第52話 このあたりじゃ見ない顔

 赤ん坊が泣いている――のだろうか。

 危機感というか焦燥感というか、とにかく強い感情を含んだ音で目が覚めた。

 細く開いた窓の外から聞こえる声が、夢と現実を分離させていく。

 薄目で室内の暗さを認識しながら、枕元に手を伸ばしてスマホを掴む。

 三時間も寝られずに起こされたのか、と思うと軽くない苛立ちが湧き上がった。


『フーッ! ンナァアアアアアアーッ!』

『ンンンァーオ……ゥウウウウゥ……』


 赤ん坊の泣き声かと思ったが、どうやら猫がケンカしているようだ。

 放し飼いなのか地域猫なのか詳しくは知らないが、このあたりでも何匹か見かける。

 一方が荒ぶった威嚇いかくの鳴き声を上げ、もう一方が低い唸りを返していた。

 まぁ、放って置けばその内に落ち着くだろう――そう考えて再び横になるが、夢の中で何度も鳴き声を聞かされた気がした。


『ァアアアアアアアアァオ……ファーッ! ファアァーッ!』

『ンンンンァアアアァ……グゥウウゥウ……』


 次の日は、少し早い時間にまたケンカが始まった。

 昨日と同じく、荒々しい鳴き声と気怠けだるそうな唸り声だ。

 しばらく続いて、不意に途切れたと思ったら数分後に再開されたりする。

 私にとってもこのやかましさは迷惑だが、あんまり続くと保健所に通報されて、駆除の対象にされかねない。


「そうなると、後味悪いな……」


 個人的に猫は嫌いじゃない、というか余裕があれば自宅で飼いたいくらいだ。

 たとえ安眠妨害の元凶になっている見知らぬ猫でも、酷い目には遭ってほしくない。

 まずはケンカを止めて、可能ならどちらかを離れた場所に運んで引き離そう。

 そう考えた私は、今は使ってない古いトートを引っ張り出すと、それに懐中電灯とカニかまを放り込み、寝間着のショートパンツをジーンズに着替えて外に出た。


 昼はまだまだ夏の気配を残しているが、緩く風が吹いている今夜は涼しい。

 日付が変わるには間がある住宅街は、まだ沢山の窓に明かりが点いている。

 女の一人歩きでも、不安は感じない雰囲気だ。

 散歩するにも丁度いい気候だが、そう暢気のんきなことも言ってられない。

 猫の鳴き声がする方へ、私は肩に掛けたバッグを揺らしながら小走りで向かった。


『アァアアアーォウ……オゥアァアアアアーッ! ビィイャァアアアーッ!』

『オゥウウウァ……グフェエェエッ』


 興奮しすぎているのか、二匹の鳴き声がおかしくなっている。

 さすがに耳障りになっているようで、窓から顔を出してキョロキョロと様子をうかがう人影も見えた。

 早くどうにかしないと、ちょっとマズそうだ。

 焦りを感じながら声の出所を探して回ると、数分もしない内にそれらしき場所へと辿り着いた。


「この裏……かな」


 小さく呟き、点滅する街灯に照らされた二階建てを眺める。

 取り壊しの決まっているアパートは、既に住人はおらず一つの明かりもついていない。

 モルタルの壁はひび割れ、鉄製の階段は表面積の大半が赤サビに覆われている。

 劣化したコンクリの塀は、ここ数日雨が降っていないのに何故か湿った質感があった。

 道路と敷地をへだてるトラロープをまたいで越えると、私は人目を避けて急ぎ足で裏手に回った。


『ウゥヌヌヌヌヌゥ……ギァ! ビィア! アァァァァアアアァオ!』


 唸り声から、えるような鳴き声へと変わった。

 猫のケンカって、こんなに長引くものだっけか。

 そんな疑問も感じつつ、驚かせて二匹に逃げられないように、少し忍び足っぽい挙動で近付いていった。


 伸び放題の雑草がサンダル履きの素足に絡み、微かな痛痒いたがゆさを伝えてくる。

 視界が悪すぎるので、トートから懐中電灯を取り出して足元を照らす。

 音と光にも猫は反応せず、『シャーッ!』『ファーッ!』と鋭い鳴き声を上げている。

 さっきから、一匹の声しか聞こえなくなっているような――などと考えていると、電灯の光の輪に猫のシルエットが浮かんだ。


 異変を察知して、猫がサッとこちらを振り返る。

 子猫ということはないが、まだ若そうな雰囲気のあるキジトラの毛色。

 初めて見る顔だ――耳はサクラになっておらず、首輪もしていない。

 最近になって縄張り争いに参入した野良猫、なのだろうか。


『ファガッ!』


 キジトラは、脅しにしては気の抜けた短い鳴き声を上げ、私から目を逸らした。

 そして何かの植物がデタラメに生い茂った一角に視線を戻すと、身をひるがえしてブロック塀を駆け上がり、そのままどこかに走り去ってしまった。

