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 俺と兄貴が芸妓げいぎの息子で父親が違うっていうのは、正嗣まさつぐから聞いたんだろう。兄貴の父親は大澤おおさわ様の三代目で、俺の父親はどこかから流れてきて三条さんじょう辺りで職人やってた男だったんだ。

 兄貴の父親はちゃんと正妻もいてあの家で暮らしてたんだけどさ、本宅には子供がいなかったんだ。よりによって浮気相手のとこに男の子が生まれたもんだから、最初は「子供を寄越よこせ」なんて騒ぎもあったっていうけど、結局兄貴は大澤様が代々の名前に使ってる「輔」の一字を貰って「晋輔しんすけ」って名づけられて、母子ともども松谷で暮らすことになったんだ。お袋は兄貴が生まれてから芸妓を辞めていわゆるおめかけさんやってたんだけど、いつまでもこんな生活してる訳にもいかないと思ったんだろう、大澤様とは一旦手を切って翠松館すいしょうかんで仲居やりながら俺の父親とつき合うようになったんだ。松谷まつたにを出ることも考えてたんじゃないかな。

 お袋はやっぱり自分と兄貴の将来を考えて、っていうのが一番にあって「この人であれば」と思わせてくれるようなとこがあったからその男とつき合い始めたんだろうけどさ。ところがしばらく経ってお袋の部屋に転がりこんできて「やあ、俺の新天地らな」なんて言ったんだってさ。あっという間に化けの皮がはがれちゃったけど、それでもそのうちいい風にいくんじゃないか、って思いもあって、あんまり邪険にもしなかったんだ。

 それなのに、いつまで経ってもヒモ気取りでいるし喋ってれば馬鹿みたいなことしか言わないしなんの取り柄もない、博打ばくちで負けるのばっかり上手でさ。だから愛想尽かして追い出したんだ、それからすぐ俺が腹にいるのが分かったんだって。それでも、あんな男に頼ってもどうにもならない、と思ってお袋は俺の父親を探しもしなかったんだ。そうしたら大澤様が「ほら見たことか」って近づいてきて、って風になってさ。そうこうしてるうちに、兄貴が五歳の誕生日迎えてしばらくしてから俺が生まれたんだ。悌市ていいちなんていう長男だか次男だか分かんないような名前は、お袋にとっては次男だけど父親にとっては長男だっただろう、って意味でお袋がつけてくれたんだ。

 俺が生まれてなかったらお袋ももっといい道に行けたのかもしれないし、まあらない子だと思ってた時期もあっただろ。大きくなるにつれて父親にちょっとずつ似てきただろうし、もの心ついてから俺には怒ってばっかりいて兄貴には優しくしてさ。子供心にほんと辛かったよ。それでも兄貴は機転が利いて大人の言うことがよく分かる素直な子だし、何より可愛らしい顔してたしさ。兄貴ばっかり可愛がるのも当然なのかもしれないな、って漠然と思ってたんだ。俺にはほんとに優しくしてくれたしさ、やきもちのヤの字も思い浮かばなかったな。

 俺が小学校に上がる前の年だったな、三人でバスに乗って新津にいつに行ったんだ、何しに行ったのかなんて覚えてないけどさ。その時に、あんたが作ってくれたような三色パンを初めて食ったんだ。

 はじめは、お袋は兄貴の分しか買わなかったんだ、「悌市は小せえすけ全部食べらんねろう、晋輔ちっと分けてやんなせ」って言ってさ。そしたら兄貴が「今食わんねかったら家に持って帰って食えばいいろう、母ちゃんはなんでいっつも悌市にそんげことばっか言うんだ。みんなの母ちゃんなんか兄弟が何人いてもえこひいきなんかしねえげらよ、親がえこひいきするのはうちばっからわ」って言ったんだ。

 まさか兄貴にそんなこと言われるなんて思ってもみなかったんだろう、お袋、じーっと黙っちゃってさ。やっと「ほうせば、もう一つ買うかね」って言ったんだけど、兄貴が「いや、三つ買おう。三人で同じもん食うて、余ったら持って帰ろう。母ちゃんも悌市こと駄目だ駄目だばっか言うてねえで、駄目なとこがあったら直してやればいいこてや」って、ほんと毅然としてさ。それからだな、お袋が俺にも優しくしてくれるようになったのは。だから、兄貴は俺にとって大恩人、だったんだ。

 後から聞いたんだけどさ。お袋は、たしかに俺を父親に似てると思ってた。それでも、俺の細かいことを気にしないとことかちょっと面白いこと言って笑わせたりするとこが、出会ったばっかりの頃の父親に似てるから、嫌なことばかりでもなかったんだな、と思うようになったんだって。この人と一緒にいればいつでも笑っていられる、と思ったからつき合ってみたんだ、兄貴が新津でお袋を叱りつけた一件以来そういうのも思い出すようになって、それでやっと俺を可愛いと思えるようになったんだ、って。

 その後は父親のいない家庭ながらも親子三人、仲よくやってたんだ。それで、大澤様が俺達三人をどこか街の方に連れてって昼飯食わしてくれて、なんてことが月に一回か二回あったんだけどさ。今考えれば親子らしく見えないこともないけど、まあちぐはぐな家族がいるもんだわ、なんて通りすがりの人は思ってただろうな。そういう時は、兄貴は大澤様を「おっつぁま」って呼んでお袋のことはいつもどおり「母ちゃん」なんて言ってるんだ。俺は俺でただお袋の後にくっついて歩いて、自分の父親と母親の呼び方を変えなきゃいけないのか、父親がいるってのは面倒くさいもんだな、なんて思ってたんだけどさ。だから俺、お袋が俺の父親をいい風に言わなかったのもあって、父親がいる生活っていうのに憧れた覚えがないんだよな。

 兄貴は兄貴でそういう複雑なとこに対しての思いっていうのが当然あっただろうけど、大澤様の血を引いてることは学校とか近所では公然の秘密ってとこでさ。優秀で性格もいいしほんと人気者だったんだ、俺はなんの取り柄もない子なりにはなも引っかけられずにいたけど。なんにしても花形っていうのがいるだろ、駆けっこで一等になったり絵とか習字とかで賞を貰ったりさ。兄貴は歌の花形、だったんだ。学校で合唱することがあれば背が高いのに一番前に出て歌うし、あと村の祭りの時はいつも、やぐらに上がって民謡なんか歌ってたんだ。大澤様はそれを見て「うちの子になってれば、あんげ見世物になんかしねえてがんに」って嘆いてたらしいな。それでも兄貴は好きでやってたんだし、みんなも喜んで聞いてたんだからさ。

