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 私がイベントの企画を提案して以来、惣兵衛そうべえさんのかまどでも参加店舗のひとつとして準備を始めていた。当然ながら私達はパンを提供するということになるが、文化祭と銘打っているんだからちょっと懐かしいものを揃えたほうが面白いだろう、そこに布佐子ふさこさんがれた超おいしいカフェオレをコーヒー牛乳ということにして合わせてみては、なんて考えていた。

 そして私も、ついにパンを焼かせてもらえることになった。

 お馴染の白衣姿で、田中さんが言った。

「こないだ、悌市ていいちさんが来てさ。『そういうのやるんなら、三色パン作ってほしい』って言ってたんさ」

「え、三色パンて。けっこうお洒落ですね」

「ああ。やっぱ三色パンて、新潟にしかないんかな。あんた多分、生地の色が三色になってるの想像してるろう」

「違うんですか」

「あのね、新潟の三色パンて見た目は茶色一色なんさ、ただ単にこんがり焼けてるだけで。直径五センチぐらいの小さい丸いパンが三個くっついてて、それぞれ違う中身が入ってるんて」

奈央なお、あんパンのミニチュアみたいなのが三個、三角形になるような配置でくっついてるって想像すればいいの」

「まあ最近見かけねなったし、分かんねいうのも無理もねえわ。

 ほんで、中身はあんこ・クリーム・ジャムだったりとか、クリームの代わりにチョコだったりさ。開けてからのお楽しみの場合もあるし、けし粒とか散らして何味か分かるようにしてるやつもあるし」

「なんかいいかもしれない、楽しそうですね。どうせなら開けてからのお楽しみ、にしたいなあ」

「だっけさ。私も、例えばコッペパンにピーナツバターとか好きなのを塗って提供する、とかいうのも考えてるし、普段のメニューもないと駄目らろうしさ。やることが山ほどあるんて。

 ほんでさ。倉ちゃん、三色パンひとりで作ってみて。中身は私が作ったの使えばいいろう」

「え。いいんですか」

「頑張ってるんけさ。いいんじゃねんだ」

「そうそう、倉ちゃんはいつも頑張ってるから。今までのボーナス代わり」

「ちょっと、ボーナス代わりに仕事って」

 康祐こうすけさんの悪い冗談もあったが、それでも嬉しかった。

 早速試作に取りかかり、完成した試作品第一号を食べてもらうべく、例によってお墓の脇に座っていた悌市さんをお店に連れて行った。冷たいカフェオレと一緒に出してあげたら、悌市さんは少し懐かしそうな顔をしてパンが乗ったお皿をしばらく見ていた。

「中身は、開けてからのお楽しみにしてみました」

「そうか」

 くっついた三つの丸を慎重な手つきで離して思案するような表情でまたお皿を眺め、ひとつに手を伸ばしてようやくかぶりついた。

「中身、なんでした?」

「ジャムだった。ああ、うまいな」

 見ているうちに悌市さんの表情がほころんでいった。彼の表情レベルのようなものを勝手に設定するなら、それは破顔、といってもよかった。カフェオレで一つ目を流しこんで二つ目を頬張った、次はあんこだったようだ。

「ああ、懐かしいなあ」

 笑顔になってくれたのはほんの一瞬だった。二つ目を食べ終え、クリームが入った三つ目は「まいったな」と呟き目尻を拭いながら食べていた。

「あの、悌市さん」

「ああ、ごめんな。思い出の味なんだ」

「そうなんですか」

「もう一個あるかい」

「ありますよ、いっぱい焼いたんで」

「そしたらさ、一個分けてもらってもいいかな。兄貴の墓にあげてやるんだ。ガキの頃、お袋と兄貴と新津にいつに行ってさ。その時にお袋が買ってくれて、一緒に食ったんだ」

 お土産に三色パンをもう一個と、カフェオレを詰めた水筒を持たせてあげた。帰り道にお墓の前を通りかかると、それらはそのまま供えてあった。

 悌市さんは私が焼いた三色パンをただ懐かしがって食べてくれただけで、試食の感想を貰う相手としては大甘、だった。それで宿の会の面々にも食べてもらうことにし、翌日は十個以上焼いてそれぞれの宿に届けた。各宿でも献立の検討など準備を始めているようだ。そこで生地の出来ばえ等々ほしかった指摘をたくさん貰い、結局私の三色パンは開けてからのお楽しみ、というスタイルではなく、なんらかの印をつけて分かりやすくすることになった。

 翠松館すいしょうかんでは、正嗣まさつぐさんが桜花の塩漬けを分けてくれた。これの花びら一枚でもジャムパンの上に乗せれば分かりやすいし見た目もいいだろう、とのことだった。

