#5Without haste, but without rest.
落書きまみれの壁を、残照が橙色に染めている。吹き抜けていく風に空き缶がからからと音を立てては、寄せては返す波のように同じ場所を行ったり来たりしていた。
先に走りはじめていることをひそかに期待していたけれど、マックスは先ほどと同じ場所で――ついでにスウェットを器用に腰で履いたスタイルのまま――スマートフォンに視線を落としていた。
アリーはおそるおそる足を進める。
全身が心臓になったかのようにうるさい。知らず握りしめていた手のひらはうっすらと汗ばんでいた。
アリーの足音に気づいたのか、マックスが振り向いて苦笑する。
「取って食いやしねえっての。おっさんから走るように言われたんだろ?」
「う、……うん、なんで知ってるの?」
「いじめんなだってよ」
そう言って、マックスはアリーの方へスマートフォンの画面を向けた。
着信履歴の一番上に“おっさん”と表示されている。ネイトがわざわざ電話をかけてマックスに伝えてくれたらしい。
「……い、一緒に……いい?」
「アリシア、一人で走ったりしたら、すっ転んでドブに嵌まりそうだもんな」
アリーはそっとマックスを盗み見た。
茶化すように笑った顔からは、先ほどの異様な雰囲気は消え失せている。
「お、怒ってない、の?」
「べつに」
ふてくされたように言って、マックスは大きなあくびをする。
「……つーか、その前髪で走ったらまじでずっこけるぞ」
「ネ、ネイトさんがピン貸してくれたから、平気、だよ」
アリーはポケットからピンを取りだす。
きらきらと星のようにまばゆく輝くラインストーンに、少しだけ心が浮き立つ。おしゃれなんてしたことがなかったから、こんな綺麗なものに触るのもはじめてだ。
アリーが持っているヘアピンは全部ドブみたいな色をしている。
コーディが華やかな髪留めを贈ってくれたことは何度かあったけれど、あまりに自分と不釣り合いな気がして、結局チェストの奥にしまいっぱなしになっていた。
偶然か、それともあえてなのかはわからないが、ストーンの色はアリーの瞳と同じ、澄んだ湖面の色をしている。派手すぎなくてちょうどいい。
前髪をサイドに分けて、ピンを挿す。慣れないためか、うまく留められない。悪戦苦闘していると、横から手が伸びてきた。
「貸してみ」
半ば奪われるようなかたちで、マックスに前髪をとられる。軽く梳かれ、こめかみのあたりを指先が滑った。不思議と嫌な感じがしないが、どこかこそばゆい。
間近でマックスの顔を見つめているのもいたたまれなくて、アリーは俯いた。
その手つきが迷いなく、なおかつ初めて出逢ったときの彼と同一人物とは思えないくらいやさしくて戸惑う。
きっと、こういうことに慣れているのだろう。たしかマックスの好みは、ホットでセクシーな女の人だった気がする。
「ほい、できた」
「あ……、あり、がとう」
消え入りそうな声で囁いたのに、マックスはそれに応えるようにアリーの額を軽く小突いてからスマートフォンをタップした。
スマートフォンのカバーには、メタリックなシルバーのラインストーンで骸骨がデザインされている。アリーとは全然趣味が合いそうになかったが、妙に凝ったデザインにもかかわらず、どこか手作り感に溢れていた。
もしかしすると、ショップで買ったのではなくて自分でつくったのかもしれない。
(……マックスって、手先が器用、なのかも)
コーディもなんでもうまくこなすほうだが、ラテアートやスマートフォンのデコレーションにはお手上げだろう。兄には根性とか努力とか、そういう類の言葉が似合ったためしがない。
「ざっと、こんな感じのコースでいくか」
マックスはスマートフォンの液晶をこちらに向けた。どうやら、なにかのアプリでジョギングコースをシミュレートしてくれていたらしい。