 まあ中学になったら恥ずかしがってそういう場に出ることも減ったけど、それでももててしょうがなかったんだ。俺がお宮の境内にいると兄貴の同級生の子が来て「悌ちゃん、お兄ちゃんこと呼んできてくれね」なんて言って、俺に飴玉握らせたりさ。

 そうしてるうちに中学三年になって、進路を考える時期に兄貴もなっていく訳だけどさ。その時に改めて、大澤様が養子縁組の話をしてきたんだ。大学まで出してやって仕事も世話して、大澤家の次の当主になってもらうつもりだったんだろう。残ったお袋と俺にも相応のことをしてやる、って言ってたらしいな。

 お袋は「晋輔こと取られてしまう」って大騒ぎしたし、兄貴は兄貴で大澤様にきっぱり言ったんだ、「自分の家族いうのは、母ちゃんと悌市のことだと思うてる。だすけ長男の俺が二人を支えていく道を考えんばねえんだ、高校にも行かねたっていい」ってさ。お袋はそれを聞いた時は兄貴を頼もしく思った一方で、将来を考えれば大澤様にってしまったほうがいいのかもしれないと思って相当悩んだし、もう松谷になんかいられない、って覚悟もしたみたいだな。それでも大澤様は俺達を追い出すようなこともしなかったし、まあそれまでどおり中途半端に、さ。

 それから兄貴は、担任の先生に相談して東京で就職する話をとりつけてきたんだ。先生は「そんげ勿体もったいねえ話があるか。大澤様の家に入って高校に行けばいい」って随分説得したらしいけど、兄貴は「いっくら教え子だいうても、人の家のことだ」って言い返したんだってさ。それで兄貴は中学を卒業してすぐ、東京に出て羽田にあった工場に就職したんだ。

 兄貴にしてみればさ。自分の父親、大澤様という人は大黒柱としてどうかって考えれば、反面教師もいいとこだったんじゃないのかな、と思うんだ。ほんとのこと言うと、大澤様はお袋をちゃんと迎えるつもりでいたんだ、俺みたいな余計な奴がいてもさ。うちのお袋なんてほんの水呑み百姓の娘だし、なんたって芸妓だった訳だけどさ。それでも自分の子を産んでくれたんだし、大澤様の嫁さん、この辺では様って呼び方するんだけどさ、あね様に比べれば人間味があるだけまだまし、ってとこだったのかな。

 あね様っていう人は新潟市内の本署通ほんしょどおりなんていう金持ちしか住まないようなとこから嫁に来た人だから、こんな山奥になんか馴染めなかったんだ。もっとも本人も馴染む気なんか毛ほどもなくて、みんなを馬鹿にして木で鼻を括ったような顔してさ。まだ跡継ぎってものが大事な時代だったし地元の名士なんだから尚更なのに、子供も産まないで威張るのだけは一丁前でさ。「あんげの、実家に帰してしまえばいいてがんに」とか言う人は少なくなかったし、お袋の肩を持つようなことを言ってくれる人も、いたことはいたんだ。

 一方で、大澤様がすぐ金出すもんだから俺達を金食い虫呼ばわりする奴もいてさ、お袋にしてみれば自分で働いてなるべく頼らないようにしてたんだし、何より「金じゃねえんだ」ってとこだったのにさ。でもそういう奴が面白半分だかなんだか、あね様の肩を持って喧嘩の種をまいてみたりさ。そういう場面も、まあ何度かは、な。

 兄貴が生まれた時に養子にするって言ったのは大澤様のあね様のほうで、子供を取り上げて女一人どっかに行ってもらえばいい、っていう腹でいたんだ。それを大澤様は「松谷に二人でいさせればいい、金をちっとぐらい出してやるのは大目に見てくれ」って言ってさ。大澤様のほうはそのうちあね様に出て行ってもらうつもりでいたんだけどなかなかそうならなくて、それでたまにお袋に優しい顔してやってずーっと、さ。

 お袋だって「蛇の生殺しよかまだわーりわ、あんげ人にいつまでも関わってたってどうなろうば」と思ってただろう。だから俺の父親とつき合ったりしてみたけど駄目になったし、やっぱりほんの少しの望みってのも捨てきれずにさ。兄貴はそういうとこを見て子供なりに考えて、あんな奴に甘えるくらいなら俺が二人を養ってやるんだ、あんな意気地のない男になってたまるか、俺はいっぱしの家長になってやる、て思ってたんだな、きっと。


 兄貴が上京した翌年の春、俺が小学校六年になる前の春先だったな。それまでも兄貴は月末には必ず手紙を寄越してくれてたし、俺達のほうでも煙草屋で電話を借りて就職先の寮にかけてみて、お互いの声聞いて喜んだりしてたんだ。

 三学期が終わる頃に届いた手紙をお袋と二人で読んだ時は、ほんとにびっくりしたな。「三月いっぱいで羽田の工場を辞めて、作曲家の柴田しばた康誠こうせい先生んとこに弟子入りする」なんて書いてあったんだもん。どういうことなのか、と思ったけど、まさかこれから辞めるとこに電話かけて本人を呼び出してくださいなんて言えないだろ、またこんど向こうから連絡が来るのを待つしかないのかな、なんてお袋と二人で気を揉んでたら、煙草屋の清造せいぞうさんがうちに来てさ。「晋輔からたった今電話があった、十分後にまたかける言うったすけよ来てくれ」って言うもんだから、もう夜遅かったけど慌てて煙草屋まで行ったんだ。店に着いたら煙草屋のばあちゃんが先に電話に出て、兄貴と喋ってるとこでさ。

 兄貴は、最初からそういう道に進むつもりで東京に出た、ってこの時初めて打ち明けてくれたんだ。仕事の口を世話してくれた中学の先生にも羽田の工場にも悪いけど、中学三年の時からずーっとそういうつもりで行動してたんだ、ってさ。中学入ってから歌は飽きたのかと思ってたけど、なに、よほど真面目に考えてたんだな。

 東京に出た翌月くらいから、半日で終わる土曜の夜とか平日でも残業にならない日に、盛り場に行って流しの真似事をしてたんだ。地元だと顔を知った奴に見られたら大変だから、そこら中から人が集まる新宿まで行ってさ。そういう所なら知り合いに見られても「似てたんだろうけど別人だ」って逃げられるし、出会える仲間の質も違うだろうしさ。そうやって新宿で歌いながら、柴田先生に弟子入りを直訴するような手紙を書いて送ってたんだ。その後、先生は一回会って諦めさせるつもりだったのかなんだか知らないけど、「自宅に来い、歌を聞いてやる」って返事をくれたんだ。

