第70話 ナリタ

「疫病神っていうか、貧乏神っていうか……とにかくヤベェんですよ、アイツは」

「よくわかんねぇな……」


 相談事があると言われ、後輩の石塚いしづかが経営する店の事務所で事情を聞いているのだが、どうにも要領を得なかった。

 変な客が来るので困っている、みたいな話のようで何かがおかしい。

 石塚の店はプチぼったくり居酒屋として悪名高いし、イヤガラセの一つや二つはあっても不思議はないが、そういう状況でもないらしい。


「東口にあった二郎系のラーメン屋、あんだけ客入ってたのに急に潰れた、あの。それと北口の二十年やってたキャバクラ。どっちもアイツ――『ナリタ』が来るようになってダメになったって話があって。ここらに来る前は、千住せんじゅの辺りでも何軒か潰してるとか。あと去年は綾瀬あやせに出たって」

「そいつは成田なりたって名前なのか?」

「いや、本名は知らんのですけど、アレに似てるんでそう呼ばれてるんですよ。多分、河野こうのさんも見たことあるんじゃないかと……えぇと、ああ、これだ」


 言いながら石塚が差し出したスマホの画面には、ピンク色の力士の体に白いアザラシの頭が乗っている怪生物が、中腰で斧を構えている画像が表示されていた。

 トンチキな洋楽アルバムジャケットとして有名で、俺も前にネットの馬鹿画像特集みたいなので見たことがある。

 

「こんなんに似てる、ってお前……マジで言ってんのか」

「いやそれがマジなんですよ。ガチでこんな顔なんですよ! ていうかナリタは見た目もヤバいけど、むしろ存在そのものがヤバいんですって!」


 声を荒げる石塚を見ながら、どうしたものかと溜息を吐く。

 困っているから俺に何とかしてほしい、というのはわかる。

 だが、そのトラブルの内容がイマイチよくわからない。

 仕方ないので、自分の頭を整理するのも兼ねて、疑問点を石塚に確認する。


「暴れるとか因縁つけるとか、そういうのじゃねえんだよな?」

「直接的に何かしてくる、とかはないです。なのに、ナリタが店にいるだけでメッチャ空気悪くなるし、売り上げもガンガン減ってくんです」

「テキトーな理由つけて出禁にしちまえば?」

「それやっても構わず来るし、出て行けって言ったり強引に追い出したりすると……」

「対応した奴にタタリがあるのじゃ、ってか」


 フザケた調子で言ってみたが、石塚は神妙な面持おももちで頷く。

 ナリタの入店を断ろうとした女性バイトは、翌日から両耳に中耳炎ちゅうじえんが発症して通院中。

 出禁を告げたバイトリーダーは、店から帰ったら不審火で自宅が半焼していた。

 強引に店からナリタを追い出したガタイのいい大学生バイトは、その日の仕事中に厨房で転んで腰骨を折ってしまった。


 これは明らかにおかしい、と店員たちがナリタと関わるのを拒絶するようになり、数人がバイトを辞めて他の連中も様々な理由で休むんで、シフトがガタガタになっている、というのが現状らしい。

