコンビニのおっさん店員の方が、まだ親しく思えるレベルで
そんな感情のせいで、不機嫌さ丸出しな
『というワケでですね、岸田さん……あ、お姉さんも岸田さんでしたね。えぇと、隆介さんが先週の金曜から音信不通になってるんで、これは何かあったかと心配してまして』
「……はぁ」
『それとですね、弟さんの手元にある資料が至急――いえ、大至急で必要になっている事情もありまして。
「なるほど」
同僚のモリシマと名乗る女性は、緊急時の連絡先になっていた実家に心当たりがないか問い合わせ、母親から番号を聞き出した私の携帯にかけてきたらしい。
用件の重要性としては、弟の安否よりも資料とやらの回収に比重が傾いている気配があるが、仕事上だけの関係ならそんなものだろうか。
『なので、お姉さんにも現地まで来ていただいて、それで弟さんの部屋に伺いたいんですけど、お願いできますでしょうか』
「現地に、ですか……こちらからマンションに連絡して、管理人さんに話を通すというのは」
『家族だと証明できないと難しい、とのことでして。今日中にどうにもならない場合、仕方がないので警察にお願いする感じになりそうで』
久々に弟の名前を聞いたと思えば、やってきたのはダイナミックすぎる厄介事だ。
賃貸のマンションで死なれても困るし、警察沙汰でゴタゴタするのも頭が痛い。
それに会社に損害を出してしまい、賠償云々って話になるのも勘弁してほしい。
面倒で仕方ないが、この土曜の休みは半日潰されると受け入れるしかなさそうだ。
「わかりました。今からそちらに向かうと……三時、いえ二時半には着けると思います」
『あっ、本当ですか! ありがとうございます! では私もその時間には現地にいるようにしますので――』
必要な持ち物などの説明を受けて通話を終え、
会社からの連絡は拒絶しても、家族からの数年ぶりの電話ならどうだ、と試してみるが番号が変わっているのかつながらない。
次々に思い浮かぶ最悪の想像を捻じ伏せ、私は外出の準備に取り掛かった。
「わざわざ御足労をおかけして、今日はすみません」
「いえ、そもそも弟が原因のことですし」
会うなり頭を下げてくるモリシマに、こちらも低姿勢で対応する。
明るめの髪色とカジュアル寄りな服装もあってか、先程の通話での印象よりもだいぶ若く、今年で三十になる弟よりも三つ四つ年下に見える。
仕事用のを切らしていまして、と言う彼女から受け取った名刺には『
管理人室を訪れて事情を説明し、こちらの身分証明書を提示すると、弟が住む505号室の鍵を渡してもらえた。
中で何事かが起きていた場合に備えて一緒に来るのかと思いきや、どうやらこの無愛想な男は勤労意欲に乏しいようで、管理人室から出てくる気配はまるでなかった。
「いいんですかね? 私らだけで入っちゃって」
「まぁ、ついてこられても邪魔なだけですし」
冷たさを含んだ物言いに「おや?」となって森嶋を見返すが、彼女は階段の方へと移動を開始していた。
どうやらこのマンション、エレベーターがないようだ。
無言で上階を目指す森嶋の背中を追って、私も急ぎ足でついていく。
普段の運動不足が祟って、ちょっと息が切れかける。
そこまで築年数は古くもなさそうなのに、何で階段しかないんだこの建物。
五階建て以上でエレベーターのない建物とか、存在そのものがハラスメントなのでは。
膝の痛みを感じながら内心で
「私が残したメモ、そのままになってますね」
「ということは、帰ってきてないか……出てきてないか」
女性らしさと荒々しさが同居する文字で『室長か私まで至急連絡を 森嶋』と書かれた貼紙を見ながら言うと、森嶋は硬い表情で同意の頷きを返してくる。
ドアの前で耳を澄ませても、部屋の中からTVの音などは聞こえてこない。
人の気配もないように思えるが、そういう察知能力にまるで自信はないので、実際にどうかは不明瞭だ。
「じゃあ、お姉さん……入りますか」
「そう、ですね」
森嶋が鍵を差し込み、ドアノブを掴んでゆっくりと引く。
チェーンロックは掛かっておらず、弟が中にいる確率が更に下がった。
室内は静まり返り、明らかにヤバい事態を知らせてくる腐臭なども流れてこない。
何だか青臭いようなニオイが薄く漂っているが、そういう芳香剤だろうか。
「岸田さーん、いるんですかー? 森嶋でーす」
照明を点け、大きすぎない程度の声で呼びかけるが、反応はない。
森嶋の後から玄関に足を踏み入れると、短い廊下の先にキッチンが見えた。
弟はだいぶズボラだったはずなのに、ゴミやガラクタで廊下が埋もれることもなく、
実家にいた頃よりも、だいぶまともな生活をしているようだ。
「入りますよー」
弟に、というより私に告げるように言うと、森嶋は靴を脱いで上がり込む。
私もそれに続き、廊下を抜けてキッチンへと入る。
パッと見では綺麗にしてある印象だったが、近くで確認するとちょっと違う。
殆ど自炊をしていないようで、調理器具や食器類は数えるほどしかない。
ガスコンロも新品同様だが、袋ラーメンすら作っていないのだろうか。
「あいつ、料理はワリと好きだった、ような……」
急にスパイスから本格的なカレーを作ったり、バイト先で覚えてきたベトナム料理を作ったりと、私も昔は月に一度ぐらい弟の料理を食べていた。