「茶色一色だと見た目も殺風景だし、不親切じゃねえんかな」

「そっか。開けてからのお楽しみってわくわくするかな、って思ったんですけど」

「そういうのもいいけど、花とかが乗っかってたらパッと見可愛い感じもするろう」

「そうですね」

「やっぱほら、女子が作ってるんけ女子らしく」

「はいっ。自分的にも、女子力があんまり高くないって自覚はあります」

「なんかさ、倉ちゃんと喋ってると男同士で喋ってるみてな感じがすることがあるんさ、少年ぽい、っていうか。さばさばしてるっけ、かな」

「でも学校で一緒にいる子とは女子っぽい話で盛り上がったりしますよ、けっこうギャルっぽい子もいるし。ま、ギャルのほうが女子力高いかどうかでいえば高い、ってことになりますもんね」

「そういう意味じゃない。ていうか、いや、ごめん。なんでもない」

 なぜか正嗣さんは口ごもってしまった。私が言ったこともある意味失礼だったかな、なんて思って、パンの話に戻した。

「悌市さんに最初に試食してもらったんですけど、感動して涙目になって終わり、みたいな感じだったんで。

 あの。悌市さんって、お兄さんを亡くされてるんですね」

「そうそう。お兄さんっていっても、父親は別なんさ。悌市さんの苗字は佐久間さくまさんだけど、お墓には『大澤おおさわ家』って彫ってあるろう。

 彼のお母さん、元々は芸妓げいぎさんだったんさ、やめてうちで仲居やってた時期のほうが長かったみてなんけど。お兄さんのお父さんは大澤様の三代目で、悌市さんのお父さんは別の人。いろいろあって、お母さんはどっちとも結婚しないで兄弟を育て上げたんけど」

「そうだったんですか」

「お兄さんは若い頃に亡くなったし、そん時はその、かなり大騒ぎになったって。そういうのをリアルタイムで見てるのは、大おかみ世代かここで生まれ育った親世代ぐらいらな。

 亡くなった時はお兄さんのお父さんが健在で、彼自身本妻さんとの間に子供ができねかったっけお兄さんを大澤家のお墓に入れてくれたんだ、養子にするかって話が出た時期もあったっけかなりへこんでたらしいけど」

 悌市さんの切ない話に、さらに切ない補足説明がついてしまった。それでもまだ、正嗣さんはかなり濁した口調で話してくれていた。悌市さんのお兄さんとはどんな人だったのか、彼の死にはいったいどんな背景があったのか。ひとつ謎が解けるごとにまた新たな謎が出てくるな、と思いながら歩いていたら、後ろから歩いてきた悌市さんが私に声をかけた。手に密閉容器を持っている。

「おう。今、仕事の書類出しに郵便局に行ってきたんだ」

「やっぱり印刷関係のお仕事なんですか」

「ああ。東京にいた頃のよしみでさ、校正っていう仕事を回してもらってるんだ。事故に遭うまではでかい機械の操作とかもやってたけど、足がな。それにしても、東京の会社も郵送代とかコストもかかるのに気にかけてくれてさ、感謝しなくちゃな」

「人徳ですよ、きっと」

「なに言ってんだよ。

 それで、郵便局に煙草屋のばあちゃんがいてさ。『ちっと寄ってけね』なんて言うからお茶飲んできたんだけど、帰りに酢の物持たしてくれたんだ。あんたもちょっと持ってくか」

「いやいやいや、悌市さんがいただいたんだから。ていうか、煙草屋さんなんてありましたっけ」

「今はもうやってないけどな、家も建て直したし。俺が子供の頃は、公衆電話の代わりに貸電話が煙草屋なんかの店先に置いてあったんだよ。だからみんな世話になったんだ、昔は電話があるのなんかそれこそ宿と、俺が今いる家の主みたいな金持ちぐらいだったんだもん」

「へえー」

 話しながら歩いているうちに悌市さんの家の前まで来た。出しっぱなしになっていた椅子に、悌市さんは腰を下ろした。

「酢の物くれた婆ちゃんの旦那さんが清造せいぞうさんっていう人で、俺なんかほんと世話になったんだ、俺が帰ってくる前に亡くなったけどさ。婆ちゃんは九十過ぎたけど、今でもほんと元気なんだ。俺が戻ってきた年の春に、婆ちゃんが『せがれが竹の子掘ったすけ食べなせ』なんて生のまま持ってきてさ、『ありがたいけど、煮たりするのができないんだ』って言ったら、料理して持ってきてくれたんだ。それからだな」

「新潟のお年寄りって、めっちゃ元気ですね」

「なに、作るのなんて倅の嫁さんだろ」

「悌市さん独りで大変だから、やっぱり」

「ああ、それこそ松谷まつたにの気風だな。煙草屋の婆ちゃんもそうだし、幹夫ちゃんもそうだ。それから、俺を呼び戻したここの家の本家もさ」

 開湯者である大澤家は、代々庄屋をつとめてきた家の分家にあたる。本家の人は管理を兼ねて悌市さんに住むことをお願いした手前もちろん家賃などは請求しないし、それどころか洗濯や掃除に買い物の付き添いまで、身の回りのこまごまとしたことで悌市さんが不自由しないようにいろいろ世話を焼いてくれるんだそうだ。ちなみに、週に二回来てくれる本家の奥さんは七つある部屋を全て掃除するが悌市さん自身は居間と寝室代わりの座敷、それから水回りしか使っておらず、体が体だから二階に上がったことは一度もないらしい。