 その後姿を見送ってから、逃げたキジトラが睨んでいた場所に明かりを向ける。


「そこに……いるのかな?」


 声をかけてみるが、相手は鳴きもしなければ身動きもしない。

 元は植え込みだったようだが、手入れを放棄されたせいで低木に様々な草が複雑に巻きついて、今はミニサイズの森とでも呼ぶべき状態だ。

 電灯を向けてみても、明かりをクルクル回してみても、やはり何のリアクションも返ってこない。


 腰を落として視線の位置を下げてから、改めて植え込みを照らした。

 さっきのキジトラが爪で引っ掻いたのか、バサバサに毛羽立けばだった枝だか幹だかが見える。

 その奥に、黒い塊があった。

 毛足が長い――ペルシャとかサイベリアンとか、それ系の混ざった雑種だろうか。


 こちらに背を向けて丸まっているようで、まったく動かない。

 それでも、呼吸音らしいものは微かに聞こえてくる。

 キジトラとのケンカの影響で警戒しているにしても、振り向きもしないのはどういうことだろう。


 ともあれ、随分と大人しい雰囲気だ。

 トートに入れて移動させるのも、そんなに難しくはないだろう。

 まずは気を引いてみようと、私はカニかまをユラユラさせつつ、つやのない毛玉に向けて「チッチッチッチッ」と連続した小さな舌打ちを鳴らす。

 ニオイに反応したのか音に反応したのか、黒猫がビクッと震えるように動いた。


「よーしよし、いいコプォ――」


 いい子だねぇ、と言うつもりが半開きの口の中で舌がもつれる。

 振り向いた相手と、目が合った。

 黒猫ではなく、妙に凹凸おうとつの少ない性別不明の人の顔と。

 おっさんみたいなおばさんにも、おばさんみたいなおっさんにも見える、のっぺりとして曖昧あいまい容貌ようぼうだった。


 目を離したらダメな予感がして、視線を外すことができない。

 やたらと湧き上がってくる唾を何度も飲み込む。

 一分近くそうしていると突然、視界から顔が消えた。


 どこに行った――いや、違う。

 手に持っていた電灯を落としたのだ。

 こちらを向いた明かりが、雑草に埋もれかけた私の足元を照らす。

 ガサッ、という音がして植え込みが大きく揺れた。


「ふっ――ぅあああああああああああっ!」


 大声が、飛びかけた意識を引き戻した。

 崩れそうになる膝を平手で叩き、どうにか動かそうとする。


「大丈夫」

「あんなの気のせい」

「私は冷静」

「だから、大丈夫」


 繰り返し声に出して自分に言い聞かせながら、その場を早足で立ち去った。

 アパートの敷地を抜けるまでに二回、自宅に戻るまでにもう何回か転んだ気がするが、正確な回数は覚えていない。


 部屋に戻って鍵とチェーンをかけた時には、トートバッグはどこかに消え失せて左右とも裸足だった。

 そして、左の手のひらを思い切り擦り剥いていて、左の足の裏には半透明の小さなプラスチック片が刺さっている。

 泥で汚れたジーンズを脱ぐと、右の膝にもド派手な青痣ができていた。


 何故か切れている右眉の下を鏡で確認していると、不意に涙が溢れてきた。

 帰ってきたことに安心したのか、遭遇したものに改めて恐怖したのか、自分でもよくわからない。

 洗面所の壁にもたれて泣いていると、また猫の鳴き声が聞こえた気がした。

 当然ながら、もう様子を見に行くようなマネはしない。


 翌朝、無理矢理にでも眠るために一本カラにしたワインの重さに苦しみながら、ベッドで身を起こす。

 いつもより鈍った頭で、ベランダに面した窓に引かれたカーテンを眺める。

 そこに、妙な影が出来ているように思えた。

 何かある――と疑問に思いながらも、普段の流れを体が勝手に再現する。


「うぁ……ぅえ? えぇええ?」


 何だこれ、と思うが言葉になってくれない。

 ラムネのガラスビンを高熱で溶かしたような、緑がかった半透明の物体。

 カーテンを開けた先の窓に、そんなものがベッタリと貼り付いていた。


 気泡だらけの液体っぽい緑に混ざって、赤と白の固形物が混ざっている。

 それは、半端に咀嚼そしゃくしたカニかまを吐き出した塊に見えなくもなかった。

 もう一度よく見て確かめる気分にもなれず、私は素早くカーテンを引いた。

 視界から得体の知れない何かが消える直前に、ちょっとした疑問が浮かぶ。


 いま見た緑色したキモいの、窓の外側にあったっけ? 

 それとも、窓の内側だったっけ?

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