 石塚が疲れた様子なのは心労だけではなく、ずっと店に出続けているのもあるようだ。


「その、ラーメン屋とかキャバでも、似たようなことが?」

「みたいです。詳しいことはわかんないんですけど……キャバの方の雇われ店長。名前は忘れましたけど、そいつは店が潰れるちょい前に行方不明になったとか」

「そいつ、ナリタと何かあったのか」

「消える前、オーナーに『あいつ、もう絶対来ないようにシメときました』とか言ってたらしいんですけど、実際に何をしたのかってとこまではちょっと……」


 偶然とか気のせいで片付けるのは、だいぶ怪しいレベルになってきた。

 しかし、こんなワケのわからないネタでイモを引いたのが広まったら、対人トラブルが専門の何でも屋稼業にいらん傷がつく。

 まったく、厄介な案件を持ち込んでくれたものだ。

 石塚を軽く睨みつけると、引き攣った笑みを浮かべながら言う。


「そんな感じなんですけど、どうにかなりませんかね、河野さん」

「どうにか、って……どこまでやればいい」

「ナリタが二度とウチに来ないようになれば、まぁそれで」

「ただの脅しは効かなそうだし、荒っぽい対処が必要になる。安くないぞ」

「あの、具体的には」


 ややひるんだ気配の石塚に、どれだけ吹っ掛けるかを考える。

 今後の付き合いもあるし、あまり非常識な値段にするのも躊躇ためらわれる。

 減った売り上げからして、百や百二十なら渋い顔をしつつも出すだろう。

 そこを半額にすれば恩も売れるだろうが、経費を考えるとちょっとばかりサービスが良すぎる――となると、この辺りが妥当だろうか。


「八十万。それで、ナリタは二度と店に来ない」

「……わかりました。お願いします」


 それから数日後の夜、「店にナリタが来ている」と石塚から連絡が入った。

 俺は予め話を通しておいた、暴力を得意分野にしている二人――クラとチュウに召集の電話をかけ、石塚の店へと向かう。

 店に着くとすぐに石塚に出迎えられ、厨房に設置された防犯カメラのモニターの前に連れて行かれた。


「ここにいる、コイツですよ」

「ん……変な柄のシャツを着てる、坊主頭?」

「ですね」


 石塚が指差す先にいるのは、たるんだ体型をした色白で坊主頭の男だった。

 身長は百七十あるかないかくらいで、歳は三十から四十の間といったところ。

 画質の荒いモニター越しに見ても、どこか普通じゃない雰囲気をまとっているのがわかる。

 そしてその顔は、確かに綽名あだなにも納得のアザラシ顔だった。


 金曜の夜だというのに、店内はガラガラだ。

 客は何組か入っているがフロアは静かで、笑い声も話し声も殆ど聞こえてこない。

 バイトたちも手持ち無沙汰のようで、掃除をしたり食材のチェックをしたりと、飲食店がヒマな時に特有の『何となく仕事してる感のある作業』にいそしんでいる。

 俺は厨房の奥のバックヤードへと移動し、店の近くのコインパーキングで待機しているチュウに連絡を入れておく。


『ああ、どもっス、河野さん。例のあの、ナリタでしたっけ? 来てます?』

「おう。そろそろ出ると思うから、チャチャっとガラさらってな、ちょい離れたとこでボコって捨ててこい。二度とこの街に足を踏み入れんな、って因果を含めて」

『了解っス。で、服装とかはどんな感じっスか』

「見た目は三十過ぎの小デブで坊主、身長は百七十ない程度だ。服は緑っぽいアロハで、顔は何つうか……アザラシっぽい」

『それはそうとね、河野サン?』


 チュウに説明していたのに、クラの声で返事が返ってきた。

 二人とも暴力的で慢性的に金欠というのは一緒だが、頭が悪いくせに妙な計算高さのあるクラは、単細胞なチュウと比べて扱い難い。


「……どうした、クラ」

『いや、何ってこともないんですけど……今回の仕事って、結構ハードめですよね』

「あ? 殴る蹴る脅す壊すなんてのは、お前らの日常だろ」

『じゃなくて。そういうんじゃなくて。オレらがどうこうってか、これって世間的には誘拐と傷害ってことになるでしょ。それだけのことをやるのに、ギャラが一人十万ってのはぶっちゃけどうなのかっての、あるじゃないですか』

