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イベントでは、宿の会からいつものメンバーが一人ずつ、
「庄屋さんは、
こんどは、いい具合に熟してた
次の日、庄屋さんは川でわざと気が抜けたような顔をして馬に水浴びさせてたんだけど、そこに案の定河童の子が来たもんだから『さあ捕まえた』って手首をつかんでやったら、そこから先がぽろっと取れちゃったんだ。不思議なもんでさ、河童っていうのは悪さしてる時に人間に手をつかまれると、そこから取れてしまうもんなんだってさ、刃物も何も使わなくても。
それで河童の子は『ぎゃー』って叫び声をあげて逃げ帰って、庄屋さんは地面に落ちたままの河童の掌を、村人に見せてやるつもりで家に持って帰ったんだ。捕まえることはできなかったけどこれでもう懲りただろうし、村人だって河童の手を見れば納得してくれるはずだ、と思ったんだな。
ところがその晩から、河童の子が庄屋さんの家まで来るようになってさ。戸口に立って『手ぇ返してくんなせえ』って、ぎゃんぎゃんぎゃんぎゃん、ものすごい声で泣きわめくんだって。ずーっと相手にしなかったんだけど、毎晩毎晩うるさくてどうしようもないし可哀想にもなったんだろうな、七日目の晩に家に上げてやって『返してやってもいいけど、取れた手なんか持って帰ってどうすんだ』って訊いてみたんだ。
そしたら河童の子は『おら
そこで庄屋さんは『それなら、金輪際村人に迷惑はかけない、と約束してくれ。それができないのなら手は返さない』って言ってみたんだ。そしたら河童の子、庄屋さんを自分の巣に連れていってさ、薬出して自分の手をくっつけるとこを見せてくれたんだって。言ってたとおり跡もなんにも残らなくて、取れたなんていうのが嘘みたいにぴったりくっついたんだ。
庄屋さんが驚いてたら、河童の子が『こんげ、悪さした
それ以来、馬が尻尾を引っぱられて暴れるなんてことも畑が荒らされることもなくなったし、こんどは河童が魚を獲って庄屋さんとか村人の家に届けてくれるようになったんだ。
その後庄屋さんは河童から教わった薬を自分で作ってみてさ、それで商売始めたんだ。今も子孫が病院やってるんだよ」
「え、その病院てどこにあるん」
「新潟市内さ。猫宮病院ていうんだ」
「猫にゃん病院」「猫にゃんにゃん病院」「違うよ、猫にゃんにゃんにゃん病院らよ」「にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃん病院」
「悌市さん、ちびっ子になんつう話してるんですか。軽くホラーじゃないですか」
「これでもちょっとアレンジしたんだ。河童の言い伝えがある病院っていうのは、嘘じゃないよ。
「新潟おそるべし、ですね」
「若水のちびっ子は大満足だけど、史也くんが『僕は騙されません』みたいな顔してる」
「ああ、俺は兄貴から聞いたのが初めてだったけどな。俺なんか子供の頃『河童の湿布』っていえば誰でも知ってたんだ、分院が
「で、教訓って」
「さあ、教訓なんか考えたこともなかったな。
ああ、兄貴が言ってたのを思い出した。『人間は河童の薬みてな妙薬なんか持ってねえんだすけ、危ねえことはやるもんでねえんぞ』って言ってたもんだな、そういえば。
それでさ、今思ったんだけどさ。悪いことした奴でも許してやればいくらかいいことがあるかもしれない、庄屋さんだって河童を許してやったおかげで薬の作り方を教わって、どんな怪我でも治せるようになったんだからさ」
これをちびっ子への言葉として悌市さんの昔話はお開きになった。でも悌市さんが話を締めた頃には、肝心のちびっ子達はちらほら来始めたお客さんに割引券を配っていた。
お昼前から徐々にお客さんが増え始めた。私達のパンもそうだし、ぶどうやの中華ちまきや
イベントが夕方で終われば、次は翌日分の仕込みが待っている。
田中さんが翌朝早く出勤して、三色パン以外の仕込みを全てやるという段取りになっていた。私は、初日と二日目の夜は惣兵衛さんのかまどに寄って、誰もいない厨房で三色パンの仕込みを一人でやった。宿は通常営業をしていて、イベントが終われば宿の会のメンバーも私同様本拠地へ戻ってお客を迎えていた。あちらは接客もあるし、私よりもっと大変だ。
二日目も前日とあまり変わらない賑わいになったが、お昼過ぎ、なんだかがちゃがちゃとうるさい女子三名が公民館を訪れた。私の同級生達、例の飲み会グループのうちの三人、だった。
「ちょ。地味」
「田舎くっさ」
「ねえ、のっぺって何なの?」
「分かんない」
「名前が超嫌なんだけど。一生食べなくてもいい」
彼女達の会話を、
「え」
「なんだね、
「や、別にいいです。お昼、食べてきたし」
「遠慮しなさんなね。味見だすけお金なんか取らねえわんね」
ミイさんは三人の前に立ちはだかってお椀と箸を突きつけ、根負けした里奈はいかにも渋々といった
「あ。なんか、おいしいんだけど」
