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 大停電の後に感じた二つのことを、私は冬の間じゅうずっと引きずっていた。ひとつは言うまでもなく、「一ミリでも納得できる要素があれば」という歌織かおりちゃんの言葉。もうひとつは、河野かわのちゃんの家での宴会で、あのオレンジ色の光の中で感じたこと、だった。

 思いきり単純な言葉で表現すれば「本当は新潟の人っていい人なのかも」ということ、だ。車からい出した私達三人が河野ちゃんの顔を見て歓声をあげた時、河野ちゃんの家族はみんな外に出てきて「寒かったろう」「早く上がりなさい」と口々に言い、部屋に通して「火に当たりなさい」と言ってくれた。お母さんとおばあちゃんは暗い部屋のテーブルにご馳走を並べ、お父さんはおどけて「きよしこの夜」をなぜか英語でがなり始め、みんなを大笑いさせた。河野ちゃんの部屋に移ってから三輪ちゃんが馬鹿なことを言ってしまうまでの時間は、大袈裟にいえば得難いひと時、でさえあったのではないか。

 それともやはり、ああいう非日常な雰囲気の産物、でしかなかったのか。大停電の余韻が消えてすぐにお正月になり、冬休みが終わればまたなんの面白みもない毎日が戻ってきて、よくも悪くも実直で素直で少し閉鎖的な新潟の人達との間にある隔たりを噛みしめるしかなかった。それでも、私にはあれが新潟の人が本来持っている要素なんじゃないかと思えて、いつの間にかそれは変に引っかかる事柄、になっていた。そんなことをたまに思い出しては考えあぐねているうちに春になり、私は三年生になった。

 私は、大学の隣町にある松谷まつたにという温泉街にある古民家カフェ兼ギャラリーでアルバイトをすることにした。温泉街の名前は知っていたが普通の大学生にとってはなんの用事もない場所であり、幹線道路から松谷集落に入っていく分かれ道に立つ看板に貼られた小さな求人報告が目に入らなければ、まず訪れなかっただろう。

 さっそく電話をかけてみて面接の日程がとんとん拍子に決まり、当日の午後、私は松谷温泉の駐車場に車を停めた。女店主である布佐子ふさこさんと大きなエリアマップの看板前で待ち合わせていたが、私がきょろきょろし始めたのとほぼ同時に、ショールを羽織った細身の女性が「倉本さんですかあ」と手を振った、体型に似合わずかなり大きな声だった。

「あ、どうも、はじめまして。よろしくお願いします」

「お店は、ここから歩いてすぐだから。おうちからは車で何分ぐらい?」

 等々話しながら、私と布佐子さんはお店に続く緩やかな坂を上った。松谷も私が通う大学周辺とほぼ同じというかさらに田舎、のような印象を受けた。私が住むエリアも、地元の人から見ればあれでも立派な学生街、ということになるのだろう。

 道端のたんぽぽはちょうど花盛りだったし、その脇には竹やぶから少し離れているのに竹の子が一本だけ顔を出していた。布佐子さんはそれを見て「根っこだけ遠征してきたのね、あの竹やぶから」と笑った。これから雇い主になるかもしれない人だし年長者なのに、可愛い人だな、などと思ってしまった。

「この辺って、竹の子がいっぱい採れるんですか」

「そうね。農家の人は農協や直売所に出荷してるし」

「へえー」

「うちもねえ、せっかくの名物をメニューに活かせないかと思って試行錯誤してるんだけど」

 布佐子さんのお店「惣兵衛そうべえさんのかまど」の主力商品はパン、だった。オープン当初は軽食やコーヒーを出すのみだったが、松谷温泉街の端っこにハイカーに人気の低山の登山口があり、登山客をターゲットにパンを出してみたらあっという間に評判になった。パン作り専任の従業員もいて、土日には山頂でいただく昼食を買いに訪れるお客が引きもきらない、という。私もギャラリーとしての側面は他の専門学校が作品展示会に使っていたのを聞いて初めて知ったのであり、そうでなければ「パンがすごくおいしいお店」という認識しかなかった。

 これは後から聞いた話だが、布佐子さんのご主人の康祐こうすけさんやパン職人の田中さんと竹の子を活かした商品の考案について話し合った時、康祐さんが「限定メニューで竹の子ご飯のおにぎりなどを出してはどうか」と提案したら女性二人が「それをこの店でやるつもりか」「逆に邪道だ」と大騒ぎしたそうだ。そういうお店でもある、らしい。

 お店に着き、季節の花の写真がたくさん飾られたフロアで勤務可能日や時間帯、前職の経験などを確認し、面接はものの十分で終わった。

「このイーゼルに立てたお花の写真、毎月換えてるの。これは山桜、先月の末頃に撮られたものなんだけど。温泉街にある『ぶどうや』っていうお宿のご主人が、写真が得意でね」

「そうそう、来月はソメイヨシノが満開の写真になると思う。ぶどうやさんを始め、宿の主達が『宿の会』っていうのを作ってて月二回くらいここでミーティングをやるんだけど、あなたもそのうち顔を合わせると思うよ」

 康祐さんが、受かったも同然のようなことを言った。「こういう、小さなのんびりしたお店だし働きやすいと思うよ」

 そうですか、ありがとうございます、と言えばいいものなのかどうか分からず軽いお辞儀で済ませるような感じになり、もう少しお話をしてから私はお店を後にした。

 アパートに帰って鞄から携帯を取り出した瞬間に、惣兵衛さんのかまどから着信があったことに気づいた。慌てて折り返してみたら布佐子さんが出て、さっそく来てほしい、先ほど伝えればよかったのに申し訳なかった、との返事をくれた。

「あの、いいんですか」

「いい、って?」

「面接当日に採用のお返事をいただいたのって、初めてで」

「私達もほら、普通の会社の人事課とかじゃないから。他でお仕事した経験もあるっていうし、なんとなく感じいい子だったから採用。以上! って感じなの。

 それでね。急なんだけど、こんどの土曜日、大丈夫?」

「あ、はい。大丈夫です」

「朝、そうだなあ、八時半とかは? その頃から混み始めるから」

「はい。行きますっ」

「一応言っとくけど、かなり忙しいからね」

「はいっ。よろしくお願いしますっ」

 そして週末になり、バイト初日の朝を迎えた。例の遠征竹の子は面接の日に見た時は十センチあるかないか程度だったのに、私の膝に届きそうなほどに伸びていた。面接の日は布佐子さんとお喋りしながら歩いていたから気づかなかったが、道沿いに並ぶ家は、お店のような古い建物もあるし新建材を使ったちょっと新しい家も真新しい家もある。戸を開け放ち、奥にコンバインを収めた納屋なやの軒先には、掘りたての竹の子を山積みにした一輪車が置かれていた。家と一緒に地元の生活や日常が並んでいる、といってもいいようなこの道でリアルな田舎、を見たような気がした。