「知らん。文句あるなら降りろ」


 俺が即答すると、横にいるチュウの「バカ、やめろって」という声が聞こえる。

 それを掻き消すようにして、少し慌てた様子でクラが話を続けた。


『やや、だから違くて。やりたくないとかじゃなくて、何つうかその……危険手当? みたいなのを上乗せしてもらえないかって提案ですよ、単に』

「……わかった、十五だ」

『いやいや、そこはキリよく二十――』

『すんません、河野さん! 十五でやらせてもらうっス!』


 調子こいた要求を続けようとしたクラに代わって、チュウが大声で応じてくる。

 スマホの向こうで揉み合いになっている気配が伝わってきたので、ウンザリしながら通話を切った。

 クラを使うのは今回で最後になるかな、と思いつつ厨房へと戻ってモニターを確認すると、丁度ナリタが店を出ようとしていた。

 フワフワした足取りで動くナリタを眺めていると、石塚が声をかけてくる。


「河野さん、そちらはどんな感じに」

「ああ……心配いらん。『説得』が上手な連中が外で待ち構えてる。これでもう、お前がこの店でナリタを見ることはない」

「なるほど、説得ですか」


 含みを持たせた俺の言葉に、石塚は人の悪い笑顔を返そうとしたようだが、失敗して出来損ないの苦笑を向けてきた。

 それに釣られて苦笑しつつ、チュウにナリタが出て行ったことを伝える。

 五分もしない内に身柄確保に成功したとの連絡が入り、仕事が九割方終わった安堵感あんどかんで俺は大きく息を吐いた。


「どう、なりましたか」

「予定通りだ。ナリタは誘いに応じてくれたから、これから時間をかけて説得する」

「これで本当に終わり……ですかね」

「まぁ、キッチリ片付くだろ。これでダメなら、次はまともじゃない方法になる」


 実際は「次も」なのだが、そこには敢えて触れずにおく。

 料金の支払い方法や期限をササッと決め、チュウとクラにギャラの一部として渡すためにとりあえず十万を受け取って、俺は石塚の店を後にした。

 それから二時間近く後、別の案件に関する打ち合わせを終わらせたところで、チュウからの連絡が入った。


『あっ、河野さんスか……実はちょっと、マズいかもしんないことになりまして』

「何だぁ? まさか、ナリタに逃げられたとか言うんじゃねぇだろうな」


 声の調子にテンパッた気配が感じられ、不測の事態を想像させる。

 ドスを効かせながら訊き返すと、数呼吸分の間を置いてからチュウが答えた。


『それが、その……クラの奴が、やりすぎまして』

「手足を折った程度なら問題ねぇよ。それとも、耳でもモゲたか?」


 あれは取れるとビックリするが、意外と簡単にくっつく。

 すぐにすっかり元通り、ってワケにはいかないが。


『とにかく蹴りまくったんスよ、クラが。したらあのデブ、血ぃ止まんねぇし……息の、呼吸音? それがマジヤベェ時の、あの感じなんで……どうしたらいいっスかね』

「死にかけてるのか」

『……ぶっちゃけ、そんな空気あるっス』


 チュウの言葉は相変わらずのアホさだが、その声には緊張感がたっぷりと滲んでいた。

 舌打ちと溜息を同時に発したい気分に陥りながら、俺は急いで対応策を考える。

 闇医者に運ぶ、同業他社に投げる、海に捨てる、山に埋める――どの方法を選んでもリスクは高い。


「とにかく、その場で俺を待て。今いるのは?」

「えぇと、荒川沿いの空き地なんですけど、埼玉方面にさかのぼって――」


 詳しい場所を聞いた俺は、週末の道の混雑具合にれながら、チュウの告げてきた地点へと急ぐ。

 請ける前からイヤな予感がする案件だったが、やっぱり面倒なことになりやがった。

 今後はもう少し自分の勘を信じるべきだな、と思う一方でクラのポカに対するイラ立ちがくすぶる。


 クラはもう切るしかないだろうが、そうなるとこの手の仕事に強いヤツを新しく探す必要もある――まったく、ナリタの野郎は大した疫病神だ。

 河川敷かせんじきにあるその駐車場には、クラの黒いミニバンが斜めに停められていた。

 二台分ほど離して俺も停め、着いたと連絡すると三分ほどでチュウが姿を見せた。

 サロンで焼いているせいで顔色はわからないが、汗で湿っている髪とシャツが動揺の大きさを伝えてくる。

 

「あっ、河野さん! マジでスンマセン!」

「でけぇ声を出すな。それで、ナリタはどうなってる」

「さっき電話した時よりは、まぁまぁ落ち着いてんですけど……雰囲気的にはちょっと、いや、かなりヤバいっスね」

「そうか……クラのボケは」


 俺が静かに訊くと、チュウの肩がビクッと跳ねる。

 なるべく感情を出さないようにしたつもりだが、怒気は隠し切れなかったらしい。


「何か、偵察してくるとか言って、そこらをブラついてるっス」

「戻って来い、って連絡入れろ。で、ナリタはどこだ」

「はい、ええと、そこの階段下りて右の、砂利道を真っ直ぐ行った先のとこっス」


 水音が聞こえるが、川までは結構距離があるようだ。

 だから釣り人もこの駐車場は使わず、丁度いい穴場になっているのかもしれない。

 そんなことを考えながら細かい砂利を踏んで進むと、コンクリートで舗装された区画へと辿り着いた。

 そこの片隅に転がる何かを、明るさ控えめのソーラー発電の街灯が照らしている。

 背格好と髪型からして、それは血達磨ちだるまになり果てたナリタだった。


「うゎ、勘弁してくれよ」


 小さく本音が漏れ、動悸が激しくなる。

 この件に関わってから最大級の、とてつもなくイヤな予感が心臓を鷲掴みにしていた。

 状態を確認するために、転がっているナリタへと小走りに歩み寄る。

 近づくと共に、手足が関節を無視して折れ曲がり、頭部がいびつふくらんでいるのが見て取れた。


 湧き上がる苦い唾を飲み下し、ナリタの顔を覗き込む。

 左目は閉じられて充血した右目は半開き、顔面の下半分は赤黒く染められて唇が数箇所で裂け、潰れた鼻からはゆるゆると濃い赤色が流れ続けている。

 そして周りに無秩序に広がった血溜まりには、折れた歯の破片らしいものが散らばっていた。


「おいおい……マジか」

 

