誰かのお墓

中野徒歩

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 中学生くらいの頃、いつも一緒にいた友達に自分の父親をどのくらい知っているか、程度問題として私は普通なのかどうか、を探ろうとしたことがある。例えば父親の実家に行ったことがあるか、お墓参りをしたことがあるか、若い頃どんな感じだったかいてみたことがあるか。だいたいみんなお墓参りくらいは行ったことがあり、彼女達のお父さんの若き日の姿をなんとなく知っていた。例えば母親と祖母のバトルの間に立たされて嫌だとか父親のお宝というのが実はアイドル歌手の切り抜きや写真集だったとか、そんなあるあるネタを聞かせてくれたものだった。

 いうまでもないことだが、私自身が父の若い頃について何ひとつ知らないからこういうことに固執して友達に探りを入れていたのだ。私はその当時の父ならやたらよく知っていたし、友達も中途半端にだが当時の私の父をよく知っていた。

 私の父は都内にダイニングバーとか呼ばれる小じゃれた店を十店舗以上展開する実業家で、精力的にというか騒々しくというか、立ち止まったら死ぬんじゃないかみたいな勢いでいつでも頑張っている人だった。一方で、飲み屋で知り合ったお笑い芸人に呼ばれてテレビのバラエティ番組に顔を出すようになり、上からな感じなのにどこか抜けている残念な社長あるいは娘を愛し過ぎるうざいお父さん、としていじられキャラで大ブレイク中といったところだった。バラエティ番組で芸人にいじられて馬鹿やっているのも、いってみれば地方進出を見据えた営業、だった。

 一人娘の私は、小学校からいわゆるお嬢様学校に押しこまれた。入った学校は上等だったが私個人の力量は大したものではなく、だんだん親が高収入だったり高学歴だったりするだけですから、みたいな子同士で端っこにいるようになった。それこそ芸能界に片足突っこんでます的な華やかな子もいたが私はその対極にいる子、絵は苦手ではなくてそういう賞を貰ったりしてごくたまに目立つこともある、程度の子だった。テレビでお馴染の倉本くらもと清治せいじさん、こと父の暑苦しいキャラとのギャップが大きすぎる、ということで軽くいじられはしてもさほど深刻なことにはならなかった。

「それでさ、奈央なおはなんでそんなこと気にするの」

「いやあ。なんかね、謎だな、って思って。うちの父親」

「謎なの?」

「ていうか、テレビ出てる時のキャラはたしかにきついけど、前に遊びに行った時は超紳士的だったじゃん。私、『キャラ作ってたんだ』ってびっくりしたもん。実際はすごかったりするの」

「いや、みんなが来た時とそんな変わんないけど。仕事のこと考えてる時はせわしない感じになるかな、そういう時はかなりうざいけど。男同士だと豪快キャラになったりするらしい、芸人さんとかスタッフの人達と一緒に飲んでおごってあげたり」

「いいなあ」

「全然いいじゃん。奈央が悩む理由が分かんないんだけど」

「そうだよ。ダンディだし」

「ダンディっていうか、あっちゃん達のお父さんより年いってるだけだし。うーん、でもね。なんか」

「あ。奈央のお父さんって、超叩き上げで頑張って社長になった人でしょ。すっごい苦労したけど、そういうのはあんまり話したくない、みたいなのがあるとか」

 私は、父の最終学歴すら知らない。十代から働いていたとは聞いた、でも十九からなのか十六からなのか、それさえ曖昧あいまいだ。そして父は三十になろうかという頃、カラオケブームがあった七〇年代後半に初めて自分の店を持ち、また同じ頃に離婚と再婚を経験したそうだ。事務員として父の会社に入社した母と出会った頃は既にカラオケボックスを数店舗持ち、営業社員を雇って更なる事業拡大を目指すくらいになっていた。

 その後気鋭の料理人がやっていた店を、彼を丸めこむような感じで半ば乗っ取って今の成功を収めた。父は調理経験など一切ないし、陰で「ちょっと薄暗くて小ぎれいな雰囲気で、見たことのないような料理を出してれば誰だって飛びついてくるんだ」とか言っていた。しかし店を乗っ取られた人は父の元を去り、新しい店をオープンさせている。そんな訳で父の店は事情を知る一部の人にはひどく評判が悪い、でも父が言っているとおり誰でも飛びついてくる雰囲気のいい店だし一応おいしいから、そこそこ繁盛している。