 兄貴は喜んで飛んでいって一曲披露して、「郷里はどこなんだ」て訊かれて「新潟です」って答えて。先生の奥さんが新潟の人だったから、「まず人柄は間違いないだろうし声もなかなかいい、顔立ちも綺麗だ。ちょっと鍛えてみるか」っていう話になったんだ。それが秋口で、先生が「工場にはせめて一年勤めてこい、それから内弟子の期限は三年だ。三年経ってどうにもならなかったら、また別の道を考えろ」って言い渡してさ。

 兄貴は残り半年をきっちり勤め上げて、流しに出る代わりに世田谷の先生の家に週一回稽古に通わせてもらうようになったんだ。工場を辞める時はもめることもなかったんだってさ、会社の人間が飯に誘おうかとすればすぐいなくなる、みんなと仲よくする気がないみたいだし長続きしないだろう、っていうレッテルを貼られてたし、そんな夢があって東京に出てきた奴だった、ってことが分かれば尚更だろう。同時に中学の先生に詫び状を書いて出したんだけど、返事は来なかったらしいな。

 ほんのとんとん拍子で、憧れの歌手になるべく柴田先生の家に住み込んで修行を始めたんだけどさ。半年間稽古に通ってる間に歌はちょっとずつ上手くなっていったし身の上話なんかもする機会があって、先生のほうで兄貴にぞっこんになってたんだ。将来性も人柄も、正式に入門した時点で太鼓判、ってとこだったらしいな。

 それでもまだ十七の誕生日も来てなかったし、社会勉強も含めて修行が必要だ、大事に育ててやらなきゃ、ってことでそれまでの内弟子同様雑用から何から任せて、ってとこからのスタートだったんだ。初めて会った時の三年という修行年限も立ち消えみたいになって、デビューしてもしなくても自分の元に置いて手伝ってもらうつもりでいた、って先生が後から俺に教えてくれたんだ。

 入門から二年後、兄貴に後輩ができたんだ。入門した時の兄貴と同じ中卒で十六歳、誕生日が来れば十七になるのも同じでさ。兄弟子が先生の家を出たばっかりで部屋が一つ空いてたから、そいつは兄貴が使わせてもらってた部屋の隣で寝起きするようになったんだ。

 兄貴の身の上というのもあったけど、そいつもそいつでさ。もの心ついた時には施設にいて八つの時に埼玉かどっかの農家に養子に入ったけど、あんまり可愛がってもらえなかった。それで中学を出たらすぐ飛び出して食うや食わずで生きてきた、と。施設に預けられた時に持ってた紙切れに名前と生年月日が書いてあっただけでそれ以外は一切分からない、って言ってたんだってさ。兄貴の身の上を聞かされたら自分のほうがよほど苦労したような言い方して、それこそ不幸自慢みたいにして喋ってたらしいな。

 兄貴は先輩としてそいつに先生の家でやることとかいろいろ教えてやる一方で、一緒に先生のピアノの前に立って稽古つけてもらうようになった訳だけど。なるほど歌はなかなかのもんだ、音感がとにかくいいし声もよく通る。それでもちょっと生意気なとこがあるし掃除なんか頼んでもいい加減にやって、注意すれば「佐久間さくまさんが言ったとおりにやりました」なんて口答えしたりさ。俺とたまに電話で話す時も「ひっで野郎が入ってきた」って愚痴こぼしたりしてたんだ。それで「お前は、周りにそんげもんがいたとしても真似すんなや。目上の人が言うことは、よっぽどおかしいと思わねえ限りはなんでも素直に聞いて、最善を尽くすようにせえ」って諭してくれたもんだよ。

 そいつは先生の前ではいい顔してゴマすったりして、稽古の時ばっかり張り切ってぼろを出さないように振る舞ってたみたいだけどさ。なに、そいつの本性なんて先生だって先刻お見通し、だったんだ。それで「耳と喉だけでやってる奴の歌はなあ」なんてちょこっと言ってみては考えるように促したりはしてたんだ、自分で気づいてほしいと思ってたのかなんなのかちゃんと言わずにいたし、住み込みの弟子も兄貴達二人だけだったから、そいつにガツンと言える奴がいなかったんだな。

 それでもそいつはちっとも変わらなくて、歌も歌以外のとこでも、うわつらだけでなんでも済ませようとして誠実さなんかかけらもないんだ。そのうち、先生のほうでもいつまでも仏様みたいにしてても仕方ないと思ったんだろう、だんだんそいつに厳しく言うようになっていったんだ。

 ある時、先生が「お前の歌には心がない。晋輔の声を聞いてみろ、こういう奴の歌を聞きたいとみんな思うんだ」ってはっきり言ってやったんだ。そしたらその夜、そいつが兄貴に突っかかっていってぶん殴ったんだ、今の言葉でいう逆ギレだよな。先生が言うことを糧にして成長していく気もないのに対抗心だけは一丁前で、挙句に切磋琢磨していくべき相手に手を挙げちまった。

 これでようやく兄貴も闘争心ってやつを前面に出すようになったし、先生もそいつみたいな野郎をいつまでも飼ってられない、と思ったんだな。二人で、兄貴が正式にデビューしてそいつに一泡吹かせてやる、っていうのを目標にしゃかりきになって稽古したりしてたんだけど、例の野郎は考えを改めたふりして真面目くさって自主稽古やってみたりその辺ジョギングしたり、しなくてもいいようなアピールをし始めてさ。

 先生にしてみれば、兄貴をデビューさせるってあからさまに事を進めるとこを見せてれば嫌になってやめてくれるだろう、って考えがあったんだろうけど、そうやって食い下がってくるもんだからさ。もう少し稽古を重ねて、弟子入りからちょうど三年になる頃にデビューさせることを本人に伝える、という段取りを考えてたんだけど、それを前倒ししたんだ。兄貴が二十歳、俺が十五になる年の正月が明けて、大雪の頃に俺達は電話で聞かされてさ。東京での例の野郎との戦いがどんなものだったかということはおぼろげにしか聞いてなかったし、その時は俺もお袋も涙流して喜んだよ。

 まずは所属事務所を世話してもらって、レコーディングも済ませてジャケットの写真撮ってみたりさ。兄貴のほうはにわかに忙しくなって、それでも充実してただろうけど、それを例の野郎はどんな気持ちで見てたのか、さ。

