第79話 ゆく川の流れは絶えずして

 単に気分の問題かもしれない。

 だけど、憂鬱なのも疲れているのも毎度のことだ。

 今日の仕事で特別な何かがあったワケじゃない。

 なのにどうして、こんなにも空気が重たいのか。


 比喩ひゆではなく、物理的な抵抗を体に感じている。

 駅を出て、川沿いの細い道を辿って自宅へと戻る、いつも通りのコース。

 そこを音楽を聴きつつ歩いているだけなのに、やたら足取りが遅くなってしまう。

 記憶から似た状況を探してみると、プールの中を立って移動している時の感覚が最も近い気がする。


 絶対に、何かおかしい。

 右手をあおぐように動かしてみると、やはり独特のもっさり感が生じる。

 ヤバい病気の前兆とか、そういうのじゃないだろうな。

 不安になってネットで検索してみるが、それっぽい情報は出てこない。

 スマホをポケットに戻し、短く強く息を吐いた。


 そもそも、自分だけに起きている状況なんだろうか、これは。

 誰か通りがかれば、その挙動を見て色々と推測できそうなんだが、こんな時に限って人気ひとけがまるでない。

 元から人通りが少ないにしても、深夜でもないのにここまで誰とも行き会わないのは、珍しいというか不自然というか――


 ギキィィイイイイィッ!


 思考を寸断する、油の切れたブレーキ音が響いた。

 足を止め、イヤホンを外して周囲をキョロキョロと見回す。

 至近距離から聞こえた気がしたのに、それらしい自転車は見当たらない。

 これも不自然だな、と思ったところでもっと不可解な事実に気付く。

 すぐ横を流れているはずの、川の水音がまったく聞こえない。

 

「……んん?」


 これといった特徴のない川でも、流れはそれなりに速く水量も多い。

 だから、水音は常に聞こえなければおかしいのに、何の気配も感じない。

 背後からは低く微かに、電車の走る音が耳に届く。

 ということは、自分の耳がおかしくなったワケではなさそうだ。


 やや広めの間隔で設置された街灯は、歩道の先の川面かわもも照らしていた。

 どうなってるんだろうか、と思いつつそちらにチラッと目を向ける。

 濁った水流に、白っぽい光が映り込んでいる。

 それは、いつでもそこにある光景――ではなかった。


 川が流れていない。


 元からそうだったかのように、動きを止めた川は平らな水溜りを形作っている。

 街灯が作った光の輪の端に、ボンヤリと浮かび上がるものがある。

 見ない方がいいんじゃないか、と察した危機感が仕事するよりも早く、視線はそれに焦点を合わせていた。


「ぱぅ」


 間の抜けた声が、無意識に口から漏れた。

 女がいた。

 ダークスーツで黒髪で、川の中にいるのに濡れている様子がない。

 長い女だった。


 髪も長いが、体が長い。

 下半身は水中にあるのに、上半身が三メートル近く出ている。

 手や顔のサイズは普通なのに、胴がやたらと長い。

 着ているスーツも、体形に合わせて長い。

 違和感しかないたたずまいは、まるで出来の悪いコラージュみたいだ。


 髪に隠れていて、表情はよく見えない。

 ハッキリ見えていたら、きっと反射的に叫んでいる。

 目を離したら、至近距離まで伸びてきそうだ。

 そんな嫌な予感がして、視界の隅に女の姿を入れておく。


『かようにしずかであなたたちのためにきれいなきれいなよるでございますね』


 早口で、一息で、意味のわからないことを言われた。

 風邪を引いている最中を思わせる、れた女性の声だった。

 たぶん長い女の声なのだろうが、どこか記憶に引っかかる気もした。

 返事をするのも、その他の反応をするのも不味いように思え、何も見てないし聞いてもいない素振そぶりで、気力を総動員して足を動かす。


 またもや、粘りのある空気が体にまとわりつく。

 可能な限り早くこの場を離れたいのに、足取りの物理的な重さがどうにもならない。

 悪寒おかんが体表のアチコチを這い回り、広範囲に鳥肌を浮かせていく。

 ミントや樟脳しょうのうを思わせる刺々しいニオイが、どこからか流れてきて鼻腔びこうを満たした。


『すべてをなかまでどこにもきませるならばさてもさてものじぎたりますね』


 早口で、一息で、先程と同じトーンの言葉が発せられた。

 釣られて長い女を正面から見てしまうと、絶対に「よくない何か」が起きる。

 確信に近い予感がして、川の方から意識を外してうつむき加減に歩く。

 何十歩かをそうやって進む内に、不意にサッと空気が入れ替わる感覚が生じ、続いて体が軽くなった。


 川の流れる音も、いつの間にか聞こえるようになっていた。

 ああ、よくわからんが、とにかく終わったんだな。

 意味不明な緊張から解放され、深呼吸しながら顔を上げる。


 女と目が合った。


 いつの間にか、数メートルの距離にまで接近されていた。

 街灯の白い光が、黒々とした瞳に映り込んでいる。

 整形手術の産物みたいな、クッキリとした涙袋の持ち主だった。


『いずこもほねみにゆかりあるかたわれはさだめしはらからともうしますね』


 鼻と口のあるべき場所に穿うがたれたいびつな穴から、嗄れた声の言葉と白桃色のよだれの糸が紡ぎ出されている。

 ミントに似たニオイが、さっきの数倍の濃度で漂ってきた。


「ぐふぇえええええぇえぇええぇええ」


 腹筋と背筋が同時にりそうな感覚があり、胃液の味がするゲップが長々と出た。

 こういう場合って気絶するモンじゃないのか――そう思っても意識は薄れてくれない。

 だったら逃げるしかないのに、ひざにもももにも力が入らないからこの場を動けない。


 何故だか知らないけど、乾いた笑いが湧いて出て止まらない。

 前傾姿勢の長い女は、ゆらゆらと近づいてくる。

 下半分を破壊された顔が、左右に揺れながら近づいてくる。

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