「この足だろう。俺、『管理なんて無理だ』って言ったんだけどさ。本家の人、『住んでくれる人がいるだけでも違う、家はそれだけでも傷まないものだ。鼠だっていなくなる』だって。そう言われた時は笑っちゃったよ、『猫じゃないんだから』って。

 それにしても、みんななんの得もしないはずなんだけどな」

「うん、なんていうか、すごい。すごいっていうのもおかしいかもしれないけど」

 こういうことの感想を言う時って、よほど言い方に気をつけないと誰かしらに対して失礼になりそう、難しいな、と思った。いい言葉が出てこない。ありえないくらいの善人だらけの不思議な場所、そして悌市さんはものすごいラッキーな人、だ。大停電の時の、河野かわのちゃんの家族を思い出した。あの歓待はやはり非日常な出来事によって掘り起こされたものだ、普通はどんな人だってあそこまで優しさをむき出しにしたりはしない。でも松谷の人は違う、いつでもどんな時でも優しさ、あたたかさをむき出しにしながら生きていて、なおかつそれがごく自然な姿なのだ。

 というのが自分の心情に一番近かったが、まさかそんな台詞を吐き出す訳にもいかない。いきなり当時のことを語り始めたら、悌市さんはきょとんとしてしまうだろう。

「まあまあ、そんな顔になるのも分かるよ」

「なんかね。ほんといい場所ですよね、松谷。

 ていうか私、なんかイベントを提案してみたら、ちょっと気持ちが変わったっていうか。頑張ろう、みたいな」

「おう、そうか。頑張ってみろよ。

 宿の会の連中も、あんたがこの土地を気に入ってるっていうのが見て分かるから、あんたを可愛がるんだ。やっぱり嬉しいもんさ。ちょっとだけどな」

「はじけ、ってなんですか」

「この辺の言葉で、出しゃばり、っていう意味だな。それだって、結局松谷が好きで何かしたいからはじけるんだろう、あんたの元々の性分も当然あるだろうけどさ」

「えー、私ほんとは暗いっていうか、地味なんですけど。かなりキャラ作ってますよ」

「そうなのか。それでも、そういう風に振る舞ってるうちにそれが本来の自分の姿になってきたんじゃないのか。あんたが分かんなかっただけで、あんた自身にもそういう面があった、ってことだろう。

 あんたの前に学生バイトがいたんだけどさ、布佐子さんから聞いたことあるかい。やっぱり東京の子だったけどさ」

「え、聞いたことない」

「一ヶ月ももたずに辞めたんだけどさ、『こういう田舎風情んとこが好きでねえんろう』って和宏なんか怒ってたんだ。俺なんて、こんな体だからかなんだか分かんないけど、いつも嫌な顔されてさ。

 それでもさ、ミーティングであんたと初めて顔合わしてから、宿の会の者も店に顔出す頻度が上がったんだよ。やっぱりさ、例の子がいる間は遠のいたんだ、はっきり言うと」

「そうなんですか。

 なんかね、松谷の人達って東京の人と全然違うな、って。みんな親切っていう土地柄はまだ分かるんですけど、それが仕事にも生かされてる、それでみんなコラボみたいにしてうまくいってる、っていうとこがすごく。父親から、仕事の世界なんて超ぎすぎすしてる、みたいに聞かされてたから」

「やっぱり東京は厳しいんだよ。俺なんて下町の方にいたから、まだ人情味があったけどさ。なんだ、お父さんはやり手のビジネスマンかい」

「一応、会社を。ダイニングバーのチェーン店やってるんですけど」

 ここまで言って、しまった、と思った。なんで父のことを言ったんだろう。そういう話をすれば「ああ、あの人が」みたいな雰囲気になって、好奇の目やら何やらで喋るのがきつくなり急速に話がしぼんでしまう、あるいは「なに、自慢?」とか言われて「あんなの、誰が自慢するか」といらいらし、その後気まずくなる。そういう経験を何度もしていたのに、また同じてつを踏もうとしている。

「あんた、倉本くらもとさんっていうんだよな」

「はい。倉本です」もう逃げられない。

「そういう店の社長さんで、よくテレビに出てる人がいるじゃないか」

「ああもう、はい。ああ、誰にも言ってなかったのに。

 ドン引きですよね。はい。私、あの人の娘です」

 一人でパニックになっている私に、悌市さんは「そうか」と一言かぶせてきた。

「なに、あんたがそんなに恥じることじゃないよ」

 どこまでも優しいな、これも松谷気質か、と思って少し安心した。でも後でよくよく考えてみたら、悌市さんの声も表情も、全てが普段と違っていた。


 家に帰ってきてから、携帯に着信とメールが数回ずつ来ていたのに気づいた。誰からなのか分かった時点でかなりえてしまった、差出人は全て、しばらく連絡を取っていなかった父や大学の同級生だった。