上部に表示されている設定は、“体力が平均以下の女性”になっている。
(……こういうの、女の人にやさしいっていうより……面倒見がいい、っていうのかな)
とにかく過保護でアリーを猫かわいがりして甘やかしまくる実の兄よりも、よほどお兄さんらしい。
もっとも、言葉遣いと恰好に目を瞑れば、だが。
アリーは曖昧に頷く。土地勘もなければ自分の体力の限界もよくわかっていないので、ジョギングコースについてはなんとも言いようがなかった。
準備運動をして、スニーカーの紐を結びなおす。
「んじゃ、行くぞ」
マックスが軽快に地面を蹴り上げる。その背中を追って、アリーは重たい足に鞭打った。
順調だったのは最初の〇・五マイルほどで、すぐに息が上がってきた。腿が突っ張って、胸のあたりも脇腹も引き攣れたように痛い。思わず足を止めそうになったところで、マックスが振り向いた。
「そーゆーときは、スピード落とすんだよ。一度止まると、あとが辛ぇぞ」
ちんたら走るアリーに付き合うのは、よほど根気がいるはずだ。得てして、できる人にはできない人の気持ちがわからない。なのに、マックスは速度を落として肩を並べてくれる。
スピードを緩めてしばらくすると、悲鳴を上げていた肺も脚も少し楽になった。
ネイトの言うとおり、アリー一人だったらとっくに音を上げていただろう。体育の時間のマラソンでは、いつも途中から歩いていたくらいだ。ゴールまでの道のりの果てしなさに眩暈すら覚えた記憶しかない。
けれど隣に一緒に走ってくれる誰かがいるだけで、あと一マイル頑張ってみようかと思える。その繰り返しをしているうちに、だんだんとゴールが近づいてくる。
華やかなヒーロー業界とはかけ離れた地味な絵面だ。
けれど、スフィンクスと対峙した後だと、この一見地味な体力づくりがどれほど大事かわかるような気がした。
アリーの憧れのヒーローたちも、体は資本と口を揃えていた。半端な体力も能力も、スフィンクス相手では命取りだ。
やがてごみごみとした路地裏に差しかかる。人の往来を避けるように道路の端に寄った途端、隣の気配が急に遠ざかった。
振り向くと、マックスがとあるバーの前で立ち止まっている。もう日も暮れたからか、店の外にもアルコールの強いにおいが漂っていた。
マックスの瞳は焦点を結ばず、ここではないどこかを見つめている。店の従業員の足元から伸びた影法師のなかで、まじろぎもせずに佇んでいる様に得体の知れない焦燥感が募る。
アリーが小走りに来た道を戻ってようやく、マックスがこちらを向いた。
「……どうか、した?」
「いや……昔、ここ、ブルーノに――」
そこまで言ってから、マックスはハッとしたように口を噤む。
「……なんでもねえよ。悪かったな。あとちょっとだ、早く終わらしちまおうぜ」
ブルーノ、の名前が心にできた塞がりかけの瘡蓋をぐじゅぐじゅと刺激する。
マックスの言葉はやさしかったけれど、その声はアリーからのあらゆる言葉を拒絶していた。
かける言葉はいまだ、見つからない。
あのひとりの男の命が失われても、世界はまるでなにごともなかったかのように時を進めている。けれどまだ、アリーもマックスも世界に置いてけぼりにされて、あの冷たい夜のなかにいるのだ。
アリーは握りしめた手のひらに爪を食い込ませて項垂れる。結局そのまま、ただ静かに頷いて走りだした。
SGCのある雑居ビルの前に戻る頃にはもう、とっぷりと日が暮れていた。
汗ばんで熱を放出している身体も、宵の風に浚われるとたちまち冷えていく。壁に凭れかかって一言も発せずに荒い息を繰り返すアリーを見かねて、マックスが買ってきてくれたスポーツドリンクは、渇いた身体に染み入るようだった。
「……マックス、……あの、だいじょうぶ?」
