#8Beauty is in the eye of the beholder.
暮れなずむ街に染み入るような軽快なジャズの音。
天井では、洒落たシーリングファンがくるくる回り、背後の壁には大小様々な絵画が絶妙なバランスで飾られている。柑橘系の甘酸っぱいにおいは主張しすぎず、すっと肌に馴染むようだった。
ブレットが腰かけたアンティーク調のチェアの周りには、低い背丈の本棚にファッション雑誌が所狭しと並べられている。六十年代のレトロなものから、最旬のファッションデザイナーの特集号まで、オーナーのこだわりが感じられるラインナップだ。
一点の曇りもない鏡には、アリーと上背のある迫力美人の姿が映りこんでいる。
彼女――いや彼、だろうか。ともかくその人物の手により、アリーがもっているうち最大の防御力を誇る前髪はあえなく頭のてっぺんでまとめられてしまい、額があらわになっていた。
「んもうっ。アタシはね、お客様の心に合わせたカットをするのがウリなんだから。こういうふうになりた~いとか言ってみてごらんなさいよ」
手に持ったコームとシザーをかちゃかちゃ言わせながら、彼――いや彼女が言う。
ここは、ニューファームきってのお洒落な町メッゾタウンの五番街。その表通りに面したビルの一階にヘアサロン「マ・クルール」はある。
オーナーは、ナイジェル・バクスター。生物学上は男性に分類されるが、その言動はアリーよりもよほど女性らしい。
けれどもアリーには、ナイジェルが男か女かなんてことは些細な問題だった。
ナイジェル・バクスター。またの名を、キューティ・トキシック。
かつて一世を風靡した、黒縁眼鏡がトレードマークの元人気リドルヒーローだ。その独特で毒のある物言いと抜群のファッションセンスが受けて、エンタメ業界でも引っ張りだこだったが、絶頂期に電撃的な引退宣言をして世間を騒然とさせた。
引退してからは、ファッションブランドの立ち上げやサロン経営をしていると聞いたことがある。だが、まさか実際に自分がキューティ・トキシックの店を訪れる日がくるとは夢にも思わなかった。
「他でもないネイトの頼みだから、話を引き受けたけれどね。アタシは自分から変わる意志のないコを変身させるのはイヤよ」
テレビで見たとおり、ナイジェルは初対面でもずけずけと遠慮がない。
サロンの予約時間に間に合わないという理由で、アリーは結局ブレットのジャケットをガウン代わりに纏った姿で「マ・クルール」の門をくぐった。その非常識な姿をひと目見るなり、アシスタントらしき美女は眉を顰め、自己紹介もほどほどにアリーはスタッフルームに放り込まれた。そうしてあれよあれよという間に高そうな服に着替えさせられたかと思ったら、今度は囚人のように引っ立てられてサロンのミラーの前に座らせられている。
アリーとブレットのほかに客はいない。おそらくデビュー前のヒーローということで配慮してくれたのだろう。
ナイジェルの第一声は明快だった。
『――どんなふうになりたいの?』
(どんな、ふうに……)
そんなことを考えたことはない。
ただ漠然と今のままではダメだと思っているだけだ。
いや、でも、とアリーは顔を上げる。
「あの……えっと、うまく言えないん、ですけど」
「大丈夫よ、期待してないわ」
辛辣な言葉なのに、なぜだかナイジェルが言うと嫌味に聞こえない。そういえば昔、ネット番組で視聴者からの人生相談に答えるコーナーが爆発的に流行っていたなと思いだす。あのコーナーの担当はナイジェルだった。アリーも一度自分の人生を儚んで欝々としたお悩み相談を投稿したことがある。あまりに暗い内容だったからか採用はされなかったが。
肩を竦めて、ナイジェルはアリーの隣の椅子に腰かける。目線を合わせられ、ついいつもの癖で俯きそうになる。それをぐっとこらえ、ナイジェルのクロムグリーンの眸を見つめ返した。
「わ、わたし――ブレットさん……に、ふさわしいヒーローに、なりたい、です。まずは……見た目だけ、でも」
「ふさわしい、ね。……難解な注文だわ。つまり?」
「つまり、隣にいても……ブレットさんが恥ずかしい思いをしなくて、テレビにもし映っても人に、不快感を与えなくて、関連グッズが赤字を出さないくらいには売れて……ネイトさんに恩が返せるような――」
「それが、アンタの考えるブレットにふさわしいヒーロー?」
アリーは少し逡巡した。
アリーの条件ではとてもブレットにふさわしいとは言えないだろう。
少なくとも――ブラックローズのようにブレットと並んでも見栄えがして、テレビに映ればコーディのようにファンが黄色い声を上げて、レベッカみたいに関連グッズが即完売するくらいでなければ。