 目の前で手を振ってみるが、ナリタは何ら反応しない。

 口と鼻を覆うようにして、至近距離へと右手をかざすが息は感じられない。

 首筋にも触れてみるが、そこでもあるべきハズのものが見つからなかった。

 膝から崩れて頭を抱えたくなる気持ちを抑え、ナリタだったものから視線を逸らして呼吸を整える。


 死体を見たことならば、これまでにも何度かある。

 だが、自分が請けた仕事が原因の死人が目の前に転がっている、って状況は流石に今夜が初めてだ。

 クラとチュウに丸投げできれば楽なのだが、あいつらに任せるのは不安しかない。

 他の誰かを雇うにも、殺人の関わる死体処理は何かと高くつく。


 自分で何とかするしかないか、とウンザリしていると二つの足音が近付いてきた。

 現状のヤバさを理解しているチュウはしかつらで落ち着かない様子だが、クラはイマイチわかっていないようで「面倒くせぇ」と言いたげな態度のまま、せわしなく煙草をふかしている。

 ふつふつと煮えるクラをブン殴りたい衝動を抑えていると、恐る恐るな調子でチュウが訊いてきた。


「……河野さん、どうっスか」

「こりゃ、ダメだわ。死んでる」

「は? いやいや、こんくらいで死ぬとかそんなの、ありえないっしょ」

「ありえなかねぇよ。お前が殺したんだ、クラ」


 自分のやったことをストレートに説明してやると、筋金入りの馬鹿であるクラも危機的状況を理解したようで、目を泳がせながら「はぁ?」とか「嘘だろ」とか「馬鹿かよ」とかをブツブツと繰り返している。

 とにかく、早くこの死体をどうにかしなければ。


「これは俺が始末すっから、お前らで車まで運べ。放っとくワケにはいかねぇ」

「はぁ? 運ぶ、ってマジで? こんなん、ここに捨ててきゃいいだろ」

「おい、クラ――」


 相棒のトンチキ加減を見かねてチュウが止めようとするが、それをジェスチャーで制して俺から釘を刺しておくことにする。

 いい加減、我慢が限界に来ているのもあった。

 俺は無言でクラとの距離を詰め、その腹に右のミドルキックを叩き込む。


「ぐぁ――」


 体を折り曲げるたとタイミングを合わせ、クラの横っ面に左フックを追加する。

 暴力沙汰は関わるデメリットが大きいんで、最近はもっぱらアウトソーシングしているが、元々は俺の得意分野でもある。


「んぷぇ、へっ」


 半回転して倒れたクラの髪を掴んで起こし、鼻血と血涎ちよだれを流した顔を正面から見据えて告げる。


「いいかクソガキ、よく聞け。めんどくせぇことになってんのは、全部てめぇのせいだ。本当なら、そこのナリタと一緒に埋められるレベルのやらかしだ。わかってんのか?」

「うっ、す、すびばせ――」

「謝ってもらってもどうにもならん。お前がやるべきことは、俺の言うことに対して全部『はい』と答えて、全力で、最速で、このトラブルを片付けることだ。わかったな?」

「ふぁ――は、い」


 クラの返事を聞いて頭から手を離し、指に絡まった髪を振り落とす。

 それからチュウに、俺の車に積んである毛布を持って来るように命じ、ナリタを包んでから二人に車まで運ばせた。

 ここまで乗ってきた車は『仕事』用の改造車で、後列シートの下には防水・防音機能を備えた、大人を一人押し込めるスペースが作られている。


「ナリタは『葬儀屋』に任せる。お前らは真っ直ぐ家に帰れ。飲み屋とか女のとことか、行くんじゃねぇぞ。それと、当たり前だが今日のことは誰にも言うな。もし噂として流れでもしたら……わかるな?」


