#2The proof of the pudding is in the eating.

 ニューファーム市のポスト・スクエアにほど近い雑居ビル。そこに、今日からアリーが働くスケープゴート・キャストの事務所はある。


(……ぼろ、い……)


 ヒーロー業界の華やかなイメージとはかけ離れた年代物のエレベーターに乗り込んで、アリーは率直な感想を胸中で吐きだした。

 ニューファームのトレードマークとなっている、ジャスティス・カンパニーの超高層ビルとは月とすっぽんの差だ。しかもあそこはたしか、自社ビルだったような気がする。

 もっとも、ジャスティス・カンパニーは歴史あるグリモア屈指の大企業なので、ぽっと出のSGCと比べること自体が間違っているのかもしれないが。


 古風なモーター音を立てて、昇降機がゆっくりゆっくりとのぼっていく。チン、と音がしてアリーは六階へと降り立った。

 狭い踊り場で制服のシャツとクロスタイを整えて、ゆっくりと深呼吸をする。

 インターフォンを鳴らすと、自分の鼓動の音で世界が押しつぶされた。


 なかなかドアが開かない。

 アリーがもう一度インターフォンのボタンに手をかけてようやく、重い音を立てて扉が開いた。


「こ……、こんにち……あっ」


 折悪しくも、ドアを開けたのはブレットだった。トレーニングでもしていたのか、Tシャツにウィンドブレーカーを羽織ったラフな格好をしている。

 ただでさえ目つきの悪い緋色の瞳が、アリーを認識するなり不機嫌そうに細められた。


「――帰れ」


 開口一番、そう叩きつけられる。

 ただでさえ背が高く、声も低く、おまけに先日アリーの喉首に手をかけた男だ。いつも以上にうまく言葉が出なくなってしまう。


「ネ……ネイト、さん、は……? 約、束、してるんです」

「……奴なら急用だそうだ。今、ここには俺とお前しかいない。それでもいいなら入れよ」


 まるで正義の味方らしくない言葉を吐いて、ブレットが人ひとり分ほど身を引いた。傾けた顔は、嫌な嗤いを貼りつけている。

 ごくりと唾を飲み込んで、アリーは隙間に身を滑らせた。


「お前――」


 ブレットの潜めた声がおそろしくて、きゅっと手のひらを握りしめる。

 視線を上げることすら覚束ない。弱気な心に鞭を打って、アリーはお腹に力を込めた。


「あな、たが、本当に、わたしを害する、つもりなら……そんな、警告めいたことは、言わないはず、です」


アリーの言葉に、ブレットはほんの一瞬目を瞠る。舌打ちをして、ブレットはソファに四肢を放り出した。

いらいらとポケットを漁ると、口に煙草を咥え、ジッポーに顔を寄せる。

 細く白い煙が目の前を泳いでいく。天井を仰向いた彼の視界から、アリーはすげなくシャットアウトされてしまった。


 完全無視されているのをいいことに、アリーはブレットを盗み見る。

 彼の周りを取り巻いているのは、薄汚れた退廃と虚無だけだ。

 昔、アリーを救いだしてくれたブレットは、こんなふうではなかった。口は悪かったが迷うことなく正義を口にし、心に太陽と剣を抱いていた。


(……十年で、人ってこんなに……変わる、の……?)


 この十年、アリーはテレビや雑誌を通して、ブレットを追いかけ続けてきた。年を経るごとに口数が少なくなって、メディア露出を避けるようになったのはもちろん知っている。

 けれども、アリーにとってのブレットは、結局十年前の彼のままだったのだろう。


 気まずい沈黙が室内に充満している。

 アリーはソファと玄関の間に突っ立って、ひたすら時計の秒針を眺めていた。


 やがて、ドアの向こうで物音がして、扉が開く。

 そこにいたのは、ネイトではなくバスローブ姿のマックスだった。シャワーを浴びたのか、髪の毛が濡れている。ワックスで立てていないやわらかな髪は、彼を少し幼く見せていた。

 マックスはアリーの来訪にも気づかないのか、タオルで顔を拭いながら、まっすぐに冷蔵庫へと向かう。


「あーもう、筋肉痛でバッキバキだぜ。マジありえねえ。つーか、リドル使うのに筋トレってなんだっつーの! マジメか。地味すぎっ。効果ゼロだろ。そもそもあのおっさんがまず胡散臭い――って、うわっ」