 お店の数軒前に、そこまでの家並みと比べればかなり異質な家、ちょっと小じゃれた感じの古い洋風建築が建っていた。家にもオーラなどがあるとしたら、かなり異様なものを放っているような気がしてどうしようもない。そして敷地を囲んでいるのは、細竹の生け垣だった。洋風建築に竹だから、それもまた違和感をあおってくれた。そして、竹垣の中にあるものに気づいて、ぎょっとした。

 お墓、だった。明らかに道に面するような形で建てられていて、てっぺんのほうに邪魔くさい前髪のような感じで竹の枝がかかっていた。真正面に「大澤おおさわ家之墓」と彫られた墓石に凝視されているような気がして、足がすくんでしまった。

「こんちは」

 唐突に、声が聞こえた。たった今感じたばかりのリアルな田舎で少し都会じみた挨拶の声がしたことに、まずびっくりした。新潟の人、特に中高年は「こんにちは」の代わりに「ごめんください」と言う。このロケーションならそっちの方がしっくりくる、というところだったし、それ以前に声の出所が分からなかった。道端でお墓なんていうものに遭遇してぎょっとしたばかりだったのにさらにぎょっとしてしまった、お墓に話しかけられたのか、とさえ思って走り出しそうになるところだった。

 でもすぐに、視野に声の主の姿をとらえて少しだけ平常心を取り戻した。お墓の傍らに椅子を出して座っていたその人と目が合った瞬間、里芋を思い出した。そんなものを想起するような、のっぺりした一重瞼の顔だった。

「ああ、ごめんな。びっくりさせちゃったな」

「すいません。あのあの、急いでるんで」

 今考えたらひどく失礼、どころではない態度をとってしまった。足早にお店へ向かう私に「ごめんな、見慣れない顔だったもんだからさ」とその人は言い、私は振り返りもせずに「ああ、はい」とかなんとか言った。

 たぶん豪邸の部類に入るのだろうがかなり不気味な感じの洋館とお墓、そして里芋みたいな顔の男性。そこに対する第一印象は違和感の一言、だった。私を「見慣れない顔」と言ったということは間違いなく地元の人だろうし警戒すべき人にも見えなかったが、それにしても一瞬チラ見しただけでかなり不思議な印象を私に残してくれる人、だった。

 まず失礼ながら、あんな洋館の住人にはとても見えなかった。そして、くぐもった声だったがよぼよぼのおじいちゃんの声という感じでもなく、しかも標準語だった。ぼやんとした里芋みたいな顔と、脱力した感じで椅子に座り通りを眺める、というおじいちゃん的佇まいとのギャップがかなりある。申し訳ないが、そんないでたちで標準語を使う、というところに一番の違和感があった。

 もしかすると父と同じ団塊世代くらいのような気がしないでもないが、その世代が持っているもの、なんと言えばいいか分からないがそれっぽさ、がない。まるっきり年齢不詳、だった。

 そんなことがあったものだから、勝手口からお店に入った私の顔は少しこわばっていたらしい。事務所で迎えてくれた布佐子さんと康祐さん、田中さんが一様に「緊張してる?」「大丈夫?」と声をかけてくれた。でもすぐに、私がちょっとしたことで緊張するようなたちではないことがばれてしまった。連休直前の土曜日、しかもいいお天気だったから中高年ハイカーの来店が引きもきらないような状況になり、そこで火がついた私はレジの操作など教わるまでもなく、波のように訪れるお客さんをかなりいい勢いでさばいてしまった。

 戦場さながら、のお昼の営業が終わればあとはパンを買いにぱらぱら訪れるお客の応対をする程度でよく、私は康祐さんや田中さんと一緒にイートイン席の端っこでまかないをいただいた。パンと並ぶ看板メニューのカレーは大きく切った野菜がたっぷり入った家庭的な味で、容器持参でルーだけを買いに、なんて人までいる。布佐子さんは、別の席で片手鍋持参で訪れた常連客とお喋りに花を咲かせていた。

「なんかさ、倉本さんが最初入ってきた時顔が超こわばってたっけ、この子大丈夫なんかな、って正直思った。ごめん」

 白いふっくらした指に持ったスプーンでカレーをすくいながら、田中さんが言った。白衣姿にマスクをして、くぐもった早口の声で指示を出してくれた彼女も最初怖かったけど、とか内心思った。

「でも、レジとかいつの間にかできてるしさ。ていうか、去年あたり笹ピンでバイトしてねかった?」

「ああ、ばれてたんですね」

「ほんでさ。倉本さん、パン作るのって興味ある?」

「え」

「やっぱほら、美術っていうかそういうのが好きだったら手先も器用だと思うんさ。大丈夫らて、簡単らよ」

「はあ。えーと」

「田中さんとも話してたんだ、手が空いた時に生地をこねるところから始めたっていいだろ。今日の働きぶりを見て、お願いしてみてもいいんじゃないか、って」康祐さんが言った。

「今、職人って私一人でさ。今日みたいな勢いだと、一人だと結構厳しいんさ。パン出したらずーっとレジ打ち続ける、みたいな日も結構あるし」

「そうだったんですか」

「いきなりこんなこと言って混乱させて申し訳ないんだけどさ、せっかくここで働き始めたんだし、新しいことに挑戦してみるのも面白いんじゃないのかな。

 もちろん、学業に支障が出ない範囲でお願いしたいと思ってるし。ほんと急にこんな話をして申し訳ないんだけど、ちょっと考えてもらってもいいかな」

「分かりました」

 今時の子なら「ブラックバイトじゃないか」などと騒ぎそうなところだが、その時の私はなんとなく嬉しい、と感じ、そしてそう思っている私自身に気づいて驚いていた。

 常連客が帰って、ようやく合流した布佐子さんが康祐さんに訊ねた。「ねえ、奈央に話してくれた?」

 初日から呼び捨て、だった。引いてしまうほどのウェルカムっぷりだったが、とりあえずこんな感じで、私はあっという間に「惣兵衛さんのかまど」の一員として認められた。

「あのね奈央、面接の時に『竹の子を活かしたメニューを』って言ってたでしょ。私、思いついたのよ。竹の子のホットサラダ、ランチのカレーと一緒に出してみようと思って。水煮した竹の子を、根菜類とかブロッコリーとバジルソースでえるのよ。バジルもうちの畑で作ってるし」