『銀の弾丸』とは、それくらい重い、特別な名だ。
その名は、普通のヒーローがもっている二つ名とは別で、歴代のヒーローが受け継いできた称号のようなものだ。多くのスフィンクスを屠り、人類を救ったヒーローに授与される勲章で、一時代に二人の『銀の弾丸』が存在することはない。
『銀の弾丸』とは言わば、ヒーローの王なのだ。
けれど、今のアリーには今以上のことは口が裂けても言えない。
アリーがうんうん唸っていると、ナイジェルはくすりと微笑った。
「――アンタ随分、ブレット坊やを買ってるじゃない?」
声を潜めて囁かれたのは、思っていたのと正反対の答えだ。
目を瞬くと、ナイジェルの綺麗に手入れされた指先が頬から顎の輪郭を辿っていく。
「若くて、その辺を歩いているコなんか目じゃないくらい綺麗で、ネイトに拾われる強運の持ち主。すぐにだってあのコにふさわしくなれるのに、なんだってそんなに縮こまっているのかしら」
ナイジェルは小首を傾げて、アリーの顎をそっと持ちあげた。
たしかにアリーのことを綺麗だとか、美少女だとか言ってくれる人はコーディの他にもいないではなかった。自分でも、今の時代の一般的な美人の基準にそれなりに適合する顔立ちをしているとは思う。
けれどそれだけだ。それだけのことで、アリーは自分のことを好きだと思ったことは一度もない。
アリーはアリーという人間である以前に、おぞましい力の種を宿し、人間としての権利をたびたび取り上げられてきたリドルで、完璧超人であるコーディの妹という付属品だった。
アリーの顔も身体も、ノーマルが簡単に踏みにじることのできるモノでしかない。大切にされるべき人間として扱われたことが、今までどれだけあっただろう。
友だちと言われて信じてついていってみれば、裏切られることなんて山ほどあった。コーディのカリスマ性に惹かれてアリーに声をかけてくれた人は、いつも彼の妹は自己卑下しかできないつまらない少女だとすぐに飽きた。
君の価値はその顔だけだね、と面と向かって言われたことも何度もある。だから、君の顔も身体も好きにしてかまわないだろう? だって君にはそれしか価値がないんだから。
過去から追いかけてきた声に耳を塞ぐ。汚泥のように纏わりついた声たちは、いつだってアリーに安眠を与えることがない。
ぺちぺちと頬を叩かれ、ようやくアリーの瞳が焦点を結ぶ。
耳を塞いでいた両の手に、ナイジェルのそれが重ねられる。ナイジェルの眸は、すべてを見通すような深い色をしていた。
ふっと、強張っていた身体がほどけていく。
リドルというのは、みんなこういうふうにやさしいのだろうか。アリーはコーディ以外のリドルをよく知らないから、わからない。
ノーマルにはきっと、傷の舐め合いだと言われるのかもしれない。でも、そのいたわるような心は本物だった。
「アタシは美しいモノが好きよ。でもね、美しいモノが常に明るくてハッピーだとは限らないの。今のアンタの全部が間違っているとも思わない。今だってアンタ、ちゃんと見てあげればとっても綺麗だわ。妬けるくらいね。……お世辞だと思う?」
話の途中で思わず反駁しかけたアリーに、ナイジェルは小首を傾げて見せた。
強い眸の色に気圧されるように、アリーは言葉を失う。
「大事なことは、アンタがアンタにイエスと言ってあげること」
「……イエス」
そう言うことができたなら苦労はしない。
唇を引き結びつつも、なにか言いたげなアリーの様子に気づいたのか、ナイジェルは小さく吐息を漏らした。
「たとえばね、アタシは男の人が好きよ」
突然の告白にアリーは目を白黒させる。
ナイジェルはオネエタレントとして活躍していたので、なんとなくは
「……これって世間的には、間違っているんですって。でもね、アタシはそれを変えようとは思わない。男が好きなアタシでいいと思っているの。それがアタシよ。誰になんと言われようとね」
「それが、わたし……」
そう言えるものが、アリーにはなにかあるだろうか。
だれになんと言われても、何度踏みにじられても掲げたいと願う旗が、衝動が、叫びが。
「だから、アンタが変わりたくもないのに、ネイトに言いくるめられて変わろうとしているなら、アタシの仕事はないの。でも、アンタがアンタの意志で変わりたいっていうなら、アタシはいくらだって協力してあげる」
そう言ってナイジェルは立ち上がる。
背後から髪を梳かれ、アリーは鏡のなかのナイジェルを見つめた。