 チュウは細かく何度も頷き、クラは小声で「はい」と答える。

 この二人が捕まろうと知ったことじゃないが、俺まで巻き添えになるのは御免蒙ごめんこうむりたい。


「しばらくは大人しくしてろ。俺に連絡してくるのもナシだ。処理費用で完全に赤字なんだが、こいつは手間賃だ」

「あっ、いや……本当に今日は、申し訳なかったっス!」


 石塚から預かってきた十万を渡すと、チュウはまた何度も頭を下げてきたが、クラは明らかに不満そうな感情を表に出してくる。

 まだ懲りてないのか、と追加でヤキを入れたい気分になるが、そんなことをやっている余裕もないので、怒気を強引に押さえ込むと二人を置いて車を発進させた。


 得体の知れないオッサンがいなくなっても誰も気にしないが、得体の知れないオッサンの他殺体が見つかったなら、警察は本気で捜査を始める。

 その程度も理解できないのに、よくまぁこっちの世界に首を突っ込もうと思ったな。

 思い出したらまたクラにムカついてきて、深呼吸を繰り返して感情の暴発を抑える。


 信号が黄色に変わり、気分的にはアクセルを踏み込みたいところだが、リスクを避けてブレーキを踏む。

 ライトに照らされた横断歩道を眺め、『葬儀屋』にいくら持っていかれるかを考えて憂鬱さを募らせていると、見覚えのある坊主頭のオッサンが小走りで視界を横切った。

 

「んぁ?」


 そんな馬鹿な――慌てて後部座席を確認するが、おかしなことが起きた痕跡はない。

 男の姿を目で追おうとするが、隣で信号待ちをしているトラックが邪魔をする。

 そもそも、ドアを開け閉めする音を聞いていない。

 気のせいか見間違いだ、そうに決まっている。


「疲れてんだよ、うん。そんなワケねぇから、なぁ」


 口に出して自分に言い聞かせる。

 さっき見たのはナリタじゃない。

 ナリタであるワケがない。

 頭は常識的な判断を下そうとするが、発汗も動悸もまったく落ち着いてくれない。


 あり得ないことだが、まさかの、万が一ということもある。

 そう判断した俺はファミレスの駐車場へと入り、マグライトをグローブボックスから取り出して後部座席に回ると、その下の収納スペースを確認する。

 ロックを外して座席を移動させると、魚屋めいた生臭さが鼻腔びこうに刺さった。

 やっぱり気のせいだったか、と苦笑しながらライトで照らして内部を覗き込む。


「……嘘だろ」


 死体が消えている。

 ステンレスで覆われた大きな箱の底には、異臭のする濃灰色のうかいしょくの液体が二センチほどの深さで溜まっていた。

 それも意味不明だが、ナリタの姿も血の痕も見当たらないのはどういうことだ。


 ということは、さっき信号待ちの最中に見たのは、やはりあいつだったのか。

 仮にそうだとしても、ナリタは控えめに見積もって瀕死の重傷だ。

 それに、座席下のスペースから鍵を外さずに抜け出し、俺に気づかれることなく車外に逃げる方法は、どう考えても思いつかない。


『疫病神っていうか、貧乏神っていうか……とにかくヤベェんですよ、アイツは』


 ナリタについて石塚に聞かされた言葉が、前とは違う響きを帯びて脳内で再生される。

 ともあれ、こんな場所で停まっていても仕方ない。

 運転席へと戻り、ハンドルを左手で握った――つもりが、その手が自分の膝を叩く。


「ぅおっ?」


 見てみれば、ハンドルは高熱で融けたような状態で、ぐにゃりと伸びている。

 どういうことだ――とハンドルから手を放すと、トロケた形のまま再び硬化していた。

 これで運転できるのかは疑問だったが、とにかく車を出そうとキーを回す。

 しかし感じるハズの手応えがなく、エンジンのかかる音もしない。

 まさか、とキーを引き抜こうとすると、キーホルダーと繋がったヘッドだけが手に残され、ブレード部分は捻じ切れていた。


「ふふっ――んぁははははっ、ぅははははははっ」


 理解不能な出来事に直面し、何故だか笑いが込み上げる。

 そんな場合じゃない、というのは理解できる。

 だけど、こんなのもう笑うしかないだろう。

 一頻ひとしきり笑い続けた後で、落ち着こうと心臓の辺りをこぶしで叩く。


「ぅぶっ――」


 何度目かを叩いたところで、数分前に嗅いだ生臭さを煮詰めたような、暴力的なニオイが車内に充満し始めた。

 反射的に背後を振り返ろうとした、その動作の途中。

 無表情でコチラを見つめている、助手席に座ったナリタと目が合った。

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