#7When one door shuts, another opens.
最初に目に飛び込んできたのは、くたびれたスニーカー。履き古したスラックス。穴の開いた黒い傘。片手には潰れかけのビールの缶。
無精ひげの生えた黒い肌には小さな古傷がいくつもある。
アリーは両親を知らないけれど、もし生きていたらこれくらいの歳だろうか。その辺の通りをどこでも歩いていそうな平凡な中年男に見えるが、アリーは彼を雑誌で、テレビで、インターネットの動画サイトで何度も見たことがある。
ネイト・オールドリッチ。ブレットの所属するヒーロー事務所、スケープゴート・キャストの社長だ。
「おいおい、弱小とは、辛辣だな。さすがは、若手実力派人気ナンバーワン。ゴールデンアイ様様ってな」
肩を竦めて、ネイトは今にも引き金に手をかけそうなブレットの背中を叩いた。
「FBSから熱烈ラブコールを送られてたブルーノ・パウエルの弟分に、今をときめくコーディ・エヴァンズの妹の現役女子高生……話題性は十分だな。倒産寸前のうちにドル札の山を築いてくれそうだ」
「――ネイト」
「若いうちからそんな思い詰めてりゃ、ハゲるぞ。ブレット」
ネイトはそう言って、ブレットの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜると、アリーに向きなおった。
「ヒーローって職業は想像以上に過酷だ。常に死と隣り合わせ。人気がでりゃエンタメ業界から引っ張りだこだが、所詮、社会に消費される流行り廃りの激しい道具に過ぎない。一般人をスフィンクスから守ったところで、リドルは害悪なんだからそれくらい役立たなけりゃ人間様の社会に住まわせてやってる意味がないなんて言われる始末。守れなけりゃネットで叩かれ、街を歩けば石を投げられ、屋上からダイブするヒーローは後を絶たない。私生活はパパラッチどもに暴かれ、プライバシーなんて言葉と縁があるヒーローは、とんと見たことがない――おっと、これくらいにしとくか」
青ざめたアリーに、ネイトはおどけたように両手を広げてみせる。
君のお兄さんみたいに成功をおさめるやつだって少なくないしな、と申し訳程度につけ足された言葉はアリーの胸にはなんら響かなかった。
「ついでに忠告してやるなら、俺は善良な雇用主じゃない。消費される君らがぼろぼろになろうが、慈善団体の真似ごとなんてしてやる気はさらさらない。そういう業界だ。それでも君らが望むなら、ヒーローとして君らを迎える用意がある」
「――ネイト!」
ついにはブレットがネイトの胸倉を掴んで吠えた。
だが、ネイトはブレットの剣幕を嘲るように笑うと、煙草を咥えてライターをかちかち鳴らした。仄かなオレンジが灯り、ブレットの顔面に白煙が吐き出される。
「いつまで駄々っ子続けるつもりだ? てめえ中心に世界は廻ってねえんだ。この子らのことはこの子らが決める。そういうふうにできてんだよ。それもわからねえならママの揺りかごからやり直しな、クソガキ」
どすの利いた声がおそろしくて、アリーは胸の前で硬く拳を握って、後ずさった。
ブレットは、苦虫を噛み潰したような顔をして、そっぽを向く。
マックスも顔を強張らせていたが、コーディだけはこんな状況でも愉しそうな笑みを浮かべて、ブラボーなどと頓珍漢な感想を述べていた。
「んで、若人たち、どうするよ。――監獄送りか、それとも輝かしきヒーローか」
アリーは押し黙った。
そんなこと、わからない。どっちにしたって、アリーには悪夢だ。
アリーは平凡な人生を送れればそれでよかった。けれどもう、平凡な未来なんてものは、どこを探したところで待ち受けているはずもない。
そもそも、アリーは今までほとんどなにかを選択した覚えがない。
流されるまま、ただ日常を送るだけの単調で冴えないモノクロームみたいな日々。今日、銀行強盗に立ち向かったのだって、なぜそんな大それたことができたのか自分ですら理解できないくらいなのだ。
縋るように、アリーはマックスを見つめた。
「――大人しく、鎖になんか繋がれてやるかよ」
彼の答えは、明快だった。
