#10A guilty conscience needs no accuser.
ずき、とこめかみに走った痛みで目を覚ます。
まず目に入ったのは、真っ白な天井で、すぐに見慣れないベッドに横たわっていることに気がついた。
ベッドを取り囲んでいる薄いグリーンのパーティションの向こうから人の気配がする。大きないびきの主は、マックスだろうか。
リノリウムの床には真新しいスリッパが一組揃えて置いてある。息を吸いこむと、病院特有の消毒液のにおいがした。
(……そうだ、わたし、FBSで検査を受けてたんだっけ)
白衣の人間に取り囲まれ、躊躇なく皮膚を突き破る注射針の感覚に耐えているうちに意識が遠のき、気づいたらこうして寝転がっていた。
危惧していた痛みはない。
だが、リドルを使わせられたり、変な薬を飲まされたりしたせいか、妙に身体がだるくて、起き上がるのも億劫だった。
「――普通リドルは遺伝性で、血族内では類似性を示すはずなんだがなあ。ご両親はたしか、幼いころに亡くなっているんだったかな」
パーティションの向こうで響いたのは、ネイトの声だった。どうやら誰かと会話をしていたらしい。
口調はやわらかかったが、どこか不穏な響きがある。声をかけようか迷ったけれど、予感に駆られてアリーは口を噤んだ。
「ええ。僕も顔を覚えてないくらい昔にね。その学説は古いですよ。能力を複数もつリドルの存在も確認されてますし。それにリドルは発現者の能力の発達に応じて、常に変化していく。ネイトさんなら、知ってるでしょ?」
思いがけずコーディの声がしてようやく、どうやらこの一連の話が自分たち兄妹にまつわるものだと気づく。
血縁者でもかならずしも全く同じリドルをもつわけではない。だからあまり疑問には思っていなかったが、たしかにアリーとコーディのリドルは兄妹にしてはかけ離れていた。
コーディのリドルは、リドルのなかでも特別貴重な能力、未来予知だ。その未来を見通す特別な目を讃えて、彼はゴールデンアイの名で親しまれている。
「だが、貴様の妹は、あの場で死んだ屍肉喰いと同じ能力を発現した。偶然の一致にしては出来すぎていると思わないか」
詰問するような声音で畳みかけたのはブレットだ。
まるで自分が問い詰められているようで、アリーは知らず息を殺す。
ぶり返すのは、あの夜嚥下したブルーノの血の味だ。
あの熱のように熟んだ赤い液体は、ひどく濃厚で――そして。そして、甘かった。甘かったのだ。
人の血を甘いだなんて思うなんて、自分はおかしくなってしまったのかもしれない。
あれから数日間、アリーはそんな不安に苛まれたけれど、あのときの異常性が引き起こした錯覚に過ぎないと結論づけた。
そのはずだったのに。
(……わたしのリドルは、なにかおかしいの?)
わけのわからない焦燥感に蓋をするように、アリーは首を横に振る。
ブルーノとアリーの能力はなんら関係ないはずだ。
だってアリーがリドルを解放したのは、彼が死んだあとだったし、あの解放の瞬間、自分の内側から身体が作り変わっていく感覚に溺れたのを覚えている。
「さあね。僕にしてみれば、あのとき駆けつけた君が、昔アリーを救ったヒーローだってことの方がよほど三文芝居でも見ているような気分になるけど。それに僕たちは
そう言って、コーディはスリッパをパタパタ言わせて出て行ってしまう。
あとに残されたネイトの深いため息が落ちる。
「この十年、ニューファーム近郊のスフィンクスの捕食行為がぱったりとやんだ。そりゃ、この間のズワルトみたいなことはあるが、局地的な現象に過ぎない。お前、本当にあのイヤーエンド・ジェノサイドで、
「――さあな。おびただしいほどの死は目にしたが、それだけだ。よくある悲劇にすぎないな。それよりあんた、
「随分、俺のことを買ってくれてるじゃねえの。……嬉しいねえ。けどもう、俺は爛れた大人でね。お前も含めて、駒に過ぎんよ。ああ――そういやお前、昔、俺に憧れてたんだっけ?」
ごっ、という鈍い音がして、アリーは悲鳴が漏れそうになるのをなんとか飲み下した。
話の中身はちんぷんかんぷんだが、なにはともあれブレットがネイトを殴ったらしい。
まるで二人がなにを言いたいのかも、二人の関係もよくわからない。けれどアリーにはなぜか、ネイトがわざとブレットを怒らせるようなことを言ったような気がした。
ひどく静かになった室内で、自分の呼吸も鼓動も妙に大きく聞こえる気がして、落ち着かない。罪悪感と背徳感だけでできた球体のなかに閉じ込められたような、変な気分だ。
(今、わたしがこうしている状況は、もしかして、偶然でも、なんでもない、の――?)
