第41話 じゅうじゅうミラー

「どうして、こんなことに……」


 もう何度目かわからない泣き言を呟きながら、ジャージ姿の直海なおみはしゃがんだ姿勢で薄暗い廊下を進む。

 夜中と呼ぶにはまだ浅い九時過ぎだが、非常灯のボンヤリした光だけを頼りに歩く建物内は不気味そのもので、正直に言えば一秒でも早く帰りたかった。


 直海が今いるのは、半年前まで通っていた中学校の校舎。

 放課後に友人たちと雑談をしている中で、話題が『学園七不思議』的なものになったのだが、それが思いがけない盛り上がりを見せた。

 とは言え、どれもどこかで聞いたような話ばかり。

 直海が語った『十十じゅうじゅうミラー』も、ありがちなタイプの怪談だった。


 空き教室に保管してある、古くて大きな姿見。

 元は用務員室だか宿直室だかに置かれていたのだが、「変なものが映る」という噂が出て、倉庫代わりの教室に移動されたのだという。

 何が映るのかについては諸説あるが、直海たちの世代で定説となっていたのは『夜の十時十分に鏡の前に立つと、十秒間だけ十年後の姿が映る』というもの。


 実際にやってみた、という生徒はさすがにいなかったが、噂だけは山ほどあった。

 五年前に試した女生徒が、翌日から不登校になって数ヵ月後に転校した――転校直前に会った友人の話では、少女は痩せこけて髪が七割ほど白かったという。

 三代前の用務員が、ブクブクに太った自分の姿を見た翌年の夏、海で行方不明に――一週間後に死体で発見された時、用務員の体は元の倍くらいに膨らんでいた。


 他にも死んだり狂ったりの、そういう物騒なネタばかりが並ぶ。

 ただ、首を吊っている自分を見た教師が半月後に自宅で首を吊って死んだとか、血塗れの自分を見た男子生徒が三日後トラックに轢かれたとか、設定はかなり適当だ。

 三代前の用務員の件もなのだが、『十年後の姿』設定を無視したネタが多すぎる。


 そんなこんなで、普通ならばしょうもない与太話で片付けられるところだが、この鏡は実物はキッチリと存在しているのがややこしく、そして厄介だった。

 誰もが「そんなアホな」と思っているにしても、本気で否定すれば「じゃあお前が試してみろよ」みたいな流れになりかねない。


 で、そんな展開に見事にハマってしまったのが、今の直海だ。

 冗談めかして「誰も信じてないし、わたしも信じてないんだけど」と前置きして話したこのネタが、仲間内の中心人物である高嶺たかみねに大ウケしてしまった。

 高嶺に釣られて周囲も超ノリノリで盛り上がり、最終的には直海が母校に潜入して十時十分に鏡の前で写真を撮ってくることが決定されていた。 


「もうマジ、意味わかんないんだけど……」


 本人としては、当然こんなことやりたいワケがない。

 仲が良かった後輩に連絡して侵入路を確保したり。

 親に「友達の家で勉強会があって遅くなる」と嘘をついたり。

 警報装置はないけど有刺鉄線だらけの壁を乗り越えたり。

 そこまで苦労をして忍び込んでも、直海には何ら得がない。


 見つかれば良くて説教、悪くて親と高校に苦情が行って厳重注意。

 最悪のケースなら、警察沙汰になって停学ってオチまである。

 そう考えると、こんなことを嬉々としてやらせる高嶺への不満が募る。

 やっぱり、あの子にとって自分は友達じゃないんだろうか――

 薄々感じていた疑念を溜息に混ぜ、直海は音を立てずに吐き出した。


「ここ、かな」


 自分の記憶と照合しながら、目的地らしい教室の前で呟く。

 スマホで確認してみると、時刻は十時四分。

 十時前には着いている予定だったのに、思ったよりも時間がかかっていた。

 普段は二つある引き戸の両方とも施錠されているが、今日は後輩が合鍵を持ち出して片方を開けてある――はずだ。


 見回りで鍵をかけ直される心配もあったが、入口は見事に無施錠のままだった。

