#3Rome was not built in a day.
キッチンの方から、コーヒーの深みのある芳醇な香りが漂ってくる。
見ると、あのマックスがネイトの言うとおりにコーヒーを淹れていた。この数日で、ネイトはマックスにお茶出しをさせるまで手なずけたらしい。
「おっさんはエスプレッソだろ。アリシアは? コーヒー飲めんの?」
「え……あ、ミルクいっぱい、なら」
アリーはそう答えたあとで、ちょっと頬を赤らめた。ミルクいっぱい、は子どもっぽかったかもしれない。
マックスはアリーの受け答えに頓着せずに、ペーパーフィルターの上で円を描くようにお湯を注いでいた。適当なインスタントコーヒーでも淹れているのかと思っていたので、開いた口が塞がらなかった。
「あいつ、ここの近くのカフェでバイトし始めたのよ」
アリーがあまりにマックスを凝視していたせいか、ネイトがそう説明した。それから、内緒話をするように口元に手を寄せる。
「本当は、学校にでも行かせたかったんだけどな。ほら、ヒーローもあんまアホじゃ、あれだろ。でも、そんな小便臭いところ行けるか、って。ガキだろ?」
「……ガッコウ……」
「あ、あいつまだ十八よ。アリーちゃん、あいつに一般常識とか、色々叩き込んでやってね。語彙がクソと死ねしかないアホの子だから」
「……あほの、こ……?」
あの恐ろしいマックスをアホの子の一言で片づけるネイトは、なかなかの豪胆さだ。
(十八って……わたしの、二歳年上なだけなんだ)
それなのに、学校も行っていないうえ、あの日銀行強盗を企てた。果たして彼は、これまでどんな人生を送ってきたのだろう。
「ほい、お待たせしましたよっと」
アリーが思考に沈んでいる間に、テーブルの上に湯気を立てたカップが二つ置かれる。
かわいらしいピンクのカップを覗いて、アリーは思わずマックスの顔を二度見してしまった。
カフェラテには、かわいらしいうさぎが描かれていた。もしかしなくても、ピンクバニーだろうか。ラテアートというやつだろう。ラテアートが出てくるような洒落た店に入ったことがないのでよく知らないけれど。
「やだ、かわいい」
ネイトが自分の頬を両手で覆って、そんな声を上げる。
「きしょいぜ、おっさん。鏡見て言いやがれ」
心底、気分が悪そうにマックスが言う。けれどアリーは全面的にネイトの意見に賛成だった。
「…………マックス、すごい、ね……!」
珍しく、素直にそんな言葉が出てきてしまう。
マックスは鼻っ柱を擦って、そっぽを向いた。
「いいから、飲めよ」
「え……、もったいない、よ」
「ばか、飲まねえほうがもったいねえっての。またいつでも淹れてやっから」
「ほ、ほんとう? それなら……あ、でも、写真……撮って、いい?」
「……は? 勝手にしろよ」
すぐそばで何故かものすごくにやにやしながら、ネイトがアリーたちのやりとりを眺めている。
マックスは居心地悪そうに身を捩らせていたが、アリーは彼の言葉に甘えてスマートフォンにちょっと不格好なピンクバニーのラテアートを収めた。
コーディがキーホルダーを買ってきてくれただけで大して思い入れはなかったはずなのに、なんだかピンクバニーがとってもかわいく見えてくるから不思議だ。
意を決して、カップを手にとる。
実はコーヒーはあまり得意ではない。苦くて酸っぱいのが、どうも舌に合わなくて、砂糖たっぷりの缶コーヒーくらいしか飲んだことがなかった。
「あ、れ……おい、しい」
独特の深みはそのままなのに、まろやかに舌に触れて喉の奥に流れていく味はやさしかった。
マックスは、ふふんと鼻高々だ。
「お前、アホなのに、わりと器用になんでもこなすよなあ」
「一言余計だぞ、おっさん」
「んまいよ。ま、あそこのマスターのが満点なら、まだお前のは四十点くらいだけどな」
「四十点だと!?」
マックスがネイトに掴みかかる。
けれど、そんなやりとりは冷え切った声によって中断された。
「おい」
おそるおそるアリーが振り向くと、ブレットがネイトを睨みつけている。
「話ってのは、この茶番劇のことか?」
「あー……若いもんは短気だねえ。ほーら、マックスがあいつだけ除け者にして淹れてやんないからいじけちゃったぞ」
ネイトはまだおふざけを続けている。
ブレットがブチ切れるのも時間の問題だろう。
男の人の怒鳴り声はもう聴きたくない。だってよう、などと唇を尖らせているマックスを押しのけて、アリーはネイトに必死に言い募った。
「……あ、の! わたし、も、そろそろ、これからのこと、聞きたい、です」
「……そうね、そろそろ本題に入ろうか。アリー、ヒーロー業界でリドルがヒーローをやるためのお約束ってなにかわかる?」
「えっと……リドルは単独での職務遂行を禁じられて、いて……だからかならず、ノーマルと……バディを組まなければいけない――?」
「そ。さすが、現職リドルヒーローの妹。そこでだ。アリー、君には、ブレットのバディになってもらいたい」
(え――?)