「いや、そりゃ俺の台詞なんだけど。お前、やっぱヒーローとか向いてないんじゃね」
アリーが言いたいのは体力の話ではなかったのだが、マックスの率直な言葉に俯いて唇を噛む。
「……マックスも、そう、おも、う?」
「や、そりゃお前はたしかにすげえリドルもってるけどさ。やっぱ、なんつーの。戦う柄じゃねえっていうか」
「でも、戦えなきゃ、監獄行き、だもん。……わたし、わたし、それは嫌、なの」
あの日、銀行強盗に巻き込まれる以前のアリーだったなら、ヒーローだなんて突拍子もない道を選ばずに、無難に刑期を終えることを望んだだろう。
スフィンクスと戦うのは怖いし、ヒーローなんて柄じゃない。だけど、あの日あのときのアリーは、ヒーローになることを選択した。
それは昔の夢がぶり返したことが一番の要因だけど、そのなかにはたぶんマックスの存在もあった。
マックスやブレット、この人たちとの関係をここで終わらせたくない。
人と関わるのが嫌いだったはずなのに、アリーはあの日確かにそう望んだのだと思う。
「ま、そりゃそうだよな。悪かったって。アリシアは俺の命の恩人だかんな。俺がかっちょよくフォローしてやっから」
けらけら笑って、マックスは雑居ビルの入り口に足を向ける。
そのスウェットの裾を、アリーはきゅっと掴んだ。
脳裏に、バーの前に立ち尽くしたマックスの抜け殻のような表情が過ぎる。なんでもないと言った声が震えていたことに、気づかないでいられるはずもなかった。
マックスになにか一言でいいから言葉をあげたい。そう思うのに、水泡のように浮かんでは消える言葉はなかなか形にならなかった。
(……でも、わたしなんかに、触れられたくない話かもしれない)
マックスの裾を掴んだ指が怖気づいたように強張る。
(人と関わるのって、むずかしい、な)
アリーは、そのままマックスから手を離して俯く。
友達がいないことはなによりもみじめで悲しく悩ましいことだと思っていたけれど、友達がいるのもそれはそれで大変なのかもしれない。もっとも、マックスはアリーの友達なんかではないけれど。
「どした?」
「え……ううん、えーと、あの、その……あのね、そうだっ、その、ネ、ネイトさんが、パ、パンツしまってって」
「はあ?」
マックスの大きな声に、アリーは飛び上がった。
混乱のあまり、言うつもりのなかったことを口走ってしまった。ブルーノの話題とは別のベクトルで、パンツも今のアリーには到底扱いかねるトピックだというのに。
それもこれも全部ネイトのせいだ、とアリーは責任転嫁する。
「その、あの、だ、だから、ネイトさんがね」
「おっさんがどうしたよ」
「だからパンツ……が見えてる、のは、どうかなって……」
「バッカ、パンツて……これはファッションだよ、ファッション!」
「ヒィッ。そ、そういう文化があるのは、知ってる、よ。で、でもね、あの、その、わたしが、目のやり場に、困る、の……」
そう言ってアリーは両手で顔を覆う。
指と指の隙間からマックスの顔色を窺うと、彼は悪態を吐きながらポケットに手を突っ込んだ。その横顔にはわずかに朱が差している。
アリーの顔は、たぶん彼とは比べ物にならないくらい真っ赤だ。
「うっせえな。文化とか高尚なモンじゃねっての。カァ~、これだから優等生ってのは気が合わねんだ」
そう言いつつも、マックスはスウェットのウエストに手をかけると、心持ち上に履く位置を調整した。
それでもまだファンシーな子犬柄のトランクスが見え隠れしていたが、アリーは今度こそ見てみぬふりをしてマックスを追い抜くと、スポーツタオルに顔を埋めたまま、がたつくエレベーターに乗り込んだ。
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