味のよさを実感しつつも困惑を抑えきれない顔、を初めて見た。決して笑顔にはならないまま、それでも箸が止まらない。「そんなにおいしいの」と
その後三人は他の料理に興味を示すでもなく、会場内をしばらくうろついてはネガティブなことばかりを聞こえよがしに呟き続けていた。ひとりが携帯をいじり始めた、誰かにイベントの様子を知らせるつもりなのかもしれない。そして、やたら不機嫌そうな顔で会場内を歩いていた
「
入学当初は新潟の不便さや安定しない天候、何より立ち寄れるお店の少なさ、とかそういうくだらない愚痴をこぼし合って意気投合し、私が松谷でバイトを始めるまでは私が運転手になって出かけることも多かった。私にとってそういう関わりは遠い昔と思えてしまうが、彼女達にとってはついこの間まで、という感覚だろう。
彼女達の顔を見て、近況を伝えるメールを出したことを心底後悔した。読み方によっては冷たいともとれる文面、私が別人のようになったことに怒っているのが手に取るように分かった。あれっきりにしておくべき相手、だった。
「あんだけ『新潟、暇』とか言ってたのにね。超馴染んじゃってるよね。変わっちゃったねー」
「うん。楽しいから」
「あっそ。楽しいんだ。学校よりも、ってこと?」
「うん。みんないい人だし。みんな全然ぎすぎすしてないし人の観察して陰でツッコミ入れたり悪口言ったりとか絶対にしないし、超仲よしなんだよ。
なんていうんだろ、好きでもないことを仕方なくやって渋々暮らしてる、みたいな感じじゃないし。前に『普通に就職してそのうち結婚、とか全然憧れないけど、しょうがないもんね』とか言って、『どうせなら開き直って適当に就活して、受かったとこで何年か働いてさ』とかいう話、したことあるけどさ。バイト先の店長さんとか宿の人達とか、みんなそんなんじゃないの。なんていうんだろ、いろんなことをやりたいからやってるっていうか、なんかすごい充実してるんだよね。
今は私、温泉街の人達と話して企画を提案したりとか、パンの作り方を教えてもらって一種類だけだけど作るの任せてもらったりとか、すごい充実してるの。普通に学校行ってた頃、人の彼氏がどうのとか前のバイト先でどうのとか、そういう話で盛り上がったりしてたけどさ。ごめん。私、今はそういうネタいらね、みたいな感じになってる」
そんなことへの興味を失わせてくれる出会いがあった私は、すごくラッキーだ。でも彩加達三人は。そうも言ってやりたい衝動に駆られた、でも彼女達の表情がそれを阻んだ。
「ふーん」
「洗脳されてるぐらいの勢い」
「あのさ、就活とかどうすんの。ここに就職すんの」
「いやそんな。ていうか、その辺はやばいなって思ってるけど」
「親がセレブだから平気か」
「セレブじゃないし」
「いきなり若おかみ、とか」
「いきなり、温泉宿の若おかみ。だっさ」
「ちょっとさ、ごめん。何しに来たの」
「嫌味言いに来たに決まってんじゃん、私らにとっては新潟って相かわらず暇な場所だし。ていうか、言わせんな」
「奈央もねえ、昔は新潟に馴染めない私らの相手をしてくれる優しい子だったけど。今はミイラ取りがミイラっていうか、ミイラ取りが腐乱死体、みたいな」
「あははは」
「なんだや」
「ミイラ取りが腐乱死体とか、どこの国の
「出た。『こてや』」
「そんげ新潟が嫌らったら、帰ればいいろうが。お
「客にすごいこと言うんですねえ」
「ていうか、奈央の彼氏ってこの人じゃね」
「いや、指輪してるし」
「不倫とか」
「うるっせ、
彩加達が捨て台詞を吐いて会場を去ってから、ミイさんが私に「あんげ子達、絶交してしまいなせ」と耳打ちし、和宏さんはブースの周りにいたお客達に頭を下げて回った。お客の反応は「ほんに、あんげのがいるとさ」といったところで、私を気遣う言葉をかけてくれる人さえいた。
イベントに水を差す大事件としてはなんとか収まったが、学校での私はほぼ終わった、ともいえる大事件だった。イベント終了後、彩加から「別に奈央がいい人だと思って友達やってた訳じゃない。遊ぶ時に車で行けなくなるから不便だけど、別にどうでもいい」との旨書かれたメールを受け取った私は半泣き状態でバイト先に戻り、生地をこねた。閉店し奥の居住スペースに戻った布佐子さん夫婦がつけたテレビのかすかな音とかすかな話し声が聞こえてくると、尚更切なくなった。
三人が会場内をうろついている時から嫌な表情を彼女達に向けている人もいたし、「あんげの」呼ばわりする人もいた。今はどうでもいい相手とどこかで思っている反面、二年間つき合った仲間だった、という事実が変わる訳ではない。きつい性格を装って不器用さを隠している彩加などは新潟でなんとなしの孤独を感じながら過ごしてきたはずだ、そんな彼女達を私は裏切ったことにもなる。それに就活の話が出たということは、やはりそういう心配もあって来てくれた、それは絶対にある。
