第36話 かいじゅうのなかにいる

「うゎ、またかよ」


 寝起きに洗面台で顔を洗っていて、体に刻まれた異変に気付く。

 今日は右の首筋だ――狙ったように、目立つ場所にばかり残されている。

 ここ五日は出なかったから、もう終わったのかと思っていたのにこれだ。


 長さ十センチくらいの薄くて細くて真っ直ぐな、仄かに赤く縁取られた白い線。

 医者に行くほどではないし、薬を塗る必要すらないであろう、放って置けば勝手に消えているようなカスリ傷。

 

 前回は、右手の甲を横切るように浮いていた。

 その前は額の左側から、右の眉に向かって斜めに。

 最初に気付いた時は、左の頬に微かなかゆみを感じて、鏡で確かめたらこの傷が走っていたんだっけか。


 カッターの刃をほんの少しだけ出して、定規に沿ってスパッと引いたような、そんな感じの浅い傷だ。

 寝ている間に自分でやったのかも、とファスナーやボタンのある寝間着は避けていたが、それでも気付けばまた肌のどこかに傷が浮いている。


「何なんだよ、ったく……」


 鏡を見ながら首筋を撫で、濡らしたフェイスタオルで軽く擦る。

 痕が残ることはないにしても、誰かと面と向かえば「どうしたんだ、それ」と訊かれる程度には目につく。

 こっちも理由がわからないから、曖昧な返事しかできないのが困りものだ。


 改めて傷の生じる原因を考えてみるが、それらしいものはやはり思い浮かばない。

 そうこうしている内に、出勤のリミットは迫ってくる。

 俺は着替えと平行しながら朝食をバナナ一本と牛乳一杯で片付け、いつもより数分遅れて自宅アパートを出た。


「まだ続いてるんすか、その謎めき切り傷現象、略して謎め切り傷現象」

「一文字しか略せてねぇし。つうか、本当に意味わかんなくて参るわ」


 その日の昼休み、俺は職場近くの蕎麦屋で後輩の小田おだを相手に、例の傷について愚痴っていた。

 前に話して事情を知っている小田は、二枚目のざる蕎麦をすすりながら、俺の首を眺めて首を傾げる。


「マジ何なんすかね。かまいたちとか弟切草とか、そういうアレっすかね」

「どういうアレだよ。大体、かまいたちってのは屋内でも発生するモンなのか?」

「いや、自分かまいたちじゃないんで、よくわかんないっす」

「お前とかまいたちをイコールで結ぼうとしたことは一度もねぇよ! とにかく、現象そのものも迷惑なんだけど、それ以上に理由とか原因とか、そういうのが一個もわかんねぇのが気持ち悪ぃんだ」