乾燥で唇の皮が剥けてひりひり痛んでいるアリーとはちがって、ナイジェルの肉厚な唇はつやつやしている。どこかの化粧品会社のCMにキスしたくなる唇、なんてキャッチコピーと一緒に映ったとしてもアリーは驚かない。
常に浮かべられた笑みはどこか蠱惑的で、ナイジェルが女性には興味がないと知ったところでどぎまぎしてしまう。
なにがあったとしても、俯いたり膝を折ることはしない。ナイジェルからはそんな自信が身の裡から溢れだしていた。
なんて強い人なのだろう。
ただのリドルの因子というだけで、アリーは謂れのない差別にさらされ、不当な扱いを受けてきた。でも、リドルヒーローとして、性的マイノリティとしてスターへの道を駆けあがったナイジェルは、きっとアリーとは比にならないくらいの悪意に晒されてきたはずだ。
(……そういえば、あの夜も……マックスのこと、なんでそんなに強くいられるの、って思ったっけ)
テレビの画面が移り変わるように、今度は脳裏に昨日のマックスの姿が過ぎる。
なんでもないと笑った顔とは裏腹に、擦れて震えた頼りない声。普段はエネルギーがありあまって見えるのに、あのときの横顔は影法師に吸い込まれて消えてしまいそうだった。
今まで強い人というのはもともと鋼鉄のような心臓をもっているのだと思っていたけれど、たぶんそれはきっとちがうのだ。
ナイジェルもマックスもぎりぎりのところで踏ん張ってきて、泣きだしそうになるのをこらえて、こうやって笑ってみせるのだ。
アリーは鏡越しに、ブレットの姿を見つめた。長い足を組んで、よれよれのペーパーバックを退屈そうに捲っている。
ブレットはどうなのだろう。
孤高の王は、バディなんていらないと吐き捨てたとおり、誰の助けも必要としていないように見える。不屈の銀の弾丸は、背中を預ける相手なんてむしろ邪魔なのかもしれない。
でもいつか。いつかそれが変わる日がくるかもしれない。
今、彼のバディになることができる切符をもっているのは、この世界でアリーただ一人だけだ。
もちろん、もっとふさわしいバディが現れれば、あるいはアリーが恐れをなしてこの役目から逃げだせば、その切符はちがうだれかが握ることになる。
自分がいくらでも替えが利く存在だとはわかっている。ネイトがアリーをブレットのバディにするなんて言い出したのは、タイミングよく彼の前に現れたリドルがアリーだったからだ。才能とか、アリーの器量とか、そんなものは関係ない。自分が特別だとは思わない。今だってアリーは、スクールカースト最底辺の、なんのとりえもないみじめな女の子に過ぎない。
でも――、自分からその切符を手放そうとは思わない。
それ以上に、もっと欲深い望みが、この手に絡みついている。
(……わたしもう、ブレットさんをテレビの向こうで応援しているだけのヒーローフリークには、戻りたく、ない)
昔、ブレットはピンチのときに自分が盾になってでもバディを守るようなヒーローだった。
それがどうして今はこれほど頑なになってしまったのか、知りたい。もし叶うなら、グリモアの英雄、ヒーローの王たる“銀の弾丸”ではなく、ブレット・ロウというひとりの人の心に近づきたい。
たとえもう二度と後戻りできない茨道しか待ち受けていなくとも、今のアリーに必要なのはただ彼の隣にいる最低条件だけだ。
厭わしくて仕方のなかった顔が武器になるというのなら、それを躊躇う理由はない。
「わたしは、ほんとうに……ブレットさんに、ふさわしく、なれます、か?」
「ええ、見てくれだけなら、すぐにでも。ニューファームきってのカリスマ美容師が保障してあげるわ」
ナイジェルが唇に人差し指を添えてウインクする。
だから、アリーは過去の自分に向かって頷いた。アリーの十六年は、無駄に酸素を消費しているだけの無意味なものではなかった。
ここに至るために、今までの道のりがあった。そう、自分をゆるしてあげることをゆるそう。今はまだ自分が嫌いでも、少しずつ変わっていける。
そしていつか、アリーも旗を掲げるのだ。
「――覚えておいて。美は力よ。だから、力を飼い馴らすの」
まるで託宣のように厳かに、ナイジェルの声が落ちる。
ナイジェルはシザーを持ちなおして、最初のときとまったく同じ綺麗な笑顔で問いかけた。
「――どんなふうになりたいの?」
だからアリーは、今の自分にできる精一杯の答えを返す。
彼の隣にいるために。いつか自分をまるごと愛してあげるために。世界をこの眸であますことなく見つめるために。
「いちばん――一番きれいなわたしにしてください」
その日から、アリーの世界は少しだけ変わっていく。
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