とか思った瞬間もあったが、全然そういうことではなかった。彩加と初めて意気投合した時、あんな派手な子が私に歩み寄ってきた時の違和感をありありと思い出し、彼女を信用していた時期もあったことに恥じ入り「こっちだって最初から分かってたけど」とキレてやりたくなるような思いもあった。でも今さら、だ。どうせ会場やメールの文面で並べ立てた嫌味のひとつひとつが本音で、彩加的には「言ってやったぜ、けっ」みたいな感じだろう。
生地をこねる手に力が入ったり手が止まったり、という状態になっている時に、奥から
「倉ちゃん。
「え」
「なんだか心配してたっていうんだけど。何かあったの」
「そっか。別にいいんじゃないの」
フロアの明かりをつけコーヒーを
「なんていうんだろ。そういう子しかいない学校なのね。
こないだ、面接に来た子がいたじゃない。幸せかどうか分からない世界に自分を押しこむために、自分を思いっきり歪めてねじ曲げて、それが正しいことだって信じこんで、っていうか信じ込むふりなのかもしれないけど。申し訳ないけど『なんて不幸な子なんだろう』って思って、それで意地悪言っちゃったの。
私は、元々そういう風にできない人だったし。変人とか言われて嫌な思いもたくさんしたけど、逆に正解だったかな、って思う、ああいう人を見ると特に。その辺は、ここにいる人もよく知ってるから」
この時に、康祐さんとのなれそめも聞かされた。二人は若い頃に「会社勤めがあまりにもつまらなくて」勢いで入ってみたアマチュア劇団で知り合ったそうだ。
「何か通じあうものを感じた、っていうか。はは」
「彼は見てのとおりの常識人だけどね。この人のまともな感覚がなかったら、とてもお店なんか始められなかった」
「へえー。運命の出会いだったんですね、だから仲いいんだ」
「それでこの人と出会って『東京を捨てるか』なんて話になって、そう決めた頃から『私は私』ってやっと思えるようになって。ああ、せいせいした、って。だからかな、今は一般企業で頑張ってる人とか頑張ろうとしてる人のことが、ちょっと苦手。お客さんにはそんなこと言ってられないけど」
「ちょっと補足するとね、『勤め人みんな嫌い』ってことではないんだ。窮屈な世界、ちょっと嫌な世界でうまいこと立ち回ってるけど本当はストレス満載、とかいう人の気持ちがちょっと分からなくて、それで苦手になっちゃったんだね。こういう自由な生活してると『窮屈じゃないですか』って訊きたくなる、みたいなね。
彼女はね、倉ちゃんがそういう大人になったら寂しい、って思ってるんだよ。どこの学校もそうだろうししょうがないことだと分かってるけど、『就活頑張りなさい、売れ残ったら大変だから』って、それしか言わないだろう。『どんな生き方が幸せだと思いますか』なんて言ったら就活しない子続出、ってなるかもしれないし。
けっこう大事なことを教えてくれない学校に不満を持ってるのに、そこに充満してる雰囲気にいつの間にか染まって思考停止しちゃってたり、あるいはあの面接に来た子みたいに狭い世界でお山の大将になれば未来が開ける、って思いこんでたり。そういうのが嫌なんだね」
「うん。もっと言えば、嫌な世界でうまいこと立ち回ってていろんな人に嫌な思いさせてるのに『自分は勝ち組だ、幸せ者だ』って思ってる人が一番嫌い。威張りたいとか自慢したいとか、そんな理由なら偉くならなくたっていいの」
「威張りたいとか自慢したいとかっていうのは、お金のこととかステータス的な面も含めて、ね」
「そう。なんぼのもんじゃい、って感じ。
でね、もうひとつ言うと。こんな変てこりんな私を受け入れてくれた松谷の人に、感謝してる。みんな、私の父がここ出身だからっていうのをすっ飛ばして受け入れてくれたんだもん。私はここにいて幸せだから、奈央にも同じように感じてほしい。ちょっと押しつけがましいかもしれないけど」
目の前にいるこの夫婦は私を気に入ってくれている、それはかなり早い段階で分かっていた。そっち側とかこっち側とかいう言葉で表現するのもおかしいかもしれないが、布佐子さんは、私に「こっち側」な何かを感じたから雇ってくれた、新しいものを提示し何かを促してくれた、ということになるのだろうか。
思いのほか濃い話になり手が止まってしまっていたが、手元にはまだ作りかけのパン生地があった。仕上げてしまわなければと俄かに焦って作業を進めたが、どうもはかどらない。そうこうしているうちに和宏さんと正嗣さんが来てしまった。
「宿、大丈夫なの?」
「大丈夫、みんないるしさ。奈央やんは大丈夫かあ」
「はい、もうちょっとでできるんで」
和宏さんはコーヒーをすすりながら布佐子さん達としばらくお喋りしていたが、私がフロアに来るのを待ちきれなくなったのか厨房に向けて大きな声で話し始めた。
「まあいいわ、手ぇ動かしながら聞いてくれや。
奈央やん、あんげのは嫉妬らぞ。あいつらが言ってたとおり、暇なんろうしさ。お前がこっちに馴染んで超忙しそうらっけ、尚更寂しくなったんろう。どうせあいつら、同じ仲間とばっか絡んで馴染む努力もしてねえんろうしさ。