「元気?」「最近学校来ないけど、生きてる?」「バイト先で彼氏でも見つけたかー」

 今まで連絡なんかくれなかったのに、とうざったい思いもありつつ、まずは同級生からのメールを片づけることにした。元気であること、バイトが楽しくて充実していること、彼氏とかは見つかっていないこと、学校に行く気はぶっちゃけ失せつつあること、を敢えて絵文字抜きで書き綴って送信した。

 その直後、よく分からない違和感じみたもの、が襲ってきた。私はもう大学の住人じゃなくて松谷温泉の住人、彼女達との間にはこっちの世界とそっちの世界、みたいな隔たりができてるんだな。と、やたら実感してしまった。彼女達にとって今の私は若干訳が分からない人になっているだろうし、彼氏がどうのとかくだらないことを詮索しているとしても、勝手にやれば、だった。きっと私は彼女達とは違うことを学び始めている、彼女達を子供だと思い始めている。例えばバイトを減らして学業優先で過ごしてみたとしても、一週間ももたないはずだ。退屈でばかばかしくて、どうにもならないだろう。

 メールにミニ文化祭へ誘う一文を入れればよかったな、と思った。彼女達はきっと喜んで足を運ぶだろう、私の彼氏とやらの当たりをつけるために。育成枠とかいう、私達の間ではかなりの意味を持つ単語を思い出し、懐かしいな、と思った。私はとっくに育成枠に転落していて、それは例えば彼氏の家に入り浸っているからなのかもしれない、と勘繰っている人もいるだろう。何かしらの苦しみのために育成枠になった人は「やっぱりね」としか言えないオーラを放っているものだったが、うらやまれるようなエピソードを隠していた人も、中にはいた。現時点で学校の仲間が思い描いている私もそうだという可能性があるが、そのことにほんの一瞬変な優越感を覚えたりもした。

 そして、もう新学期だな、などと大事なことを妙に呑気な感じで思い出した。そろそろ就活に向けて動かなければいけない時期で、それもあるから彼女達は連絡をくれた、というのは絶対あるだろう。でもリクルートスーツを着こんで、駅前のコンビニで仕入れた空腹しのぎのお菓子とお守り的な意味しか持たない資料を黒い鞄に詰めこみ奔走する私、なんて姿はどうしても想像することができない。

 でも同級生達、バイトやったり遊んだりしつつも普通に大学に行っている仲間は今頃、その辺のことで頭をいっぱいにしているはずだ。いくつかの顔を思い出し、頭の中でリクルートスーツを着せてオフィス街を速足で歩かせてみた。誰も似合っていなかったしみんなこわばった顔をしていた、希望に満ちた感じで歩いている人は私の頭の中には一人もいなかった。そういえば空想の中では美弥みやちゃんだけが颯爽としていたが、これって作り笑いなのかな、と思ってしまうような変な笑顔だった。その後ろから彩加あやかがふて腐れた様子で歩いてきた、とても就活向きとは思えない黒のピンヒールを片手に持っていたから裸足だった。

 何これ、と思い、こんなのは私の妄想でしかないと気づいた。今は私自身が就活よりも三色パンで頭をいっぱいにしているから、空想の中の就活生達は誰ひとり生き生きしていないのだろう。実際はみんなもっと真面目に考えている、在学中にちょっとお世話になるだけで終わるはずのバイトにここまで入れこんでいるのなんて、きっと私だけだ。

 それでも頭が切り替わらないのは、最近大学に行っていなくて現状を分かっていないから、といういかにもな理由だけではなかった。どう頑張ってもどう足掻いても、就活のために奔走する意味、が見えてこない。三色パンと大真面目に向き合い格闘している毎日、布佐子さんや宿の人から教えを請いながらひとつのものを作ろうとし、それが松谷温泉の中で新しい何かとして形になる日を目指して頑張る毎日。もちろん三色パンばかり作っている訳にはいかない、もしかしたらパン以外の何かを作ろうと奮闘を始める日だって来るかもしれない。それでいい、そういう毎日であればいい。どこかでそう思い始めていた。

 松谷の人に、なっちゃいたいなあ。

 そういう文字を心に浮かべてみたら、私自身かなり本気でそう願っていることに気づいて驚いた。この願いが私にはしっくりきたというところだった、でもいろいろ考えれば棚上げにするしかないほどの大問題、でもあった。

 その前に、父に連絡しなければいけないという大問題、があった。この相手にはメールではなく電話、みたいな暗黙の了解がある。でもすごいことに気づいてしまった直後に父と話すのは精神的負担が大きすぎる。

 父とは、春に両親が新潟に遊びに来て以来電話もしていなかった。ちょうどバイトの面接を受ける少し前だったが、父は勉強のこととか就職についてとか、執着といってもいいくらい延々と話し続けた。父は、私が卒業後帰京して自分の元で働き、いつか後継者に最適の婿殿を連れてきてくれる、と未だに思っているらしい、高校の時に提示した妥協案を私が忠実に守る、と思いこんでいるらしい。それ以前に、私は経営というものに対して適性も興味もない、それにすら気づいていないだろう(もっとも、そんなものさえ、父にとってはあろうがなかろうが関係ない、というところかもしれない)。私を父から遠ざけたほうがいい、という母の思惑にも。そういったことしか伝わってこなくて、父が言っていることを真面目に考えるなんていう気には到底ならなかった。

