#6Heaven helps those who help themselves.

「だめじゃないか、アリー。お兄ちゃんからの連絡には一分以内に返事をしなくちゃ」


 耳元で囁かれた声は、睦言のように甘い。

 まるで重さなんて感じてないみたいな仕草で、声の主に抱きあげられる。


「……コーディ?」


 擦れた声で、呼び慣れたはずの名を呼ぶ。

 だけど、アリーには、その名前を呼ぶのが百億年ぶりくらいのことのように思われた。


「そう、だ、スフィンクスが――!」


 狼型とマックスの方へと視線をやれば、先ほどまでなかったはずの背中があった。

 背の高いコーディよりさらに上背のある、鍛えられた肢体。夜風になびく髪は、闇に吸い込まれそうな黒色。

 派手なヒーロースーツに身を包んだコーディとちがって、その人は黒のスーツにストレートチップの革靴という一分の隙もない着こなしだ。


 アリーの心臓が、引き攣れるような音を立てた。

 知っている。


(わたし、この人のこと、知ってる――)


 黒衣の男は、マックスを庇うように、狼型と対峙している。両手にかまえた二挺拳銃から放たれた弾丸は、一発でスフィンクスの息の根を止めた。

 マックスがへなへなとその場に膝をつく。

 アリーはコーディの腕のなかで暴れて地面に降り立つと、マックスへと駆け寄った。


「だ、だいじょうぶ?」

「……だからあんたはなんで俺の心配してんだよ。問題ねぇっての。つーか、なんだよ、こいつら、ヒーローか?」


 マックスは、アリーの頬についた血飛沫に気づいたのか、そっと指先でそれを拭ってくれる。

 けれど、その手はあえなく別の手に捻りあげられた。


「強盗に、未成年者の略取・誘拐。リドルの私的利用。おまけに僕のアリーに薄汚い手で触るなんてね。――君、死にたいの?」


 まるで温度のない声。

 少し前まではわからなかったけれど、死線をくぐり抜けたアリーには、もうそれがたしかな殺意であると認識することができる。


 コーディは、あらゆる年代の女たちを虜にしているヒーロー界のプリンスと言われている。

 けれどアリーは、彼の本質が外面ほど爽やかな王子さまでないことを知っていた。


「……コーディ、マ、マックスさんがいなかったら、わたし、とっくに、死んでた、よ」

「それはちがうよ、マイスウィート。そもそも、その害虫がいなかったら、アリーがこわい思いをすることもなかったね?」

「それは、わからない、よ」


 コーディに口答えしたのは、生まれて初めてかもしれない。

 いつもこのきれいなブルーの瞳に見つめられると、それだけでアリーの気はしぼんでしまった。

 兄妹のはずなのに、彼とアリーは髪と目の色以外は似ても似つかなかった。

 アリーが毎日世界の隅っこで俯いて顔を隠して浅い呼吸を繰り返しているなか、コーディはいつも世界の中心で脚光を浴びていた。アリーには欠片もない自信というものが、コーディは身のうちから溢れだしていた。


 だが、そんな本邦初公開の兄妹喧嘩は第三者の介入によって、早期に幕を閉じた。


「目撃者の話では、銀行強盗犯のリドルは、FBSがマークしていた人形遣いパペッティアー屍肉喰いネクラファジーで、その二人にエイムズ校の女生徒が連れ去られたんだったか。もう一人はどうした?」


 外見と同じで、注意して聴いていなければ、闇に同化してしまいそうな静かな声。

 切れ長の瞳は印象的な緋色をしていた。

 状況設定的にはアリーは被害者のはずなのに、こちらを見つめる視線にはいたわりどころか哀れみの欠片もなかった。

 その姿に、なんだか急に不安が押し寄せる。


 彼は、アリーの一番特別なひとだった。

 興味がないふりをしていたけれど、ちゃんと毎週「HEROES SHOW!」を見ていたから、所属事務所も彼のフルネームも知っている。


 スケープゴート・キャスト所属の『銀の弾丸』ブレット・ロウ。

 往年のヒーローフリークのなかに、その名を知らない者はいない。ヒーローはたいてい、特殊な異能を操るリドルが人気を獲得するのが常だが、ブレットはノーマルでありながら、一時代を築いた凄腕のスフィンクス・キラーだ。


(……ほんもの、だ)