 デビューのひと月前、雪がやっと解けた頃に兄貴は先生夫婦と三人で松谷に帰ってきて、翠松館に泊まったんだ。その時は俺もお袋も一緒にご馳走食わしてもらって、いろんな話をして。それで奥さんが新潟の人だろう、やっぱり兄貴にはその分目をかけてくれてたのがよく分かって、お袋がほんとに有難がっててさ。

 こんど、先生が俺に「君は今年中学三年になるそうだけど、卒業後はどうするか考えているのか」って訊いたんだけどさ。俺は、兄貴みたいな賢い人間が中卒なのに俺みたいな馬鹿が高校なんか行ってられないな、と思ってたからそのとおりに答えたら先生、「あはは」なんて笑っちゃってさ。「中学を出たらお母さんと一緒に東京に来て、三人で住めばいい。高校に行ったっていいし、働きたいなら何か紹介してやろう。晋輔君ともそういう話をしていた、君が中学を出る頃には一つ屋根の下で暮らせるだろう」って言ってくれたんだ。

 これで、兄貴はいっぱしの家長になれる訳だ。大澤様には金輪際頼らないで済むし、何よりあの意気地のない父親ができなかったことを二十歳の若さでやろうとしてたんだもんな。やっぱり舞い上がったっていうのはあっただろ、一時いっときではあれ松谷の人間みんな「おめでとう」ってちやほやしてくれたし、新聞まで取材に来たんだから。大澤様は兄貴が帰ってきたと聞いて夫婦で雲隠れしてたけど、ほんとになに考えてたのか、な。

 それで兄貴は翠松館に三泊して、先生夫婦と東京に帰ったんだけどさ。駅で見送ったのが、最後だったんだな。


 先生夫婦と兄貴が世田谷の家に帰ったら、例の野郎が玄関で待ってて「先生、これは何でしょう」って週刊誌を出したんだって。そいつが開いたページには「大物作曲家 間男を歌手デビューさせる」なんて見出しがでかでかと書いてあってさ。要は、柴田康誠は自分の奥さんを寝取った若い弟子を可愛がってデビューまでさせようとしている、その陰で相当の実力がありながら冷遇され泣いているもう一人の弟子がいる。柴田のようなお人好しの馬鹿がいるか、みたいなことが延々と書かれてたんだ。

 なに、こんなのはこの野郎がマスコミにあることないこと言って書かせただけでさ。その場ですぐばれて、こんどはそいつが先生に殴られる番だったけど、問題はこの週刊誌だ。

 先生と兄貴がデビューだなんだって一生懸命になってる間にそいつはゴシップ誌の記者に接触して、「ちょうど東京を留守にする時があるから、その週に載せてください」って頼んでおいたんだ。発売日までどんぴしゃでさ、新潟は東京より雑誌が二日くらい遅く出るだろう、東京では先生らが帰ってくる前日、新潟では兄貴が帰った翌日に本屋に並んだからそれぞれでとんでもない騒ぎになったんだ。まさかそこまで計算してた訳でもないだろうけどさ。

 先生の家に押しかけてきたマスコミには先生が直接「あれは全てもう一人の弟子がでっち上げたことだ」って申し開きをしたんだけどさ、松谷にもちょっとだけ東京から来たんだよ、そういうのが。それで小遣い稼ぎのつもりで「あれは芸妓の子で」なんて余計なことを言った人がいて、そこからまた記者が憶測で記事を書いてさ。

 俺とお袋は兄貴がデビューするって喜んでただけでなんの事情も分からないし、家に閉じこもってるしかないとこだったけど、ぶどうやの先代、幹夫ちゃんのお父さんが声をかけてくれてさ。お袋は騒ぎが収まるまで宿泊客のふりして宿に紛れこんでたし、俺は幹夫ちゃんの部屋でしばらく寝起きしてたんだ。お陰で俺もお袋もマスコミに鉢合わせしないで済んだけど、俺はその間、学校にも行けなかったんだ。

 大澤様はその時も、例によって雲隠れを決めこんでさ。マスコミに余計なことを言った人が兄貴の父親が誰なのかとか、そんなことを言わなかったのはの幸いだけど、逆に見ればそうやって大澤様を矢面に立たせなかった、ってことだな。ああいう家だから地元の人にそうやって守られて、ただそれだけの人だったよ。祝ってくれとか匿ってくれとかなんで逃げるんだとか、そういう話じゃないんだ。おめでとうとか大変だなとか、そういう気持ちを出すことができない人なんだな、よっぽどあね様に気を遣ってるんだな、みたいなことをちょこっと思っただけでさ。

 東京ではその日のうちに例の野郎を破門にして叩き出したけど、兄貴の所属事務所から「デビューは見合わせたほうがいいんじゃないか」って言ってきたんだ。先生もそれがいいと思って、早速兄貴に「今回のようなことがあった時に無理にデビューすると、印象が悪くなって後々まで影響が出る。お前は何も悪いことをしていないんだから必ずもう一度チャンスをやる、一年我慢しろ」って言い含めたんだけどさ。兄貴はぼーっとして、聞いたか聞いてないか分からないような生返事だった、って。

 先生は、一日二日経てば兄貴もいくらか元気になるだろうと思いながら様子を見ていたけどろくに喋りもしないし、話しかけてみてもやっぱり聞いてるのかどうか分からないような調子でさ。ずーっと部屋に引きこもって飯もろくに食わないし、毎日ほとんど寝て過ごすようになっていったんだって。

 ある時、一回だけさ。先生も奥さんも呼んでないのに自分から居間に出てきて、いきなり「先生、電話貸してくんなせえ」って言った、って。新潟弁なんかとっくに直して、普段先生と喋る時は絶対なまらないようにしてたのに、その時だけはさ。先生は兄貴がなに言ってるのか分からなかったけど、奥さんが「誰にかけるの」って訊いたら「お父っつぁまにかける」って。騒ぎが収まるまでは下手に誰かに接触しないほうがいいと先生は思ってたし、電話をかけるっていう相手も相手だろう。様子も普通じゃなかったから、先生のほうで「本調子になるまでゆっくりすればいい」って部屋に連れてってくれたんだ。

 なんで大澤様に電話しようと思ったのか、っていうのもあるけどさ。ほんと、一人で部屋にいてどんなことを思ってたのかな。悔しかっただろうし現実を受け止めきれなかっただろうし、怒りもあっただろうし今まで何だったのかとも思っただろうし、チャンスなんていっても結局あれっきりになるような気もしただろうしさ。