「今のお店始める時のこととか。でも奈央は悪くないし」

「その辺はしょうがないよ、大人の世界なんだし。でもやっぱ気になるんだ」

「うん、ちょっとね」

「テレビの娘ネタとか」

「そんなの、『やめて』って言えばいいじゃん」

「でもさ、それだけじゃないっぽいよね。お父さんのやってることが大きいから悩みの振れ幅も大きい、みたいな」

「振れ幅が大きいのかな。うーん、ほんとなんて言えばいいのか分かんないんだよね」

「本当はどういう人なのかが分かんなくて嫌だ、みたいな感じなのかな。『家族の前でもキャラ作ってんの』みたいな」

「あ、それ一番近い。そんな感じ」

 その後、「親が会社でパワハラとかセクハラやってたらどうしよう」とひとりが言い出したのをきっかけに「こんなお父さんは嫌だ」をお題とした大喜利の様相を呈して、放課後のお喋りは終わった。そんな感じ、とは言ったが、結局彼女達は私ほど父の謎のようなものを考えたことはないんだろうな、というのがとりあえず分かった。同時に私だけではなく彼女達にも父親について分からない面はある、誰だってそうなんだ、と思うことにした。

 でも、みんなのお父さんが家族に見せている姿が六十~七十パーセントくらいだとしたら私の父は何パーセントくらいなんだろう、下手すると三十パーセントくらいかもしれない。百パーセント見せてよとは言わないが(私だって父に全てさらけ出している訳ではなかった)、切り捨てているというか切り離しているというか、そんな面がどこかに隠れているような気がしてどうしようもなかった。

 実家とかお墓とか、根っこともいえるような場所に切り離した何かを隠しているのかも、みたいなことを漠然と感じていて、だから同級生にそんなことを訊いたりしたんだと思う。でも、父にはそういうものが本当に一切ないとしたら謎を解く糸口がないし、じゃあどの辺をつついてみればいいのか、と新たな勘繰りが始まってしまう。面倒くさくなって半ば棚上げにしつつ、たまに引っぱり出してはためつすがめつ眺めて、みたいな悩みだった、そして父の謎な部分は彼へのかすかな嫌悪感につながっていた。テレビでの姿がどうのとかせかせかしてうざいとか、そういうこととは一切関係ない場所に、その嫌悪感は静かに腰を下ろしてこちらを見ていた。


 高校は、同じ学校の高等部に行った。相かわらず端っこにいつつ昔なじみの仲間と一緒に毎日をやり過ごし、父に直談判してテレビでの娘ネタを封印する約束をとりつけたり、あるいは部屋でちょっとしたイラストを描いたりパソコンの描画ソフトの勉強をしたりしているうちに、高校卒業後の進路云々を考える時期になった。

 ある時、母が唐突に訊ねてきた。

「奈央は、やっぱりイラストとか、そういう勉強をしたいの?」

「うん、本当はね。まあお父さんが許してくれる訳ないから、とっくに諦めてるけど」

「諦めるの? 勿体もったいない」

「え」

「どうせなら、宣言してみれば。私はやりたいことをやるんだ、って。そうじゃないと、あとあとどんな道を歩んだとしても後悔するような気がして」

「そうだけど。いいの、それで」

「お母さんは、それでいいと思ってる。ていうか、そうしたほうがいいと思う」

 一人娘の私は、とりあえず未来の跡継ぎを見つけてくる係、だった。その一方で小さい頃から「奈央ちゃんといえばお絵描きだもんねえ」と父の知人などからスケッチブックやクレヨンを貰いまくり(それとて相手方のご機嫌取りで、私はそのネタとして彼らに利用されていただけだ)、私も一人でいるのが苦にならない性格からそれらをあっという間に使い果たすような勢いで絵に没頭し、うんと小さい頃は「絵描きさんになる」と公言していた。

 そうこうしているうちに、特に父は「そろそろ子供っぽい夢に飽きてくる時期だろう」と思うようになっただろうし、私は私で「自分の作品で勝負できなくても、そういうことに少しでも関係のある仕事に就きたい」と思い始めていた。ただ、それすら子供っぽい夢だという自覚が私自身にもあった、だから母が背中を押そうとしてくれていることにとても驚いた。

「あの、お母さん。今、かなり無謀なこと言ってるよ。私ですら分かるのに」

「うん、無謀は無謀だね。でも、意味はそれだけじゃないんだよね。さっきの話で、もうヒントは出てる。分かる?」

「全然分かんない。

 でも、お母さんが応援してくれてるのはすごく嬉しい。ありがとう」

「どういたしまして」

 部屋に戻って、母が言っていたヒント、というのは「宣言してみる」だったことに気づいた。大げさに言えば、母は父から私を逃そう、とでも思っているんじゃないか。それから、以前「一人暮らしって憧れない?」などと言っていたことも思い出した、私が部屋にいた時に階下から「世襲制みたいにする必要はない、老舗でもないんだし」と母が父に言っている声が聞こえてきたことも。

