#6Repentance comes too late.

 サイレントモードにしていたスマートフォンがぶるりと震えて、消え入りかけていた意識が覚醒する。今朝早起きしてジョギングをしただけで、まだ授業中だというのに夢の世界に飛び立ちそうだった。

 慌てて壇上に目をやれば、意識が途切れる前と同じ生物学教師がなにごとかを早口でまくし立てていた。壁時計を見つめると、十一時。

 よかった。まだそれほど時間は経過していないらしい。


 お嬢様学校の名にふさわしい超高画質の大型スクリーンには、生物の進化についてのレジュメが映し出されている。種族Aと書かれた猿と種族Cと書かれた人間の間に、沢山の疑問符に囲まれた猿と人間の融合体みたいな奇妙な生物・種族Bが鎮座していて、すぐ横にミッシングリンクという単語が走り書きされていた。


「とまあ、このように進化の過程で連続性があると仮定されている事象について、その連続性が確認できない、なんてことが往々にしてあります。つまり猿からいきなりヒトになるのでは説明がつかないという具合ですね。その空白を埋める種族Bという架空の生物――これを古生物学でミッシングリンクなどと呼んでいるのです。余談でしたが、ちょうど終業のベルが鳴ったようです。それでは皆さん御機嫌よう」


 生物学教師は優雅に一礼すると、モバイルPCを片手にクラスルームを出て行った。

 ドアが閉まると同時に、わっとクラスルームに音が溢れだす。

 アリーはノートを抱きしめると早々に1-Bのクラスルームを退出して、ホームルームに続く廊下を息を潜めて辿り始めた。

 ホームルームの自分の席には、某有名コーヒーチェーン店のカップのゴミが散乱していた。アリーの机は、ゴミ置き場として使われることが珍しくない。無言でそれらを掻き集めて、ゴミ箱に放り込む。

 ようやく一息ついて、音楽プレイヤーにイヤフォンのプラグを突っ込む。サンドウィッチを一口かじるなり、アリーは大音量でミュージック・ビデオを流し始めた。


 曲は、半ば伝説化した数年前のヒットソングだ。

 モデルにタレント、俳優と幅広い活躍をしているコーディが、とある人物とユニットを組んで、音楽業界に殴り込みをかけた名盤「JUSTICE」のタイトル曲。

 ユニット名は「HEROES」。

 安直だが、そのわかりやすさが幅広い世代に支持され、その年の音楽賞の最優秀新人賞まで獲得。だが、翌年には解散を発表して、数多の女性たちを絶望の淵へと叩きのめした。それは、アリーも例外ではない。


 今からは考えられないことだが、コーディとユニットを組んでいたとある人物とはブレットだった。


(あ……ブレットさん、今よりちょっとだけ、襟足が長い)


 少し幼さの残る顔立ちと、擦れた低い歌声のミスマッチにぞくりとする。

 テンポの速い振り付けをなんなくこなしつつも、嫌々踊っているのが目に見えてわかる顔をしていた。普通ならアンチを大量に生んで即解散しそうなところだが、ファンサービス旺盛でいつも甘い笑顔を振りまくコーディとの対比がウケたらしく、その年はよくテレビでもブレットの姿を見かけることになった。


 思えばこの頃のブレットは、まだ事務所を移籍する前だった。

 今の厭世的な態度から想像もつかないが、彼は三年ほど前まではヒーロー業界のメインストリームたるジャスティス・カンパニーに所属していたのだ。もっとも、その頃からショービズなんてヒーローの本分じゃねえ、が口癖で周りを困らせていたようだが。


 当時、憧れのブレットと兄がバディを組んだついでにCDデビューを果たしたと聞いて、開いた口が塞がらなかったのを覚えている。

 結局そんなバディが成立していたのは一年という短い期間だった。とはいえコーディの歴代のバディはたいてい女性で、熱愛が報じられては破局してバディ解消しているので、長くもった方かもしれない。


