第30話 カズヒコさん

「今年もいるね」

「……いるね」


 細く開けたふすまの隙間を覗きながら、僕とマコ姉ちゃんは小声で言い交わす。

 襖の向こうにあるのは、八畳敷きの家具も何もない部屋だ。

 おばあちゃんは『お客さんが来た時に泊まってもらう場所』と言っていたが、ここに誰かを泊まらせるのはちょっと考え難い。

 だってここには、いつもカズヒコさんがいるんだから。


 毎年、夏休みになると遊びに行く田舎の家は、僕の知っている誰の家よりも大きい。

 お盆の頃と年末年始は大勢の親戚が集まるけれど、普段住んでいるのはおじいちゃんとおばあちゃんだけだ。

 なのに、一階と二階を合わせて十五も部屋があって、やたらと広い庭には蔵が二つと僕の家より立派な離れが建っている。

 

 カズヒコさんの部屋があるのは一階の、玄関から見て左側の一番奥まった場所だ。

 家の外周を巡っている廊下とはつながっておらず、隣にある仏間からしか入れないようになっている。

 庭と行き来できるガラス戸は締め切られ、木製の雨戸がめ込まれたままになっているが、その上に明かり採りの窓がしつらえられているので、電気を点けなくても昼間なら中の様子は窺えた。