学校のつき合いとか、奈央やんなりにやっぱあるんろうけどさ。
ていうか、ごめんな。お前、学校行きづらくなったな」
「それはすっごいありますけど。でもなんとなく、少なくともあの子らのことはもうどうでもいい、みたいな。
さっき、考えてたんですけど。私もそうだけどあの子達も渋々通ってたんですよ、あんなつまんない学校、って思いながら。
みんな、和宏さんが言ったとおり馬鹿学校だって分かってて、そういう馬鹿学校で目立つポジションに行こうとしたり点数稼ぎしたり張り切ってる子達も馬鹿に見えて、でもちょっと
でも、笹ピンTシャツ作った子とかへの感情はみんな同じだったんだし。ああそっか、そういう意味で仲間だった訳だし。やっぱり裏切ったことになるんですかね」
「奈央やんも根性いいなあ。ていうか、そんげつながりを大事にするのもなあ、って思うけどな。
あのさ、俺らの考えとしてはさ。単刀直入に言うぞ。
奈央やんに松谷温泉の仲間になってほしいんだ、バイトとか言わねえでさ。ほんき就活の時期らてがんにここまで関わってもらって、っていうのもあるしさ。ほんで、さっき奈央やんがあいつらに言ってたの聞いてて『ああ、やっぱ俺らが見て感じてたとおりらったんな』って思って、ものっすげ嬉しかったんだ。俺らがやってることもあながち間違いじゃねえっていうか、なんていうかさ。
だっけさ。俺なんかの口から学校をどうせえ、なんか言わんねし、同級生にあんげことやっといて言うのもおっかしんけど、その辺のことを奈央やんがどう考えてくれるかな、っていうのはあるんさ。
雇用主さん達は、どう考えてるん」
「俺達のほうは、新年度から会社化したりもう一軒ギャラリーをオープンさせたり、いろいろ予定があるし。人手がいるんだよね。ということで、若水さんとほぼ同じ」
「にゃーん」
「ほら、猫も『忙しいなるんけ頑張ってくれ』言うてるぞ。
ていうか、こういう話する役割をこいつがやってくれればなあ」
和宏さんはずっと黙っていた正嗣さんの肩をどついた。
「やってくれれば、じゃなくてやるべき、だね」
「そういんて。俺が昼間あいつらを追っ払った時とかさ、正ぼんは何やってるんか、って康祐さん見ったら思ったはずらぜ」
「俺がいたら、正嗣くんをけしかけてたね。
ああ、そういう係も必要か。世話が焼けるなあ。ねえ」
和宏さんと正嗣さんの表情を伺う康祐さんを見て、分かった。
「まあ、こういうことは当事者二人の意志が。ちょっと周りが騒ぎすぎな感もあるし」
「いやいやいや。周りが大騒ぎしんば駄目なパターンらろ、ヘタレと鈍感らよ。放っといたらなんにも起こんねぞ」
「あはは、そうかもね。うまくいくといいねえ」
「にゃーん」
やっぱり猫もそう思っている、ということか。もうなんの言葉も浮かんでこなかった、それなのに手だけが勝手に動いてくれていた。
そして、イベント最終日。
前日起きたいろんなことが頭から離れず寝不足だったが、この日やりきれば楽しい打ち上げが待っている。そう思って頑張っていたら目の前に大きな影が立った、父だった。お忍びでイベント初日からTATSUMIに一人で宿泊し、二日目は惣兵衛さんのかまどに来店していた、とこの時聞かされた。
「どっちもいい店で、驚いた。TATSUMIはよかったな、帰ったら宣伝しとこう」父は私が焼いた三色パンを頬張りながら言った。
「TATSUMIさんは、とっくに有名になってるけど。よく予約とれたね」
「TATSUMIさんに、ご宿泊でしたか」和宏さんが父に声をかけて鶏肉のラグーをサービスしてくれ、ぶどうやから中華ちまきをひとつ分けてもらって持ってきてくれた。
「当館にはイタリアンのシェフがおりまして、松谷温泉内の五つの宿には当館のイタリアンとTATSUMIさんのフレンチ、ぶどうやさんの中華、それから翠松館さんと
「へえー。いや、旨い」
敬語で喋っている和宏さん、の姿を楽しんでいるうちに意外にも彼と父が意気投合し、当夜は若水に宿泊すると決めてしまった。電話では「田舎の温泉街」と馬鹿にしていたし、TATSUMIや若水への宿泊もどうせ偵察のつもりだ。そしてこっそりあらを捜し、帰ってから私に電話をかけてきて帰京する理由のひとつとしてまくし立てる、父の行動パターンなんてそんなところだ。
ただ、父はどうにもならないほど
和宏さんがサービスしてくれた料理をたいらげ、観察タイム終了とばかり立ち上がった父は私に声をかけた。
「すぐそこにこの温泉を開いた人の本家だっていう屋敷があるんだろう、頼めば見学させてくれるらしいから行ってこようと思ってるんだ。腹ごしらえもさせてもらったし。
じゃあ若水さん、夕方よろしくね」
「はい、お待ちしております」
和宏さんがタクシーを呼ぶのに電話している間に、父はいつもの慌しさで公民館の玄関へ向かった。父に史也が歩み寄って割引券を渡そうとした時、悌市さんが立ち上がった。
最初は、父を見送ろうとしてくれているのか、くらいにしか思わなかった。しかし悌市さんは、父にこう言った。
