第53話 俺だよ、オレオレ

 そこはかとなく、風邪をひきかけているような軽めの悪寒おかんがあった。

 なので、元々あんまり乗り気じゃなかった飲み会の誘いを断り、早々に自宅マンションへと戻る。

 買い置きしておいたアルミ鍋の鍋焼きうどんと長めの入浴で体を芯から温め、季節的にはちょっと早いスウェットに着替えて眠気が来るのを待つ。


 ベッドに入る前に風邪薬を飲むかどうか迷っていると、不意にインターホンが鳴った。

 予期せぬ電子音を耳にして、反射的に壁の時計を見る。

 金曜の夜、九時を過ぎている。

 こんな時間に訪ねてくる相手に心当たりはない。

 時計から視線を外すと、何となく忍び足でもって玄関へと向かい、そっとドアスコープを覗き込んだ。


 廊下の貧弱な照明が、宅配便の配達員の姿を浮かび上がらせている。

 有名会社の制服姿で、やや小柄で髪が長いうつむき加減の――女性だろうか。

 手に持っているのは青色のダンボール、サイズ的に『みかん箱』といった感じだ。

 通販で何か注文した覚えもないんだがな、と思いつつインターホンの受話器を取る。


「はい?」

「五十嵐さんのお宅ですか? 五十嵐賢吾いがらしけんごさま宛てに、お届けものがあります」

「賢吾は俺、ですけど……どこから?」

「えぇと、静岡にお住まいの五十嵐真紀子いがらしまきこさま、からですね」


 もり気味な若い女性の声が告げてきたのは、母親の名前だった。

 まったく、何か送ってくるなら連絡を入れろ、っていつも言ってるのに。

 一人暮らしでヒマなのかもしれないが、いい加減に子離れしてくれんかな。

 軽いイラ立ちを感じつつ、重そうな箱をまず受け取ろうと、解錠してドアを開ける。

 予想に反して随分と軽い荷物を受け取ると、女性は伝票を差し出してきた。


「ではすいません、こちらに受領印を」

「ああ、ちょっと待って」


 硬い愛想笑いを浮かべる配達員を玄関に残し、シャチハタを取りに部屋へと戻る。

 いつも置いてある場所に見当たらず、探すのに結構かかってしまった。

 これならサインで簡単に済ませればよかったか。

 

「悪いね、ハンコが中々見つからなくて」

 

 苦笑いしながらプラスチックの印鑑を振るが、配達員からは表情が消えていた。

 待たせたから不機嫌になったのか――にしても、こっちは客じゃないのか。

 そんな気分でムッとするが、ここでキレてしまってはただのチンピラだ。

 さっさとハンコをして終わりにしよう、と差し出されたままの伝票に視線を落とした瞬間。


「ぷごっ」


 パンッ、という派手な音と同時に首筋に衝撃が弾けた。

 変な声が漏れて息が止まりかけ、視界が激しく揺れながら明滅めいめつ

 何が起きたのか把握する間もなく、腰が砕けて額が床にぶつかる。

 

「かっ、はんっ――ぉうう?」


 呼吸を整えようとしていると、自分の体が引きずられる感覚があった。

 あの小柄な配達員の女が、体重七十キロ近い俺を移動させているのか。

 混乱はますます悪化するが、まだ状況がサッパリわからない。

 両膝のれる感じが、フローリングからカーペットになった。

 キッチンを通り過ぎ、寝室兼居間へと運ばれたようだ。


「何なん――がぇ」


 とりあえず、相手の意図を知ろうと話しかける。

 しかし、声を出した途端に口の中に柔らかいものが詰め込まれ、舌が動かせなくなった。

 反射的につまんで引っ張り出そうとすると、両手首を揃えられて何かできつく締め上げられる。

 手首を縛るのは細いベルト――電気コードをまとめるタイラップのようなものだ。

 同じもので両足首も拘束され、本格的に動きを封じられるハメに。

 