 直海は息を潜めて静かに扉を開けると、そっと内部に足を踏み入れて後ろ手で閉める。

 人があまり出入していないせいか、室内はほこりっぽくよどんでいた。

 生乾きの洗濯物と薄まったペンキが混ざったようなニオイが漂っていて、長いことこの場にいると体調を崩しそうだ。


 窓からの月明かりが、ボロボロの机や旧型にも限度があるコピー機を照らしている。

 そういった諸々の中で、花柄の毛布を被せられた何かが悪目立ちしていた。

 サイズや形からして、これに違いない。

 これが例の、あの噂の、十十じゅうじゅうミラー。


 緊張と不安に晒され続け、ここに来るまでも酷使していた心臓は、一際ひときわ激しく跳ね回っている。

 スマホの画面を見る――十時七分、もう時間がない。

 音を立てないための忍び足と緩慢かんまんな動作をやめ、教室内の空きスペースに手早く姿見を移動させる。


 どこまでも荒くなっていく息を抑えようと、目を閉じて深呼吸を繰り返す。

 動悸と血流のうるささが、頭蓋の中を反響する耳鳴りと混ざる。

 何度目かに大きく息を吐いた後、僅かながら落ち着きを取り戻した直海は、毛布の端を掴むとスルッと床まで引き落とした。

 

「十時、九分」


 視線は鏡面ではなく、手の中にあるスマホに落としている。

 ギリギリ間に合った――間に合ってしまった。

 家を出る直前に時報に合わせてきたから、時計に狂いはないはずだ。

 姿見の正面に立ち、直海は呼吸を思い出したように止めていた息を吸う。

 えた空気が肺に満たされる途中、画面に表示された数字が変化した。


「じゅっ、ぷん」


 言いながら顔を上げた直海は、古びた姿見の全体像を初めて知る。

 スマホを構え、細かく震える指で操作すると、シャッター音が連続して小さく響く。

 暗がりを映していた鏡面が、フラッシュを反射して白く染まり、直海の目を眩ませる。


 もういいかな――

 もういいでしょ――

 もういいよね――


 短い葛藤の後で直海は鏡の前から離れ、ぎこちない動きで教室を出る。

 扉は開けっ放しで、姿見に毛布を被せるのも忘れたが、とてもじゃないが引き返す気にはなれない。

 フワフワと落ち着かない膝と腰のせいで、何度となく転ぶ。

 それでもどうにか見回りに発見されず、夜の校舎からの脱出に成功した。


 学校から離れるにつれて、混乱の極みにあった精神状態が晴れてくる。

 夜中に、一人で中学校に忍び込んで、暗い教室で写真撮影。

 そんなシチュエーションは怖いに決まってるけど、別に何も起きなかったじゃないか。

 ちょっと前までビビり倒していた直海は、落ち着きを取り戻してスマホを操作する。


 とりあえず、ミッション完了を高嶺たちにラインで報告しなければ。

 噂はやっぱりデタラメで、十時十分に鏡の前に立っても何も映らなかった、と。

 どういう文面にするか考えている最中、直海は何かがオカシいと気付く。

 数秒後、違和感の正体が判明した。


「何も映ってない……わたしも、映ってなかった」


 姿見の真正面に立っていたのに、何も見えないなんてことがあるのか。

 暗いから、部屋の中が暗かったから、そうなったんだろう。

 きっとそうだ――自分に言い聞かせながら、直海はスマホの画像データを確認する。

 フラッシュ撮影した写真は、鮮やかな白い光とぼやけた教室の壁を記録していた。

  

 光の加減とか、撮影した角度とか、そういうので変に見えたに違いない。

 きっと、たぶん、偶然なんだと繰り返し自分に言い聞かせながら、直海は画像を何度も確認するが、やはり自分がどこにもいない。

 あの『十十じゅうじゅうミラー』に映らなかった、ということはつまり――

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