「今日は……煙っぽい?」

「そうだね。白くて、フワフワしてる」

「じゃあフワヒコさんだ」

「ぷはっ――フワヒコさんって」


 僕のどうでもいい冗談にマコ姉ちゃんが笑ってくれて、何だかちょっと嬉しくなる。

 部屋の中のカズヒコさんは、自分がネタにされていると理解しているのかいないのか、旧式の蛍光灯の下あたりで輪郭のハッキリしない体を揺らしていた。

 カズヒコさんは今日みたいに白っぽかったり、影みたいに黒っぽかったり、よく見えないけどボンヤリとした気配だけを伝えてきたりと、状態が安定していない。

 だけど、いつ来ても確実にこの部屋にいる――それだけは間違いなかった。


 僕の親戚は多いけど、夏休みにこの家に来る子供らの中で歳が近いのは、二つ上の従姉妹になるマコ姉ちゃんだけだ。

 三年前の小学一年の夏休み、マコ姉ちゃんに教えられて初めてこの部屋を覗いた時も、怖いというより不思議だと思う気持ちが強かったが、今でもそれは変わらない。


 マコ姉ちゃんはお母さん――僕の伯母さんからカズヒコさんのことを聞いたらしい。

 どうやら、伯母さんやお母さんが子供だった頃から、カズヒコさんはこの部屋で目撃されていたようだ。

 お母さんは僕がカズヒコさんの話をするとものすごく嫌がるから、おじいちゃんにもおばあちゃんにも詳しいことは訊けていない。

 カズヒコさんは多分、世間一般でいうところの幽霊なんだろうけど、存在感が希薄すぎるせいなのか、どうにも『普通じゃない何か』と認識するのが難しいのだ。


 カズヒコさんは僕から見て、おじいちゃんのおじいちゃんの弟、になるらしい。

 百年以上も前の戦争で、ホーテンというところで戦死した、とのことだ。

 去年、おじいちゃんに頼んで見せてもらった白黒写真のカズヒコさんは、知っている親戚の誰にも似ている感じがせず、身内だと言われてもピンとこなかった。

 そんなワケで僕にとってカズヒコさんは、街中でよく見かける野良猫や中に入ったことがない店みたいな、『そこにあるだけの、そういう存在』でしかなかったのだが――


「ねぇねぇ、カズヒコさんのこと、キチンと見てみたくない?」

「え……キチンとって、どゆこと?」


 数日後に開催される祭りの打ち合わせがあるとかで、無駄に広い家がほぼ無人になったある日の夕方、マコ姉ちゃんは妙なことを言い出した。

 カズヒコさんを人の姿として見る――とか、そういうことだろうか。

 拒否反応に近い気分が湧き上がるが、弱虫だと思われるのもイヤなので即答を避けて訊き返すと、マコ姉ちゃんはショートパンツのポケットから何かを取り出す。


「学校の友達から聞いたんだけどね、これを使うと霊感が高まるっていうか……幽霊が見えるようになるんだって」

「……霊感が?」

「そう。火を点けてしばらく置いとくとね、霊がいる場所だったら、それがハッキリ見えるようになるんだって。ネットにも、作り方と一緒にそう書いてあった」


 言いながらマコ姉ちゃんは、自分で作ったらしい蝋燭ろうそくを手渡してくる。

 仏壇やお墓に供えるヤツではなく、アロマキャンドルとかそういうのに近い印象だ。

 色は濃い目の灰色で、サイズは風邪薬の小瓶くらい。

 金属製の円筒に納まったそれを嗅いでみると、タイとかベトナム辺りの料理みたいな、ハーブっぽいニオイが鼻に刺さった。


「んー、変なニオイだ」

「だから効くんだって! とりあえずさ、試してみようよ」


 根拠はわからないが力強く断言するマコ姉ちゃんに押し切られ、僕らはカズヒコさんのいる部屋の前へと向かうことに。

 妙な実験を後に控えているせいか、もう慣れているはずなのに変な緊張感がある。

 マコ姉ちゃんが十センチくらい襖を開くが、今日はカズヒコさんの姿は見えない。

 ただ、誰かがそこにいるような気配と一緒に、僕らがいる仏間よりも二度か三度冷えた感じのする、湿った空気が流れ出てきた。


「じゃあ、やってみる……よ?」


 仏壇からライターを持ち出したマコ姉ちゃんは、切れ切れに宣言する。

 その声と蝋燭に着火する指先には、僕にもわかるくらいの震えが混ざっていた。

 炎の先から生じる薄い黒煙には、さっき感じたアジア料理っぽさの他に、漢方薬に似たニオイが付け足されている。

 マコ姉ちゃんは蝋燭を襖の向こうに置くと、僕の方を振り向いて硬い笑顔で言う。


「早ければ、五分……遅くても、十五分くらいで効果が出るって言ってた、から」

「……うん」


 小声で応じると、マコ姉ちゃんは後ろ手で襖を閉め、クシャミを我慢しているような変顔を浮かべながら、長く大きな溜息を吐いた。

 理由はわからないが、声を出してはいけない雰囲気が充満している。

 なので僕は何も言わず、二つ隣の部屋にある柱時計の振り子の音を数えながら、時間が過ぎるのをひたすら待つ。

 マコ姉ちゃんも無言で襖と腕時計を交互ににらんでいる。

 ポニーテールにまとめられた長い髪が、落ち着かない様子で揺れていた。


「五分、経ったから……開けてみるよ」


 いつもとは別人みたいな暗いマコ姉ちゃんの声に、思わず変な声が出そうになる。

 それをギリギリで堪えた僕は、冷静さを装って普通の返事をしておく。


「うん!」


 普通に応えたつもりだったが、ちょっと音量調節をミスっていた。

 マコ姉ちゃんはビクッと肩を跳ねさせるが、こちらを振り向かずにくぐもった咳払いをし、それから深呼吸を三回繰り返す。

 そして襖に手をかけると、左側だけを静かに開けていった。


 三センチ、五センチ、十センチと隙間は大きくなっていく。

 僕も一緒に覗き込むべきかな――と思いつつも、どうしてもそういう気分にはなれず、マコ姉ちゃんの背中をジッと見つめる。

 ふと、マコ姉ちゃんの動きが止まる。


「あ……ぅえっ?」


 字にするならば、『え』に濁点がついたような声。

 それから、止めている息を小刻みに吐き出しているような、ヘンテコな音。

 どうしたのか訊こうとするより早く、マコ姉ちゃんはカズヒコさんの部屋から蝋燭を回収すると、まだ燃えているそれを右足で踏み潰すようにして消した。

 

「うっふぁああっ、あぁああっつ!」

「なっ、何してんのさ!」


 苦痛の声を上げるマコ姉ちゃんは、僕の問いには答えずに勢い良く襖を閉める。

 そして、何だかわからずキョドる僕の右手首を掴むと、女の子らしからぬ力でもって仏間の外へと引きずって行く。

 足裏をヤケドしたのか、歩調はやけに不自然だ。


「なっ、ちょっ――姉ちゃん、待って! 自分で歩くって!」


 裸足で玄関を出たところで大声を出すと、やっと僕の声が聞こえたのか、マコ姉ちゃんはピタッと動きを止めた。

 それから手を離してその場にうずくまり、一分近く丸まった状態を保ってからフラッと立ち上がる。

 心配ない、と言いたげに僕の方を見て首を縦に何度も振るが、顔色は真っ白だし眼は泳いでいるしで、大丈夫感はゼロに近い。


「どっ、どうしたの? 何が……あ、カズヒコさん? そんなにヤバかったの?」

「うぁ、アレは……ヤバいって、いうか……」


 マコ姉ちゃんのオロオロした態度は、さっきまでと違いすぎる。

 これはもしかして、僕をビビらせようと演技をしてるんじゃないか。

 そう考えるとそんな気がしてきた――蝋燭を踏んで消したのも単なるフリで、実は足であおいで消しただけなのかも。

 考えれば考えるほど、全部が不自然に思えてきた。


「じゃ、じゃあ僕も、確かめぇぐっ――」


 屋内に戻ろうとすると、シャツの襟首を掴まれて思い切り引き戻される。

 首が絞まって変な呻きが漏れ、足が滑って尻餅をかされた。

 抗議しようと振り向けば、二十センチくらいの距離にマコ姉ちゃんの顔があって、握り潰すような力加減で肩を掴んでくる。

 そして、左右のバランスが不思議な感じに崩れた、どう形容すればいいのかわからない表情でもって、早口で僕に言う。


「ダメダメダメダメ、絶対にダメだからダメだって、行っちゃダメだからホントに、ダメだからアレはダメだからダメ、わかった? わかったら返事。返事は?」

「ひっ――ぅ、うん」


 大声を出されているわけでもないのに、逆らうに逆らえない圧力のあるマコ姉ちゃんの言葉に、僕は頷くしかなかった。

 だけど、ただ漠然とダメだって言われても、何が何だかサッパリだ。

 僕の肩から手を離した後、俯き加減で空咳みたいなのを連発していたマコ姉ちゃんがちょっと落ち着いたのを見計らって、気になる部分について訊いてみる。


「……カズヒコさん、そんなにヒドかったの? その……めっちゃ血塗れだったとか? それか、バラバラだったり?」


 戦死という状況から想像される姿を並べてみるが、顔を上げたマコ姉ちゃんはうつろな目でゆっくりと頭を振る。

 その動きを止めた後、また空咳を一つしてからパサついた唇を動かした。


「酷いは、酷いんだけど……そこは問題じゃない、っていうか」

「わかんないよ。どういうことなの?」

「あそこに、あの部屋にいたのは、カズヒコさんじゃない。全然、知らない人。知らない女の人。たぶん、花柄のワンピースを着て……右側がない。全部ない」

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