#7She that falls today may be up again tomorrow.

 コンクリートの地面にぴちょん、ぴちょん、と水滴が滴り落ちる。

 ぐっしょりと濡れたダッフルコートの裾を握りしめて、アリーはそっと校舎の二階を見上げた。

 植物の蔦の絡まったバルコニーは普段は閑古鳥で、園芸が趣味だという数学教師のほかには関心を示す者はいやしない。だが今は、いくつかの人影が重なって小鳥が囀るような声が響きわたっていた。

 ジェーンとその取り巻きだ。

 アリーの視線に気づくと、ジェーンのぽってりとした唇が吊り上がる。まるで待ちかねた恋人を見つけたような表情のまま、彼女はバルコニーの柵に肘をついて右手を振ってみせた。


 耳に障ったのは、喉が唾を飲み下す音。

 虚無に閉じていく心とは裏腹に、目の前が滲んで溶け出しそうになる。そんな自分にノーを突きつけるように、アリーはぱっと目を逸らした。


 ダッフルコートのにおいを嗅いで、少しだけほっとする。


(……よかった。ただの水、みたい)


 この寒空の下で全身びしょ濡れという事態をよくよく考えてみれば、実際は全然なにもよくはない。

 だが、汚水まみれになるよりかははるかにましだった。

 一年くらい前、燦々と照りつける太陽の下でカフェテリアの残飯まみれになったことがある。あのときは、悪臭がひどくて耐えられたものではなかった。それに比べれば、今の状態はべつになんてことはない。

 ひたすらそんな能書きを垂れる思考回路に、終止符を打つ。

 アリーはようやく事実を認めた。


 ――どうやらアリーは、ジェーン一派にバケツの水をひっくり返されたらしい。


「やだ、見てよあれ」


 顔も名前も知らない女の子たちが、あちらこちらでアリーを指差し始める。くすくすという笑い声が感染性のウイルスみたいに伝播していく。

 冷えた身体が羞恥で一気に火照って、おなかのあたりがじくじくと痛みを訴えだした。アリーは濡れそぼって撚れた前髪を何度も何度も引っ張る。そうして視界から自分の足元以外を締めだしてようやく、アリーは歩き始めた。


(やっぱり……さっきの、失敗、だった)


 とはいえ、アリーにとってこんな事態は日常茶飯事だ。

 だから、今さら傷つく必要なんてない。失うものなんてなにもない。これ以上落ちようがない場所に立っている。

 だから、なにも考える必要はなかった。

 こういう目に遭うことが多すぎて、対処法だってマスターしている。ひたすら無になって、家に帰るという目的を果たすためにだけ存在するロボットになった気分に浸るのだ。

 こんな格好で帰ったらコーディがどんな顔をするかだとか、もし途中でマックスにばったり会ったりしたらどうしようだとか。そんな人間みたいなことを考えてはいけない。


 不意に、ダッフルコートの内側でスマートフォンが震えた。

 そういえば、ブレザーのポケットに入れっぱなしのままだった。故障はしていないようでほっとする。

 けれども、わざわざコートのなかに手を突っ込んでまでスマートフォンを取る気にはなれなくて、しばらくの間続いた着信を無視した。

 そのあとも一度、スマートフォンが何秒か振動したが、やはりこれも無視した。重たいコートを引き摺って歩くだけでもう、なにもかもが億劫だった。


 やがて校門まで辿りつく。

 笑声に混じって、なにかどよめくような声が聞こえた。傍にある名門私立男子校の生徒が遊びにでもきたのだろうか。アリーの狭い視界には、濡れたローファーと紺のソックスしか映らない。

 極力存在感を消して帰ろうと外壁に目をやって、アリーは息を呑んだ。


 やけに上背のある立ち姿。

 もてあまされた長い脚は、片足が折り曲げられて壁に触れている。すぐそばには大型の黒塗りのバイクが停められ、その全身はバイクと同じブラックのカラーで統一されていた。

 唯一黒以外の輝きを見せる眸も、細身のサングラスに覆われて見えない。

 右手にはフルフェイスヘルメットを抱え、もう片方の手はスマートフォンを握っていた。

 いらいらとタップしてから、耳元にスマートフォンをあてる乱暴な仕草さえ、なんだか映画のワンシーンのように印象的だ。

 アリーのコートの内側で、もう一度スマートフォンが着信を訴え始める。

 コートの上からスマートフォンを押さえた瞬間、その男の人がこちらを向く気配がした。


 途端にアリーは踵を返す。

 けれどもアリーの湿った手のひらは、瞬く間に武骨な大きな手に掴まれた。


「何度連絡したと――なんで水をかぶってる?」

「か……関係、ない、です。放して、ください」


 アリーの言葉に、男は、ブレットは嘲るように笑った。


「関係なくはないだろう。なにせ笑えることにお前と俺はバディだ。昨日からな。お望みならいつでも解消してやるが」


 アリーは唇を噛みしめて俯いた。

 こんな姿――こんなみじめな姿、ブレットだけには見られたくなかった。

 彼だってアリーのスクールライフが前途洋々だとは思っていなかっただろうけれど、こんなふうに放課後に友達の一人とも肩を並べず、からかわれ蔑まれ公然といじめを受けているような人間だとは知ってほしくなかった。