 風邪っぽさとは無関係の汗が、肌着をじっとりと湿らせていく。

 目隠しをされなかったので、床に転がされた状態で周囲の状況を観察する。

 どうやら室内にいるのは二人の男――配達員の格好をした女は見当たらない。

 男たちは小声の短い会話を交わしながら、室内をカメラで撮影したりクローゼットの中身を掻き回したりしている。


 こいつらは宅配便を装った押し込み強盗、なのだろうか。

 だとすると、何故ウチみたいな金がありそうもない家に。

 薄いグレーの作業着姿でデニムの帽子をかぶった二人は、パッと見の印象では日本人のようだが、中国や韓国出身の可能性も否めない。

 どちらも中肉中背だが筋肉質で、一人は黒い石の入ったピアスをつけている。

 マスクのせいで年齢や顔つきはわかりづらいが、目の周りにシワがないのと髪の感じからして、四十には届いてない気がした。


 鼻で荒く呼吸をしながら、自分にできることを考える。

 大声は出せない。

 逃げるのも無理。

 周囲に異変を知らせるためにできるのは、床を跳ね回ることくらいだろうか。

 だが、実行しても暴力で強制終了させられること間違いなしだ。


 ほぼ寝に帰ってくるだけの部屋だし、近所付き合いなんてものも皆無だ。

 暴れてみても、隣人がキレ気味に壁を殴ってくる以上の反応は期待できないだろう。

 ついでに言うと部屋は一階にあるから、下の住人が異変を察知してくれることもない。

 とりあえず、何をするにしてもこいつらが消えてから、だな。

 そんな諦めの気分と共に、後に警察に報告すべく二人組の会話に耳を澄ませる。


「……あったか」

「ああ。間違いない、こいつだ」


 ピアス男の質問に、もう一人の男が無感情に応じる。

 発音の流暢りゅうちょうさを考えると、来日したての外国人強盗団ってことはなさそうだ。

 というか話の内容からして、こいつらのターゲットは俺らしい。

 零細広告会社の営業でしかない、ワープア寸前の三十代独身男である自分が、どうしてこんな目に遭わなきゃならないのか。


 理不尽な状況を再認識して不快感がつのるが、怒鳴り散らすこともできない。

 息苦しさを堪えて気持ちを落ち着かせ、狙われる心当たりについて考える。

 どこかで金持ちだと勘違いされる言動や格好をしていないか。

 誰かから報復されるほどの恨みを買ったことはないか。

 別れ話が拗れて刺されかけたこともあるが、あれは十年近く前だ。

 となると、もっと前に何かが――


 そんなことを考えながら、横になった状態で視線を彷徨さまよわせていると、キッチンで何かをした後で戻ってきたピアス男と目が合ってしまった。

 顔をジッと見てしまうのはマズい予感がして、咄嗟とっさに視線を逸らす。

 すると、小さい溜息に続いてボソボソとした喋りが聞こえた。


「可哀想だが……まぁ自業自得だ、ラッシーさん」

「――ぅ!」


 呼ばれた瞬間、思わず上半身を起こしていた。

 綽名あだなで呼び合うのが小学校で流行った時、俺は『五十嵐君』から『イガラッシー』になり、中学の頃にはそれが縮んで『ラッシー』になった。

 二十年近く耳にしていない名で呼ばれ、ピアス男のことを見据える。

 こいつは昔の知り合いなのか――しかしマスクで顔の下半分が隠れているせいか、時間が経ちすぎているからか、思い当たる相手がいない。


 小学校のクラスメイトか、中学で一緒だったヤツか。

 高校からは地元を離れたから、俺をラッシーと呼んでくるのはいない。

 いや、最後にわざわざ『さん』をつけているし、依頼者から俺に関する情報として聞かされただけなのかも。

 あの配達員のフリをした女はどうだった、どこかで会ったことがないか。

 グルグル回る思考を持て余していると、布袋のようなものが頭に被せられた。

 