 要は、切り離す、ということか。そんな言葉を頭の中に浮かべてみた瞬間、子供が糸を手放した時の風船の画像が浮かんできた。自由になったとしても部屋の天井につかえて、エアコンのかすかな風に揺られるだけで右にも左にも動けない風船、のように私はなってしまうんじゃないか。そんな気もしたが、天井なんかない場所であっという間に雲の向うに消えてしまう風船のイメージ、もあった。後者の姿にとんでもなく憧れている自分に気づき、そうそう、きっとこういう憧れを、いつでもほんの少しずつ抱いていたんだ、と自覚した。

 手放しで「お父さん大好きです」と言えれば、今頃の私は会社の後継者となるべく帝王学のようなものをなんでもかんでも吸収しようとし、逆に「まだ早い」とたしなめられているだろう。でもそうではない、自分が好きでやってみたいだけのものにいつまでも固執している。少なくとも私は、父との間にその程度の関係性しか築けないし、将来に対してその程度の展望しか描けない。

 唐突に、母は父のことを本当はどう思っているんだろう、と思い、そんな話を聞いたことが一度もないことにも気づいた。

 母と父は、一回り以上離れている年の差カップルだ。普段の母は穏やかで出しゃばらず、でも本当はすごく賢い人だ。横顔の凛とした感じの鼻筋にそういうのが全部乗っかっている、実はなんとなしの悩みもところどころに。そういうところもひっくるめて、私は母の横顔が大好きだった。テレビに映る父を見ている時、母は遠目な感じになった。なんとなしの悩み、がその辺にあることに、私は少しだけ気づいていた。だから詳しく突っこんだ話をできなかった、というのもあるだろう。

 私が中学生の頃に同級生に話していたこと、父は若い頃どんな感じだったのかを母はどのくらい知っているだろう、と思った。父の会社に入社したのはたしか短大を出てすぐだったはずだが、当時のなれそめ的な話もちゃんと聞いたことはない、そんな話を聞かされたらまた照れくさい気分になるだろうが。大学時代の同級生とかなら話す側も抵抗がないだろうが私の両親はまた状況が違う、しかも父はバツイチだった。母からその辺の話を聞かされることはなさそうだ。

 そうこうしているうちに、いよいよ志望校を決める時期、になった。夜、両親と私と三人で話し合いの席がもたれた。私と母は事前に秘密の打ち合わせを行い、将来美術関連の職(美術館でもギャラリーでもあるいは画材店でも、というスタンスだった)に就けるような学校に進みたいこと、家を出て一人暮らしをしたいこと、を父に宣言するのだ、言い争いも辞さない、と覚悟を決めた。

「お父さん、怖い時は本当に怖いから。覚悟してね」

「うん」

 普段の父は私には優しい、というか甘かった。私は生来おとなしい性格で派手に反抗したことはあまりなかったが、その反面キレるとかなりの状態になってしまう。件のテレビでの娘ネタ封印のことを話した時も「分かった分かった、すまなかった」で話が終わったのだ。だから正直、怖い父という像への実感はおろか想像もつかなかった。

「でもなあ。パパはやっぱり心配なんだよ」

 父が私と話す時の一人称は「パパ」で、私が父と話す時の二人称は「お父さん」だ。私は小学校高学年の頃に「パパ」と呼ぶのをやめた。そこに何が隠されているのか、などきっと考えたこともないだろう。

「でも、お父さんが心配するからって言ってたら、私なんにもやりたいことができないんだけど」

「生活が成り立つのか。やっぱりそこが一番だと思うんだ。奈央はうちにいて、パパの手伝いができるように勉強をした方がいい、そういう大学なんていくらでもあるじゃないか」

 はじめは、私が知っているとおりの父の姿、で話が続いた。優しく穏やかに、さもさも私のことを心配している体で、その中に会社のため(つまり父の思いどおり)に活躍してくれる私でいてほしい、的な思いをうまいこと混ぜこみつつ滔々とうとうと話し続ける。そんな父を見ている私はいつになく冷静に目の前の人を観察していて、そして嫌悪感を抱いた、それもやはりいつになくはっきりとしたものだった。そこに母が「子離れという言葉を知らないのか」的なことを言い、私も「いつまでもお父さんのところにいるのは息苦しい」的なことを言った。それでも父は穏やかなままだった、だから私も母も少しだけ調子に乗った。