 それとも、松谷には戻れない、ってまず思ったのかな。あんなに喜んでもらったのに、後輩に足元すくわれて駄目になりましたなんてそれこそいいつらの皮だし、地元にもマスコミが行って騒ぎになっただろう、今回のことで迷惑かけたんだからしゃあしゃあと帰ってなんかいられない、どんな事情があったとしてももうあたたかく迎えてもらえるなんてことはないんだ、とも思ったかな。あとはさ、俺とお袋のこととかさ。俺達もみじめな思いしてたんじゃないか、勇んで東京に出たのにこのざまでは合わせる顔もない、とかさ。

 それとやっぱり、大澤様に対してはさ。まずあの家に縁がある人間の考え方として、大澤様の顔に泥を塗ったということを真っ先に考えなきゃいけないんだ、こういう田舎だから。大澤様自身がマスコミの標的にならなかっただけまだいいけど怒っておられるだろう、申し訳ないことをした、って。

 表向きはそういうことを一番に考えなきゃいけないけど、本当は、兄貴は大澤様に普通の親の顔を見せてほしかったんじゃないのかな、とも思うんだ。でも歌手を目指してるって打ち明けてから、音信不通みたいな扱いを受けるようになった。それでも、名を成せば受け入れてもらえるんじゃないか、っていう思いこみみたいなのもあったような気がするんだ。反面教師だと思ってたし柴田先生は兄貴にとって父親代わりのような存在だっただろうけど、それでも兄貴の父親は大澤様しかいない訳なんだからさ。

 いっそ、俺の父親みたいに顔も分からないし会う必要もない、みたいな存在だったらまだ楽だっただろうけどさ。家長になるんだ、なんて張り切ってても、そういう苦しい時にふっと本来の気持ちに戻る瞬間があったのかもしれないな、「やっぱ、お父っつぁまは俺のことなんかなんとも思ってねかったんな」って。

 俺なりにいろいろ考えたりもしたけど、まあその時の兄貴の頭ん中のことだもんな。兄貴以外の人間がいくら推測しても、もう分かることじゃないんだ。

 そうして、魂を抜かれたようになって三週間くらい経った後にさ。

 兄貴、黙って出かけたっきり夜になっても帰ってこなかったんだ。警察に届けたり大騒ぎした翌日、新宿のビルで飛び降り自殺があった、って。それで例によって煙草屋に電話がかかってきて、俺が引き取りに行ったんだ。一人でさ。

 一応、見たけどさ。その時俺、小さい頃聞いた河童かっぱの話なんか思い出してたんだ、馬鹿みたいだけどさ。「人間は河童の薬みてな妙薬なんか持ってねえんだすけ、危ねえことはやるもんでねえんぞ」って俺に教えてくれたのに、自分でこんなどうにもならないことをやってしまった、って。泣きもわめきもしなかった、怖ろしいとも汚ないとも思わなかったし。それでさ、兄貴の頭なんてもっと前から砕けてたのかもしれないな、って、後になってからそう思ったりもしたんだ。

 そのくらいのことで死ななくたっていいだろう、って、俺でなくても誰だって思うだろうな。先生が言ってくれたとおり一年くらい待ってみてもよかったんだし、その世界が嫌になったのなら帰ってきたってよかったんだ、松谷であればやり直しがきくことくらい、普段の頭に戻ればすぐ分かっただろうにさ。それでも兄貴も全部背負って東京に出て脇目もふらずに励んだ末のことだったんだから、他の世界なんか見たこともなかったし目を向けるつもりもなかったんだろう、羽田の工場には悪いけど思い出しもしなかっただろうし。昔の二十歳と今の二十歳と比べるとやっぱり昔のほうが大人だとは思うけど、なんていうか、視野っていうか余裕っていうかさ。

 兄貴は、あの時代に留学までした大澤様の頭の良さとお袋の整った顔立ちと、両方のいいとこばっかり貰って生まれてきたんだ、と思ってたんだ、俺がこんなだから尚更さ。それでも後になってから、両方の悪いとこもちゃんと貰ってたんだ、って思ったもんだよ。母親の、幸せになろうとして足掻あがきすぎてしまうとこと、父親の意気地のなさと。だからあんなことになってしまったんだ。


 搬送が大変だしお袋には見せられないからってことになって、兄貴は東京で火葬してもらって俺が連れて帰ってきたんだ、葬式も何もなしだったけど柴田先生がお坊さんを呼んでくれてさ。

 実家に帰ってきてからは、お袋が箱に白布掛けたやつをこしらえておいて「仏壇の代わりにしよう」って言うから、そこに写真と骨壺を置いて朝晩線香あげたりしてたけどさ。四十九日が近づいてきて、やっと「さあどうするか」って話になったんだ。こういう時の知識がなんにもないしほんの心ひとつで供養してた、それでもいつまでもこうしてられないだろう、ってさ。戒名もなかったんだもん。

「骨にしてもらう時、柴田先生が呼んでくれたお坊さんが『後のことは新潟の菩提寺ぼだいじにお願いせえ』言うてなさったよ」ってお袋に話したら、「うちには菩提寺いうもんがねえ、母ちゃんもどうしょかと思うったんだて」って。まさかお袋の実家に頼む訳にもいかないし、やっぱり新たに建てるのに正源寺しょうげんじさまにでも相談してみるか、ってことになったんだ。実をいうと、柴田先生が「これは俺の気持ちだ、ちゃんと供養してやってくれ」って封筒を俺に持たせてくれてたしさ。

 そんなことを話し始めた頃、大澤様がさ。一人でうちに来たんだよ。それで、なに言うかと思えば「晋輔を大澤家の墓に入れてやりたい。生きてるうちは何もしてやらんねかった、せめてそうさしてくれ」だって。

 お袋はそれを聞いて正気を失ったみたいになって、「それもあね様の入れ知恵らかね。骨でかったら、なじょうも持ってけばいいわ」って怒鳴って、骨壺の中身を畳の上にばら撒いてさ。「足の骨がいいかね、ほらあばらが出てきたわ」なんてことを、ものすごい声でさ。俺、「兄貴が切ながるすけ、やめてくれ」ってお袋をぶん殴って、中身を全部元に戻してさ。大澤様は「ちっと考えてくんねか」って俺に言い残して、すぐ帰ったんだ。