「んぅうっ?」

「静かに」


 二人のどちらが発したのかわからない言葉のバックに、紙を破る音が聞こえた。

 首の辺りに何かをグルグルと巻かれ、聞こえたのは紙を破る音ではなく、ガムテープを引き出す音だったのだと察する。

 それから、体が浮いてるみたいな感覚や、不自然に甘ったるいニオイや、腕のアチコチをつねられるような痛みを感じた後、俺の意識は唐突に途切れた。



          ※※※



「ブフッ――ウェっホ、グェフッ」


 派手に咳き込んでせているような、そんな音がした。

 喉と胸に痛みが走り、それを発しているのが自分だと気が付く。

 やがて咳は治まったが、胸の内側に鈍い痛みが広がっていた。

 濡れた土と、草のニオイがする――だけど、何も見えない。

 おそらく自分は今、野外で倒れているのだろう。


 意識は回復しつつあるのに、頭の中心部に奇妙な痺れが居座って、上手く体を操ることができない。

 両目は開かないし、口の中はカラカラに乾いているし、体を起こすこともできない。

 どうにか手足を動かそうともがいていると、鼻の奥に何かが弾ける感覚が生じて、それが口の中へと降りてきた。

 温かくて生臭い、半固形のものが舌の上で溶けて、ありえない不快さを脳へと伝える。


「うぼっ――ぶぅおぇえええぇ」


 耐えられない吐き気に、胃の中身を全て戻しそうになる。

 だが何も入っていなかったようで、ひたすらに嘔吐えづかされることになった。

 からゲロとでも言うべき症状は数分で治まったが、エナジードリンクが腐ったような臭いを含んだゲップが際限なく出続ける。


 少し落ち着いた辺りで、やっと右手と指先に感覚が戻ってきた。

 目をこすると、ゴツゴツとした異様な感触が返ってくる。

 構わず続けているとまず左目が、それから右目が開いた。

 どうやら、分厚い目脂めやにまぶたを縫い付けていたらしい。


 視力が回復してくると、自分が薄暗い場所にいるのがわかる。

 木々の間から、青灰色の空が見えた。

 朝露で湿っている、雑草だらけの地面に倒れていたようだ。

 フリース素材の茶色いスウェットが、泥混じりの水分でじっとり重くなっている。

 夜明けの冷えた空気も、口腔こうくうに残る不快な後味を中和してくれない。


 立ち上がろうとするが、膝に違和感があって尻餅をついてしまう。

 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 服装は侵入者と遭遇した夜と同じ――なのだが、随分とサイズがキツい。

 小さいサイズと取り替えられたのでなければ、俺が太ったのだろう。

 実際、腹回りや手足は記憶より二周りほど膨らんでいた。


「ごっ……りふぁ、ぅあ、あぁぶ」


 独り言を発しようとするが、上手く舌が回ってくれない。

 これは十日や一月ひとつきじゃきかないな、と言いたかったのだが。

 どこかに監禁されるなり何なりして、痩せ衰えるならわかるが逆に太るってのはどういうことなのか。

 右手で左の二の腕を掴んでみると、筋肉の存在をまるで感じさせない柔らかさだ。


 映画の『セブン』のように、拘束して無理にメシを――いやしかし、そんなことをされた記憶もないし、意識がないまま拷問しても無意味だろう。

 何なんだ、俺は何をされたんだ。

 今がいつで、ここがどこで、自分がどうなってるのかを確かめたい。

 ポケットを探るが、当然ながら何も入っていない。

 まずは立って歩くところから、か――俺は力の入らない足を軽く叩いて溜息を吐いた。


 結局、歩けそうもなかったので這って移動するのを余儀よぎなくされた。

 痛みはないのに、どうしても立ち上がることができないのだ。

 体が重く、数メートル進むだけでも息が切れて、全身が汗だくになる。

 それでも短距離の移動を繰り返すこと数時間、やっとアスファルトで舗装された二車線道路に出た。


「ざぁで……ぐるわぁ、どぉっがな」


 人と会った時の練習も兼ねて、「さて、車は通るかな」と声に出してみる。

 喉の渇きと舌のもつれで、まだまともな発音はできない。

 汗が止まらないので、スウェットを脱いだ。

 下にはタンクトップを着せられていたようだ。

 体臭なのか汗がにおっているのか、小便とサラダ油を混ぜて煮詰めたような悪臭が漂う。


「うぶっ――ぼぇ、うぶっえ、げへっ」


 自分のクサさに耐えられず涙ぐむ、というマヌケな状況に本気で泣きたくなる。

 ブヨブヨと贅肉がへばりついた体も、異常事態に巻き込まれている事実を容赦なく突きつけてくる。

 ウンザリしながら丸々と張った腹を見下ろすと、タンクトップの下に違和感があった。

 嘘だろ、と思いながらそのすそまくり上げる。

 