「だから、別に私が作品を作って、ってことにこだわってる訳じゃない、って言ってるじゃん」

「あのね、奈央の人生経験、っていうのも考えてあげた方がいいと思うのよ。いつまでもこの家にいて、なんて狭い世界で生きてたってつまらないし、この子のためにならないと思うの。お嫁にも行けなくなっちゃう」

「それの何が悪い」

「え」

「あなたね」

「その世界にどうしても行きたいって言うんなら行ってみろよ。

 アーティストでございとかミュージシャンだの役者だのなんていう奴はさ、いつまで経ってもバイトと二足の草鞋わらじでろくな収入もなくて、それでもプライドだけは一丁前で。美術館だとか絵の具屋だとか、結局はそういう馬鹿どもの片棒担いで飯食っていきたいって、そういうことなんだろう。

 もっと言ってやろうか。お前は逃げ口上みたいにして『自分の作品で勝負することはもう考えてない』とか言ってるけどさ、どうせ俺の目の届かないところで創作とやらを続けるつもりなんだろう。いいよ、気が済むまで続けてみろよ。

 お前なんかな、雑魚ざこだよ、雑魚。ああいう世界に飛びこんで成功する奴がどれくらいいる? お前もあれだな、結局は自己満足の世界から一歩も外に出られなくて、それでも鼻くそみたいな作品とやらを一生作り続けるだな。そんでなんの取り柄もない男とくっついて、暮らしは滅茶苦茶なのに『私達、幸せね』とかって、ボロアパートで似た者同士よろしくやってるんだろう。ああ、ああ。幸せだなあ。幸せだ」

「だからさあ」「言い方ってものがあるでしょ」などと軽い反撃を続けたが、私達の完敗、だった。父は捨て台詞だか勝ち名乗りだか、何か一言吐いて自室に引っこんだ。

 私は雑魚で、私が好きなことは鼻くそ、だそうだ。父が吐いた言葉そのもの以上に、そういうことを平気で言える人だったと思い知らされたのが一番辛かった。もうまるっきり想定の範囲外で、勝算だの何だの考えたこと自体虚しいこと、だった。

 母は「お父さんが心配するのも、お母さんは分かる。でもああいう言葉で表現しちゃう人なのよ」と言った。私だって、親は子供の進路を気にするものだということくらい分かるが、やはりあんな言い方をされたのは悔しかったし、閉ざされた感、のようなものをありありと感じた。その後数日は何も考えられなくなった。

 私がほんの少し持ち直した頃、それを見はからったように父が話しかけてきた。「この前は申し訳なかった。とりあえず、パパが考えたことを聞いてくれないか」

 家を出ることを認める、海外などでなければどこでもいい。アルバイトも興味があることをやってみればいい、水商売でなければいい。趣味だって楽しめばいい。その代わり、学校は美術系でなくもっと現実的に考えてほしい。そして卒業したら、必ずこの家に戻ってきてほしい。いつもと変わらない調子で、父は優しく穏やかに滔々と話した。

 はいはい、「経営をしっかり学んで帰ってきなさい、少しの間だけ自由にしてあげるから」。そういうことですね。と思った。私にはさらに反発する力が残っていないようだ、という自覚もあり、その条件をのむことにした。

 国外じゃなければいいというのなら、と全国各地の大学の資料を取り寄せている中で、新潟に経営学部がある大学があることを知った。東京から遠くも近くもないところがいいな、というのがあったし、あみだくじまではいかないがその程度の気持ちでそこを志望校と定め、その後は実家を出てからの日々をやたら楽しみに思いつつ毎日受験勉強に励む日々が続いた。勉強が忙しいというのもあったが、私は私自身の創作に前ほどこだわりを持っていないことに気づいた。でもその理由を考える暇もなかったし、「私はそっち系の人」という肩書は簡単に消えるものでもなかった。

 そして受験の日を迎えあっけなく合格通知を受け取り、高校を卒業した数週間後の肌寒い日に、大学がある新潟へと旅立った。

 父に雑魚呼ばわりされたあの日、私は父のそういう面を見せつけられ、幼い頃からほんの少し抱いてきた嫌悪感や違和感はまた蓄積された。でも「だから嫌い」と言い切ることができないような、なんとも言い表すのが難しい感情が、まだ奥の方に残っていた。まだ私は、本当の本当の父を知らない。そこからきているんだ、この感情は。でもそれが何なのか、という問いへの答えはまだ出ず、やはり棚上げのままで私は親元を離れることになった。