 私が「惣兵衛さんのかまど」で働き始めて二週間が経った。康祐さんと田中さんはいつの間にか私を「倉ちゃん」と呼ぶようになった。不思議ちゃんなのかとさえ思われた布佐子さんは失礼ながら大体そんな感じの人、だったが、片田舎でカフェ兼ギャラリーというしゃれた形態の店を成功させた先駆者として、当地では一目置かれる存在でもあった。

 カフェ兼ギャラリー、そしてパンが看板になっている「惣兵衛さんのかまど」だったが、布佐子さんがお父さんの実家である築百年近くの古民家を従兄夫婦から譲り受けて夫の康祐さんとともに東京から移り住み、五年前に手づくりパンや軽食でゆっくりできるお店としてオープンさせたものだった。惣兵衛さんというのは、この家のご先祖の名前だ。ちょっと田舎に行くと屋号といって、ご先祖の名前やかつての家業が家ごとの渾名として使われ続けている。

 かつて土間として使われていたスペースを板張りの床にしてパンの棚やテーブルを並べ、そこに面した茶の間をミニ図書館にした。そこには布佐子さん厳選の絵本をずらりと並べた本棚がふたつと、ごろりと横になりたくなるような大きなソファやクッションもある。長居して次々と絵本を手にとって、というひと時を過ごすのは、実は子供より大人の方が多かった。そしてこの広い茶の間は、顧客からの求めがあれば本棚に覆いをかけてギャラリーに早変わりした。

 一応、土間だったフロアは洋風、畳敷きの茶の間は和風な感じになっていたが、その片隅には藁で編まれた小さなドームがひとつずつ置かれていた。お店の看板猫のための猫ちぐら、だ。猫ちぐらとは藁製のいわばペットベッドで、新潟県北部でうんと昔から作られている民芸品なんだそうだ。看板猫の名前は、新潟弁でかたつむり、という意味だ。きじとら猫で、丸くなると縞模様の毛がかたつむりの殻のように見える。

 そんな、街なかにあってもいいようなお洒落な雰囲気がありながらもほんの短い時間だけ戦場のようになるこのお店で、その戦場のようになる時間帯をサポートする担当のような感じで働き始めた私は私でいつの間にかこのお店が大好きになり、授業をさぼってでも働きたい、と思うほどになっていた。パン作りの手伝いに対する返事は、一日だけ考えて「やります」と伝えておいた。

 お店では毎月第二・第四水曜日の午後、ドアに必ず「本日貸切」のプレートが掛けられた。松谷温泉に五軒ある宿の主達が作るグループ「松谷温泉・宿の会」が、温泉街での企画についてだとかお客の傾向やニーズがどんなものなのか、等々を話し合うミーティングをするためだった。この日、私はそれまで道ですれ違う程度だった彼らと、初めてまともに顔を合わせることになった。

 この日は、から大おかみのミイさん、他の宿からはそれぞれの旦那衆が参加していた。テーマなど決めずランダムに話し合っているうちにお題が決まっていく、という感じで、「ぶどうや」の影が薄いよね、みたいな話にだんだんなっていった。惣兵衛さんのかまどに飾られている写真をいつも撮ってきてくれるという主の幹夫みきおさんは、いかにも人がいような顔をしているがそれが逆に頼りないオーラの元になっている感もある。

「影がうーせらの濃いらの、そんげのいいこてね」

 ミイさんが口をとがらせた、彼女から見れば新しいことを次々仕掛けようとする「若水わかみず」の和宏かずひろさんはちょっと面倒くさい存在らしい。その割にはミーティングに頻繁に顔を出すし、若いながらも宿の会のリーダーとしてみんなを引っぱってくれる和宏さんに全幅の信頼を寄せていながら素直にそれを表現できない、らしい。

「おらとこなんかただの割烹かっぽう旅館らすけ、そんげ個性がなんだのなんか言われたって困るわ」

「いや、志ま津さんは正統派の割烹旅館らろ、それが個性になってるんけいいんて。建物らたって、あんげ立派なんしさ。今、ぶどうやさんがさ」

「幹夫はどう思うてるんね。おめさんの宿らねっかね」

「いや、俺もさ」

「志ま津さん。そういう話、前からあったんですよ。若者の間では」武史さんが補足した。旧「辰巳たつみ」の娘さんと結婚後しばらく都内の店で腕を磨き、松谷に移って宿の屋号を「TATSUMI《タツミ》」とローマ字表記に改め、新潟県内では馴染みの薄かったオーベルジュにリニューアルして大当たりさせた彼は東京出身だそうで、普通に標準語で話す。

「あ、そういんかね。わーしょの間で、かね」

「ほら、ハナ曲げた」

「あはは」

「よし、志ま津さんがおとなしくなったとこで。主役のぶどうやさん、お願いします」

 和宏さんに促され、ぶどうやの幹夫さんが話し始めた時にお店のドアが開いた。あの里芋のような人、だった。この時に、彼は左足の自由が利かず杖を使っていることを知った。

 この人には、初対面の時に失礼な態度をとってしまったからこんど会った時は普通に笑顔で挨拶しよう、と決めていた。それ以降、バイト初日と同じようにお墓の脇に座って通りを眺めているのを何度か見ていて、そのたびに私は自分から声をかけるようにしていた、ただそれだけで言葉を交わしたことなど一度もなかったが。でもドアには貸切のプレートを掛けていたし誰かが入ってくること自体予想外だった、だからまた少し、この人に勝手にびっくりしてしまった。

「いいかい」

「いいよ、どうぞ」和宏さんが答えた。「今さ、ぶどうやさんの新企画いうテーマで話し合ってるとこだったんさ」

「そうか。幹夫ちゃん、いじめられてないか」

「幹夫でねえて、おらがいじめられったわ」

 ミイさんが口をはさんだタイミングが絶妙だったので、みんな大笑いした。

ていちゃん、助けてくれね。ランチも始めて好評ではあるんけどさ、もう一つ目玉がほしい、いうとこらったんだて」

「ああ。目玉、ねえ」

 みんな彼と顔見知りのようだし、五十代半ばのぶどうやの旦那さんと「幹夫ちゃん」「悌ちゃん」と呼び合うということは、幼馴染か何かなのか。なるほど、見れば同世代にも見えてくる。