 日常茶飯事。よくあること。傷つく必要もなければ、失うものもなにもない。いくらそう言い聞かせても、本当はわかっている。

 同じようなことが何度あったって、そのたびにお腹が疼いて、膝から崩れ落ちそうになる。

 だれも、この場にいるだれも、アリーを必要とはしていない。そう突きつけられるのは、いくら経験したところで慣れるものではない。拳銃やナイフと同じだ。

 もしかしたら今度こそは、だれかが手を差し伸べてくれるんじゃないかなんて馬鹿みたいな幻想を毎度抱いては打ち砕かれる。

 アリーは、学校も友達もどうでもいいなんて思ってない。本当は、本当は人並みにだれかとつながってみたかった。ランチタイムに自分の机に貼りついて音楽に逃避するんじゃなくて、なにも傷ついていないふりをするんじゃなくて。傷ついたときに、寄り添ってくれる友達が欲しかった。

 

 みじめで、情けなくて、瞼の裏が熱くなる。

 なんで自分は、人並みのことが人並みにできないのだろう。 


 レベッカやジェーン、その取り巻きが全部悪いわけじゃない。

 アリーが歩み寄れば、なにかが変わるかもしれない。そうわかっているのに、臆病な心が邪魔をする。

 無視されるのが怖くて、教室で挨拶ひとつまともにできない。得意な話題があったって、話しかけることもできない。

 殻に閉じこもって、自分はなにも傷ついていないふりをするのが精いっぱいだ。


 黙ったままのアリーを見かねてか、ブレットが小さくため息をつく。


「もう十二月も手前だ。そのままだと風邪を引く。自己管理もできないのか」


 ブレットは気だるげにライダースジャケットを脱ぐ。

 ふわりとした感触が肩を滑ってようやく、彼のジャケットにくるまれていることに気がついた。


「どこかで着替えてこい。着替えを買うまではそれで我慢しろ」


 呆然とブレットを見上げる。

 サングラスの奥の射貫くような強い眸にかち合って、今度もアリーは俯いた。


「聞こえなかったのか。俺は暇じゃない。早くしろ。それか今すぐネイトに電話してバディ解消を申し出るんだな」


 このわずか二、三分の間にすでにもう二度バディ解消という言葉が飛び出している。この分では、アリーがいじめられていようが、たとえ学校の女王であろうが彼にはどうでもいいのかもしれない。

 そう思うと、少し心が軽くなった気がした。なんら思われていないのも悲しいが、ブレットにまでみじめな子だと思われたらアリーはもう生きてはいけない。


「バディ解消は、しま、せん。着替え、ます。でも、なんで、ここに……?」

「……ネイトから聞いていないのか」


 問われ、アリーはようやく心当たりにたどり着く。

 そういえば、ネイトが昨日、学校にエスコート役を寄越すなどと冗談みたいなことを言っていた。


(まさか、そのエスコート役、って……)


 アリーはこわごわブレットを見上げた。

 ネイトはどうやってこの恐ろしい人に、アリーのイメチェンの付き合いなんて馬鹿馬鹿しい仕事を押しつけることに成功したのだろう。


 ヒーローの本分は、彼が主張しているとおり、レスキューにある。人喰いの怪物や悪人から善良な市民を守るためにこそ、ブレットは存在している。

 今だってどこかで助けを待っている人がいるはずなのに。今からでもネイトに言って、ブレットに帰ってもらおうか。だってあまりに似合わなさすぎるし、申し訳なさすぎて死にたくなる。


 『銀の弾丸』にアリーの付き添いなんてさせられない。

 たとえばブレットの昔のバディ・ブラックローズのエスコート役なら見栄えがするだろうけれど、相手はアリーだ。

 このちっぽけな学校という箱庭でさえ、底辺で虫けら同然に息をしているアリシア・エヴァンズ。もしもパパラッチにでも2ショット写真を撮られたら、ブレットの人生の汚点になるにちがいない。


「あ、の、かえって、ください。わたし、ネイトさんが納得できるように、少しでもヒロインらしくなれるように、一人でも、やれる、から」

「ここまで来させといて帰れとは、随分な言いぐさだな」

「で、でも、迷惑、かけたく、ないの。あなたは、わたしの……憧れ、だから」


 そこまで言ってから、アリーははっと顔を強張らせた。

 あの惨劇の夜、同じようなことを口走ったアリーに、ブレットは憎しみにも似た感情をぶちまけた。あのときのようにブレットが怒るかと思ったけれど、彼は押し黙ったままだった。

 表情は、視界を覆い隠す前髪のせいで見えない。


「……ずぶ濡れの女子高生にちょっかいを出した挙句、放置して帰ったなんて悪評が立つ方がよほど迷惑だ。それとも俺の新米バディは手取り足取り服の脱ぎ方から教えなければいけないのか?」


 アリーの頬にぱっと朱が散る。

 駄目押しとばかりに、マフラーを頭の上に放られ、アリーはついに観念した。

 いつの間にか身体がぐんと冷えている。これはたしかにブレットの言う通り、着替えなければまたベッドとお友達の生活に逆戻りだ。


 けれど、アリーの心はそんな心配とは別の方向を向いていた。


(……おれの、新米バディ)


 萎れた青菜みたいだった気持ちが、ブレットのたった一言で浮き立つ。

 もし叶うならば、今、部屋に置いてある巨大ピンクバニーを抱きしめて、ベッドの上を転げまわりたい。

 アリーが彼の隣にふさわしくないことも、ブレットがバディ解消を望んでいることもわかっている。

 だけど、その魔法みたいな響きに心臓がどきどきした。


 もし、いつか俺のバディと信頼をもって呼んでもらえる日が来たら。そんな空想をしてしまう。

 ずり落ちかけたジャケットを慌てて引き上げる。マフラーに顔を埋めると、ほろ苦い煙草の香りがした。

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