「それでね、うーん、まあ生活は苦しかったんだけど。閉店しちゃったお店でできた借金の返済もあったし。お父さんとお母さん、すごく苦しかったと思うんだけどいつも優しくて、一緒にご飯食べて、ベタな言い方だけど笑顔の絶えない家庭だった」

「ふーん」

「だから私、『大きくなったら、やっぱり両親が昔やってたお店を復活させたいなあ』って思うようになって。ほらお店の雰囲気も覚えてるし、懐かしいっていうか。でもそれだけじゃなかったんだ。

 それで進路決める時に、お父さんとお母さんに『そういう夢があるから勉強したい』って言ってみたの。そしたら二人とも泣いちゃって、奨学金で通うつもりだから許してほしい、って言う前に『学費ぐらいの貯えはある、とにかく頑張りなさい』って言ってくれたんだ」

 そうか。私が親にぼろくそ言われていた頃に、そんなドラマチックな出来事が起きている家庭が、ねえ。とは言わなかった、というか美弥みやちゃんからこの話を聞くのは初めてではなかった。飲み会で美弥ちゃんと隣同士の席になり、酔いが回ってくると必ずこの話になるのが、県外出身の同級生が集まるこのグループの中ではお約束だった。暗黙のうちにできた「お隣さんローテーション」が、この夜私に回ってきていた。

「ほら私、本当はアートっぽいことが好きだったから。

 ていうか美弥ちゃん偉いよね、親のことを絶対『親』って言わないもん。仲いいんだね」

「えー、別に普通。

 とりあえず、ってこともないけど。やっぱり大学でも頑張って結果出したいし社会に出ても多分修行の日々だし。なんていうのかな、うちのお父さんって経営者としてはちょっと残念な人だったから、私が補ってあげて。センスはすごいあるんだもん」

 でも、美弥ちゃんが家族とお店を持てるようになる頃にはお父さんはじじいになってるんじゃないのかな、申し訳ないけど。と言うことも、やはりできなかった。

 大人達にとってはツボそのものであろう美弥ちゃんの身の上話は、実はツッコミどころ満載だった、そんな風に言っている子が二人か三人はいた。じじい云々と意地悪を言いたくなるのも、彼女の両親がかつてやっていたというのがアパレル関係のお店だからだった。彼女自身たしかにお洒落だったから、じゃあ経営大じゃなくて服飾関係の学校でもいいんじゃないの、親と一緒にやることにこだわらなくてもいいんじゃないの、という声もあった。

 それに、両親が失敗する姿を見たら「二のてつは踏むまい」的な感情を持つようになるものではないのか。二の轍云々と考えているのは私くらいだったようだが、その辺をカバーするのが家族愛、親子愛、ってやつなのかもしれない。それをいまいち実感できていない私だから抱く違和感なのかな、と思ったりもした。他の子はみんな、真っすぐ過ぎていい子過ぎて優秀過ぎる美弥ちゃん、をうざいと言っていたし私もそういう思いは多分にあった。

「なんかなあ。私は美弥ちゃんみたいに優秀じゃないし、他の勉強がしたかったけど仕方なく入学しました、みたいな感じだし。正直、たまに『どうしよっかなあ』って思うこともあるくらいで」

「えー、そんなこと言わないで一緒に頑張ろうよお。奈央ちゃんだって跡継ぎなんでしょ」

 困り始めた私に助け舟を出してくれたのか、歌織かおりちゃんが話を振った。「美弥ちゃん、笹ピンTシャツも好評じゃん。こないだ行ってみたら、サービスカウンターに普通に置いてあったよ」

 笹ピン、というのは大学から車で少し行ったところにある「笹岡ショッピングセンター」の略称だ(ショッピングの「ピン」を略称に使うのが斬新だ、普通は「笹セン」なんじゃないか、と県外出身者はみんな言っている)。近郊にはまともに買い物できるお店がここしかなく、私達にとって広いのか狭いのか分からない新潟での生活の象徴、のような存在だった。そこに美弥ちゃんを含む優等生グループがお店にコラボを持ちかけ、オリジナルデザインのTシャツを作ったのだ。お披露目の時には地元テレビ局や新聞社が取材に訪れ、彼らと店長が並んで写った写真が学生食堂に一時期貼り出されていた。

「なんかね、今度、開店記念祭っていうのがあって。その時に店員みんな着ることになったんだって」

「まじで」

「ピンチ」と誰かが呟いた、私も同感だった。私は当時、笹ピン店内の雑貨店でアルバイトしていたのだ。

「え、それって、テナントの人も全員、ってこと?」

「うん。そうみたい」

「そっかあ」

 その後、Tシャツの話は笹ピンでアルバイトする学生達の間にあっという間に広まり、そしてバーゲンの三日間、過半数が嘘をついて欠勤した。私は渋々出勤したが、それ以降休んだ子達の私への態度があからさまに変わったため、面倒くさくなって笹ピンでのバイトを辞めた。