「あんた、
「はい、倉本でございます」
テレビに出まくっていた父だから見ず知らずの人にいきなり声をかけられるのは慣れっこだろうし、私も大したこととは思わなかった。でも有名人に声をかける悌市さんの姿に違和感を持ち、次に出てきた言葉に固まってしまった。
「ああ、やっぱり変わったねえ」
「は。失礼ですが、どこかで」
「俺、
悌市さんはいつもとさほど変わらぬくぐもった声で話していたし、父も平静を装っていたから、表面上はなんてこともなく終わった。でも小一時間経った頃に、若水のフロントに父からキャンセルの電話が入ったそうだ。
私は父が帰ると言い出してほっとした反面、父の遠目から見ても分かる
それでもやっぱり、公民館の端っこで一瞬起きた小さな出来事だった。忙しさの中にその出来事は紛れていって、イベントは盛況のうちに幕を閉じた。その夜ざっくりと会場を片づけて、月曜日の午後から持ち込んだ機材の撤去などをして鍵を区長さんに返した後、一日遅れの打ち上げは悌市さんやちびっ子三人も招かれ、また温泉街全ての宿でお休みにして惣兵衛さんのかまどで行われた。
「はい、それでは。皆さん、お静かに。
それでは、今回のイベント『松谷温泉 小さな文化祭』の発案者であります奈央やんこと倉本奈央さんから、一言いただきたいと思います。はい、みんな注目っ」
「えー、すごい無茶ぶり」
「なんでもいいっけ、挨拶せえてば。じゃあ、イベントの感想から」
「えーと、楽しかったです」
「続けれや」
「なに言えばいいんですか」
「自分が思ったことを言えばいいんてば」
「あのー、えーと。夏のミーティングで『おおー』いただいて以来、すごい忙しかったし大変だったけど充実してました。学校とか、前のバイトとかでは経験できなかったことがいっぱいあって、でも貢献できた感が」
「いや、まだまだ」
「そうだ、倉ちゃんならもっとできる」
「はい。えっと、もっと頑張って働きますので、これからもよろしくお願いしますっ」
「いよっ」
和宏さんに言ってやったとおり無茶ぶりもいいとこだったし、照れもあって言いたいことの半分も言えなかった。本当は、もっと大袈裟というか濃いというか、そういう思いが胸に充満していた。
大学や前のバイトでは経験できなかったことを通して、私は私自身に対して「意外と捨てたもんじゃないな」と少しだけ感じていた、やればできる子、みたいな。イベント二日目の夜に「松谷の仲間になってほしい」と言ってくれた和宏さんや布佐子さん夫婦だけでなく、この席で
そんな、緊張しながらも密かに高揚したような気持ちでお酒を飲んでいたらいい具合にほろ酔いになってしまった、普段は全然飲まないし世代が違う人達との酒席などこれが生まれて初めてだったから尚更だった。ちびっ子三人のお守になっていた悌市さんが、彼らを引き連れて私の隣に座り、ビールを注いでくれた。
「お疲れさん。今回の功労者だな、ここで生まれて育ったみたいになってるじゃないか」
「てへへ、なんか嬉しい。でも全然、まだまだです」
「ほんとにさ、あんたが言わないでいたら今回のイベントなんかなかったんだからさ」
「うん、思い切って首突っこんでみてよかったです。
なんかね、私、学校とかでこういうイベントやる時って、いつもすっごい冷めてたんですよ。イベントとか張り切ってやる人っていうか仕切りたがる人っているじゃないですか、でも私はいつも『じゃあやれば』みたいな感じで、端っこのほうで手伝ってるだけで」
「いるよな、仕切り屋っていうのが。どういう時でも」
「うん。でね、学校で何かやる時の仕切り屋って、どうせ点数稼ぎなんですよ。笹ピンTシャツ作った子達なんかもろにそうですよ。就活の時に有利だし、的な。あんな誰も着ないようなTシャツ作って、本人達だって本当はばかばかしいと思ってるはずなのになんであんな頑張ってんだろ、うざいんですけど、って。
でもそういう人達とも普通につき合っていかなきゃいけないじゃないですか、だから私もポジティブぶってお世辞言ったりとかして。そういうの本当に嫌だったんですよ。疲れるっていうか、報われないし虚しいし、そういうのが半端なくて」
「子供の世界も大変だな」
「子供ですかね」
「俺から見ればな」
「え、奈央やんなんか大人らよ」若水の風太が口をはさんだ。
「こら、豆粒は黙ってろよ」
「豆じゃねえよ」
「でね。なんか、そういうの抜きで頑張れることってないかなあ、とか思うこともあって。私の父親みたいなのはキャラ濃すぎて全然憧れないっていうか嫌なんですけど、実は私も何かやりたいなあ、みたいなのって密かにあったんですよ。
で、なんていうんだろ。そういう憧れみたいなのが私自身あるって気づいてたけどなんにもなくて、全然いけてないわ、って」
爽太が唐突に「奈央やんは彼氏できねんだ」と訊ねた、でもそれは敢えてスルーさせてもらった。
「何かやりたい、って思ってても自信持ってやれることなんてそういえば今は何もないし、本当はかなりネガティブだし。前にもこんな話、しましたよね」
