第80話 あんた、不合格

 ガシャ、ガシャ、ガチャ、ガシャ――


 騒々しい音が一定のリズムで背後から近づいてくる。

 何事かと振り返りかけたところで、聞き覚えがあるものだと思い至る。

 直後、水色のランドセルを派手に揺らしながら、小さな人影が駆け抜けていった。

 小学生の移動ってのは基本「走る」なんだよなぁ、と羨ましいような懐かしいような感慨に浸っていたが、後姿が路地に消えるのを見送ってからフと気付く。


 こんな時間に小学生?


 今日は仕事終わりに同僚と居酒屋に寄って、終電ちょい手前で帰ってきた。

 もう日付も替わっているし、完全に深夜だ。

 明日が土曜とはいえ、夜中に子供が一人ってのはどうなのか。

 これが二人三人のグループならいい、ってことでもないが。

 塾通いなんかの可能性を考えても、やはり時間帯が引っかかって納得いかない。


 追いかけて事情を聞いたり、親に連絡したりをやっておくべきだろうか。

 面倒ごとに関わるのは、なるべくならば避けたい。

 しかし、事件や事故に巻き込まれたと後になって知るのも、それはそれで気分が悪い。

 数秒の逡巡しゅんじゅんを経てから、子供を追いかけようと小走りを始める。


 いや、いやいや、待てよ?


 アルコールでにごり気味の意識に、捨て置けない違和感が湧き上がる。

 夜中にランドセルを背負った子供を見かけるのは、確かにおかしい。

 ただ、そのおかしさと若干違った「怪しさ」がないか。

 足を止めて大きく息を吐き、数メートル先の路地を見据える。


 曲がった瞬間から、ガシャガシャと騒がしい音が途切れている。

 それに、ランドセルが上下する音は聞こえたが、地面を蹴る足音は聞こえなかった。

 というか、自分の横を走り去ったあの子供は、どんな髪型と服装をしてたっけ。

 男の子だったか、女の子だったか、それすらも記憶にない。


 次々と浮いてくる疑問と共に、冷風が肌を素早くでるのに似た感覚がスーツの下をう。

 壁に隠れた向こう側で、さっきの小学生――のような何者かが、息を潜めて待ち構えている気がしてならない。

 酔っ払いの想像力が暴走しているだけかもしれないが、本能が訴えてくる危機感には従うべきだろう。


 そう結論付けると、問題の路地を大きく迂回うかいするコースで自宅に戻ることにした。

 十分ほど無駄にするが、酔いを醒ましがてら歩くのもいいだろう。

 誰にともなく心の中で言い訳しながら、今来た道を引き返し始める。

 何となく後頭部に視線を感じるが、ロクでもないものと目が合ってしまう予感がしたので、振り返らずに歩幅を大きくしていく。


 あの音が追いかけてくるかも、という不安にかされつつの早足だったせいか、そこまで遠回りをさせられた感もなく自宅近くに戻ってきた。

 この公園を突っ切れば、三分もかからずに到着だ。

 そう思えば、肩や背中の強張こわばりも徐々にゆるんでくる。

 軽くなった足取りで細かい砂利を踏んでいくと、その音に異質なものが混ざり込んだ。

 

 ふやぁあ……ひぁああ……ふぁああ……ほゃあぁ……


 小さな声――いや、泣き声というか鳴き声というか、そういうもの。

 生まれたての赤ん坊か、もしくは子猫を思わせる弱々しくて途切れ途切れなその声は、素通りを許さない情感をたたえていた。

 聞こえてくる方に目を遣れば、防犯のために置かれているであろう照明が、ベンチの上に置かれたダンボール箱を浮かび上がらせている。


 ふやぁあ……ひぁああ……ふぁああ……ほゃあぁ……

 ふやぁあ……ひぁああ……ふぁああ……ほゃあぁ……


 白っぽい箱の中から発せられる、今にも消え入りそうではかなげな声。

 いつもの自分なら一応中身を確認しただろうが、今夜は何が何でも無視を決め込む。

 怪しい小学生に遭遇した直後に怪しい泣き声を聞かされるとか、これが罠じゃなかったら逆にビックリする状況だし――


 ふやぁあ……ひぁああ……ふぁああ……ほゃあぁ……

 ふやぁあ……ひぁああ……ふぁああ……ほゃあぁ……


 一定のペースを保ったまま、まったく同じ抑揚よくようで繰り返される泣き声。

 この響きには、どうにもならない濃厚さで「作為」が存在していた。

 ヒトの真似をしている、ヒトではないもの。

 そんなフレーズが頭をぎり、ベンチから体と心を遠退とおのかせる。


「何がどうなってんだ、今日は……」


 小走りで公園を抜けてアパートの自室に戻り、放り投げるように鞄を置いてから鍵を閉めるが、それでもまだイヤな気配が消えてくれない。

 まさかな、と思いつつもドアスコープを覗き、何かがついてきてないかを確かめる。

 見えるのは薄暗くほこりっぽい廊下だけで、ドアに耳を当ててもランドセルの音や謎の泣き声は聞こえてこない。


「ぅう、ぶぁああああああぁ……」


 やっと終わった、と思えて腹の底からの溜息を長々吐き出す。

 力が抜けてその場に崩れかけるが、ギリギリで耐えて立ち上がった。

 ここまでの数十分を早く「なかったこと」にしたくて、脱ぎ散らかした服もそのままに風呂場に向かう。

 

 熱めのシャワーを数分浴びて、それから温度を下げたぬるめの湯に数分打たれる。

 余計な経験の何割かを洗い落とせた気はするが、酔いの大部分も一緒に流れてしまった感があった。

 気分転換も兼ねて、軽く飲み直そうか。

 風呂を出て雑に水気を拭き取り、ビールを取り出そうと裸のまま冷蔵庫を開ける。


 腰を屈めて、銀色の缶に手を伸ばす。

 その指先が、ふわりと包み込まれた。

 生温なまぬるい、ボロボロのビニールみたいな感触。


「は?」


 反射的に視線を移動させた。

 全部が茶色っぽい、人型だけど輪郭りんかくがハッキリしない、何だかわからないもの。

 そんなのが両手で自分の右手を掴み、瞳のない両目を向けていた。

 掴まれた手に、握り潰すという表現が相応ふさわしい圧力が加わる。

 激痛に叫び声が弾ける寸前、冷蔵庫の中の何かがボソッと呟いた。

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