 洪水のような文句は、驚きの声とともに止んだ。

 マックスはようやくアリーに気づくと、がぶ飲みしていた十二オンスサイズのコーラを床に取り落した。


「んだよ、脅かすんじゃねえよ! あのおっさん、来るなんて一言も言ってなかったじゃねえか!」


 言うなり、マックスはアリーからブレットに探るような視線を向ける。一週間前のブレットの所業が脳裏を過ぎったのだろう。

 だが、マックスはなにも言わずにアリーに視線を戻した。

 ブレットはというと、完全にいないふりを決め込んでいる。


「……よう。相変わらず、陰気な面してるな」

「……マ……マックスはもう、SGCに通ってた、んだね」

「次の日から無理やりな。しかも通いじゃなくて、住み込みだぜ。男三人が同じ屋根の下。気色悪くて吐くっての」


 マックスは舌を出した。

 一週間前とまるで変わらない調子に、少しほっとする。

 バスローブから覗くタトゥーまみれの上半身も、ピアスだらけの耳も、やはりどこからどう見ても恐ろしいギャングにしか見えない。

 けれども、ブレットと二人で黙りこくっていたときよりは、いくらか気が楽なのが不思議だった。


「つーか、あんた……アリシア、だっけ? もう平気なわけ? ぶっ倒れて寝込んでるっておっさんが言ってたけど」

「うん……、もう、大丈夫……マックス、は、へいき?」


 アリーが首を傾げて問うと、彼は視線を逸らした。

 少し苛立ったようにスツールにタオルを放る。


「……だから、それやめろっての。なんでそんななんだよ。言っとくけど、俺はあんたを拉致したんだからな。あそこであの化け物が現れなかったら、あんた、ブルーノにヤられちゃってたぜ」


 マックスの露骨な言葉に、アリーはぴくりと肩を跳ねさせる。

 アリーは、マックスが根っからの善人だとは毛ほども思っていない。あの日、どれほどの嫌悪と恐怖を抱えて彼らの車に乗り込んだのか、忘れたわけでもない。


「うん……でも、助けてくれたから」


 理屈では説明できない。あの日、アリーはマックスに心の一隅を預けてしまった。怖いし理解できないところもあるけれど、情にもろい人だと思う。

 同年代の男の人が辺りもはばからず泣くところなんて、はじめて見た。

 あのとき、すでにアリーの心は決まっていたのだと思う。


「……あっそ。いつか痛い目見ても知らねえぞ」


 ふてくされたように、マックスがアリーに背を向ける。


 ちょうどそのとき、図ったかのように事務所の立てつけの悪い扉が開いた。

 今度こそアリーの待ち人だ。

 ネイトは窮屈そうにネクタイを解くと、ジャケットと一緒に放り投げた。ジャケットはちょうどブレットの頭へ当たってずるりと落ちる。ネイトはそれに頓着することなく、アリーに向かって歯を見せて笑った。


「悪いね。ちょっと、野暮用でさ。ようこそSGCへ、アリーちゃん。ぼろくて汚くて驚いたろ」


 イエスと答えるわけにもいかず、アリーは俯きがちに首を左右に振った。

 それから、そっと視線を上げネイトの格好を盗み見る。

 雑誌のインタビューなどでも、ネイトはカジュアルな装いばかりだったと記憶している。けれど、今日のネイトは白と黒のストライプのシャツにスーツという出で立ちだった。おまけに無精ひげを剃っている。

 なにか重要な集まりでもあったのだろうか。

 ネイトはアリーの頭のてっぺんからつま先まで眺めるなり相好を崩した。


「やっぱ女の子がいると空気が潤うなあ。グリモアって制服ある学校少ないからさ、なんていうか背徳的よね」


 父親を知らないので、ネイトくらいの歳の男性はちょっとした異人種だ。

 知り合いの壮年の男性といえば学校の教師くらいだが、アリーの学校は典型的なお嬢様学校で、慇懃無礼で模範的な教師ばかりときている。ネイトのような変わり種とはまるで縁がない。

 アリーが固まってなにも答えられずにいると、マックスに肩を掴まれた。


「気をつけろよ。このおっさんの日課、エロ動画漁りだぜ」

「紳士の嗜みと言いたまえよ。つーか、なにアリーちゃん突っ立たせてんだ。マックスはコーヒー、ブレットはそこ退け。禁煙しろっつったろ、はい没収」


 ネイトに煙草を分捕られ、ブレットのこめかみに青筋が浮かぶ。

 だが、ネイトにひと睨みされると、ブレットは仏頂面で大人しく立ち上がった。そのまま部屋を出て行こうとしてしまう。

 アリーには一瞥もくれない。

 よくもそこまで徹底できる、と思えるほどの無視っぷりだ。


「待て待て、お前にも関係ある話だ。聞いとけ、社長命令だぞ」


 にやにや笑いながら、ネイトが腕組みをしてふんぞり返る。

 ブレットは心底嫌そうな顔をしながらも、扉に背を凭れた。

 一応、話を聞くつもりらしい。

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