 とはいえついさっき私が気づいたこと、向こうさえよければ松谷で働く人として生きてみたい、と高らかに宣言するほど気持ちが固まった訳でもない。その道を進むにしてもそれ以外の父が望まない道を進むにしても、いつかはそういう宣言をしなければいけないが、さすがにそれは今すぐ、ではない。

 父から逃げたいような気持もありとりあえず夕食を済ませてから携帯を手にしてみたら、にわかに胃が痛んだ。食後に厄介な相手と連絡を取るのも間違いだったと思って、少し落ち着いてから意を決して父の携帯を鳴らした。三コールも鳴らないうちに、父は電話に出た。

「おう、久しぶりだな。忙しいのか」

「お父さんは大丈夫なの?」

「ああ、大丈夫だ。それでさ」

 父は、私が夏前から学校に行っていないと大学から連絡があったことを告げた。私は、バイト先でパン作りを手伝うようになり面白さを感じ始めていることや松谷の人と関わる中でいろいろ勉強させてもらっており、そちらのほうが授業などよりもはるかに実になりそうだと感じていること、私が提案したイベントがお彼岸の三連休に実施されることになりその準備で大わらわだということ、を正直に話した。

「お前、パンを作るようになったのか。そうか。

 どうだ、東京の製菓学校にでも入り直すか」

「ちょっと待って。私、松谷温泉の人達に出会えたからパンを作ったりするようになったんだし。こっちに来てよかったんだと思ってるの、だから東京東京言わないでよ」

「でも現場でいろいろ学べるっていっても、所詮は田舎の温泉街だろ。それにやっぱり勉強っていうのは大事だぞ。パパはうんと若い頃から働きづめだったから、尚更そう思うんだ。

 どうだ。将来、パン屋の経営とかやってみたいと思ってるか」

「まだ全然考えたことないけど」

「店くらい持たせてやるよ」

「は?」

「職人を慣れた奴で固めればいいだろ。まだ自信が持てなければ、オーナーやりながら学校に通ったっていいんだ」

 そんな店がいったいどこにあるというのだろう。とりあえず父には、パン作りが楽しいということしか伝わっていない。私がのめり込んでいるのはパン作りだけでなく、温泉街の人との関わりで得られる諸々の収穫もある、却ってそっちのほうが大きな意味を持っているとさえ思える。

 そんな収穫をもたらしてくれる存在から、無茶苦茶な提案(本人は妙案だと思っているだろう)を振りかざして私を引き離そうとしている。ここまで熱くなっているのは、新たなビジネスへのわくわくがあり、また私が新たなビジネスパートナーとして関わり始めることが楽しみで仕方ない、というのもあるだろう。やっぱり私をそんな風に見てるんだ、と思ったら本当にばかばかしくなってきた。

「ちょっと考えさせて。イベントまであと二週間しかないし」

「善は急げ、だぞ。やっぱりそんな田舎に閉じこもってないで、こっちで学んだほうがいい」

 母が父を呼ぶ声がして、父は慌しく「じゃあ、またな」と電話を切った。

 また、というのは次の日、という意味だった。父は「どうだ、考えたか。たしか休学届は出してないんだよな」などとまくしたてた。こんな調子でしつこく連絡を寄越よこしてくる父をかわすという作業に一日のうちのわずかな時間を奪われる、というのを繰り返し、それと同時進行でお彼岸のイベント「松谷温泉 小さな文化祭」の準備は進んだ。

 父よりも三色パン、だった。田中さんの特訓が功を奏して生地も納得いく味に近づいてきたし、中身はあんパンをけし粒、ジャムは正嗣さんがくれた桜の花びらを一枚乗せて判別できるようにし、あと一つはチョコあるいはクリーム、これだけは開けてからのお楽しみ、とさせてもらうことにした。これが、私が初めて作った商品、になった。

 どこか実感がわかないような気もしたが、ここでの私はとんとん拍子、だった。それに何より、楽しかった。人との関わりに恵まれたからだろうしここで見聞きしたり考えたりすることも楽しいから、かもしれない。そしてパンを作ることそのものが、何より楽しい。だからだろう、と思った。向いてるのかも、と考えること自体まだ面映おもはゆい感もあったが、こっそりそう思ってみると少し誇らしいような気分にもなる。自信がついた、というのはこういうことなのかもしれない。

 惣兵衛さんのかまどで働き始めるまでの私にとって、将来というものを考える鍵は歌織かおりちゃんのあの言葉、「一ミリでも納得できる要素があれば」しかなかった。もしそういう要素があったとしても色どりに欠けるというか少し味気ない毎日になるだろう、それでも飲みこむべきものがいろいろあってそれが大人になるということなのだろう、と思っていた。