悌市ていいちさん、なに飲みます?」

 奥から布佐子さんが声をかけた、ということは常連でもあるのか。

「あのさ、カレーまだあるかな。あと、コーヒーと」

 数分後、悌市さんと呼ばれた人は運ばれてきたカレーを食べながら「幹夫ちゃん、絵が好きだっただろう」と言った。

「そんげの、よう覚えてるね」

 空気読まずに思い出話ですか、と一瞬思った。でもここからすごい方向に話が進んだ。

「今はカメラらがんね。ここの店にも、俺が撮った写真こと飾ってくれったんだ」

「そうそう。あの福寿草の写真、幹夫さんが撮ったんですよ。ほんと玄人はだしだもん」

「そうか。いや幹夫ちゃんってさ、ガキの頃、しょっちゅう一人でいなくなってさ。そういう時は、だいたい山の中腹まで行って絵を描いてたんだ、スケッチブック持ってさ」

「そうらったろっかね」

「ほんとに、松谷山のことならどこに何の木があるとか、なんでも知ってる子だったんだ。今でもそうなんだろ」

「まあね。カタクリらの雪割草らの、やっぱそういうのは今でも探して撮るのは好きらよ」

「あっ」

 私と同世代くらいに見え、ちょっと控えめな印象がある「翠松館すいしょうかん」の正嗣まさつぐさんが声をあげた。「山歩きツアーと写真教室、ってどうですか」

「なにね。俺がかね」

「はい。松谷山のビューポイントを知り尽くすぶどうやさんのガイドつき山歩き、写真撮影のレクチャー。帰ってきたらおいしい昼食と日帰り温泉で疲れを癒す、と。結構よくないですか。ほら、山歩きする中高年ってだいたいカメラ持参だし」

「おおー」

「なるほど。今までにないね」

「よし、それいこう。これからの季節、最高らろ」

「ぶどうやさん、どうですか」

「ああ、イメージがだんだん分かってきた。ちっと考えてみるわ」

 そこから価格なんて話にまで発展し、ぶどうやの新企画はあっという間に決まった。

「ほんき、こいつはいいとこ持ってくよなあ」和宏さんが、正嗣さんの肩をばちばち叩きながら言った。

「ていうか、悌市さんがすごいです」

「悌ちゃん、ありがとうね」

「やあ、こんなこと考えるのも面白いもんだな」

 そこで本題の議論は終了となった。残り三十分は幹夫さんと悌市さんの思い出話からミイさんの昔話になり、大いに盛り上がった。やはり二人は幼馴染でしかも同級生だった、お互い活発なほうではなかったからいつも一緒にいたんだそうだ。

 さんざんお喋りしてミーティングはお開き、となった。ミーティングというよりは学校の仲間が放課後に喋ってる、的な感じだった、悪い意味ではなく。今回の顔ぶれの最年長はミイさんで、最年少は翠松館の正嗣さん。七十代から二十代前半までばらばらなのに、どうしてここまでざっくばらんになれるのか、どうしてここまで飾らずにいられるのか。ミイさんと和宏さんは放っておけばトムとジェリーのような小競り合いを見せてくれそうだし、五軒それぞれが商売敵という言葉など知らないような顔をして仕事の話をしている、それはだいたい松谷温泉のために、みたいな話だ。

 同業者同士って、もっとぎすぎすしてるものなんじゃないか。不思議な違和感を持った。そう決めつけていたのは父から聞かされていた仕事の話が元になっているが、こんな風に働いている人もいるんだな、と目から鱗の思いだった、少し大袈裟だが。

 いつもは賄いをいただいた後すぐに帰ってしまうし、この日だってミーティングに来た人達に挨拶したらすぐ帰るつもりでいた、でも話を聞いているうちに面白くなって最後まで居残ってしまった。外はもう暗くなり始めていた、こんな時間まで松谷にいたのはもちろんこれが初めてだった。

「みんな、すごく仲よしですね」

「まあ、元はライバル意識みたいなものから始まってるんだけどね。TATSUMIさんが繁盛してから、若水さんが『じゃあうちはイタリア料理人を呼ぶ』ってなって、ぶどうやさんは中華で。翠松館さんと志ま津さんは和のままできたけど、そうこうしてるうちにいつの間にか『みんなで団結すればもっと盛り上げられるんじゃないか』って話になって」

「昔は宿が十軒以上あったし組合的なものもあったそうだけど、どんどん廃業しちゃってその組合も機能しなくなってたのね。それをあの和宏さんが」

「ふーん。あと、悌市さんっていう人の謎がちょっと解けました」

「お墓の脇に座ってるの、見たことあったんだ」

「かなり頻繁に。ちょっと後遺症っていうか、あったんですね」

「交通事故で、ね。やっぱりあれのせいでちょっと老けて見えるけど。もう十年くらい経ってるみたいね」

「四十五の時、って言ってたかな。事故に遭った頃はまだ東京にいて印刷会社で働いてたんだって。松谷で生まれ育って中学卒業後すぐ上京したそうなんだけど、実家はもうない、って」

「え、あの家って実家じゃないんですか」

「その辺のことを話し始めると、またかなり複雑でね。とりあえず、彼はあの家で生まれて育った人ではない」

「ふーん。なんか大変っぽい。すっごい苦労したんですかね」

「うーん、まあね。

 あの家は、松谷温泉を今みたいな観光地にした方の邸宅だったの。みんな大澤様っていうでしょ、お孫さんの代で途絶えちゃったんだけど。初代は亡くなる前から『松谷の賑わいをいつでも見れるように』って、通り沿いにお墓を建てるって決めてたんだって」

「屋敷墓、っていって、家の敷地内にお墓を建てる習慣が昔あったから珍しいことではないんだけど。裏庭なんかに建てられてるのは、よく見かけるね」

「私達がお店をオープンした頃は大澤家の使用人だった人が夫婦で管理してたんだけど、二人とも亡くなって。で、悌市さんは音信不通状態だったんだけどあの家の本家の人が探し出して、『あの家に所縁ゆかりがある人はあんた一人しかいなくなったんだから、管理を兼ねて住んでくれないか』って。それが一昨年だったね、康祐」

「そうだね。あの体で、あんな大きな家で一人暮らしって大丈夫なのか、って思ったけど、みんなちゃんと助けてくれてさ。そこはさすが松谷、だよ」

「そうね。都会の真ん中だとか、逆にちょっと閉鎖的な土地柄だったらこうはいかないでしょ」

「あのあの、なんか訳ありなんですか」

「そう思った?」

「二人の口調が、もろに」

「うーん、まあ。どうしてもそうなっちゃう、かなあ。ま、そのうち分かるかもね」

「にゃーん」

 看板猫のだいろが合いの手を入れた。

「だいろも知ってるの」背中を撫でてやったら、ちょっと困ったような顔をして唐突に毛づくろいを始めた。

 それが、私が宿の会の面々と、それから悌市さんと初めてまともに関わった日の出来事、だった。


「じゃあ『しょったれ』は」

「えー。しょうがない奴、みたいな」

「残念。『だらしない』。じゃあ正ぼんからの問題」

「のめしこき」

「のめし…… 嘘つき、みたいな」

「全然違う。『怠け者』」

「もう、分かる訳ない」

「ははは。ちなみに『分かる訳ない』は『なに分かろうば』って言うんぞ」

「『なに』って、なんの『なに』なんですか」

「『なに』は『なに』らろ。

 じゃあ最後の問題、正ぼん」

「えーとね、『モウテがない』」

「分かりませんっ」

「あのな、不器用っていう意味なんぞ。こいつ墓穴掘ったな、自分のこと言うったぞ」

「え、俺」

「モウテがねえ、いうのは生まれつきのあれもあるっけしょうがんねえ、なるべく努力してもらってさ。『しょったれ』とか『のめしこき』とか言われねえようにせえや、『のめしこき』なんか言われたら最悪らぞ。なっ、正ぼん」