 頰に熱がのぼり、心臓が暴れだす。

 アリーはコーディを見て騒ぐ女の子たちの気持ちがさっぱりわからなかった。だけど、今ならそれも理解できる気がした。


 彼に出逢ったのは、十年前。ニューイヤーを控えた十二月某日。

 ニューファーム・ポストの記者によってイヤーエンド・ジェノサイドと名づけられることになる、スフィンクスによる人類への侵略の日だ。

 あの惨劇の日、アリーは彼に命を救われた。

 あの日ほど、ニューファーム市民がヒーローの存在に感謝した日はないだろう。

 普段は娯楽のひとつに過ぎないヒーローショーが、あの日はたしかに絶望を砕く希望になった。


 あれ以降、ブレットは一躍人気ヒーローの仲間入りを果たした。

 もっとも、彼は数年後、とある事件を経てからめっきりメディアへの露出をしなくなってしまったから、ネットではよく落ちぶれたヒーローなどと揶揄されている。アリーはよく匿名でその書き込みに突っかかっては、返り討ちに遭っていた。


 アリーにとって、彼は永遠の最高のヒーローだ。それは活躍が取り沙汰されなくなった今でも変わらない。


 だが――、十年前の彼は、こんなに冷えた目をする男の子だっただろうか。

 まるで、悪いことをしていないのに断罪されているような心地になる。


(……ううん、ちがう。わたし、悪いこと、しちゃったんだ……)


 先ほどコーディがマックスに宣告していたとおりだ。

 リドルの私的利用は、全州において、未成年者でも即監獄送りとなる重罪だ。

 狼型スフィンクスの群れに囲まれたときは、無我夢中だった。だから、法律違反を犯しているなんてことにはまるで思い至らなかった。

 けれど、冷静になって、自分のしでかした事の重大さに血の気が引いた。もし事が露見すれば、アリーの人生はそこで詰みチェック・メイトだ。


 青ざめたアリーを見かねてか、それまでだんまりを決め込んでいたマックスが、間に割って入った。


「てめえらが屍肉喰いって呼んでるリドルは死んだよ。その、くそいまいましい怪物どもの晩飯になってな。俺がお探しの人形遣いだ。煮るなり焼くなり好きにしろよ」

「なら、聞くが。そこに転がっている狼型どもの骸を築いたのは誰の仕業だ?」


 見るからに柄の悪そうなマックスが眼をつけているのに、ブレットはまるで怯んだ様子がない。それどころか、落書き塗れの壁に凭れ、低く問いを重ねる姿にはマックスすら威圧するような凄みがあった。

 ビジネスマンと言われても納得できそうなフォーマルな格好をしているが、ギャングの親玉と言われてもアリーは驚かない。

 ブレットはまるで、答えは明白だとでも言うように、アリーをじっと見つめている。

 アリーはヒィッという悲鳴を噛み殺して、マックスの服の裾をぎゅっと掴んだ。


「だから、そりゃ、屍肉喰いの仕業だろうが。俺らを助けて、逃げて死んだ。それくらい察せよ。頭悪りぃのか?」

「ハハ、ブレット、馬鹿に馬鹿って言われてるよ」


 場違いなほど明るいコーディの笑い声に、マックスの血管がブチ切れかける。

 どうやらマックスはアリーがリドルを行使したのをうやむやにしてくれようとしているらしい。それなのに、アリーの兄ときたら、無礼なことこの上なかった。


「マ、マックス。ごめ、んね。あの、コーディは、ちょっと、わたしに近づく男の人に、過激、なの」

「ああ、わかってら。ちょっと度の過ぎたシスコンってやつだろ。人を殺せるレベルのな。かわいいもんだぜ」


 マックスとコーディの間だけ、真冬のアラクシャク州も真っ青な吹雪が吹き荒れている。

 だが、ブレットはそんな一触即発の空気すらかまわず、アリーだけを睨めつけていた。


「屍肉喰いのリドルは、FBSの十年越しの獲物だ。だが、先だっての大規模な抗争で、内臓器官系をやられて、力が衰えたって話だったな。奴には、これほど強力なリドルはもう扱えねえよ」

「てめえがブルーノを語ってんじゃねえ。くそノーマルが。反吐が出るぜ」


 言って、マックスはその場に唾を吐いた。

 やはり、異文化交流レベルの柄の悪さだ。

 だが、今のところアリーを守ってくれそうな人間は彼しかいない。コーディはブレットがなんの疑いを誰にかけているかくらい察していそうなのに、人好きのする笑みを浮かべているだけだ。