 もし、私が今やっていること、幼い頃の夢よりはいくらか現実的なこの仕事、を将来の道として選んだら。大変なことがあるのは当然だろうが、納得できる要素は一ミリどころではないだろうし、色どり云々も心配しなくてもいいかもしれない。そんな将来が見えてきている、のかもしれない。


 そんな頃、こんどはあの美弥ちゃんから何度もメールが来た。もしよければ惣兵衛さんのかまどでアルバイトがしてみたい、口を利いてもらえないか。というものだった。美弥ちゃんはたしか、笹ピンにテナントとして出店していたアパレルショップでバイトしていたはずだ。彼女よりも彩加などが合いそうな店だったが、案の定だったか、とはじめは思った。

 歌織ちゃんに、メールで探りを入れてみた。美弥ちゃんがそんなメールを送ってきたが最近の様子はどうなのか、洋服のお店からいきなり飲食店に鞍替えするのは考えづらいが、何かあったのか。そうしたら、歌織ちゃんはいきなり電話をくれた。

「あのね、奴はね」

「え。奴、って美弥ちゃんのこと?」

「うん。もううちら、あんたの相手するのは限界だから、って言っちゃったんだよ」

「うそ。歌織ちゃんが、じゃないよね」

「違う違う。でもほら、みんなそんな感じだったじゃん。

 で、七月にね。いきなり一軍のTシャツ軍団の、松田っていうんだっけ、奴と一緒に飲み会に来たの。奴、そいつのことが好きだから呼んだんだよね。そしたら彩加が、奴に恥かかせる気マンマンになって」

「怖っ」

「彩加、奴の店に服買いに行った時『こっちの方が似合う』とかって変な服買わされた、って怒ってたことがあるから。多分、根にもってたんだよ。

 そんで奴の実家ネタのツッコミから始まって、だんだん。『誰もあんたのこと偉いとか思ってないから』って言っちゃって、そしたら松田が『実は俺らも』みたいな。来るまではどう思ってたのか分かんないけど、裏切った瞬間を見ちゃった」

「じゃあ、あの子居場所なくなるじゃん。笹ピンの店だって辞めたんでしょ」

「居場所なんかとっくにないよ、ていうか一軍からいきなり育成」

「えーっ。史上初なんじゃないの」

「うん。ていうか、奈央っちも育成だけど」

「分かってる。でも、バイトで充実してるから」

「いいなあ」

「ごめん。今、実感こもりすぎててウケた」

 バイトが充実してるから育成枠、というのはみんなにとって羨むに足る出来事なのだ、と確認したのと同時に、この忙しい時に大学の人の相手をする羽目になるかもしれないこと、それがよりによって美弥ちゃんである、ということになんともいえない面倒くささを感じた。歌織ちゃんは「シカトでいいんじゃね」と言っていたし、私もそれで通すことにした。なのに数日後、美弥ちゃんがコミュニティバスに乗って松谷に来た、履歴書持参だった。

 布佐子さんには「そう言ってる子がいるんですけど」とそれとなく話してはいた。どうあれイベント終了後までは面接などできないと分かっていたし、お店の人は私の働きぶりを評価してくれていて「人が足りない」とぼやいたことなど一度もなかった、だから美弥ちゃんのことを話した時はほんの少し悪口的な要素を入れてもいた。でも本人が来てしまって、布佐子さんがどう出るのかちょっと分からないし美弥ちゃんに会ったのも久々で私自身やはりはかれない部分があった、だから俄かに怖くなった。

 布佐子さんは、「奈央の同級生」として美弥ちゃんを迎え、フロアの椅子に座るよう促してからお手製のハーブティーを出してくれた。美弥ちゃんはカップに手を伸ばそうともせず、自ら履歴書を広げてアルバイトをしたいと改めて切り出し、布佐子さんが訊ねてもいないのに志望動機やら何やらを熱く語り始めた。「倉本さんが、こちらのお店で働き始めてとても充実している、と風の噂で」とかなんとか言っていた。猫のは茶の間の猫ちぐらに潜りこんで出てこなくなった。

「あのね。ちょっとごめんね」

 布佐子さんはそう言いながら唐突に美弥ちゃんの頬に手を伸ばし、彼女の口角の少し上を指先で押し上げた。「私、あなたのここが嫌」

 美弥ちゃんは固まってしまったし私もそうだったが、布佐子さんは指を離してからさらに続けた。

「はじめは、緊張も少しあるのかな、って思いながらあなたの顔を見てたの。でもそうじゃないみたいね。私がさっきつついたところ、ずいぶん酷使してるんでしょ、ほっぺじゃないみたいに硬いんだもんだもん。

 それから、ね。一生懸命笑顔でお話してたけど、目の奥に別の感情があるような気がしちゃって。お芝居やってる人の間では『目に芯がある』っていうんだけど、芯っていっても、いい意味じゃないの。

