第71話 素直になりなよ
気がつけば、窓の外は暗くなりつつあった。
CDもいつの間にか回転を止め、部屋は無音状態になっている。
こんなに夢中で本を読んだのは、いつ以来のことだろう。
うつ伏せの体をベッドから起こすと、姿勢のせいか肩と背中がガチガチに凝っていた。
「んーっ」
指を組んだ手を胸の前に伸ばし、続けて頭の上へと伸ばす。
冷えて固まっていた筋肉と関節が、ミシミシと低い音を立てて
「くぁあっ、はぁああんぁはぁ……」
微かな痛みと、それに数倍する爽快感が体内をゆっくり巡り、意味を成さない珍妙な声と共に吐き出される。
仕上げに首をぐるっと回し、壁にかかった時計で視線を止める。
夕方の六時三十二分か三十三分か、そんなところ――
「お?」
引っかかる感覚があったので、改めて文字盤を
秒針が動いていない。
時計が止まっている。
となると今は七時かそれくらいかな、とスマホの画面で時間を確認してみれば、六時三十三分が表示されていた。
「……んん?」
秒針が動いてないけど時計自体は機能している、ってことだろうか。
何かおかしいと感じながら、スマホのロックを解除しようとするが、画面に触れても待ち受け画像のままで変化がない。
どうやらフリーズを起こしているようだ。
結局、今は何時なのか。
トイレに入り、そこに置いてある小さな時計を確認する。
六時三十三分。
予想はしていたが、その時刻で時計が止まっていた。
「ええぇ……」
ウチにある時計が全部止まっている、まではギリギリ許容できなくもない。
しかし全部が同じ時刻を指している、となるともう無理だ。
この現象には確実に意味があるのだろうが、六時三十三分と聞いても思い当たる物事が何もない。
色々と考えている内に、もしかしてその時間になると何か――恐らくはよくない何事かが起こるのではないか、との不安が湧き上がってきた。
とりあえず、今が何時なのかを知っておきたい。
時報を聞いて確認しようと、自室に戻って固定電話の受話器を手にした瞬間。
くゎーわわわわゎーん、ぅわんっ、くゎーんっ、わんっ、ふぃわゎわわわわ
と、奇怪な音が辺りに広がった。
鉄の大きな輪が横倒しになって、ゆっくりと地面を回転しているような、そんなイメージが浮かぶ音。
どこかで聞いたことのある尖った音は、しばらく
「なっ、ななななな……」
何なの、これは。
その疑問は喉の奥に詰まって言葉にならない。
音がどこから出ているのかを確かめようと、アチコチ見回してみる。
違和感はあるのだけれど、どこが変なのかわからない。
四年近く住んでいるマンションの部屋が、得体の知れない存在の『巣』に思えてくる。
くゎーわわん、くわわぁあーん、かんっ、からっ、こっ、くゎかかかかか
一回目よりも忙しい感じに、また鉄の輪がのたうっている音が鳴った。
何だこれ――何だ、これ。
本能が繰り返し「逃げろ」と訴えてくるので、玄関に向かって駆け出す。
だが思うように足が動かず、フラついてベッドに倒れこんでしまう。
「あふっ――」
受身も取れずに結構な勢いで倒れ、ベッドの縁に脇腹を強打して変な声が出た。
痛みと焦りで、変な汗が全身をじわりと湿らせる。
打ちつけた場所を
早くここから、この部屋から出なければ。
『
「フヒッ」
急に名指しで話しかけられ、変な声が出てしまう。
自分しかいないのに、この男の言葉はどこから――
『凄い音、しましたけどぉ……何かあったぁ?』
「だっ、だいじょぶ、ですっ」
反射的に返事をしてしまうが、返事をしてもいい相手なのだろうか。
そんな心配も膨らむが、すぐに隣の住人の声だと気付けた。
三十かそこらの小太りで色白な男で、名前は
特に交流はないが、顔を合わせれば挨拶くらいはする間柄だ。
先週には仕事帰りに郵便受けの前で一緒になり、「無駄なDMが多くて困る」みたいな会話をした記憶がある。
『ホントに大丈夫ぅ? そっち行きましょうかぁ?』
「いえ全然っ、全然平気ですから!」
この人って、こんなに語尾を延ばした、癖のある喋り方だったかな。
それに、ここまでグイグイくる性格でもない感じだったけど。
ともあれ、よく知らない男に上がりこまれても困るので、即座に拒否しておく。
『ふぅん』
もしかするとこの隣人は、ちょっとアレな人かもしれない。
今後は菅田と距離をとるべきだろうか、などと検討しながら立ち上がったところで、「あれ?」と思う。
思ってしまう。
隣の部屋の呟きって、こんなにハッキリと聞こえるの?
