第68話 ぼったん便所

「俺もとうとう都落ちだ、とか言ってたけど全然アリじゃないですか」

「いやぁ、つっても田舎なんだよな、やっぱり」


 そう愚痴りながらビールをあお満山みつやまさんだが、口調には屈託くったくがないので、本気で言っているワケではなさそうだ。

 大学の先輩だった満山さんは、この春に娘さんが小学校に上がるのに合わせて仕事を変え、東京でのアパート暮らしから千葉での一戸建て生活へと転身したのだという。


「ここまで来るのも、かなり時間かかっただろ」

「距離はありますけど、乗り換えは少ないですし。川口のウチからだったら、横浜まで行くより早いっすよ。何だかんだ、都心にも一本で行けますよね」

「そうなの。そこは結構、便利かな」


 キッチンから戻った満山さんの奥さん――麻弥まやさんが、オードブルを盛った皿をテーブルに置きつつ話に加わる。

 麻弥さんも大学時代の先輩だが、顔を合わせるのは満山さんとの結婚式以来だ。

 その麻弥さんの後ろからは、一人娘のりんちゃんがついてくる。


「にしても、借家じゃなくて買ったって聞いた時は驚きましたよ」

「んー、悩んだんだけどなぁ。破格な掘り出し物があるって話が麻弥の方の親戚から回ってきて、これを逃したら十年は手が出なそうだったからまぁ、勢いでな」

「実はその安さ、何かヤバい理由があったりすんじゃないすか。事故物件とかそういう」

「あはは、ないなーい! 買う前に散々調べたんだけど、ここにも近所にもそれらしい過去はなーんもなかったよ」


 ちょっと失言だったかな――と思ったが、ケラケラ笑う麻弥さんの様子からすると、そうでもなかったようで一安心だ。

 築十年と経っていない中古物件を格安で購入したとなると、どうしてもワケありの気配を感じてしまうのだが。


 ともあれ、しつこく突っついたら場がシラケてしまうだろう。

 そう判断して家の値段には触れないことに決め、最寄り駅の駅前の施設が充実しているという話から、最近会ってない友人知人の近況についてに話題を移行させた。

 やがて空のビールがかなりの数になると、当然の結果として尿意がやってくる。


「っと、すいません。トイレ借りますね」

「あ、場所わかる?」

「えぇと、廊下の突き当たりっすよね」


 頷き返す麻弥さんに見送られてリビングを出て、何歩か進んだところで背後からシャツをクイッと引っ張られた。

 何事かと振り向けば、裾を掴んだ凛ちゃんがこちらを見上げている。


「どうしたの? 先にトイレ使いたい?」


 そう訊いてみるが、ブンブンとかぶりを振って否定する。

 じゃあ何なんだろう――と首を傾げつつ質問を重ねようとすると、凛ちゃんはシャツから手を離して言う。


「あのね、ウチは『ぼったん便所』だから……気をつけてね」

「えっ? あぁ、わかったよ」


 俺からの答えを聞くと、凛ちゃんはトテトテと小走りでリビングに戻る。

 なるほど、この家が安かった理由はそういうところにもあったか。

 自分らが子供の頃は『ボットン便所』って呼んでたが、微妙に変化しているようだ。

 しかしいくら千葉とはいえ、こんな都市部で汲み取り式のトイレを使ってるなんて、逆に珍しいんじゃなかろうか。


 そんなことを考えつつドアを開けるが、その先にあるのは洋式の水洗便器だった。

 最新式ではないにせよ、多機能のウォシュレットもついている。

 変わっている点といえば、ドアから便器まで妙に距離があって途中に手洗い場がある作りなので、ちょっと飲食店のトイレっぽいことくらいか。

 子供なりの冗談だったのかな、と思いながら用を足していると――


『ドタッ』


 と、何かが落ちたような音が後ろから響いた。


「ぅふぉっ!」


 反射的に変な声が出る。

 不意打ちの事態に手元が狂い、思いがけず便器の周囲に水撒きをしてしまう。

 どうにか落ち着かせて膀胱ぼうこうの中身を出し切り、何が落ちたのかを確かめようとするが、床にはそれらしい物は見当たらない。

 