「はいっ」

 六月末、私がアルバイトを始めてから二か月近くが経った。宿の面々ともすっかり打ち解け、この日はお茶をしに来た和宏さんと正嗣さんの出題による新潟弁クイズに興じていた。この時に前から気になっていたこと、ミイさんの名前が可愛過ぎる件、について訊ねてみた。新潟弁はイとエのアクセントが曖昧あいまいだから、ある程度以上の年代の女性はミイさんのようにイで終わる名前の人は珍しくない。他地域の呼び方にならえば、ミエさんということになるのだろう。ということだった。

 こんな風に、時間があれば店に顔を出しては世間話に花を咲かせる彼らにつき合っているうちに松谷という土地のことも少しずつ分かってきたし、こちらに来て三年目にようやく新潟で暮し始めた、と実感できているような気がした。私のパン作りの手伝いも少しずつ本格的になり、そして正直、学校よりもお店にいる時間のほうが長くなっていた。

 悌市さんがミーティングに顔を出してパンやカレーで遅めの昼食をとり、耳だけ参加しているのもお馴染だった、彼自身この時間を少し楽しみにしているらしい(それは私も同じだった、学校の授業などよりもよほどためになるような気がしていた)。それでまた新しい企画のヒントになるような一言を発してくれたりする。宿の会にとって悌市さんは頼もしい存在だった、元野球少年の和宏さんは「代打の切り札」「超優良助っ人」などと呼んだ。

「なんか、悌市さんの意見って違った角度から出てくる、みたいな感じがして。どうすればああいう感覚って身につくんだろう」

 方言クイズが終った後、二人に話を振ってみた。「私も何かすごいこと言って、『おおー』とか言われてみたいんですけど」

 康祐さん達の失笑に反応したくなったように一瞬見えたが、敢えてスルーして和宏さんは答えてくれた。

「やっぱ当事者じゃねえっけ、っていうのはあるろうな。俺らとかずーっと宿にいるとさ、先入観とか固定観念で新しい見方ができねなるんて。だっけ悌市さんみてな、違うとこからの意見て大事になってくるんさ」

「え、それだけですかね。だったら私だって宿で働いてる訳じゃないし、いいこと言えそうな気がするんですけど」

「奈央やんは、まだ若いしな。ま、そのうちいいこと言えるようになるこて。ていうか、そんげいいこと言って注目されてえんか」

「えっと、あの。なんていうんだろ。違う角度っていうのは、元々が違うっていうか、うーん。ものの見方っていうのかな。当事者じゃないから、っていうのともまた違う気がするんですよね。印刷会社って、けっこう特別な感性が身につくのかな。クリエイティブな、みたいな」

「いや、デザインとかやってたら倉ちゃんが言ってるみてな感じになるかもしれないけど、また違うと思うよ。ていうか、さっきから言ってるのって出版社のイメージみてな気がするな。俺もよく分かんねけど」

「今も家でそういうのやってるんろう、誤字脱字探して赤ペンでチェックする仕事らしいぞ。俺、そんげ仕事絶対無理らわ」

「うん、若水さんがそういう仕事してる姿って想像できない」

「奈央やん、今何か言わねかったか」

「いやいやいや。

 でもなんていうんだろ、悌市さんって天然なのかなって思うと鋭いこととか深いこと言ったりするじゃないですか。いきなりミーティングに入ってきてカレー食べたりとか、空気読めない感もあるけど。なんかね、子供と仙人を足して二で割ったような感じ」

「はははは。お前、それ本人の前で言えるんか」

「言えない言えない」

「じゃあ、俺が言っとこうか。奈央やんがそんげこと言ってたけど、って。ついでに子泣きじじいっぽいキャラって言ってた、とか」

「和宏さんのほうが全然ひどいじゃないですか」

「ははは。でもさ、飄々ひょうひょうとして屈託がねえし、いい人らいな」

「なるほど、そう考えると子供と仙人を足して二で割ったような感じ、というのは言い得て妙だね」康祐さんが言った。

「ていうことは、奈央やんはさっきいいこと言ったってことになるぞ。正ぼん、『おおー』って言ってやれ」

「『おおー』。ははは。倉ちゃん、よかったね」

「なんか、馬鹿にされてる感が」

「ま、いいこと言うっていうのは年の功もあるいな、絶対」

「それから、本人の経験ね」

 布佐子さんのこの発言は、若干不思議ちゃんな彼女の面目躍如、ということになってしまったらしい。ここでまた、普通に悌市さんのことを話している感じではなく訳ありな悌市さん、のことを話している雰囲気になった。

「倉ちゃん。公然の秘密、って言葉があるだろ。そのうち分かるよ、そのうち」

 康祐さんが私をたしなめた、また興味津々の顔になってしまっていたようだ。よほど繊細な話らしいというのはとっくに察しがついていたが、私だけが知らないとしたらちょっと悔しい、みたいな思いもあった。こういう幼さがある限り、知る資格を得られないのかもしれない。

 そんな話をしていたら、ぶどうやの日帰りツアーがひと段落ついた幹夫さんが悌市さんを連れてお店に来た。

「ぶどうやさん、大盛況ですね。お疲れ様」

「ほんにさ、お陰様でさ。やあ、悌ちゃんがあん時いてくれてほんによかったんだわ、そうでねえば今頃また『どうしょばな』なんか言うったこて」

「お二人とも、なににします?」

「今日さ、俺、宿で料理少し作らして持ってきたんだて。康祐さんも、昼まだらったら試食も兼ねてどうぞ」

「おっ、ちまき。倉ちゃんもいただこう、ぶどうやさんの中華ちまき、すごくおいしいんだよ。ちょっと温めてきて」

 布佐子さんがプライベート用のジャスミン茶を出してくれて、中華ランチ会が始まった。日帰りツアーは土日と平日のうち二日を実施日としてみたが、盛況すぎて本業に支障が出始めているから少し調整してみる、といった嬉しい悲鳴込みの報告もあった。