「――て、の!? ――シア・エ……ズ!!!!」


 突如音楽の切れ間に切り込んできた声に顔を上げる。

 見れば、クラスメイトのジェーン一派がアリーの机を取り囲むように立っていた。

 かろうじて制服のスカートが残っただけの着こなしは、私服と見まがうほどだ。

 ファッションに疎いアリーでも知っているハイブランドのジャケットははっきりとしたストライプ柄で、タイツのカラーは明るいオレンジ。ともすれば派手になりかねない組み合わせを落ち着いたテイストの編み上げブーツが上品にまとめている。

 今日は学校のファッション・アイコンであるレベッカは休みのようだったが、彼女がいなくともこのクラスのオシャレ偏差値は学年でも飛びぬけて高いと評判だった。ミドルスクールの後輩たちがランチタイムに押しかけてくることも珍しくない。


「……ご、めん、なさい。今、なにか、言った?」


 アリーがおそるおそる尋ねると、ジェーンの形のいい眉が跳ね上がる。


「ええ、言ったわ。アリシア、あなたのお兄様が破局したと聞いたのだけど?」

「あ……そう、なんだ」


 昔はアリーもコーディが誰と付き合っているか多少は気にしていたこともあるが、そんなことを覚えるのは時間の無駄だとすぐに気づいた。顔と名前を覚える頃には次の恋人ができているからだ。

 間の抜けた返答に納得がいかなかったのか、ジェーンがアリーを睨みつける。

 ジェーンの隣では、もう一人のクラスメイトがスマートフォンで「ヒーローズマガジン」のオンライン版を映し出してアリーに突きつけていた。たしかに『移り気王子、今年三度目の破局!?』と読める。

 お相手だった女性の名前はミシェルというらしい。初めて知った。


「この間、お兄様を紹介してって頼んだとき、恋人がいるから駄目だって言ってたわね。フリーになったんだから、今度は紹介してくれるでしょ?」


 このときになってようやくアリーはジェーンの言いたいことを悟り、青ざめた。


「……だ、だめ。だって、その、あの、コーディは、おすすめ、できないから」

「あなたの意見なんか聞いてないわ、アリシア。ねえ、紹介してくれたら、今度パパのホテルで開かれる姉の誕生パーティに招待してあげる。ヒーローズだってくるし、フットボールのクラブチームのメンバーも、近くの名門男子校の生徒だってわんさか来るわ。素敵でしょ?」


 人見知りで男性があまり得意ではないアリシアにはそれのどこが素敵なのかまるで理解できなかったが、ジェーンにはちがうらしかった。

 ヒーローズがくる、というのには多少心惹かれたが、アリーの憧れのブレットがパーティなんかに出席するはずもない。


「あの、でもほんとうに、コーディ、はおすすめできないの。だってその、雑誌にも書かれているとおり、もう今年、わかっているだけでも三回も別れてるような、遊び人、なの。それに、あの……知ってる、と思うけど、リドル、だから。だから、ジェーンには、ふさわしくはない、と思う」


 リドルの人口が増えつつある今、社交の場において相手がリドルかそうでないか見極めるのは重要なファクターとなっている。友人関係なら取り返しがつかない事態になることはそうそうないが、男女関係ともなれば事だ。

 世間にはリドルであることを隠して生きている者はざらにいて、子供が生まれたあとで大騒ぎになることも少なくない。アリーはデマだと信じているけれど、リドルと性交渉をした場合、血が穢されて、遺伝子が組み変わるのだとかいう科学的根拠のない主張もSNSで大々的に取り上げられていた。


 だから、良家の子女は、リドルと極力関わらないように育てられる。アリーが小中高一貫のこのエイムズ校に編入できたのはコーディの力の賜物だが、これが共学だったらこうはいかなかっただろう。


「あら、スキャンダラスで素敵だわ。ねえ、知ってる? リドルの男って、あっちの具合がノーマルの男とは全然ちがうんですって。ちゃんとゴムつけてれば影響もないって聞くし、遊べるのは今だけだもの。会わせてよ。私、ミシェルよりは彼を満足させてあげる自信があるわ」