聞こうと思って聞いたわけではない。けれど、今の会話をこっそり聞いていた事実が明るみに出るのは、危険な気がした。
しばらく息を殺していると、まるで巨大な熊じみていたマックスのいびきが止んだ。物音とともになにか重たいものが床に落ちる音がして、悲鳴が響く。どうやら寝ぼけてベッドからずり落ちたらしい。
張りつめていた室内の空気がたわんで、呼吸が楽になる。
叶うのなら、マックスに飛びついて感謝の言葉を十回も二十回も叫びたい。そんなこと、天地がひっくり返ってもアリーにはできないけれど、今この瞬間だけはマックスのことを神が遣わした天使だと思えた。
アリーは毛布を引きずって、スリッパに足を通す。
寝ぼけ眼を擦るように片手を目元にやって、アリーはパーティションに手をかけた。
「どうした、の?」
パーティションの向こうに目を凝らせば、腰に手をやってもんどりうっているマックスと、手を差し伸べることすらせずにげらげら笑って彼のそんな姿を写真に撮っているネイトが見えた。肌が黒くてわかりにくいが、頬のあたりが腫れている。
斜め向かいのベッドには、ブレットが腰掛けている。マックスでも彼の怒りは解けなかったのか、殺気だった視線に射貫かれた。
「早く、俺の前から消えろ。でないと、かならずお前は後悔する」
預言めいた言葉に、アリーは首を左右に振る。
それから、迷いを打ち消すようにまっすぐに彼を見つめた。
「――わたしは、あなたの、バディになるの」
かつて、血だまりのなか、もう大丈夫だと引き上げてくれた彼の言葉の力強さを抱きしめて、アリーは何度だって宣言する。
何度も言っていればそれがいつか叶うと信じるように。
生まれた疑念をお腹の底に押し込めるように強く、ただ前だけを見ていた。
$$$
吹き抜けていった木枯らしに、剥がれかけのポスターがばたばたとはためいている。クリスマスパーティの開催を知らせるその色鮮やかな紙は、何度も人の手に触れ風雨にさらされたのか、擦り切れて判読するのも難しかった。
クリスマス前からニューイヤーまでヒーロー育成プログラムに縛りつけられるアリーには関係のない話だが、この時期のエイムズ校は、クリスマスダンスパーティの話で持ち切りだ。件のダンスパーティは隣の名門男子校ケアード・アカデミーと共催で開かれ、高校最後の年にしか参加できないプロムとちがって、フレッシュマン(一年生)やソフモア(二年生)も参加することができる。
パートナー探しのため、ケアードの生徒が校門の前まで押しかけては勝利の雄たけびをあげたり肩を落として帰って行ったりする悲喜こもごもの姿を見られるのが、十二月の風物詩になっていた。
男性恐怖症気味のアリーとしては、彼らにさっさと自分の学校に退散してほしいところだったが、今日も今日とてエイムズ校の前にはケアードの生徒が鈴なりになっている。なかには花束やジュエリーケースを手にしている男の姿も見えた。
彼らのお目当ては言うまでもなく、レベッカだ。
彼女はここ最近、仕事で学校を休みがちで、今日も登校してくるかどうかなんてわからないのに、男たちは朝早くから鼻を赤くして雁首を揃えて待っている。ものすごい執念だ。
大回りして極力彼らの視界に映らないように校門をくぐる。
だが、そんなアリーのひそやかな努力は無残にも打ち砕かれた。
「おい、あんな子いたか?」
潜められた囁き声がさざ波のように伝播していく。
アリーがそっと目線を向けると、ケアードの生徒ばかりか、エイムズ校の女の子たちもこちらを凝視していた。なかには、あのジェーンの取り巻きもいる。
(――ヒィィィィィッ)
さながら猫に追いつめられたねずみのような気分で、アリーは背を丸める。
「君、名前は――?」
フットボールクラブにでも所属していそうな体格の男に肩を掴まれ、前につんのめりそうになる。脇腹に手を回され、全身に怖気が走った。
突き飛ばすようにして男から自分を取り返してから、はっとする。
いかにもスポーツマンじみた男の顔が、少し傷ついたように歪められる。
「ごめん、いきなり触れて悪かったよ。無駄にデカイなりしてるからさ、よく怖がられるんだ」
男は苦笑してそう言うと、頭を掻いた。そのしぐさがマックスとだぶって、アリーはなんとか踏みとどまる。
悪い人ではない、気がする。
昔の体験がもとで、男の人はみんな怖いものだと思っていたけれど、きっとそれはリドルがみんな凶悪だと主張する輩と同じだ。
走って逃げだしたくなる身体に鞭を打って、アリーは男を見上げた。
「……う、ううん、わたしも、ごめん、なさい。……助けてくれて、ありがとう」
しどろもどろにそう言うが速いが、またもどよめき声が辺りを駆け抜けていく。
なんだろうと振り向いて、アリーは硬直した。
「――ごめんなさい、そこ、通してくれる?」
鼻にかかったような甘ったるい声。
ブルネットの手入れの行き届いた髪には、トレードマークの赤いカチューシャ。額
から顎にかけてのラインは、高名な芸術家が心血を注いでつくった彫像のように一切の無駄がない。