冷蔵庫を開けてみるが、中にはペットボトルの水が数本と、チーズらしい淡いオレンジ色の塊が入った小袋がある他はスカスカだ。
冷凍庫も見てみたが、使いかけのロックアイスがあるだけで、冷食などもない。
どんな食生活をしてるんだ、と首を傾げていると森嶋から声をかけられた。
「どうかしましたか、お姉さん」
「いや、別に……ただ何ていうか、生活感ないなって」
「あー、そうかもですね。弟さん、最近は帰っても寝るだけとか言ってましたし」
それならそれで、レトルト食品やらカップ麺やらのストックがあってもいいだろうに、まったく見当たらないのがよくわからない。
そのくせ以前は興味なかったはずのワインが、木製ラックに十本ほど収納されている。
あまり詳しくはないが、ラベルに書いてある年代からして安物ではなさそうだ。
仕事関係の付き合いで飲むようになったのか、それとも友人や恋人に合わせた結果か。
「それで、資料ってのはありましたか」
「すぐに見つけるのは難しそうなんで、
「えぇ、まぁ。急ぎでしょうから」
「ホントですか! ありがとうございます!」
森嶋はそう言うと、スマホを操作してどこかに連絡し始める。
予定より時間がかかる、みたいな伝言だろうか。
キッチンの先は八畳ほどのリビングで、とにかくモノが多い部屋になっていた。
壁の三面を埋めている天井までの棚には、書籍や書類束やファイルがみっしりと詰まっていて、それらは床も侵食して腰の辺りの高さに何本も塔を積み上げている。
その他にも、中身が詰まっていそうなダンボールや、ラベルに何も書かれていないディスクなどがアチコチに転がっている。
やけに小奇麗なキッチンとは
ともあれ、目的の資料がここにあるとすると、探し出すのは確かに大変そうだ。
「こっちは寝室……かな」
棚の隙間に作られたようなドアを開けると、ベッドがあるだけの狭い部屋が見えた。
カーテンが開いたままの大きな窓は、床に埃が溜まったベランダにつながっている。
ベッドの枕元には棚のようなスペースがあり、ゴツいデザインの目覚まし時計や、洋書らしいペーパーバックなどが置かれている。
英語なんてまともに読めないだろうに、どういうカッコつけ方なのか。
時計の横には、アクリル製で横長のフォトフレームがある。
数枚の写真や絵葉書を飾れる、百均ショップなのに二百円くらいで売っているヤツだ。
このマンションに来てから初めて、弟の日常を
どんなものを飾っているのかと、手に取って眺めてみる。
一枚目は、森嶋も含めた男女数名が、BBQか何かで盛り上がっている場面だ。
二枚目は、水着姿の痩せた男とメガネの女が、親密そうな様子で顔を寄せ合っている。
三枚目は、二枚目と同じ男女が厚着で、雪景色をバックに笑顔で並んでいる。
「ん? ……んん?」
眉間に皺を寄せて
写真を
「あっ、聞いてませんでしたか? 弟さんの隣にいるのが、彼女さんですよ」
「……えっ?」
「えっ?」
「いや、あの……ここに写ってるのは、誰なの」
「だから隆介さんと、去年の夏から付き合ってる子ですよ。確かアイちゃん、あれ? マイちゃんだったかな」
いや、メガネ女の方はとりあえずどうでもいい。
その隣にいる、痩せていて背が高い男は誰なんだ。
改めて森嶋に確認しようとするが、電話を受けながら寝室から出て行った。
しかし、数年顔を合わせていなくても、流石にこれは隆介じゃないと断言できる。
こんな骨格から何から全部が変わるなんて、どんな整形手術でも不可能だ。
「どういうこと……?」
フォトフレームをベッドの上に放り、額に
もしかしたら事件や事故の結果と遭遇するかも、と覚悟はしていた。
だけど、こんな状況はあまりに予想外で、こちらの覚悟を簡単に粉々にしてくる。
一体、弟の身に何が起きたのか――そして、弟に成りすましたコイツは何者なのか。
何より、隆介はいつから姿を消しているのか。
フッと体中の力が抜けてしまい、転ぶようにベッドに座り込む。
どうしよう、こういう場合はどうするべきだろう。
とりあえず実家の親に連絡を――
いや、その前に森嶋に事情を説明して――
いやいや、それよりも警察に通報するべきでは――
思考は全然まとまらず、口の中がベタついてきて、手の震えも止まらない。
とにかく、弟が普通じゃないトラブルに巻き込まれたと、親に伝えておく必要がある。
そう判断してメールを打っていたら、不意にスッと手の中のスマホが消えた。
「ふぇあゎ?」
間の抜けた声を出しつつ顔を上げると、「ウンザリ」とか「ゲンナリ」とか、そういった精神状態らしい表情を浮かべる森嶋と目が合う。
そしてスマホをポケットにしまうと、森嶋は腰を落として私と顔の高さを合わせた。
「あのですねぇ」
「えっ、はっ?」
「今さっき、本社の方にあんたの弟から連絡があって……『例の件については、全部を姉貴に任せてある』だそうですよ。どういうことですか、この茶番は」
「ちょ、ちょっと待って! 任せるって、何を――何が?」
問い返しても、森嶋は冷えた目で見据えてくるばかり。
リビングの方からは、複数の足音と男たちの話し声が近づいてくる。
この状況で、私がこの部屋の住人とまったく無関係だと説得できる可能性は、一体どのくらいあるだろうか――
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