 まあ、大澤様の気持ちは俺も分かったんだ。あね様の入れ知恵じゃないことくらい顔に書いてあったし、兄貴が生きてるうちにあの人が俺達にしてくれたことは大した意味もなかったんだ、っていうことにやっと気づいたのかな、なんてぼんやり思ったしさ。お袋も同じように思ったのかもしれないけど、それでもやっぱり、大澤様がうちに対してもっと思い切ってれば兄貴が意地になって東京に行くこともなかった、まともにできるのは供養だけなのか、っていうのが悲しかったんだろ。

 その後、先代の方丈様に仲立ちしてもらって「分骨にするか」ってことで話がまとまってさ。それで今俺がいる家の墓に兄貴も入れてもらったんだ、柴田先生が俺を駅まで送ってくれた時に「晋輔の父親には何もさせるな、それが一番効くだろうから」なんて言ってたんだけど、さすがにそういう訳にもいかなかったな。俺達のほうでも先生が持たせてくれた分でやっと戒名をつけてもらって、仏壇を買ったりそれらしいことがしてやれるようになったんだけどさ。

 中学三年の時は、そんな騒ぎがあったことくらいしか覚えてないんだ。秋の彼岸前、柴田先生に「お陰さまで仏壇を買わせていただきました、分骨にしたので少しだけお骨を置いてあります」って手紙を出して報告したら、一回だけうちに来てお参りしてくれたりさ。その頃は柴田先生も表舞台に出ないようにしてたんだ、やっぱり騒ぎの後だったし、俺がこんな言い方するのもあれだけど手塩にかけた弟子があんな風になってしまった訳だから、かなり参ったような顔してたな。

 後で考えてみて面白いなって思ったんだけど、俺、この時だけはいっぱしの家長として振る舞ってたんだよな。兄貴を一人で迎えに行ったし、墓のことを大澤様と話したのも俺だったしさ。まあ柴田先生や方丈様に助けてもらって、やっとできたことだけどさ。それで、俺がこんなにしっかりしてたのは、ほんとにこの時だけだったんだ。


 中学を卒業してから、俺とお袋は柴田先生の伝手つてで東京に出ることにしたんだ。兄貴が里帰りした時に柴田先生と翠松館で話したことなんて全部反古ほごになった訳だけど、「やっぱり心配だ、少しお節介させてくれ」って言ってくれたからさ。それで俺は先生の親戚が綾瀬で印刷会社をやってたからそこを紹介してもらって、お袋は八重洲のデパートの食堂で働き始めたんだ。

 報告がてら大澤様の家に行って「兄貴の供養だけ頼む」って挨拶したら、また馬鹿みたいに手切れ金だかなんだか握らせようとしたけど、俺、そんなもん出してきた時点で「失礼します」って帰ってきたんだ。最後までそういう人だったな。その後何年も経たないうちにあね様が実家に帰ったもんだから、大澤様からお袋に手紙が来て、なんてことが何度かあったんだけどさ。そんな手紙、お袋は全部捨ててたんだ。

「兄貴の法事をやる」とかいう葉書をくれたこともあったけど、そういう時は俺が「そっちはそっちで頼む、うちは身の丈に合った形でやるから」って返事出してさ。そのうちそんな手紙も来なくなって、あの人は俺が東京で事故に遭った頃に亡くなったけど、そんな話、俺が帰ってくるのに本家から連絡貰うまで全然知らなかったしさ。

 柴田先生には仕事も住むとこも何から何まで面倒見てもらってほんとに申し訳なかったけど、たまに「うちに遊びに来い」って誘ってくれることがあってさ。何回か行ったけど、ほんと先生も先生で兄貴の思い出話しかしないんだ。兄貴より出来のいいお弟子さんなんて掃いて捨てるほどいただろうけど、やっぱり最期があんなだったからトラウマになってたんだろうな、いくら吐き出してもまだ足りなかったのかな。俺も子供の頃の話とか、少しはしたけどさ。

 それで、帰り道さ。世田谷と綾瀬だから東京の端と端だろう、新宿はどうしても通らなきゃ帰れない訳だ。兄貴が東京でどんな様子だったか、なんて話を聞いた後に新宿を通るのが嫌で嫌でどうしようもなくてさ、家に呼んでくれるのはいいけど帰りのことを考えると億劫おっくうになって、誘われても嘘ついて断ったこともあったんだ。

 今なら地下鉄と直通運転になって途中から地下に潜る路線もあるけど、まだそんなのなかったもんな。兄貴が落ちたビルがどこだったかとか、あの時警察から聞かされても俺はよく分からなかったから、新宿のビル群なんて見てれば全部が全部兄貴の死に場所だったみたいに思えてきてさ。それでまた、兄貴が流しの真似事を始めた場所でもあっただろう。ここで始まってここで終わったんだ、そんな場所の風を浴びるのも嫌だ、と思ってたもん。

 ある時さ。電車の窓から外を見てて、新宿の手前まで来てビルが見えてきたら、なんだか落ち着かないような気分になって叫びそうになってさ。ちょっと降りたほうがいいのかもしれないけど、こんなとこのホームなんか踏む訳にいかない、ってちょっと頑張ってみたんだけどさ。でも車掌の「間もなく新宿」なんて声聞いたら息が苦しくなってきて「俺、死ぬんじゃねえか」って。

 結局降りたんだけど、それから何分だか分からないけど記憶が全然ないんだ。気がついたら駅員さんの詰所で横になってて、「迷惑かけました」って謝って部屋を出ようとしたら、足がすくんでその場にへたり込んじゃってさ。そしたら駅員さんがホームまでついてきて、俺が電車に乗るまで見てくれてたんだ。

 そんなことが何度もあったから駅員さんに顔を覚えられちゃって、「君、ちゃんと食べてるのか」「食べてるんですけど。貧血なんですかねえ」なんて喋ってみたりさ。そうやって迷惑かけてたから、先生の家から帰ってくる時は駅前の広場で時間をつぶして真っ暗になるまで待ってみたり、調べてみたら渋谷経由で帰れるっていうのが分かって、わざと遠回りしてかなり夜遅くなってから家に着いたりさ。

 そういうことがありつつも、先生が紹介してくれた会社で仕事を一から教えてもらいながら働いてたんだけどさ。先生には悪いけど、仕事というか大人になって働くっていうのはつまんないもんだな、みたいなことを思いながら働いてたんだ。兄貴が勉強をみてくれたお陰で漢字だけはよく分かるだろう、仕事自体での苦労らしい苦労はなかったけど、なんかさ。「あんな奴は縁故入社だから」とか言う人もいたし、田舎者だっていうだけで馬鹿にしてかかる奴もいたしさ。