「ああ、聞いたな。その時も言ったけどさ、あんたにもちゃんと、明るい面があるんだよ。学校では明るいふりだったかもしれないけど、松谷では芝居なんかしなくたってそういう風にしてられる、っていうことなんじゃないのか」
「そうそうそう。そうなんですよー」
「パン作るのを教えてもらって、今楽しくやってるんだろう。イベントの提案してみればみんな頑張ってやってみよう、って賛同してくれるしさ。いっちいいねっか」
「うん。いっちいいです」
珍しく素で新潟弁を使った悌市さんにつられたのか、初めて何も意識せずに新潟弁が口をついて出た。いっち、というのは一番という意味で、「いっちいい」は最高だ、みたいな意味になる。
「松谷に就職したい。ここでみんなと働く人になりたい」
酔いも手伝ってつい言ってしまった、同時に涙がこぼれていることに気づいた。就活が嫌だとかぐずっている感じの涙ではなかったことは確かだ、でも何も知らない人が見ればそういう理由で泣いているように見えたと思う。私自身にはなぜ泣いてしまったのか、その理由がちょっと分からなかった。
「ああー。泣かしたー」
「悌さんが、奈央やんこと泣かしたー」
若水の双子が大騒ぎを始めた。こういうところはお父さん譲りなのかな、と思ったら笑えてきたが、どうしても涙が出てくる。
「あーあ、あーあ、おっこっこ。なーかした、なーかした」
「なんだ、お前達もそんな風に言うのか。懐かしいなあ」
悌市さんははやし立てる豆粒達を見て大笑いした。
「爽太。奈央やんが泣いたっていうことは、やっぱ子供なんかも知んねな」
「そうらな。父ちゃん、『大人は泣かねえもんだ』って言ってたもんな」
「え、うちのお父さん、大人も泣くって言ってたよ」
「史也はいい子ぶってて、
「史也って大人ぶってるんぜ。小学生のくせして」
「こら、
それから、騒ぎ過ぎた若水の双子といい子にしていた史也、そしてお守役の悌市さんが一足早く帰って、少しだけ静かになった。トイレに立ち帰ってきたら、TATSUMIの
「あ、父がお世話になって、どうもありがとうございました。ごめんなさい、今までお礼も言わないで」
「いや、いいけど。大丈夫だった?」
「え。すごくいいお宿でびっくりした、東京に帰ったら宣伝しておく、って喜んでましたけど」
「そうか」
いつもの武史さんらしくもないひどく神妙な顔を見て、父の帰り際に史也が割引券を渡そうとしていたことを思い出した。
「もしかして、こっちがごめんなさいなこととか」
「いや、そういうあれじゃないけど。
倉ちゃんのお父さんが泊まってくださった時にね。一昨日の夜、かなり遅くなってお父さんがフロントにいらしたんだ、ディナーでワインを召し上がっていた、っていう状態だったんだけど。この温泉のこととかいろいろ尋ねてこられたから、まあ婿養子の俺が答えられる範囲で、
それで、なんだったかな。ちょっとこちらも『ん?』ってなるようなことも訊かれた訳だ、まあお酒のせいもあっただろうけど。
で、俺も聞き取れなかったような気がしたから『なんでしょう』なんて聞き返したら、ちょっとご立腹、みたいな感じになってさ。それからすぐ客室に戻って、それっきりだったんだけど。
チェックアウトの時は俺もばたばたしててお見送りできなかったし、倉ちゃんのお父さんだって知らなかったもんだから。それで、気分を害されたままになってないかなあ、ってちょっと、ね」
「え、すいませんでした。酔っぱらって訳分かんないこと言って聞き取ってもらえなかったから逆ギレ、って。覚えてたら、次の日そうとう後悔すると思うんですけど。覚えてないふりしそう」
「ああ、いや、そういう」
「でもTATSUMIさんは大絶賛でした、これはまじで」
「そう。それは素直に嬉しいけど。ありがとう。
それでさ。あの」
「はい」
「倉ちゃんのお父さん、松谷に知ってる人がいるらしいんだ」
「え。あの、それって」
イベント三日目のこと、父と悌市さんとのやりとりを思い出した。宿の面々の中には、二人が少し言葉を交わしていたことを認識している人すらいないようだ。なんとなく何かが見えてきそうな気がして落ち着かなくなった、そして見えてくるもの、はとてつもなく怖ろしいものなんじゃないか、という気も。
フロアを見回してみた。みんないつもどおりだった、和宏さんは例によって正嗣さんをいじっているし、その正嗣さんは酔いも手伝ってか珍しく和宏さんに反撃している。そこに康祐さんが茶々を入れ、布佐子さんはちょっと楽しんでいるような顔でそのさまを見ている。椅子をひとつ挟んだ先の席では、ちょっと年かさの旦那衆やおかみ達が真面目に仕事の話をしている。
正嗣さんと和宏さんがやり合っていること以外はいつもどおりだった、それを見てなんだか安心し「正嗣さん、やるじゃん」なんて呑気に思ったりもした。でも、このいつもどおりから、近いうちに離れなければいけなくなるんじゃないか。足元の床が突然消えてどこか得体の知れないところに投げ出される、ような感覚があって、思わず