 ホテル王のご令嬢のあまりに奔放でぶっ飛んだ発言に、アリーは卒倒しそうになった。

 周囲の会話に加わっていない女の子たちまで耳をそばだててこのやりとりを見守っている。このゴージャスでセレブなお嬢様たちは、それほど退屈をしているのだろう。目新しい刺激を探してうずうずしているのだ。

 赤くなったり青くなったりと忙しないアリーの表情も、前髪のせいでほとんど気づかれていないはずだ。けれど、ジェーンはアリーの耳元にピンクのグロスで色づいた唇を寄せると、くすりと笑って囁いた。


「それとも――これから三年間ずっと、ハブにされたい?」


 途端、アリーを取り囲んでいた女の子たちが口元に手を当てて一斉に笑声をこぼした。

 アリーは思わず溶けだしそうになる世界を支えるように、胸の前で組んだ両手をぐっと引き寄せる。

 この間の体育のダンスの授業でも、アリーの発表のときはひどいものだった。上手く踊れずよろけて尻もちをついたアリーの動画は、短文投稿サイト「peeper」にアップロードされ、一時間もしないうちに広く拡散された。

 おかげで、アリーは同じ敷地内にあるミドルスクールの後輩たちからも後ろ指を指されて忍び笑いをされる日々を送っている。

 スクールバッグに蛙の死骸が入っていることなんて日常茶飯事だし、ミドルスクール時代には、頭からヨーグルトをかけられて近隣の男子校の生徒に引き渡されそうになったこともある。そのときはコーディが相手をぶちのめしてくれたおかげで事なきを得たが、しばらくは下火になっていた嫌がらせもハイスクールに上がってからまた再燃した感がある。


「…………ごめん、なさい……」


 俯いて囁くように言う。

 空気が震え、ジェーンが怒気を閃かせたのが伝わってきた。


「それはつまり、あなたのお兄様には私を会わせることなんてできないってこと?」


 なんと答えていいかわからず、アリーは唇を噛んだ。


 ミドルスクールのときも、やっとできた友達に同じことを頼まれ続け、ついにはコーディに引き合わせてしまったことがある。

 その子は本気でコーディのことが好きだったらしいが、振られたショックで家出をして、ついには学校を転校してしまった。コーディに会う前は、クラス中に憧れの彼に会えると頬を紅潮させて触れ回っていたから、無理もない。

 しばらくしてから、アリーには今までありがとうというメッセージだけが届いた。

 あの後はコーディをきつく問いただしたけれど、どんなふうに彼女に対して振る舞ったのか、結局は教えてくれずじまいだった。

 いくら女性に見境のないコーディといえど、たった十四の女の子に手を出した挙句にこっぴどく振ったとは思いたくないが、友達の突然の失踪は兄への不信感を募らせるには十分すぎる事件だった。


 あのときとちがって、ジェーンは友達ではない。

 むしろ、アリーに嫌がらせをしてくる張本人で、コーディの毒牙にでもかかってくれたほうがアリーの周りは穏やかになるのかもしれない。コーディに会わせてあげただけでいじめがやむなら、安いくらいだ。

 でも、ここを譲るのはアリーの信条に反する。相手がたとえ、ジェーンだとしてもだ。


 おそるおそる頷くと、ジェーンは「そう」と囁き、鮮やかに微笑んだ。

 こういう顔をするときのジェーンはとても危険だ。

 ゆるく巻かれた髪が揺れる。つん、と華やかな花々のにおいが香って、アリーはくらりと眩暈を覚える。


「でも――覚えておくのね。私たちを敵に回すってことは、レベッカを敵に回すってことよ」


 ジェーンはそう宣戦布告をしてアリーの肩に手を添える。お腹の底から溢れだした不安に、全身が絡めとられていく。

 もしかすると、アリーはとんでもない失敗を犯したのかもしれない。

 青ざめたアリーをよそに、ジェーンは取り巻きを引き連れてクラスルームを後にした。

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