古いマンションだけれど、オートロックで常駐の管理人がいて、壁が厚くて防音がシッカリしている。
その三点が、ここに住もうと決めた理由だった。
実際問題、今日まで隣の音が気になったことなんて、まるでなかったのに。
そこまで考えを進めた直後、頭上からモワッと生温い臭気が降ってくる。
ハッとして顔を上げると、半笑いの菅田と目が合った。
ベッド沿いの壁の天井近くから、
『素直になりなよぉ』
さっきよりもベッタリした声が
体毛が濃く、くすんだ薄桃色をした菅田の脂っぽい肌に、青黒い血管がボコボコと浮いているのが見える。
表情としては笑顔なのに、感情が一片も乗っていない目でジッと見てくる。
飛びかけた意識が、誰かの叫び声によって繋ぎ止められる。
「んぉあああああああああああああぁああああああああああぁあああああああああああああああああぁあああああああああああああああぁあああああああああああああああっ!」
聞いたこともない悲鳴が、自分の口から発せられていた。
靴も履かずに部屋から転がり出て、息を詰めて廊下を走り、三階分の階段を駆け下り、再び廊下を走る。
そして管理人室のドアを叩き、どうにかこうにか「隣人の菅田が部屋に入ってきた」ことを伝えて、そこでやっと気を失うことができた。
「――さん! 幸島さん!」
繰り返し自分の名前を呼ばれ、意識を回復すると初老の男の
うわおっ――と反射的に声が出そうになるが、助けを求めた管理人だと気付いて軽く会釈をする。
どうやら自分は管理人室に運ばれ、ソファに寝かされていたようだ。
部屋には管理人の他に制服姿の警官が二人と、安っぽいスーツを着た太った男がいた。
「ああ、ちょっと確認しておきたいんだけどね」
挨拶も前置きもなく、スーツの男が警察手帳らしいものをみせながら、早口で質問をぶつけてくる。
どうなっているのかを知りたかったが、
「はぁ……何を、ですか」
「あなたの部屋に入ってきたって男、ね。本当に菅田でしたか?」
「ええ、それは……はい」
正確には壁から生えている状態ではあったが、そこには触れずにおいた。
その返事を聞くと、刑事らしいスーツの男は短髪の頭を掻き回し、二人の制服警官は顔を見合わせ、管理人は顔に刻んだ皺の数を増やした。
刑事はヤニ臭い溜息を長々と吐いた後、好意的ではない目でこちらを見据えながら告げてくる。
「そんなワケないんだよ。通報を受けて部屋に踏み込んだらな、首を吊ってる菅田が見つかった。死んだのは、今日や昨日じゃない。あんた、何か知ってるんじゃないのか?」
何を言われているかはわかるが、どうしてそんな話になるのかはサッパリだった。
菅田の部屋に自分の写真が何枚も貼ってあったとか、そういう情報も聞かされる。
次から次に質問が飛んでくるが、状況の理解が追い付かず思考停止状態に陥っている。
今の自分に正しく答えられそうなのは、菅田の死亡推定時刻くらいしかない。
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