 少し顔を引き締めて言ってみるが、小田は首をさっきとは逆方向に傾げ、ショッキングピンクの漬物をパキパキ音を立ててかじっている。

 基本的にアホだが時々妙に鋭いコイツなら、何か役に立つ発想を繰り出してくるかも、というそこはかとない期待があったのだが、どうやらアテは外れたようだ。

 蕎麦湯でも頼もうか、と店員の姿を探していると、小田が俺をジッと見据えているのに気付く。


「先輩、自分ちょっと考えたんすけど」

「何だよ。かまいたちの話なら、もういいぞ」

「その、傷が残ってるシチュが発生すんのは、自分ちで寝て起きた時だけっすよね」


 喋り方は相変わらずだが、声のトーンは少し落ち着いた感じになった小田が、俺の首筋を指差しながら訊いてくる。

 七回だか八回だかの、傷を確認した状況を思い出しながら、俺はゆっくり頷いた。


「ああ、まぁ、そうだな」

「仕事中に傷になってたとか、パパに内緒で無断外泊したら傷があったとか、そんなんないっすか」

「箱入り娘か。どっちもねぇな……うん、自分の部屋だけで間違いない」


 俺の答えを聞いた小田は、腕を組みながら「なるほど」と何かに納得したように呟き、数秒の間を置いてから言う。


「となると、その傷の原因ってのは先輩自身じゃなくて、先輩の部屋にあるんじゃないすかね」

「じゃあ何か? 俺んちに、こう……変なのが住み着いてる、ってことか?」


 具体的な単語を避けて訊き返すと、小田は申し訳なさそうな表情で応じる。


「ぶっちゃけ、そういうことっすね。心当たりとか、ないんすか。傷ができるようになるちょい前くらいで、何かきっかけになりそうなサムシングは」

「きっかけ、なぁ……ん、まぁアレだ。今日帰ったら、ちょっと調べてみる」

「押入れの中にある元カノのホルマリン漬けとか、重点的に調べた方がいいっすよ」

「そんな猟奇的なモン、不法所持してねぇよ!」


 壁の時計が昼休み終了五分前を指していたので、とりあえず話を切り上げて蕎麦屋を出ることにした。

 そして、いつも以上に身が入らない状態で午後の業務を終えると、真っ直ぐ自宅に戻って部屋着に着替える。


 シャワーを浴び、冷蔵庫に備蓄していた冷凍ピラフで夕食を済ませ、一息ついたところで改めて考える。

 自分の体に妙な傷を残す原因になりそうなモノ――それがこの部屋にあるだろうか。

 傷の存在を初めて自覚したのは、確か二ヶ月くらい前のこと。

 その辺りで、変化らしい変化があっただろうか。


 ここ半年は恋人もいないし、友人知人を自宅に招いてもいない。

 ペットも飼っていないし、花や観葉植物も置いてない。

 家具や家電の大きな買い物もなければ、模様替えをした記憶もない。

 古本屋で文庫を何冊か買ったり、フリマで古びた革のトランクを買ったりはしたが、まさかそんなのにイワクがあるなんてことは――


 と、つらつらと並べていたら不意に思い出した。

 そうだ、フリマから持ち帰ったのは、トランクだけじゃない。

 そこで店番をしていた、結構トシ行ってるのか意外と若いのかわからん女から、「オマケにコレも」と渡されたものがあった。


「あれって、どこやったっけか」


 アチコチを探した末に、ベッドの下で埃塗れになっているのを発見した。

 適当な造形と粗雑な彩色をされた、名前も知らない怪獣のソフトビニール人形。

 有名特撮番組の敵キャラがモチーフなのだろうが、まるで見覚えがない。

 味があると言えなくもないが、間の抜けた顔で見るからにパチモノ全開な佇まいは、ちょっと部屋に飾る気になれない低クオリティぶりだ。


「扱いが悪いから呪われた、とかじゃねぇだろうな……」


 そんな独り言を呟きつつ、ゴミ箱の上で怪獣人形を振って埃を落としていると、シャカシャカシャカシャカ、と異音が聞こえてきた。

 おそらくは、人形の内部から。

 もう一度振ってみると、やはりシャカシャカいう音がして、微かな衝撃が掌に伝わってくる。


 怪獣の中に、何か入っている。

 認識した瞬間、咽喉の奥から「ゲァ」とアヒルの鳴き声に似たうめきが控えめに漏れた。

 反射的に肘が動き、掴んでいたソフビ人形を全力で壁に投げる。

 カッ、カコッ、と軽い衝突音が数回鳴った後、硬いものが散らばったような音が続く。


「やべっ」


 後悔と焦燥が混ざった感情に駆られ、床に転がった怪獣の状態を慌てて確認する。

 はめ込み式の首がもげていた。

 胴体に空いた穴からは、細かい何かがいくつも飛び出している。

 これは何だ――触るのには抵抗があったので、顔を近づけて観察することに。


「魚のウロコ? いや、じゃないな……」

 

 黄ばんでいて薄っぺらい、プラスチックに似た質感をした、いびつな円形をした半透明の小片たち。

 頭の中で似ているものをいくつか思い浮かべていると、正解らしい物体に辿り着いた。


 これは剥がされた爪だ――たぶん、子供の。


 そう思うと同時に、小さな指先をスッと横滑りさせて、寝ている俺の顔を傷つけている幼児の姿が、脳裏に浮かんですぐに消えた。

 乱雑に切られたバサついている髪と、赤色や茶色のシミで汚れた水色のスウェット。

 そんなものが見えた気がしたが、子供の表情はわからない。


 ティッシュを手にして散らばった爪を掻き集め、そいつを丸めて怪獣の胴体へと無理矢理に押し込むと、外れた首を再度はめ込んだ。

 そのままゴミ箱に放り込みたかったが、ある可能性がそれを躊躇ちゅうちょさせていた。


 捨ててしまうと自分のところで止まって、あの現象は終わらない。

 これといって根拠はないのだが、そんな気がしてならなかった。

 では、どうすればいい。

 ソフビの怪獣を見つめながら考える。


 こういうのを扱っていそうなオタショップに売り飛ばす。

 或いは、公園の砂場に置いて子供が持ち去るのを期待する。

 もしくは、神社や寺で御焚おたげをしてもらう――


 ダメだ、そういう行為が『捨てた』と判断されるかもしれない。

 この中にいるものは、一体何を求めているのだろうか。

 どうすりゃいいんだよ、と髪を掻き回しながら怪獣をにらむ。

 するとそれは、素早くグリンッと首を一回転させた。

 

「ふぉおおっ?」


 予想外のアクションを目の当たりにし、思わず尻を浮かせて飛び退くと、今度は逆方向に首がゆっくりと回転し始めた。

 それと同時に、カリカリカリカリコリコリコリコリ、と怪獣の中から擦過音さっかおんが小さく鳴っている。

 相変わらずのマヌケ面が、こちらを嘲笑あざわらっているかのようだった。

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