「梅雨入りしたら、こんだガーデンが見頃になるろう。ちっと頑張ってみるさ」

「ぶどうやさん、無理しないでね」

「ありがとう。それにしてもさ、悌ちゃんがよう俺の絵のことなんか思い出してくれたな、と思うてさ」

「なに、幹夫ちゃんといえば絵だっただろ」

「俺よか上手い奴なんかいくらでもいたろうにさ」

「やっぱり、いつも一緒にいたから尚更印象に残ってるんだな。俺達の頃なんか一学年一クラスだったんだもん、だからクラス替えも何もなしでさ。今公民館になってるとこが、昔小学校だったんだ」

「へえー」

「ああそうか、あんたは来たばっからすけ分かんねな。敷地の端っこに石造りの台座があるがんね。あれ昔、二宮金次郎さんが立ってたんだ。ほんで門柱ばっか立派らけど、あれも学校の名残らこて」

「だから、あんなだだっ広いんだ。でもあそこに校舎建てたとしたら、けっこう狭いですよね」

「なに、田舎の学校なんてあんなもんだよ。

 ああ、それでさ。思い出した。俺も勉強ができるほうじゃなかったしちょっと意気地のない子だったけど、幹夫ちゃんも、ほんとにさ」

「やあ、悌ちゃん、なに言うんだ」

「ほんと、気が小さいっていうか心配性っていうかさ。泣きそうな顔して『悌ちゃん、どうしょば』って俺の席に来るから『なあした』ってくだろ、そうすると『消しゴム忘れた』だとか『今から便所に行って大丈夫らろっか』だとか、そんなことばっかりなんだ。消しゴムぐらい隣に貸してもらえばいいのにさ、いちいち俺に訊きに来るんだ」

「あははは」

「いや俺もさ、今であれば、なんでそんげことぐれえ自分で考えらんねかったんか、と思うよ。ほんでも、なんでらろうなあ」

「それでさ、幹夫ちゃんがそんなこと言ってると他の子がそれを聞きつけて、幹夫ちゃんの隣の子に『今日、消しゴム貸してやってくれね』って頼んでやるんだ」

「ああ、カズイらろ。やっぱ子供の頃はさ、女の子のほうが大人げなんだいな。そんげして周りの子が助けてくれるもんだすけ『俺もいつまでも甘えたみてな音出してらんねわ』て思って、ほんでやっと自分からなんでも言うようになったんだ」

「まあ、人を放っとけない、っていうのは松谷の気風だよな」

「そういんだ。松谷も一時、人は人、自分は自分、みてえな雰囲気になったけどさ。それこと、ここにいる和宏が軌道修正したんだ」

「ぶどうやさん、褒めてもなんにも出ねえぞ」

「いやいや。ほんにさ、宿の会ができてよかったんだて。正嗣も大学出て今年東京から帰ってきたばっからけど、和宏に引っぱってもろうてようやってるわ」

「俺なんか、全然まだまだです」

「でも和宏ってさ、昔グレちゃってどうしようもなくて、夜なんかどこ行ったか分かんないようになってたんだろう」

「あああ。いいろう、その話は」

「ほんだほんだ。あん時はほんき、みんな心配しった。『若水は終わった』言うったもんだけど、お前なりに社会勉強しったんろう」

「あはは」

「ええー、新事実。あ、そういえばさっき、怖い瞬間があった」

「なんだや、奈央やん」

「その後、タッチの差で先代に孫の顔見せらんねかった、いうことがあってさ。四十九日やるかやらねえかの頃に双子が生まれたんだ。それかららわ、ほんに変わったのは」

「ぶどうやさん、今日はテンション高めらな」

「ああ、やっぱ仕事がうまくいってるっけ嬉しいてさ。和宏、お前には感謝してるんぞ」

「感謝してるんなら、昔のこととか言わねえでくれや」

「なに、最初に言うたのなんか悌ちゃんらねっか。

 悌ちゃんらたって作文が得意でさ。賞ぐれえ貰うかと思えば」

「へえー。悌市さん」

「ああ、まあ、な。そんなこともあったな、先生に一回褒められただけだよ」

「ほんでも国語が得意らったんだわ、漢字の書き取りなんかいっつもようできったもん」

「作文、どんなテーマで書いたんですか」

「父の日ん時らな、たしか二年らったわ。当然『お父さんのこと』いうテーマで書いてこい、いう話になるんけど、父ちゃんのいねえ子いうがんは悌ちゃんだけじゃねかったしさ。だすけ先生が『そういう子はおじいちゃんでも親戚のおじさんでも、日頃世話になってる年長の男性について書きなさい』言いなさったんだ。ほんでさ、悌ちゃんは兄ちゃんのこと書いたんだ。

『僕のお兄さんは、頭がよくて体育もできて、歌が誰よりも上手です。だからみんなの人気者です。僕はいつもお兄さんから勉強を習っています。お兄さんから漢字を習っていたら、書き取りがちょっと得意になりました。優しくて頼もしくて、大好きなお兄さんです。

 僕はお兄さんと半分だけ血がつながっているから、少しぐらい似ててもいいはずだと思いますが、似ているところがありません。

 夜、宿題だけじゃなくていろんな勉強をたくさんやって、寝て起きたらお兄さんみたいになっていればいいと思います。でもそうなるはずがないです。少し残念です。』

 みんな悌ちゃんが読んだの聞いて大笑いしたんけど、先生が拍手してさ。東京帰りらすけ、ちっと気障きざなとこのある先生らったんだ。

『いやあ、自由な発想がいい。素直な気持ちを分かりやすい言葉でみんなに伝わるように書く、それは実に難しいことなんだ。お兄さんを誇らしく思う気持ち、感謝、憧れがぎゅっと詰まったような文章だ』なんか言うてさ、ほんき大絶賛らったんだ。『最後に、お兄さんにちょっとでも近づけるように頑張ります、という一文があったら五重丸だな』なんか言われったけどさ。

 ほんに、悌ちゃんにああいう作文書かせるだけのことはあるわ。この人の兄ちゃんはほんに快男児らったわ、俺もよう助けてもらったもん」

 懐かしさのせいか泣き笑いしながら一気に喋り終えた幹夫さんは、私達の表情を見て固まってしまった。

「あきゃ。ああ」

「ぶどうやさん。この子的には初耳、だったんで」

「ああ。勘弁ね。ああそうか、あんた聞いたことねかったんか」

「なに、いいよ。幹夫ちゃんが嘘を言った訳でも失礼なことを言った訳でもないだろ、事実なんだもん。

 それで、俺の兄貴っていうのはさ。俺達の五つ上だったんだけど、死んじゃったんだ。俺が中学三年の時に。それでなんだか、俺も歯車が狂ったようになって、挙句に事故に遭ってさ。