 ほら、お面って目のところに穴が開いてるでしょ。ちょうどそんな感じ。笑顔のお面をかぶってるけど、目のところに開いた穴から中の人の目玉が見えてる、みたいな」

「ああ、でもこの人、いつもこんな感じなんで」

 気がついたら、私はそう言っていた。布佐子さんの言葉の意味を半分も理解できていなかったし、美弥ちゃんをかばおうとした訳でもなければ布佐子さんに加勢するつもりでもなかったのはたしかだったが、なぜここで口をはさんだのか、その理由は後でいくら考えてみても分からなかった。

「ね、あなた、すごく無理してるよね。就活ってほんと大変で、それに備えていつも予行演習のつもりで頑張ってるんだろうけど。だからあんなださいTシャツとか、頑張って作ったんだろうけど。あ、ごめん。ださいって言っちゃった。

 いっぱい頑張って無理しまくって希望の会社に入れたらいいけど、後で苦しくならないかなあ」

 美弥ちゃんは笹ピンの母体の会社に潜りこむことを狙っているらしい、という噂があったのを思い出した、そんな話が本当だったとしても育成枠に転落した今となっては実現しようもないだろうが。ただ噂が広まった当時は「当然新潟勤務になるし、親が大事なら卒業後とっとと実家に戻るのが自然なんじゃないか」とみんな言っていた。

「ごめんね、意地悪なこと言っちゃって。奈央からいろいろ聞いてたから、私にも先入観があるのね。奈央はあなたのことを『すごく頑張ってるし優秀だし性格もいいけど』って。『けど』なのよ。

『けど』の奥にあるものを素直に出せばいいのに、ってきっとみんな思ってるんじゃないのかな。ごめんね、抽象的な言い方しかできなくて。

 それとも、出せないの?」

 ずっと黙っていた美弥ちゃんは「もういいです」と立ち上がり、履歴書をひっつかんで店を出た。最後の一言、その声がいつもより一オクターブは低いような気がしたし、普段の彼女ならそんな投げやりなもの言いはしないはずだ、と思いながらガラスのドア越しに背中を見送った。しばらくして、「ばーか」と繰り返す声が遠く聞こえた。「えっ」と私が呟いたら、布佐子さんは「図星だったんでしょ」とだけ言った。

 そう言われたら、美弥ちゃんの優等生然とした言動もあの実家ネタも嘘や演技だったんじゃないか、と思えてきた。酔いが回るほどにあの話をしたがったことを考えれば、あのドラマチックな家族像は単なる妄想で、お酒の力を借りて脳内でやたら輝きを増して彼女の口からこぼれ出ていたのかもしれない。

「どうでもいいけど、なんでここだったんでしょうね」

「それは彼女にしか分からないでしょ。ていうか、それこそどうでもいいじゃない」

 布佐子さんは茶の間の猫ちぐらを覗きこみ「だいろ、もういいよ」と声をかけた。だいろは「にゃーん」と答えながらい出てきて、布佐子さんが伸ばした手におでこをすりつけた。


「ではここからは、視聴者参加型お知らせコーナー『みんなの伝言板』をお伝えいたします。今日のトップバッターは、松谷温泉・宿の会の皆さんでーす」

「はい、松谷温泉・宿の会です。九月二十一日から二十三日まで、湯田町松谷の松谷公民館におきまして『松谷温泉 小さな文化祭』を開催いたします」

「松谷温泉は宿泊施設五軒で頑張っている小さな温泉街ですが、和食はもちろん、フレンチ・イタリアン・中華と、それぞれのジャンルで本格的な味を提供できる料理人が揃っております」

「そこで、まだ早いのですが『小さな文化祭』というタイトルで、食文化のお祭りをコンセプトにイベントを開催することにいたしました」

「それぞれの宿から、などの郷土料理をはじめ、一口サイズのお料理やお寿司など、リーズナブルな価格で気軽にお楽しみいただける献立をご用意いたします。また、ハイカーの皆さんの間で大人気の『惣兵衛さんのかまど』のパンも各種お召し上がりいただけます」

「三日間とも開催は午前十時から午後四時まで、無料の足湯や日帰り入浴半額サービスもあります。当日から使える宿泊割引券も配布しております。それでは、せーの」

「ご来場、お待ちしておりまーす」

「はい、ありがとうございました。では次の皆さんは」

 ローカル番組のイベント告知コーナーに宿の会の面々が出たのは、開催まであと一週間、という頃だった。その頃には公民館を借りる段取りが整い当日配布する割引券も納品され、仮設足湯(これがきっかけで、後に足湯は公民館前に常設された)を設営するための資材も手配できていた。

 テレビに出た次の日の夜、会場に貼りだす「松谷温泉ヒストリー」の制作にようやく取りかかった。みんなが私のバイト先に持ち寄った古い写真や資料、それから昔の松谷温泉を知る人の話を参考に温泉街全体と各宿の歴史をまとめた。茶の間を片づけ、模造紙を畳いっぱいに広げての作業はかなり遅い時間まで続いた。