アリーは思わずブレットを見つめる。だがそれは彼も同じだったらしい。ブレットはほんの僅かの間瞠目していたが、すぐに我に返ってアリーを射殺しそうな瞳で睨みつけた。
「俺は金輪際、リドルなんぞと組むつもりはねえ。そう言ったはずだ」
ブレットのいっそ暴力的な声に、アリーは拳を握りしめて俯いた。
リドルは嫌われ厭われ、あらゆる権利を奪われてきた。
アリーがまともに学校に通えているのはコーディの力に他ならないし、どうにか住まいを追われずに住んでいるのも、ニューファームがリドルの居住を認める特別な市であるところが大きい。
他のリドルよりはだいぶましな状況にあるとはいえ、アリーはいつも同世代の子どもにはいじめられ、大人には遠巻きにされ心無い陰口に晒されてきた。
だから、リドルなんぞ、という言い草には慣れている。子守唄のごとく、流行語のごとく、毎日毎晩聞いてきた言葉だ。
(……慣れてる。慣れてるから、どうってことは、ない。ないのに)
それがどうして、ブレットに言われると、こんなにも胸が痛むのだろう。
ネイトはブレットからふんだくった煙草に火をつけると、紫煙を吐いた。
「んじゃ、アリーちゃんには、ジャスティス・カンパニーにでも入ってもらうかね。お兄さまはああ言ってたけど、たぶんアリーちゃんなら、コネ入社くらいわけないし」
とんでもないことを言いだしたネイトに、アリーは眩暈さえ覚えた。
ジャスティス・カンパニーはヒーロー会社の雄だ。
知名度も歴史も実績も他の追随を許さない。ヒーローになりたいイコールジャスティス・カンパニーに入社したいと言い換えてもいい。おかげで、抱えているヒーローの数も、五万の大台に乗っている。
とはいえ、その中で表に出てくるヒーローはわずか一握りに過ぎなかった。つまり、社内での競争率がバカ高いのだ。
たいていのヒーロー志望者は、ジャスティス・カンパニーのなかで、一切のメディア露出をせずに消えていく。ジャスティス・カンパニーには、華やかなヒーロー事業部だけでなく軍隊然とした傭兵部隊があり、ドル箱にならないヒーロー志望者たちはそちらに回されるのだ。
ジャスティス・カンパニーはリドルの働く権利を訴えているだけあって、傭兵部隊にもリドルが加入できる。だが、ヒーロー事業部を一歩離れれば、傭兵部隊内でのリドルたちへのリンチが公然とまかり通っているなどと聞いたこともある。
アリーがそんな環境で生き残っていけるとは、到底思えない。だから、コーディもアリーをジャスティス・カンパニーには迎えなかった。
コーヒーカップを握りしめる手が震えた。たぶん、今アリーはきっとひどい顔をしている。
ふと、目の前に影が落ちた。
「監獄が似合いのようだな」
低く囁くように、耳朶に声が触れる。
どうやらいつの間にかブレットが背後に立っていたらしい。けれども、アリーは振り向けない。
(ブレットさんは、わたしを、わたしの存在を認めるつもりは、ない……)
じわりと目頭が熱くなる。
アリーがリドルだからだろうか。でも、昔は彼もリドルとバディを組んでいたし、リドルの仲間に囲まれて笑っていた。
(わたしが、弱虫で、後ろ向きで、ヒーローにふさわしくない、から?)
思い当たることがありすぎる。
アリー自身、自分がヒーローにふさわしいとは微塵も思えないのだから。
欝々とした思考回路を断ち切ったのは、ネイトが手を打つ音だった。
「ま、相性の不一致ってやつは、バディには往々にしてある。だけどな、十年もキャリアを積んでるお前からの解消を認めるつもりはない。そろそろお前も後進の育成に携わってもいい頃だ。まだごねるようなら出ていってくれてかまわん」
「――つまり、その娘が解消を言いだせばいいわけだ?」
ブレットの声音に、ぞっと背筋が冷えた。残酷な言葉なのに、まるで軽快に歌いだしでもしそうな、そんな得体の知れない声だった。
凍りつくアリーに嗤いながらよろしく相棒、と囁くと、ブレットは今度こそ部屋を出て行った。
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