 まあまあ、みんな知ってることなんだしさ」

 そういうことだったんだ、それはみんな触れたがらないはずだわ、と納得がいった。そして、あのお墓に入っているのはきっと悌市さんのお兄さんなんだな、ということも分かった。

 若いうちにお兄さんを亡くすという辛いことがあり、それを乗り越えた人だから子供と仙人を足して二で割ったような飄々とした人になったのかもしれない。それは悌市さんが、柔軟さのようなものを生まれながらに持っていた、だから歯車が狂ったと本人は言っていたがそれなりに乗り越えることができたということでもあるかもしれない。そうなれたのは、彼や幹夫さんを育んだ松谷の空気、のようなものも一因としてあるだろう。

 それにしても、というところだった。じゃあ悌市さんのお兄さんが若くして亡くなってしまった理由は、そして実家でもないあの家のお墓に入ることになった理由は。悌市さんもあの家と所縁があるとしても、一体どんな縁があるんだろう。本人も家族も謎だらけの人っているんだな、と少しだけ思った。


 夏休み。バイトし放題の時期になり、私は松谷に完全に入り浸るくらいの勢いで働き続けていた。この少し前に、お店では小さな黒板を買った。営業時間やお勧めメニューを分かりやすく書いて店頭に置くためだったが、それを書く係が私になった。私は何色ものチョークも買ってもらい、ちょっと勝手なセンスでイラストも描いてみたりしたがお店の人も宿の会の面々も「いいね」と褒めてくれ、和宏さんは「この黒板が奈央やんの陣地らな。お前のカラーが出てきたなあ」と言ってくれた。

 温泉街はやや落ち着いた時期だったが夏の低山へ涼みに来るお客は多く、惣兵衛さんのかまどはてんてこ舞いの忙しさだった。宿の会では、秋の書き入れ時にむけた企画を考えておかなければ、と動き始めていたものの頑張れば頑張るほどネタが出てこない感があり、ミーティング以外で顔を合わせるのもいけないのか気持ちが切り替わらず世間話で終わってしまうことも少なくはなかった。ミーティングらしくならない雰囲気に便乗して、私は前から気になっていたことを訊いてみることにした。「えっと。ぶどうやさんって、なんでそんなおいしそうな名前なんですか?」

「ああ。ぶどう、いうのは果物の葡萄ぶどうでねえて、ご先祖の故郷の名前らがんね」

「地名なんですか」

「そういんだ。昔、出羽でわ街道いうのがあってさ。新発田しばたのまだ北に村上いうて城下町があるろう、そっから山形に抜ける街道らったんけどさ。途中に蒲萄ぶどういう宿場町があって、俺のご先祖はそこで旅籠はたごやってたんだわ。今の朝日村らな」

 村上と山形の鶴岡城下を結ぶ出羽街道は殿様やお侍さんの往来に使われただけでなく、出羽三山への参拝ルートとしても賑わった。また宿場ではないが街道沿いには能の文化を継承している集落もある、きっと旅人から教わる機会があり、それを今に至るまで伝え続けてきたのだろう。蒲萄は村上から数えて三つ目の宿場で、街道一の難所といわれていた蒲萄峠を越える前に一休み、ということでその地に逗留とうりゅうする人も多かったようだ。

 しかし明治維新後は人の流れが変わり、蒲萄宿じゅくもだんだん寂しくなってきた。それでも幹夫さんのご先祖は年老いた当主と兄弟で細々と旅籠を続けつつ今後の身の振り方を考えていたが、ちょうどその頃松谷温泉を観光地化すべく動いていた大澤様が当地を訪れ、宿経営のノウハウがある人に移住してほしい、と持ちかけた。

「そん時の当主は、宿を続けるかどうかちょうど迷ってた。渡りに舟、らった訳さ。ほんでも『我々には先祖代々受け継いできたもんを守るいう役割があるすけ、一家で移る訳にいかねえ。長男でねえて次男を行かせるけど、それでいいか』言うて、大澤様も『先祖代々のもんを守るのは当然だ。来てくれるだけでもありがてえ』言いなさったんだと。それでまあ、分家した訳らな。

 次男は自分の父親から『この蒲萄宿の出だいうことを忘れるな』言われったすけ、ぶどうやの屋号で宿を開いたんだ。その後本家のほうは早いうちに宿を廃業して、荒物屋に鞍替えしたんけどさ。今の当主はサラリーマンらわ」

「ちなみにね、TATSUMIも移住組なんだよ」

 武史さんが言うには、前身である辰巳のご先祖もぶどうやと同様大澤様のスカウトを受けて、北国ほっこく街道の稲島とうじま宿、今の新潟市西蒲にしかんまきから移り住んだ。松谷にルーツを持つのは、源泉の一番近くに住み、そこを管理しつつ団子などを振る舞う商売をしていた志ま津、それから翠松館の二軒だった。

「それにしても翠松館さんは大したもんらわ。才覚があったんな」

「ご先祖は普通に農家やってたらしいんで。まあ、素人からのスタートだった、っていうことを考えれば」

「他の宿は淘汰された、っていいますもんね」

 翠松館は開湯時から続く他の四軒とはちょっと違って、松谷温泉が観光地として賑わい始めた頃に地元民など宿経営の経験がない人が建てた何軒かの宿のひとつ、いわば後発組、だった。しかし幹夫さんが言ったとおり代々の主が商才を発揮し、いち早く鉄筋造りの建物にしたり大宴会場を完備したり、他の四軒を追い抜いて温泉街随一の宿に成長した。

「志ま津ことは褒めねえんかね」

「志ま津さんは団子屋やってたんだねっかね、素人からのスタートとは言わねえわ。

 TATSUMIさんは墓参りなんかいうても、すぐそこだっけ楽らろう。ほんき、うちなんか初代が本家の墓の隣に建てる、いうて決めったもんだすけさ。正源寺しょうげんじさまに建てればかったてがんに。TATSUMIさんはいいなあ、巻らもん」

「たしかに、朝日村よりは近いですね」

「ほんでもさ、墓参りに行くたんびに冒険旅行みてな気分になるけど、そういう時しか本家の人に会わんねしさ。なんていうかな、自分のルーツいうか出自いうか、そういうことを再認識するいい機会になるんだいな。村上の辺りまで行くとなまりも東北げになるんだ、俺の家もこっちにずっといたらこんげ喋り方しったんかなあ、なんか思うたぐらいにしてさ。