「うぁ……ああぁ、あぶぁ……ぐぅうううぅ……」


 言葉にならない呻きが、口の端から漏れ続ける。

 胸から腹にかけて、ビッシリと刺青が彫られていた。

 刺青、と聞いて普通に思い浮かぶような、ああいうデザインではない。

 完全にフザケている、落描きのような色使いと仕上がりだ。

 実際に何が彫り込まれているのか、ここで確認するのも躊躇ためらわれる。


 震える指をタンクトップから離し、湿ったスウェットを再び着る。

 ただでさえ通行人が止まってくれるかどうか怪しいなに、あんな彫り物を晒していたら確実が更に低下する。

 大体、自分なら絶対に止まらないし声もかけない、というか全速力で逃げる。

 余りの現実感のなさに、何もかも全部が夢じゃないか――と思い始めたところで、エンジン音が近づいてくるのが聞こえた。


 とりあえず俺は、電気工事会社のワゴンに拾われて人里に戻ることができた。

 俺が捨てられていた山だか森だかは、山形と秋田の県境近くだったらしい。

 自宅マンションが東京の立川なのに、まったく縁のない場所まで運ばれた理由は何なのだろうか。

 ともあれ最寄の町まで辿り着いた俺だったが、車の中で昏睡状態になってしまったらしく、警察に事情を語る前にまず緊急入院することとなった。


 入院から三日後に意識を取り戻した俺は、あの夜から一年七ヶ月が経っていると教えられ、ショックと混乱のせいか再び意識を失った。

 そして二日後に目を覚まし、様々な検査を受けていく中で、体型だけではなく顔も大幅に変えられているのを確認した。

 おそらく整形手術をされているであろう、そんなレベルで昔の面影がない。


 次々と直面する予想外の事実に困惑していると、病室に二人組の刑事がやってきた。

 事情を訊いてくる中年と青年の刑事コンビに、俺は長々と自分のプロフィールを語り、正体不明の手段に拉致されたことも説明する。

 三時間ほどの説明を聞いて帰った刑事たちは、翌日に再びやってきたのだが――


「色々と調べてみたのですがね……五十嵐賢吾という人物は一年半前に死亡した、ということになってますな、書類上は」

「えっ? 何ですか、それ……いやいや、いやいやいやいやいや! おかしいでしょう、そんなの! 実際いるじゃないですか、五十嵐賢吾本人が! ここに!」


 スガイと名乗った五十前後の刑事の言葉に、思わず逆上気味に食って掛かる。

 直後、アキヤマという若い刑事に肩を掴まれ、やんわりとベッドに押し戻された。

 体重は増えているのに、筋力がえきっていてまるで抵抗できない。

 せめてもの意思表示として睨み付けるが、アキヤマは鼻で笑って俺に言う。


「まぁまぁ、落ち着いて。そうは言っても……あんたが五十嵐賢吾であると証明できる方法が何もないんだよ、困ったことに」

「証明も何も、俺は俺ですから……なら、母親とか会社とかに確認を」

「そんなのは当然やってる。五十嵐真紀子という人物は、確かにあんたの言った住所に住んでたようだがな」


 だったらどうして、という疑問を無言で眉をひそめることで表現すると、アキヤマは欧米人のように肩をすくめて小さく溜息を吐く。

 フザケた動きにイラッとしていると、スガイが話を引き取った。


「それがですね、五十嵐さんは二年前に借家を引き払っとりまして、その後は住民票の移動などもされとらんのです。つまり、消息不明で連絡がつかんのです」

「二年前から、消息不明……」

「それとですな、あなたが勤めてたっていう広告会社……HGLアド、でしたか。そこも十ヶ月ほど前に夜逃げ状態で倒産して、関係者が見つからんのですわ」


 夜逃げした、と言われてもまるでピンとこない。

 景気がいいとは言い難いにしても、一年足らずで行き詰るような気配はなかった。

 社長の個人的な負債か、或いは何かオカシな事業に手を出したのか。