「この辺て、駐車場がいっぱいあるねっかね」

「そうですよね」

「だいたい、宿か店屋さんが潰れた跡なんよ。戦前はもっと賑やかで、今でいう日帰り温泉ができる施設とか芸妓の置屋もあったしさ」

 の箱入り娘として生まれ育ち、婿を取って宿を切り盛りしてきたミイさんの話はやっぱり説得力がある。

「公民館がまだ小学校らった頃は向かいに雑貨屋があったしさ、文房具とか売るような店。それが分かるのは、こん中では幹夫みきおぐらいだこてね」

「じゃあ昔、志ま津さんみたいな立派な旅館とかレトロな駄菓子屋さんとかいっぱい建ってたんですか」

「はあ、おらとこよかもっといい構えの宿だってあったわんね。一番多い時で十四軒あったんよ」

「俺がっちぇ頃は、七軒らったな。廃業した宿とかの建物が、解体されねえでいくつも残っててさ。正ぼんが生まれた時点で、今と大差ねえ状況になってたと思うんだ」

「そうですね。ていうか、記録係が」

 じゃあお前やれ、と和宏かずひろさんが即決し、正嗣さんはジーパンのポケットから小さな手帳を出してメモをとり始めた。「えーと。一番多い時で十四軒でしたよね、それっていつ頃ですか」

「太平洋戦争の前から、昭和三十年代らねえ。四十年代になってから、ばたばたっとさ。時代の流れらこて。

 正嗣。なんだかおめさん、新聞記者みてえらね」

 それから正嗣さんは名インタビュアーぶりを発揮して各宿から聞き取りをし、温泉街の歴史に関する記事の執筆も任されることになった。

 夜九時を過ぎ、布佐子さんが用意してくれていたパンとミイさんが持ってきてくれたのっぺで小腹を満たした。

「ミイさん、のっぺはやっぱ自分で作ってるんかね」

「そうらこてね」

 志ま津にも長年勤めた腕利きの料理人がいるが、新潟の郷土料理の代名詞でもあるのっぺだけは、ミイさん自身が若い頃から作り続けているそうだ。

「志ま津旅館の味でもあり島津しまづ家の味でもあり、いうとこらこてね。初代のおかみ、おらの祖母が厨房に立ってた頃と同じ作り方なんだもん。それこそ宿を始めた時の味らと思うてさ、他はプロに任してもこれだけは、いうて意地張ってるんだて。

 みんな小うるせえと思うてるろうけど、絶やさずにきたもんが、やっぱあるねっかね。おらにとっては、それがのっぺなんだて」

「ミイさん、若おかみとうまくやってるか。大丈夫らか。今時の嫁なんか難しいんぞ」和宏さんが茶々を入れた。

「はあ、お陰様でうまくいってるわんね。うちの嫁はほんに素直でいい子らわ。

 ほら、この子初めて食べるんでねえんかね」

 ミイさんが差し出したおわんを受け取って、私は生まれて初めてのっぺを食べた。

「なじらね」

「おいしいです」

 私は、ミーティングでは浮いた存在で若干かまってちゃんなところもあるミイさんにそれまで抱いていたイメージとのギャップに、それから単なる田舎のごった煮料理だと思っていたし食べる機会もなかったのっぺのおいしさに驚いていた。一口目でお出汁だしの味の深さにやられてしまったし、ミイさんは松谷温泉の歴史を誰よりも深く知り、老舗旅館の暖簾のれんを守ってきた人としての誇りを誰よりも強く持って働いている人だった。正直、見方が変わった。でもそんなことを言ったら失礼だから黙っていた、ただ箸が止まらなかった。

「お気に召したみてえらね」

「はい。すごいおいしいです」

「ミイさん、きっつぇっけなあ。ムーミンに『ミイ姉さん』ていたよな」和宏さんが話を混ぜっ返した。

「おーい、今聞いったか。正ぼんが『ミイ婆さん』言うたぞ、すっげ小っちぇ声で」

「言ってない。言ってません」

「正嗣が、なにそんげこと言おうばね。ほんねほんね、おめさんは。のっぺ返しなせ」

 初めて彼らに会った時に思い描いたトムとジェリー的な小競り合い、を初めて目の当たりにした。仲よく喧嘩するミイさんと和宏さん、それを見て大笑いし茶々を入れる宿の会の面々。伝統を守ろうとする人も新しい何かを生み出そうとする人も、元の思いは同じだ。それをお互いが分かっていて信頼し合っているから、こんな風にふざけ合うことができるし、世代が違っていてもひとつのことを目指せるのだろう。

 これがイベント一週間前の夜だった。それから正嗣さんが家で記事を書き、和宏さんや武史さんが引きのばした写真を貼りつけて大きなポスターのようにする作業を数日続け、ぎりぎりで「松谷ヒストリー」は完成した。あとは当日いい天気になってもらうだけ、というところまできた三連休前夜、私達は公民館で夜遅くまで各ブースの設営や飾りつけ(といってもホームパーティーに毛が生えた程度だ、でも盛り上げたい思いだけは充分にあった)などの準備に追われた。イベント初日の朝は、あっという間にやってきた。

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