「やってやるよ、おっさん。くそノーマルどもの玩具になるなんて反吐が出るけどな。いつか俺らのことを見下してた奴らに吠え面かかせてやる」
マックスは親指を下に向けて、瞳に強い光をたたえて、そう宣言した。
(なんで、)
なんでそんなに強くいられるのだろう。
アリーは自分の望みもわからず、ぐるぐる馬鹿みたいに悩んで立ち止まってばかりの人生を送ってきた。なにもかもかりそめで、本当の自分なんてどこにも存在していないような気さえしていた。
けれど、マックスはきっと、そんなことを思ったことすらないのだろう。
血と雨を吸った制服が、へどろのようだ。すっかり全身が冷え切って、心までも凍っていくような気がする。
視界に靄がかかる。
このまま、意識を失ってしまえたら、なんてずるい考えが過ぎったとき、狼型の死骸が目に飛び込んできた。
肉がぐずぐずに溶けて、骨だけになった無残な生き物の成れの果てに、目を逸らしそうになる。
(ああでも、)
あれは、アリーの意志が実を結んだ形ある答えだ。
命を喰らわれる代わりに、アリーはあの怪物の命を喰らったのだ。
灼けるような熱がぶり返して、たまらなく水が欲しくなる。
――死にたくない。
あのときのひりひりと焼けつくような思いだけは、ほんとうだったんじゃなかったのか。
そしてもうひとつ、十年もの間、アリーを生かしつづけた記憶がある。
「わたし……」
アリーの消え入りそうな声を拾ったのは、どうやらブレットだけのようだった。
「わたし、十年前、あなたに、命を救われました。イヤーエンド・ジェノサイド……ピキオン島の、倒壊した孤児院の、生き残り――それが、わたし、です」
アリーの突然の告白に、ブレットは目を見開いた。
「あなたみたいになれたらって、ずっとそう、思っていたの。今じゃもう、わたしなんかじゃ無理だって、ちゃんと、諦めてたけど――けど、今までみたいにもう生きられない、なら、わたし――わた、し――」
風邪をひいたときみたいに、浮かされたような熱で瞳に涙がたまった。
長い前髪が邪魔だと、はじめて思う。
声はみっともなく震えていて、たぶん頬は林檎のように真っ赤にちがいない。
そんなアリーの姿が直視に堪えないほど見苦しかったのか、ブレットは目を伏せた。
「やめろ。……お前のそれは、勘違いだ」
ひどく強張った声は、あるいは怯えているようにも聞こえた。
マックスの怒気すら物ともしなかった彼が、アリーに恐れをなすなんて、そんなことがあるはずもないのに。
「勘違いでも、なんでも、いいの。だれがなんて言おうと、わたしのヒーローは、あなた、だから」
「――黙れ」
瞳に赤い炎が揺らめき、ブレットの指がアリーの首に食い込む。
途端、ブレットの身体が吹き飛んだ。目にもとまらぬ速さで彼を蹴り飛ばしたのは、どうやらコーディらしい。
ネイトはというと、一応身内だろうに、激しく咳き込むブレットに一瞥をくれただけで声をかけようともしない。大きめのため息を吐いて、アリーにぼろぼろの傘を傾ける。
「うちのがごめんね。それで、つまるところ、君の導きだした結論は?」
「……わ、わたしを――わたしを、ヒーローに、して、ください」
「――いい返事だ」
にや、と笑って、ネイトに傘のなかに引っ張り込まれる。
穴が開いた生地からは水滴が伝ってきたけれど、肥満体型にも親切設計な傘は雨脚の強くなった空からアリーすっぽり覆い隠してくれた。
やがて大きなサイレンの音が雨音を切り裂く。
アリーは物々しい雰囲気の男たちに取り囲まれこそしたが、いくつかの質問に答えるなり、呆気ないほど簡単に取り調べから解放された。どうやらヒーロー業界に身を置く人々というのは、権力にも顔が利くらしい。
泥を跳ね上げてやってきたタクシーは荒っぽい運転だった。交通事故を起こしでもしたらどうしようと考えていたはずなのに、後部座席に背を預けて十秒も経たずに、アリーは泥のような眠りに引きずり込まれた。
とっぷりと夜が更け、アリーのあずかり知らぬところで今日が終わっていく。
その日が、新たなふたりのヒーロー生誕の日だと世間が知るのは――、まだ少し先の話だ。
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