打ち上げから五日後、土曜日の朝だった。惣兵衛さんのかまどでは、毎月最終土曜日に翌月の勤務シフトが決まる。
張り出されたシフト表を見て
「あの、布佐子さん。これって」
「うん。私達も、ちょっと考えて。これまで倉本さんに頼り過ぎだったのかもね、って」
布佐子さんに呼び捨てではなく苗字にさん付けで呼ばれたのは、面接の時以来だった。
「ごめんなさい。言ってる意味が」
「TATSUMIさんから、いろいろ聞いてね。
その、倉本さんがお父さんと地元の人とのことを、どれだけ知ってるのか」
「そんなの、私全然知らないんですけど。親からも聞いたことないし、TATSUMIさんも詳しい話はしてくれなかったし」
「宿でのやり取りのことは聞いたんだね」
「でも全然ぼかして、ですよ」
「それは、お父さんにこんど聞いてみて。TATSUMIさんの口からは言わせないでやってくれ」
「それにほら、やっぱりね。まだ学生さんでこれから就活の時期だっていうのに、ね。のめり込ませちゃったのもいけなかったかな」
「のめり込ませといてなに言ってるんですか。それに私、シフト減らしてくださいとか一言も言ってないし。
こないだ、ここで話したことってなんだったんですか。イベントの二日目の夜に話したことって」
「ねえ康祐、やっぱり。この子には関係ないことなんだし」
「いや。
倉本さん。いずれにしても、バイトはちょっと控えたほうがいい。学校にちゃんと通う、お父さんの元へ戻る。そういう選択肢だってあるんだ。
それに。お父さんと地元の人の間で昔起きたことを考えると」
「だから、私そんなこと知らないのに」
イベントの翌週だったし、秋らしくなりハイカーが格段に増えることくらい誰が考えても分かることだった。フロアでは既に田中さんが客を応対する声が続いていたし、厨房のホワイトボードに書かれた各種のパンの数量はいつもより全て多かった。なのに康祐さんは私に少し考える時間を与えると言い、帰るよう促した。
ここで帰ったらそれっきりになるような気がしたし、一方でレジに立てる精神状態ではないという自覚もあった。打ち上げの夜の、床が突然消えてどこかに放り出される感覚。あれが本当になるなんて、しかもこんなに早く。イベントの三日間、そして二日目の夜に話したことは本当にたった一週間前の出来事なんだろうか。もっと前のことだったんじゃないか、それとも夢か何かだったのか。
坂の下の駐車場は満車になっていた。そこから車を通りに出してみた、でもアパートには帰りたくないしこんな気持ちで運転したら何が起きるか分からない。まだ空きがある神社近くの駐車場に車を入れて、境内のベンチでしばらくぼんやりしていた。松谷温泉を去ることになるかもしれない、ということへの寂しさや悔しさが心の中に定着してしまってから、私がおぼろげにしか分からないことをみんなはどのくらい知っているんだろう、と考えた。
康祐さんや武史さんがいう地元の人、とは悌市さんのお兄さん、で間違いないだろう。とりあえず、私の父と悌市さんのお兄さんの間には、昔何かがあった。お兄さんは若くして亡くなったそうだから、きっと父のうんと若い頃でもあるだろう。でもそれは私が生まれる何十年も前、それこそ布佐子さんが言ってくれたように私には関係ないところで起きたこと、のはずだ。
そして今の私には、それ以上のことが見えてこない。見当がついていながらあらわにしないようにしている、のかもしれない。そういったこと、全容といってもいいくらいのことを、武史さんは全て聞かされたのか、それとも酔っぱらった父の話から推測して布佐子さん夫婦に伝えたのか。
他の宿の人も、武史さんから聞かされているだろうか。和宏さんも正嗣さんも、おかみ達も知っているんだろうか。大おかみ世代が聞いたらドン引きするようなことだろうか。いや、ドン引きでは済まない話なのかもしれない、だから康祐さんは私を辞める方向にもっていこうとしているのだろう。宿の人ひとりひとりは、どんな風に捉えるだろう。大らかであっけらかんとした康祐さんが動揺するのも当然だと思うだろうか、それともそこまでしなくてもいいのに、と思ってくれるだろうか。
正嗣さんならどう言うだろう、と思った。少し前から私を思ってくれていたらしいことを、ついこの間知ったばかりだけど。正直、私自身が正嗣さんをどう思っているのか、はまだ考えてもいなかった。でもとりあえず一人で考えている辛さから抜け出したくて、正嗣さんに「TATSUMIさんから何か聞きましたか」とだけ書いたメールを送ってみた。
数分後に返信が来た、でもそこには「すみません接客中です」としか書かれていなかった。
土曜だもん忙しいよね、と思った直後に、涙がこぼれた。私はのろのろと立ち上がって車に乗りこみ、アパートに帰った。