 また話題が変わった。今度は彩加あやかだ。「里紗りさ、家電屋の彼氏と別れたんだって。見た目は全然いいんだけど、自分と同世代なのかと思ってたら単なる童顔だった、って。もう三十だよ」

「おっさんじゃん」

「そんで、家電屋の社員だとか言ってたじゃん。ほんとはバイトだったんだよ」

「三十でフリーター」

「そいつがいる店に知佳ちかが行って、なんだか知らないけど炊飯器とかそういう売場に行っちゃったんだって。そしたら電子レンジを超売りこんできたって。電子レンジ壊れてねえし、って」

 そいつ、実家が兼業農家なんだって、だからバイトもやってるんだって。里紗はその話聞いたら一気に冷めた、って」

「嫁に来ないか、とか言われたら大変だもんねえ」

「コシヒカリ」

「ぎゃははは」

 飲み会といってもこんな感じ、学校での毎日など言うに及ばず、だった。所詮はあみだくじみたいな感覚で選んで入った大学、だった。私にとってもそんな学校だしレベルは正直高くはない、なのにここにもスクールカーストのようなものがあった。生徒達はお互いが暗に「総合的な観点」から評価し合い、いつの間にか一軍から三軍に分けられるが、この頃からプロ球界で育成枠という制度ができたのを機に、この言葉が三軍の代わりに使われるようになった。

 一口に一軍から育成枠といっても、つき合っている仲間の質やら学校内外でやっていることやらが加味され、さらに細分化されていた。美弥ちゃんは言うまでもなく一軍、どころかオールスターだのベストナインだのといった言葉で表現されることもあり、私などは二軍の真ん中あたり、派手すぎるしさぼることが多い彩加は育成の一歩手前だ。完全に育成枠となった人を学校で見かけることはほとんどない。ややこしいしばかばかしいものだったが、こんな低レベルなことをやっている学校もまたひとつの社会、だった。

 県外組の飲み会はそういう括りをとっぱらって不定期で行われていたが、美弥ちゃん的には「降りてきてやってるのよ」みたいな感もあっただろう。でもそういうのをおくびにも出さず「みんな大好き」オーラを出しまくるものだから、うざったさはいやが上にも増した。それでも、一軍選手の美弥ちゃんを飲みに誘わない訳にはいかない。こういう人とのつき合いがもれなくついてくるのもまたひとつの社会での出来事、だった。

 新潟の、名前も知らなかった街にある丘陵地帯の端っこに開けたキャンパスに通い、徒歩圏内のアパートに住んでたまにバイトしたり買い物に行ったりする。父が買ってくれた車があったからまだ恵まれている方だったが(県外出身者で車を出せるのは私だけだった。だから彩加や彼女にいつもくっついている里奈りななどにはやたら重宝された)、土地勘もなければ興味も持てない場所ではドライブを楽しもうという気にもならなかった。

 そして気が合いなどしない仲間達と渋々友達づき合いをし、したくもない勉強のために時には徹夜もする。身の処し方というか、少なくとも人間関係のスキルだけは上がった実感があるのが、やたら切なかった。

 ただ、それなりに一人暮らしを楽しんでもいた。アパートに友達を呼んで夜通し話しこむこともたまにはあったし私が遊びに行くこともあった、何もなければ久々に何か描いてみたりもした。そんな時に、受験勉強中に創作へのこだわりが薄れていた本当の理由に気づいた。自由になれることへの期待や高揚感、が創作意欲を上回っていたのだ。そして自由な日々を過ごせていることはとても大事なことでもある、と認識することができた、他の諸々をひっくるめて考えれば謳歌しているとはとても言えなかったが。


 二年生の時、クリスマスの直前に新潟大停電というのがあった。雪や風のためにそこらじゅうの送電線でショートが起こり、大学があった街を含む下越かえつ地方のかなり広い範囲で一昼夜停電した、という騒ぎだった。電車は動かず自販機は死んだように立ちつくし、近所のコンビニではお会計を電卓でやる有様だったが、私達はそういったいろんな情報を目の前に起きているリアルな事柄として知った。ニュースを見ようにもテレビがつかないし、携帯だって充電が必要になった時のことを考えれば節約するしかなかった。