 ネズミか――それにしては音が大きかったような。

 芳香剤や消臭スプレーが落ちた、って感じでもなさそうだ。

 トイレットペーパーで便器の周りを拭きながら、音の正体について考えてみる。

 だが、シックリくるものは思い当たらない。

 どうにも落ち着かない気分だったが、ドアの外で誰かが何か落としたのかもしれない、と強引に結論付けてリビングに戻ることにした。


「……あれ、麻弥さんは」

「凜を寝かせに行った」


 俺からの質問に、満山さんは上を指差しながら答える。

 壁の時計を見ると八時半過ぎで、確かに子供は寝るべき時間だった。

 さっきのアレ、もしかして寝惚ねぼけけて変なことを口走ってたのかもな、とは思いつつも念のために訊いてみる。


「先輩、トイレで変なこと起きたりとか、してないですか?」

「おいおい、お前まで凜みたいなこと――いや、あいつから言われたのか」

「ええ、まぁ」

「まったく、まぁたそんなことを」


 満山さんは天井を見上げて溜息を吐き、空になったビールの缶を捻り潰す。

 そしてキッチンから二本のビールを持ち帰ると、一本を俺に渡してもう一本のプルタブを開ける。

 満山さんの話によると、凜ちゃんはここに越してきた直後から「トイレに何かいる」と主張し続けているのだという。


「何なんだろうな、保育園でそういう怖い話っぽいの、流行ったりしてんのかね」

「トイレが怖い、ってのはいつの時代の子供にも共通してそうですけど、怪談が流行るには早くないですか」

「ああ、そういう話が出てくるのは小学校くらいからだな。トイレの花子さんとか、赤マント青マントとか、ドンペリ入道とか」

「最後のスパークリングな妖怪は何ですか」


 満山さんのよくわからないボケを流し、話を少し巻き戻す。


「ていうか、凜ちゃんがホントに変なのに遭遇してる、って可能性は」

「いやいや、俺も麻弥もそんなん見てないし、ないだろ」

「実はさっき、俺が用を足してたら……トイレの中で上から何か落ちてきたような、そんな音がしてですね」

「お前なぁ、そういうのヤメろって! マジ笑えないからな、自分ちがネタにされると」

「ぬっふっふっふ」


 苦笑いの中に不快感を滲ませる満山さんに、わざとらしくゲスい表情を向ける。

 それによって冗談に紛らわせたものの、生じてしまった違和感は居座ったまま動く様子がない。

 俺は酒をビールから焼酎にチェンジし、もっと飲んで自分を誤魔化すことに決めた。

 凜ちゃんを寝かしつけた麻弥さんも戻ってきて、学生時代を思い出す空気の中での思い出話がどこまでも続くが、ふと時計を見ればいい時間になっている。


「おっと、十時を回ってますか」

「もうそんなか。どうする? 泊まってくか?」

「いえ、まだ電車もありますし、おいとましますよ」


 こちらの返事に満山さんは納得した様子で頷き、麻弥さんはホッとしたように微笑ほほえむ。

 こういう社交辞令のやり取りは、関係性に生じた時間と距離の存在を突きつけられるようで切ないな、と思いつつ帰り支度を整えていると、不意に腹の痛みを感じた。

 駅までなら我慢できなくもない気配だが、無理をして万一があれば社会的に死ぬ。

 さっきの出来事を頭から追い払い、どちらへともなく「トイレ借りますね」と言い残してリビングを出た。

 

 痛みは強まってくるのに、出るべきモノが出てこない。

 便器に腰掛けてスマホをいじりながら、脂汗が滲んでくるのを感じる。

 飲みすぎたか、食いすぎたか、或いはその相乗効果か。

 しばらく味わった記憶のないレベルのつらさに、湿った溜息を長々と吐いていると――


『ボタッ』


 床を叩く、重量感のある音がした。

 スリッパ越しに、足裏へと短い振動が伝わってくる。

 明らかに気のせいではなく、何かが落ちてきた。

 見ない方がいい、との思いが脳裏をぎる。

 だが反射的に顔を上げ、音のした方に目を向けてしまった。


「ぅぴぇ――」


 クシャミを噛み殺したような、変な声が喉の奥から飛び出した。

 ドアの手前に、何かがあった。

 いや――いた。

 二十センチくらいの、雛人形っぽいものがウゾウゾと伸び縮みしている。

 それを視認した瞬間、腹の痛みがスッと消え去った。


 印象は人形のようだが、よく見れば手足もなければ首もない。

 濃い青と緑を基調とした十二単じゅうにひとえに似た着物が、うごめく何かをおおっていた。

 頭のあるべき場所には、黒っぽい半透明の泡が楕円だえんの塊を作って貼り付いている。

 生き物、という感じもないが人工物とも思えない、どうにも奇妙なシロモノだ。


 何なんだ、これは――

 正体を見極めようと雛人形もどきを凝視ぎょうしすると、相手もコチラを見ているかのようにその場を動かない。

 そもそもこういうのって、誰かに目撃さられたらすぐ消えるんじゃないのか。

 納得いかなさを感じつつ、どうせならこの変なのを記録に残しておこう、と撮影モードにしてスマホのカメラを向ける。


『パキッ』

「おふっ!」


 撮影しようとした寸前、指を鳴らすのに似た音が耳の奥、鼓膜こまくの至近距離で突然に響いた。

 いきなりの大ボリュームに驚き、体がビクッと跳ねた拍子にスマホが手から離れる。

 ディスプレイから床に落ちた精密機器は、嫌な予感がする鋭い音を短く発した。


「うゎ、あーあ」


 拾い上げたスマホの画面には、やっぱり放射状にヒビが走っていた。

 青い雛人形もどきは、いつの間にかどこかに消えている。

 そんなことよりスマホは大丈夫か、と画面をタップしてみるが、打ち所が悪かったのかどこに触れても反応しない。

 

「マジかぁ、勘弁してくれよなぁ」


 小声で泣き言を漏らしつつ、色々な場所をいじってみるが動かない。

 仕方なく再起動を試してみると、この操作にはちゃんと反応した。

 ガラスの修理だけならともかく、本体の買い替えは金額的にキツい。

 半ば祈りながら待っていると、暗転していた画面が切り替わった。


 壁紙に設定しているのは、実家で飼っている三毛猫が縁側えんがわで丸まっている写真だ。

 なのにそれが、色が全部抜け落ちた白黒の線画みたいになってしまっている。

 本格的にぶっ壊れたか――絶望的な気持ちで画面に指を滑らせると、ヌルッとした感触が返ってきた。


「……う?」


 指先を見てみると、けたプラスチックのような質感の、黒い半透明の何かがこびりついている。

 もしかして――いや、まさかそんな。

 ある可能性に思い至った途端、手の中のスマホが倍近い重さになった気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る