 自分を入れて七人しかいなかった社員たちの顔を思い浮かべながら、困惑を深める一方の俺にアキヤマは言う。


「明日には、あんたを知ってるって人が来るらしいから。詳しいことはそこで」

「えっ? 俺を、五十嵐賢吾を知ってる?」

「いや、そっちじゃなくてヤマナカコウスケを知ってる、ってのだ」

「ヤマナカ? ……誰ですか、それは?」

「あんたの着てたランニングシャツのの背中に、ゼッケンみたいな布が縫い付けてあってな。そこに書かれてた名前だ。山中さんちゅうの山中に、金田一耕助きんだいちこうすけの耕助で山中耕助。一緒に書いてあった連絡先に電話入れたら、明日には迎えに来るそうだ」


 何を言われているのか理解できず口を半開きにした俺に、アキヤマはあわれみを大量含有した目を向けながら続ける。


「まぁ、あんたも色々と大変なんだろうが……こういう騒ぎは勘弁してくれ」

「いや……何言ってんだ、お前ら。俺は五十嵐賢吾だって、さっきから! そう言ってるじゃねえか! 誰だよ山中って! ワケわかんねぇんだよ!」

「だから、落ち着けって。スガイさん、ナースコールを」


 再びアキヤマにベッドに押さえつけられ、頭に血が上り視界が白っぽくなる。

 何なんだ、何がどうなってるんだ、何でこんなことに――みたいなことを喚いていた気がするが、興奮しすぎていたのかよく覚えていない。

 叫んで暴れる体力も尽き、身をよじってうめくしかなくなったところで、スガイは肩で息をしている俺に静かな声で告げる。


「山中さん、これを見てくれるか」

「これは……俺の顔と同じ、だ」

「そうだ、山中耕助さん。同じ顔じゃなくて、あなたの写真だよ。あなたの世話をしている人から、メールで送られてきた画像をプリントしたもんだ。どこでそう思い込んだのか知らんが……あなたは茨城在住の山中耕助、統合失調症で療養中の四十三歳男性だ」


 お前は狂っている――ほぼそう断言した宣言を突きつけられ、俺は何も言えなくなる。

 いや、正確には「何を言えばいいのかわからなくなった」のだ。

 これではどれだけ真実を語っても、俺がキチガイだから意味不明なことを喋っている、という扱いになってしまう。

 自分が自分であると証明するだけのことが、こんなにも難しいとは。

 息苦しさが増し、早くなった動悸どうきが頭痛を連れてくる。


 どうすればわかってもらえるのか、痛みが膨らむ頭から捻り出そうとする。

 まともに調べれば、絶対に俺が俺だと証明できるはずなのに。

 DNA鑑定とか、歯医者の治療痕とか、指紋の照合とか、検査の方法だっていくらでもあるじゃないか。


 そう主張しようとするが、ベッドの左右から俺を見ているスガイとアキヤマ、そして病室にやってきた医者と看護師の表情に、不意に気付かされてしまう。


 こいつら、俺のことを『人間』として見ていない。


 狂人ですらなく、単に面倒なトラブルの原因となっている薄汚くて厄介な何か、としか認識されていない。


「ぶぅあっ、ああああああああああああああぁ――ああっ、くぁ……」


 恐怖心が弾け、無意識に叫んでいた。

 とにかくこのままでは、ここにいてはマズい。

 本能的な忌避感から、両手をデタラメに振り回して看護師を近づけまいとする。

 しかし、すぐに手足が押さえつけられてしまい、俺は身動きが取れなくなった。


 医者は慣れた手つきで、注射を立て続けに二本打った。

 意識はどこかに溶けて混ざろうとし、思考は浮かぶと同時にほどけてしまう。

 次に目覚めた時、俺は五十嵐賢吾のままだろうか。

 それとも、山中耕助になっているのだろうか。

 説明しようのない感情が脳裏をぎった直後、視界が白一色に転じた。

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