 そこで何くそと思わなきゃ駄目なんだろうけど、なんでだか分からないけど、そんな力が湧いてこなかったんだ。かといって自分が本当にやりたいことだとかなんとか言う時代でもなかったし、辞めたらそれこそ先生に悪いしさ。だから、ただだらだらと、与えられたことを黙々と、っていうだけでさ。それで尚更「縁故入社は駄目だ」とか言われて。そんな感じで、毎日やり過ごしてたんだ。

 職場ではそんな調子で親しい仲間もできなかったし、先生に呼ばれて行くのもあれだったしさ。楽しいことなんかひとつもなかったけど、ずーっと考えて執着してたことが、とりあえずあったんだ。

 柴田先生から聞かされた話の中で、倉本くらもと清治せいじっていう名前は分かってたんだ。その後、先生のとこに反省したような手紙を送ってきて「どこそこの店に勤めてます、お暇でしたら是非いらしてください」なんて書いてたんだ。先生は「反省したなんて嘘だ。あわよくばまた弟子入りしよう、という腹なんだろう」って怒ってたけど、俺は俺で、先生が見せてくれた手紙に書いてあった店の名前を覚えちゃってさ。

 悪いもん見たなあ、とは思ったけどどうしても頭から離れなくなって、休みの時に倉本が勤めてる上野の店に行ってみたりしてさ。キャバレーだったんだ、そこでボーイやっててさ。ああいう昔の店って小さい舞台があって芸人の卵が出てきてコントとかやったんだ、自分も歌を披露するチャンスを貰えると思ったんだろう。中学を出たばっかりの俺が客として行けるような店でなんかないし、裏口からゴミ出しか何かやってるとこを見ただけで帰ってきたんだけどさ。

 倉本は俺のことなんか知らなかっただろうし、俺のほうでもそれっきり野郎にはなんの用事もないはずなんだけどさ。ゴミ出ししてる時のどうでもいいような横顔を思い出すたんびに「掃除でもなんでもにやって、どうしょもねえ野郎だ」って兄貴が怒ってたのも一緒に思い出すようになったんだ。あと、俺が新宿の警察に兄貴を迎えに行ったのも、膝に骨壺を載せて帰ってきたのも、墓のことでお袋と大澤様がもめたのも、全部さ。

 それから「兄貴が死んじまったのに、なんであんなのが生きてるんだろう」ってことしか考えられなくなってさ。「倉本を見つけた」ってお袋に話せればまだ楽だったのかもしれないけど、そんなことを言ったらまたどうなるか分からないだろう。それ以前に人を憎んでるようなことを口に出すこと自体、なんだか怖ろしいような気がしたしさ。

 誰より柴田先生が助けてくれたし、ぶどうやの先代とかお寺の方丈様とかそれこそ煙草屋の爺ちゃんまでいろんな人がを差し伸べてくれただろう、俺みたいな奴も全くの孤独ではなかったんだ。それでもこういう気持ちだけは誰にも言えないし言うもんじゃない、と思いながらずーっと過ごしてた、こんなことでお袋と結託するのも怖かった。俺と同じ気持ちでいたことくらい分かってたから、尚更さ。

 何回も行ったんだ、上野の店の裏口にさ。お袋には「今日、多分残業になるわ」って嘘ついて。ただ倉本が店から出てくるまで待ってて、顔を見て帰るだけだったけど。その時の気持ちというか何しに行ってたのか、っていうのはちゃんと説明できないし、その頃の俺がここにいたとして「何しに行ってたんだ」って訊いてみたとしても、納得できる答えなんか返ってこないだろうな。ただ野郎の顔を見て、さっき言ったような人には言えない感情、ってやつがさ。

 そのうち俺、とうとう店に行く前に金物屋に寄って包丁を買って、鞄の中に入れてさ。しばらくは鞄に入れっぱなしにしてたけど、十七の秋だったな。「せっかく買ったのに、勿体ねえだろ」なんて思った時があってさ、鞄から出して手に持ってみたんだ。それで、倉本が裏口から出てくるのを何時間も待ってたんだけど夜中過ぎても出てこなかったんだ、休みだったんだな。もう終電もないし寒かったし、あと腹が空いてどうしようもなくてさ。「あーあ、今夜は野宿するしかねえな」と思ったら、なんだか笑えてきてさ。

 あの野郎はほんと大したもんだ、ゴミ出しでも客引きでもなんでもやって生きようとしてるじゃないか。どうせ客引きをやってる時の笑顔なんか作り笑いだろうし、また人に悪さして自分がいい思いしようと考えてるかもしれない。それでも生きてるんだ、自分の力だけで。俺とお袋は、兄貴におんぶに抱っこで生きていける、そんななめた考え方してたから罰が当たったんだな。だから兄貴を連れて行かれたんだ。

 俺と全く同じような境遇で育って、十五で同じ思いした奴がいたとして、さ。中には、俺がその晩やろうとしたことを実行するまで諦められない奴もいるかもしれないな。でも俺はさ、その時「へぇいいわ、しょうがんねえ」っていう言葉が頭に浮かんできたんだ。倉本を恨んでも大澤様を恨んでもどうにもならない、誰かを恨むこと自体お門違いなのかもしれない。まず兄貴は帰ってこれない場所に行ってしまったんだし、一番悔しいはずなのに怒ることすらできない。俺自身とかお袋のことを考えれば何かを失ったとか奪われたとか言って騒ぐこともおかしいのかもしれない、俺らは何か失ったなんていうのにもあたらないのかな、なんてさ。上手く説明できないけど。

 それでさ、「へぇいいわ。今のこういう状態から歩いていくしかねえんだ、まだ十七らねっか」なんて、切ないような前向きなような、ほんとなんともいえないような気分になってさ。それから、人に見られないように包丁をどぶ川に捨ててから駅前で野宿して、始発で綾瀬に帰ったんだけどさ。

 それっきり上野の店に行くのをやめて、印刷会社で相かわらずだらだら過ごしてさ。十九までまる四年勤めて辞めさせてもらってそれまで住んでた部屋も出たんだ、二十歳まで柴田先生に世話になってるのがなんだか怖ろしいような気がしてたからさ。その頃には先生はもう立ち直ってたけど、内弟子はとらないことにしてたんだよな。