次の日から、アパートに引きこもるだけの日が続いた。お腹が空けばコンビニに買い出しに行くが、それ以外はなんの用事もない。買ってきたおにぎりやパンなどをかじりながら、惣兵衛さんのかまどのパンを食べたいなあ、と思っていた。そういう思いは松谷の記憶に直結していて、そこで出会った人の顔や様々な出来事を
そうしているうちに、ミイさんがバイト先に持参し振る舞ってくれたのっぺを頻繁に思い出すようになった。その味とあの場、模造紙を広げた茶の間に車座になって座り食べたのっぺの味、みんなが聞かせてくれる話と笑い声。あの場の再現を渇望していることに気づき、また私にとっての松谷は第二の故郷といってもいい存在になっていたこと、をはっきり自覚した。打ち上げで悌市さんと話した時、私は「ここは第二の故郷です」と言いたかったかもしれない、喉まで出かかっていたかもしれない。でも言わなくてよかった、こんなことになってしまったんだから。言ってしまっていたら、今頃その場面を思い出して恥ずかしさに悶絶しているはずだ。
時計の針が勝手に動いて日が高くなり薄暗くなり真っ暗になり、その間に私は生理現象レベルの用事をこなし、明かりをつけたり消したりした。本当になんの用事もない毎日、何かをお腹に入れてトイレに行ってお風呂に入って、というだけだった、本当にそれしかなかった。テレビにもネットにもコンビニで買ってきた雑誌にも用事がなかった、ただ寝転がるしかなかった。
寝転がっている合い間に、学校に嫌々ながら通っていた頃の記憶が蘇ってきた。県外出身者同士の飲み会や大停電の時に
あの美弥ちゃんも、育成に落ちてからはこんな感じだったのだろうか、と思った。いい気味だも何もなく、単なる記憶でしかなかったが。でも彼女を思い出したことによって、なぜか私の情けなさ、浅ましさが浮き彫りになったような気がした。彼女は私のような不器用な人間ではないから、もしかしたらちゃっかり抜け道を見つけて以前とさほど変わらぬ毎日を手に入れているかもしれない、あるいは新潟での諸々に見切りをつけて、あの話のとおりかどうかは分からないが親元に戻っているかもしれない、なんにしてもとっくの昔にこんな感じから抜け出しているだろう。
私はといえば、学校を捨てて
携帯には父からの着信が何度もあった、でも振動が始まるたびに電話をクッションの下に突っこんでいた。言葉を交わすのが怖ろしかった、それはもちろん学校や帰京云々の話をするのが、ということではない。学校の友達からは一切連絡が来なかった、惣兵衛さんのかまどからも。
五日目の午後。アパートの前に車が停まる音がして、すぐに部屋の呼鈴が鳴った。ドアの外には、正嗣さんと悌市さんが立っていた。
「倉ちゃん。惣兵衛さんのかまどに行こう」
ほんの少しの押し問答の後、ドアチェーンを外して外に出た私は正嗣さんに手を引かれ、車に乗りこんだ。
ドアに「本日貸切」のプレートが掛けられた店では、布佐子さん夫婦と猫のだいろ、それに宿の会の面々が待っていた。まず康祐さんが私にシフトの件を、そして武史さんが勝手な推測から出た話のせいで混乱を招いたことを詫びた後、和宏さんが言った。
「あのな。こないだも言ったことらけど、改めて言わしてもらうわ。
康祐さんとTATSUMIさんと、あちさん二人で大騒ぎしてくれたけどさ。松谷の性分として、どういう人間でもまず受け入れる、いうのがあるんだて。俺らもぶどうやさんも元は
松谷の根性いいとこが
「すみません」
「ていうか、なんにも分かってねかったんな。そこにびっくりしたわ。
奈央やんもさ。お父さんのこととかあったとしても、ここが好きになってくれたんけさ。松谷の流儀として、受け入れる。事情なんかいうのも、一ぺん聞いて腹の底に収めたらずっと仕舞っとく。それでいいんだて。
ほんで、その辺の事情いうやつらけどさ。結局一番よう分かるのは悌市さんしかいねえんだ。TATSUMIさんも知りもしねえてがんに
ま、こんげ馬鹿単純なおっさんが二人もいると、話がややこしくなるってことだいな」
「うん。彼はそういう人だから」
和宏さんの放言を久々に聞いたら笑いそうになってしまって、少し気持ちがほぐれた。でも和宏さんはそのためだけに道化をやってくれているのではなく、これから聞かされる話のことも考えているからだ、だと気づいた。
「ほんで。悌市さんが、今から全部話してくれるって。悌市さんも、奈央やんは松谷温泉にいんば駄目な人ら、って言うてるんぜ。
奈央やんは一切、聞いたことねかったんだいな。お父さんからも」
「はい」
「俺はガキん時にばあちゃんから聞いたことがあったし、だいたい分かってる。ほんき奈央やんが気に病むことじゃねえんけな、大丈夫らぞ。
だっけさ。お前がさ」
また肩をどつかれた正嗣さんの表情は硬かった。正嗣さんもきっと全て把握している、そして私がこれから明らかにショックを受けるだろうことを、気にかけてくれている。それだけでも充分嬉しかった。
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