 お昼過ぎ、同じアパートに住む同級生の三輪みわちゃんと、建物の前で「うちら、軽く遭難してる感じだね」と話した。それぞれが自室に閉じこもろうにも、まず暖房が使えない。小さな学生向けアパートではエアコンや電気ストーブで暖をとるのが一般的で、特に私達県外出身者には石油を使う暖房器具そのものに馴染みがなかった。

「ほんと死ぬよ、このままだと」

「カバ君は親が車で迎えに来て小千谷に帰ったんだって、あっちの方は大丈夫なんでしょ。さっきメール来た」

「いいなあ。樺沢かばさわ君に便乗する訳にいかないもんね」

「ていうか奈央っち、ちょっとあたってみよう。こういう非常事態に救いの手を差し伸べてくれる子」

 そうだね、ということになり、私と三輪ちゃんは一旦私の部屋に入って携帯のアドレス帳に入っている実家暮らしの友達に片っ端からメールを送ることにした。そして私が送信した三人目の同級生、電車なら十五分ほどのところに住む河野かわのちゃんがすぐに電話をくれて「家族も『困ってる友達はいないの』と言っていたし、どうせなら宴会してもいいんじゃん」とまで言ってくれた。

「ありがとう」と電話越しに叫んだ後、どうせならもう一人や二人誘うか、という話にまでなった。河野ちゃんと三輪ちゃんの接点はないに等しかったし、三人それぞれに面識がある歌織ちゃんを誘うことになり、電話をかけてみた。十五分後、毛布にくるまってひとり震えていたという彼女は走って私達のアパートにやって来た。すぐに私の車で河野ちゃんの家を目指し出発したが、渋滞のせいでかなり時間がかかった。それでも車内の三人の話が尽きることはなかった、大停電で遭難寸前、というイベントに変に高揚していたからだろう。

 日が落ちてグレーの景色が黒一色になってから、ようやく河野ちゃんの家に着いた。玄関先で待っていた河野ちゃんが懐中電灯をかざして迎えてくれ、家の中から彼女の両親と弟、それからおばあちゃんが出てきて明るく迎えてくれた。彼らもまたこの非日常、不便すぎる一大イベントを楽しむしかない、と腹をくくっているようだ。

 当然ながら河野ちゃんの家も真っ暗闇だったが、ほんのりオレンジ色の光があった。茶の間に通されて暖かさに溶けそうになった後、オレンジ色の光と暖かさの素になっているもの、普通に作動している石油ストーブ、を生まれて初めて見た。他の二人もやはり初めて見たようで、三輪ちゃんなどは「これがあったら」と呟いていた。その上には大きな鍋が乗っかっていて、温かい食べ物の匂いが部屋に充満していた。

 その鍋の中身、石油ストーブの天板に乗せて煮込んだというおでんをおばあちゃんが取り分けてくれ、お刺身や炒めた肉まで出てきた。お母さんは「安い時に買い置きしておいたんだけど、どうせ停電で傷むだろうからさ」と笑っていた。お父さんはそれらを肴に晩酌を始め、どうすればいいかと思っていたら河野ちゃんが「うちらのもあるし」と甘めの缶チューハイを数本抱えてきた。

 文字どおりの宴会を、石油ストーブとテーブルの真ん中に立てた蠟燭の、ほんのりオレンジ色の光の中で楽しむことになった。少なくとも缶チューハイは、私達のために寒い中買い出しに行ってくれたものだな、と思ったら申し訳なくなった。

 その光のせいだったのかなんだか分からないが、妙にほっこりした気分になった。河野ちゃんの家族は思いっきり新潟弁で喋っていたから何を言っているのかちょっと分からないような瞬間もあったが、それでもみんな優しくて穏やかで大らかだった。その時に、なんとなく地元の人を避け続けていた私、みたいなものに気づいた。

 笹ピンでバイトしていた時もその前も、パートのおばちゃんに口うるさく言われるのが嫌でまともに接するのを避け、どうしても避けられない時は地元の高校生バイトに間に入ってもらう、みたいな子供じみたことをちょくちょくやっていた。どこかに「そりが合わない」的な思いこみ、もあったのではないか、大人はうるさい、面倒くさい、というステレオタイプな印象を差し引いたとしても。それ以前に県内出身の同級生も避けていた、ほぼほぼ同じ理由で。でも窮鼠猫を噛む状況になり、ゼミでちょっと一緒になった程度の河野ちゃんに泣きついてみたらこんなに暖かい部屋とご馳走と優しい人達が待っていた。

 彩加がここにいたらどうするかな、とちょっと思った。かなりのひねくれ者で県内出身者とみれば六割はシカト、みたいな彼女だから、今私が感じていることを共有するなど望むべくもないが、とりえあず今どう過ごしているかな、とだけ思った。