 それから他の印刷会社に入って働いてるうちにだらだらの癖はようやく直ったけど、やっぱり兄貴を完全に忘れられる訳なんかないしさ。俺が三十になる前にお袋が死んだんだけど、それでどうでもよくなった時期もあったよ。天涯孤独になって稼ぐ理由もなくなったような気がしたもんだけど、自分が食っていくのに働き続けるしかないからな。それで常にというかなんとなくというか、胸の底に兄貴のことと、こっちにいた頃のこととさ。こんな奴のとこに嫁さんが来る訳もないしずっと独りでいたんだ、まあ新しい職場で仲間もできたし行きつけの飲み屋もあったし、それなりに楽しくやってたけどさ。

 悪いけど、あんたのお父さんのことはずっと気にかかってはいたんだ。キャバレーに様子を見に行くのをやめてから何年も空白はあったけど、事業が大当たりしたしテレビにも出るようになっただろう。久々に倉本清治っていう名前を見て、その時もやっぱり大したもんだ、って思ったんだ。

 今、勝ち組負け組、なんて言葉があるけどさ。あんたのお父さんは正真正銘の勝ち組だろうな。まあ柴田先生みたいなお人好しでも大成する人はするけど、先生みたいな人のほうが多いのか少ないのか、そんなことは俺には分からないよ。それでもさ、何か壊してでもぶっ潰してでも上にのし上がっていこうとする、何がなんでも勝つんだ、と思える奴、そうやってなんでも行動していける奴。そういう奴がいい思いするようにできてる、っていうのは絶対あるだろうな。それが現実だとか、そういう人間が世の中回してるんだとか、考えると切ないし悔しいもんだけどな。でもさ、俺がそんな風に生きたいかっていえば決してそうではないし、まず才覚がないもんな。悪いことするにしたって、知恵も度胸も必要だろ。

 こないだイベントに来て久々に顔を見た時は「こん畜生」っていう思いが蘇ってきて、嫌な態度をとっちゃったし今の話の中でもひどい言い方したけど、まあ勘弁してくれ。ほんと、あの人と俺達との間に何があったかとか、あんたがあの人の娘だとかなんとか、少なくとも今の俺にはどうでもいい話なんだ。あんたが松谷温泉の人間になりたいのならなればいいし、却って賑やかになっていいだろうしさ。俺も今までどおりでいるから、心配するなよ。


 私は、悌市さんが語り終えた瞬間に席を立ってお店のドアへと走り出した。話を聞いている途中にも何度かそんな衝動に駆られたことはあった、でもずっと我慢して聞いていた。父の本当の姿、出自もなにもひっくるめての話だったし、聞かなければいけないだろうと思い同時に聞きたい、と欲していた。それでも、悌市さんの「俺も今までどおりでいる」という言葉、その優しさに打ち砕かれたようになって、消えてしまおう、とその時こそ思った。そして二度と、松谷には足を踏み入れないつもりだった。

「待って。ちっと待って」

 私の肩に手をかけたのは、正嗣まさつぐさんだった。和宏かずひろさんも来て、私をもう一度席に座るよう促した。

「だっけさ、最初に言ったろう。奈央なおやんが悪いことなんかひとつもねえ、気に病むことでなんかねえんだて」

「気に病むでしょ、普通。康祐こうすけさんが私を辞めさせようとするのも当たり前だし、TATSUMIタツミさんだって思ったでしょ、『俺、そんな奴泊めたんだ』って。そう思うのが普通だよ」

「奈央やん、いいっけちっと座れ」

「いいっけ、落ち着いて」

「なに言ってんの。私、悌市さんを苦しめた人の娘だよ。落ち着くって何、どうやって」

 二人に引きずられるようにして席に戻った私に布佐子ふさこさんが言った。

「奈央。私達は、ずーっと『心配だな』って思いながら、悌市さんの話を聞いてた。奈央はどれだけ傷つくだろう、立ち直れなくなっちゃったらどうしよう、って。

 だって、受け入れられっこないもん。康祐がやったこととか普通だ、って奈央が思っちゃったのも、こういう言い方もおかしいけど、私は理解できる。本当にショックだって、すごく分かるから。

 でもやっぱり、奈央には松谷にいてほしいの。『今までどおりでいる』っていう悌市さんの言葉と私の気持ちも同じだよ、奈央にも今までどおりでいてほしいし。そうなるまで時間がかかったとしても、私はちゃんと待ってるつもり」

「布佐子さん、ありがとう。でもなんか」

「ま、すぐじゃなくてもいい、落ち着くのは。何日も、何週間もかかるだろう。少なくとも俺達は、倉ちゃんに松谷を去ってくれなんてことは、もう二度と言わない。彼女と同じ、俺も待つよ。

 シフトのこと、改めてお詫びします。申し訳ありませんでした」

 言葉を発した人もそうでない人も、みんな私にはとんでもなく優しかったし、布佐子さんなどはまるで幼子にやるように私の頭をなでたりした。だから尚更、涙が止まらなくなっていた。でも不思議と、少しずつ冷静さが戻ってきていた。

「悌市さんは、本当にいいの」

「『今までどおりでいる』って言っただろ」

「悌市さんにとって、私の父親ってどう考えても敵でしょ」

「あんた、公民館で宿の子に河童の話をしてやった時、最後に俺がなんて言ったか覚えてるか」

「え、何」

「正嗣に『教訓は』って言われて、無理やり考えて言っただろ。許してやればいくらかいいことがある、って。それだろう。俺なんて医者になった訳でもないけど、まあ許すっていうか全部受け入れてさ、俺なりに生きてみていろいろ考えたり分かったこともあった訳だ。それが俺に起きたいいこと、だろう。そうだそうだ、そういうことだ、って俺、話しながら思ってたんだ。あんたのお父さんが河童みたいな話になるのは申し訳ないんだけどさ」

「河童以下ですよ、改心してないかもしれないんだし」

「なに、もう何十年も前の話なんだからさ。いくらか変わっただろう。女房子供には言えなかった、っていうのが何よりの証拠じゃないのか。ほんとに改心してなかったら、俺の兄貴の話なんて武勇伝みたいにして言ってると思うけどな」

「ほんだわ、悌ちゃんの言うとおりらわ。倉ちゃん、自分のお父さんなんだすけさ。信じてやろうて」

「うーん」

「お父さんのこととか、学校のこととかいろいろあるけど。ぼちぼち、でいいろう。大丈夫、絶対なんとかなる」

 正嗣さんが私に声をかけたのを見て、和宏さんが声をあげた。

「へいへい、正ぼんに一皮むける瞬間がきたぞ」

「おおー」

 これでみんな大笑い、となった。それまでの話がドッキリか何かだったのかと思うような大爆笑、だった。

  

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