 ほんでさ、うちのせがれが五代目になって、また俺と同じようなこと言いながらも毎年墓参りに行ってくれるんだこて」

「ぶどうやさん、息子さんいるんですか」

「ああ、今は瀬波せなみで修行の身らわ」

「蒲萄宿に近い場所を選んだんですよね」

「そういんだて」

「みんな、お盆にお墓参り行くんですか」

「いや、お盆はさすがに行ってられないけど。ちょうど里帰り客が増えるし、ちょっと時期をずらしてね」

「秋口に行けばさ、ご先祖様も『お盆は忙しいてらんねかったな、商売繁盛でいいこてや』いうて喜びなさるろう。

 倉ちゃんは東京の人らすけ、墓参りなんかしたことねえろう」

「そうですね」

「なんだ、盆正月は海外らか」

「いやあ。でもたしかに、旅行とか」

 親がバブリーなので、小さい頃からだいたい海外に行ってました。とは言えなかった。宿の人達の、うんと昔から受け継いできたものを大事にしているんだよ、的な話を聞いた後にそんなことが言えるはずもない。そして、幹夫さんが言ったルーツ、出自、という言葉。私自身のそれを全く知らない、聞かされたことがない、ということをこの時改めて、そして中学の時なんかよりもはるかに強く認識した。

 そういえば。父は、いったいどこから。

 そんな言葉が頭をよぎった時、和宏さんが「おい、ちっと話さねえか」と言った。

「若水さんのご先祖も、どこかから」

「おおごと」

「え」

「だっけ、おおごとらてば」

「ははは、俺と同じ出羽街道から来たんだて。蒲萄のまだ先に大毎おおごという宿場があったんだがんね。やあ、和宏がグレてしもうた時は大ごとらったわ、のう」

「ほらな。お約束の駄洒落が出るんて」

 やっとミーティングが始まった。ただでさえネタ切れなのにそれまでの話が盛り上がり過ぎて渋々本題に戻ったせいか、いつもなら雑談の中からぽっといいアイデアが出てきたり、なんてこともあるのにそういう瞬間がなかなか訪れない。

「ちょっとー、誰かー。降りてきた人、いませんかあ」

 武史さんが、額をこすりながら言った。とりあえず宿の会のメンバーの中には、妙案の神様が「降りてきてる」人はいなかった。

「もう、なんでもいいよ。何かない?」

 なんでもいいのなら、と思って私はそっと手を挙げた。「えっと。文化祭みたいなこと、やりませんか?」

「何それ。どんな感じ」

「えっとですね。何か作品を展示するとかじゃなくて、バザーみたいな感じで」

「バザー?」

「はい。どこか公民館みたいなところを貸してもらって、皆さんそれぞれの宿が作ったお料理をちょっとずつ、そんな高くない価格で食べてもらって。あと足湯とかもあって」

「あ。いいかも」

「で、来てくれたお客さんに宿泊割引券とか配ったり。リピーターができるかもしれないじゃないですか」

「おおー」

「ついに、奈央やんにも『おおー』って言ってもらえる日が来たぞ」

「『おおー』いただきましたっ」

「学生さんならではの視点がいいね」

「最近ほとんど行ってないですけど。そうだ、それからね」

「なになに」

「さっきの話。松谷温泉の歴史についてまとめたのを、模造紙に書いて会場内に貼りませんか。さらに文化祭っぽくなるじゃないですか」

「おおー」

「『おおー』二連発らな、奈央やん固め打ちらな」

「昔の写真とかあったら、拡大コピーしていっしょに貼ったりさ。志ま津さんいう生き字引がいるねっかね、監修は志ま津さんらな」

「イベントが終わったら、ホームページにそれを載せましょう。松谷ヒストリー」

「いいねいいね」

「そうか。今回は倉ちゃんに降りてきてたか」

 おどけて私に柏手を打ってみせた武史さんに倣って、みんな私を拝んだりした。

 実施日はお彼岸の三連休。どうせなら日帰り入浴も安く解放しよう、メニューなどを考えなければいけないし割引券の類だって印刷業者に手配しなければ、ホームページでも告知しなければいけないから諸々つめていかないとあっという間にお彼岸が来てしまうぞ、ということで、イベントに向けてみんな俄然がぜん気合が入ってきた。

 拝まれていい気分になってしまった、という訳でもなかったが。単純に嬉しかった、自分の提案が認められて形になりそうだというだけのことだったが、こんなに嬉しくわくわくするものなんだ、と新鮮なような懐かしいような気分になった。そして、そのためにこれとこれをやらなきゃ、とみんなそれぞれがイベントに対していろいろ思いを巡らせている。日が経つにつれてそれぞれの色も反映されて、イベント当日を迎える頃にはちゃんとまとまったひとつの事柄、になっているだろう。

 学校のサークルやゼミなどで何もやったことがない、という訳ではなかったが、所詮は舵取りができる人による舵取りができる人のためのものでしかない、と思っていた。だから端っこでちょこまか手伝っている分にはなんの学びも気づきも感慨もなかった、学校での私はその程度だった。

 美弥ちゃんはじめ笹ピンコラボTシャツを作った同級生グループがまさに舵取りができる人達で、入学当初はテレビに出まくる名物社長の娘である私に彼らがやたら興味を示した、なんてこともあった。でも「娘は大したことないんだね」みたいな感じであっという間に端っこに追いやられ、私は相かわらずそういう場所に存在し続けるしかないこと、を思い知らされた。なんだか悔しくて、この時に私にも真ん中に行きたいという思いが多少はあるんだ、と気づいた。

 それで、このイベントでの私はどんな風になるだろう。と思った、わくわくしたが少し経てばやっぱり不安な気持ちが浮かび上がってきた。言い出しっぺということでしばらくは頼られるだろうけど、そのうち出る幕なし、みたいな感じになって案の定端っこにいるんじゃないか。あるいは、私のほうで飽きてしまうか力のなさを思い知らされて、みんなに丸投げしてしまうんじゃないか。

 いやいやいや。それじゃあみんなに申し訳ない、まさに合わせる顔がない。と素直な言葉が浮かんできたことにはびっくりしたが、ここでできる限りのことをやってみよう、と決めた。宿の会のイベントなんだからその中心にはなれっこない、端っこでちょこまか手伝うだけで終わるだろう。でも最終日までできる限り頑張るんだ。こういうことに対して「あっそ。じゃあやれば」なんて気持ちでいることが慣れっこになっていたけど言い出しっぺである以上それは許されない、だから。

 そして、うわーこんなに気合入ってるのって何年ぶりだろう、と思った。

  

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