 お腹も満たされ体の芯まで温まったところで、食器洗いなどを手伝わせてもらって押入れの布団を河野ちゃんの部屋に運びこんでから、私達のアルコールなしの二次会が始まった。酔いは覚めていなかったし、危機的状況で助けてもらったという感謝、またはともに極限状態を乗り越えた連帯感からかかなりオープンな気分になっており、なんだか濃い話をしたくなっていた。県外組の鬱積を河野ちゃんはこの時初めて聞かされたようで、ほんの少し引いた顔をしていた。

「そっか。県外の人って、そんな考え方をしてたんだ」

「うーん、なんていうんだろ。河野ちゃんとか新潟の人に非があるとか、全然そういうんじゃないんだけど。やっぱり慣れない土地だとそういう気分になって、っていうのは絶対あると思うんだ」

「私だって、上京したらすごい悩むかもしれないもんね。首都圏に出るっていうのも憧れたけど、やっぱずっと新潟にいるのが幸せなのかな」

「何が幸せなのかとか、人それぞれなんだろうけど。とりあえずうちらは、県外出身者同士がいつの間にか集まってすごい狭い世界ができちゃってて、それでなおさらストレスたまってる感じなのかな。

 河野ちゃんは、やっぱり就職も新潟?」

「うん、そのつもりでいるけど。みんなは、帰っちゃう感じ?」

「まだ全っ然考えてない。奈央っちはお父さんの会社か」

「いやいやいや。とりあえず親を納得させるためにこういう名前の大学に入っただけで、そういう道はなんとかして避けたい。この大学に入ったってみんながみんな親の跡継いだり起業したりする訳じゃないじゃん」

「そうそう、たしかにいろんな将来があるんだよね。新潟県内で就職した先輩も多いっていうし、選択肢なんていっぱいあるはずなんだよね」

「私は、新潟で就職とか考えられないな。今のこのつまんなさが延長されたら耐えられない、とか思っちゃうよ」

「ふーん」

「今、新潟の子とつき合ってて『勉強させてもらってます』みたいな感じだけど、やっぱり新潟の人って分かんない。私、新潟にずっといるっていうのはとりあえずないかな」

 三輪ちゃんが、新潟の人に言うべきではない台詞を吐いてしまった。

「でもさ、ほら。どこに就職しても『まあこんな感じ』って思いながら毎日生活していくのかもしれないし」歌織ちゃんが慌ててフォローした。

「がっかりしたりいろいろあったとしても、納得できる要素が一ミリでもあればいい、みたいな感じで生きていけばいいんじゃない。それはどこで暮らしてても、何やってても同じだと思うけど」

「そうだよね。歌織ちゃん、正しい。

 三輪ちゃんも、新潟つまんないとかあんまり言わないほうがいいよ。ここで生まれて育った人だっていっぱいいるんだし」

「河野ちゃん、ごめん。私、恩知らずかも」

「大丈夫」

 大丈夫、と河野ちゃんは言ってはいたが、冬休み明けから私達との関わりをあからさまに避けるようになった。お礼かたがた探りを入れてみたら「県外組と県内組の温度差が半端なかった、って初めて知った」という答えが返ってきた。河野ちゃん本人や家族の厚意に甘えて図々しく押しかけておいて、そのお礼が新潟つまんない発言、では避けられても仕方ない。「うちの家族は賑やかなのが好きだから『楽しかった』とか言ってたけど、私はなんとなく虚しいみたいな気持ちになった」と言われてしまった。

「でもさ、歌織ちゃんが言ってたのは正しいと思う。どういう人でもどんな状況でも、一ミリでも納得できる要素があれば幸せだよね」

「そうだね」

 ほんとごめんね、と河野ちゃんに改めてお詫びし、さて私の将来には一ミリでも納得できる要素というのが待っていてくれるのか、と思った。その時点でそんなことが分かるはずもなく、ただ何かの曲がり角にさしかかるのを待つしかなかった、それもまた誰だって同じだが。それでも「一ミリでも納得できる要素」という歌織ちゃんの言葉は私の胸の深いところまで入りこんできた、河野ちゃんもそうだったから敢えてその話をしたのだろう。

 そうそう、「こんな感じ」の一言で片づいてしまうような毎日が待っていたとしても。「こんな感じ」の中に、ほんの少しでもいいから納得できる要素が、ちょっとでも充実感をもたらしてくれる何かがあればいい。でも、それがどんなものでどこに落ちているのか、それを見つけ拾うことはできるのか。そんな風に考え始めたが、それでも学校での「こんな感じ」を続けることしか、当時の私にはできなかった。

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