スカートからすらりと伸びた足は、ラメ仕様のオーバーニーのソックスを纏い、華奢なショートブーツにおさまっていた。
ピンクがかった唇はぽってりと肉厚で、爪の先も赤く色づいている。今まで意識していなかったけれど、意外なことにアリーの方がいくらか身長が高かった。
画面のなかで見る彼女はセクシーで大人っぽくて、こちらを委縮させるような威圧感すらあるけれど、実際の彼女はその小柄な体格もあって、どこか可憐な印象すら受ける。
(かわいい……)
アリーは頬を赤らめて、レベッカに熱烈な視線を送る。今まではブレット以外のヒーローなんてほとんど興味を失っていたのに、自分がヒーローになると思うと途端に興味が湧いてくるから、現金なものだと思う。
いや、たぶん興味がないふりをしないと、昔の自分が抱きしめていた夢との折り合いがつけられなかったのだ。
「レベッカだ」
「レベッカ様!」
「やだ、あの鞄、ペリーニの新作よ」
「レベッカ、今年もクイーンおめでとう!」
途端に興奮に頬を上気させて、女の子たちがレベッカを取り巻く。いつの間にか、ミドルスクールの子たちも、黄色い声を上げてレベッカに群がっていた。
男たちはそんな女の園といった情景に所在なさげに立ち往生している。
「今年もクイーンになれたのは、みんなの応援があったからよ。ほんとうにありがとう」
レベッカは大輪の薔薇の花束を抱きしめて、華が咲きほころんだような笑みを浮かべる。普通なら真紅の薔薇なんて抱えていたら霞んでしまいそうだが、レベッカ・ハーヴェイの場合はそうはならない。
(クイーン……そっか、もう今年のクイーンとキングも決まったんだっけ)
「HEROES SHOW!」では、年に一回、視聴者によるヒーローの人気投票が行われる。アリーはこっそりブレットに投票していたが、彼は残念ながら中間発表の時点で圏外だった。
納得のいかないことに、今年のキングはコーディらしい。
クイーンはレベッカとベテランヒロインのアビゲイルの一騎打ちのような状況だったが、どうやら彼女はまたしても栄えある栄冠を手にしたらしかった。
人垣の向こう側で、レベッカは男たちに跪かれて、クリスマスダンスパーティの誘いを受けている。次々に手の甲や髪にキスされても、レベッカはどこかくすぐったそうに笑って、アリーのように相手を突き飛ばしたりはしない。
ヒロインで大スター。おまけに学園に君臨する女王といういくつもの肩書をもっているのに、決して気取らず、テレビでは見せない少女らしい笑顔には親しみが滲んでいる。
そんな姿を見ていると、この学園は、彼女が安らげる数少ない場所なのだと、どこか誇りにすら思えてくる。
遠巻きに銀幕のスターを眺めていた生徒たちも、次々に押し寄せて握手を求めはじめた。
(わたし、レベッカみたいに――なんて、一生かかっても、なれない気がする)
そんな弱気なことを言おうものなら、ブレットが嬉々としてヒーローを辞めるように勧めてきそうだから、絶対口に出すつもりはないけれど。
(ブ、ブレットさんのバディになるんだもん。ぜったい無理だとしても、レベッカを押しのけてクイーンになるつもりで頑張らないと――)
そう拳を握りしめたアリーがもう一度レベッカを振り向くと、彼女の翠色をした眸とかち合った。
あまりに身の程知らずなことを考えた罰だろうか。
よくよく見れば、ジェーンの取り巻きがレベッカの耳元に顔を寄せている。けれど、ジェーンの取り巻きがひどく厭な嗤いかたでアリーを見ているのに対して、レベッカはどこか困ったように笑っているだけだ。
とてもではないが、「あのアリシアって子、地味で陰気でウザいからいじめておいて」などと言う人間には見えない。
(もしかして、噂が独り歩きしているだけで、レベッカっていいひと、なのかも……)
そういえば、レベッカがいじめを主導しているところも、だれかの悪口を言っているのも見たことがない。
それどころか、クラス内に不和が生まれたときは、やさしくいさめていた。
(ひょっとすると、友だちに、なれたりして――?)
レベッカと、友だち。
なんて引力のある響きだろう。考えただけで、胸がどぎまぎしてしまう。
信じられないことだが、ネイトによれば年が明けて早々には、アリーのデビューが決まっているという。
数少ない同じヒロインズの同級生として、なんでも話せる仲になれたりするかもしれない。完璧に見えるレベッカにも、憧れているヒーローはいるのだろうか。
(ジェーンたちのいないところで会ったら、話しかけて、みようかな)
以前だったら思いもよらなかったような大胆な考えに、頬に血が上った。
「あ、君、待って――」
スポーツマンな彼の言葉も耳に入らない。
アリーは猫背気味に、けれど本人としてはいつもの三倍は上機嫌に、クラスルームへと続く道を駆けていく。
だが、アリーのそんな珍しくポジティブな一日の始まりは、あえなく憂鬱で灰色に塗り込められることになる。
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