「エヴァンズ。貴様の妹ということは、因子もちということだな」

「なに、ブレット。僕のアリーがかわいいからって、まずはお兄さまを攻略しようっていう腹?」


 ブレットは眉を顰め、盛大な舌打ちをした。


「埒が明かねえな」


 言うなり、ブレットはマックスの影に隠れたアリーの手首を掴んだ。

 反射的にマックスがブレットに喰ってかかったが、拳銃をこめかみに突きつけられては成す術はなかった。


「単刀直入に言うが、俺はお前をリドルの私的利用の容疑で疑っている」


 アリーの心臓が、どく、と跳ねる。

 赤い瞳に映った自分の顔は、かわいそうなほど引き攣っていた。


「あ、あの……たとえば、なんですけど、たとえば、スフィンクスから身を守るための、正当防衛、だったとしても……」

「合衆国法に例外なく、と明記されていることは知っているな」


 まるで、味方の誰一人いない法廷にひとりぽっちで立たされた気分だ。

 かつて命を救ってくれたヒーローが、今度はアリーを断崖絶壁から突き落とそうとしている。

 アリーの言葉なんて一言すら耳に入れる価値がないとでもいうかのような態度に胸がきりりと痛んだ。


「あのさあ、そんなにFBSの真似ごとがしたいなら、ヒーローなんかやめちゃえば?」


 コーディが微笑を浮かべたまま、ブレットからアリーの腕を取り返す。

 そのままコーディは後ろからアリーに腕を回した。


「アリー、どうせ検査すればなにもかもわかっちゃうけど、聞いておくよ。クソ虫どものあの死骸の山を築いたのは君?」


 耳に唇が触れそうな距離で、コーディが問う。

 アリーは腹を括った。

 コーディの言うとおりだ。

 たとえ、今どうにか乗り切ったところで、一年に一度ある身体検査を受ければすべてが白日の下に晒される。一度リドルを発現すれば、体液の組成に人間には見られない物質が確認されるようになるという。

 悲壮な面持ちで頷くと、コーディに頭を撫でられた。


「決まりだな。そこの人形遣いとともに、FBSに連行し、検査を受けてもらう。初犯なら、せいぜい三年の懲役か。これに懲りたら、リドルなんて二度と使おうと思わないことだな」


 アリーは唇を噛んだ。

 長年憧れ続けたヒーローに、軽蔑の目で見られている。ブレットと目を合わせていられなくて、アリーは濡れた地面に視線を彷徨わせた。


 リドルの力は、犯罪に悪用されることが多く、社会的な問題となっている。今回ブルーノとマックスが引き起こした強盗事件からもそれは明らかだ。

 だから、アリーは今まで一度としてリドルなんて使おうと思ったことがない。


 基本的にリドルは遺伝性だ。

 もっとも因子もちの親が生む子が必ず因子もちとなるわけではないが、ノーマル同士が交配したところで、因子もちは生まれない。だから、リドルの兄をもつアリーは因子もちということで、学校ではいつもいじめられていた。


 因子もちというだけで、そんな扱いだ。前科がつけば、進学もできなくなるだろうし、まともな職にはつけないだろう。

 べつに将来に期待なんかしていなかったけれど、そんなお先真っ暗な未来にへこたれずに前進できるほどアリーは肝が据わってなどいない。


「それじゃ、スフィンクスに黙って喰われりゃよかったってか?」


 今にもブレットに殴りかかりそうな目をして、マックスがアリーの気持ちを代弁してくれる。

 すぐにブレットが拳銃に手をかける。

 けれどもマックスはそれに頓着せずに、ブレットの胸倉を掴んだ。


「はいはい、すぐ熱くならないでよ。気持ち悪いなあ」

 爽やかな笑顔のまま、コーディが間延びした声で呟く。


「アリー、実はね、もう一個選択肢があるんだ」

「せん、たくし?」


 アリーの怯えた声に、弾かれたようにブレットがコーディの方を向く。

 今にもコーディに拳銃の弾をぶっ放しそうな苛烈な激情が閃いたが、アリーのマイペースな兄は軽く笑ってそれをかわした。


「そう。君も、ヒーローになるんだよ、アリー」


 アリーは、ぽかんと口を開けた。


 ヒーロー?


(……わたし、が――?)


 あまりに突拍子もないコーディの提案に、思考が追いついていかない。

 だって、こんなに後ろ向きでスクールカーストは最下層で、まともな友だちひとりいなくて、なにをやってもダメダメな自分が――ヒーローだなんて。


「ジャスティス・カンパニーのヒーロー選抜に通るはずがない」


 ブレットの声音は、冷たいを通り越して、もはや無機質な機械音声のようだった。

 コーディはファンの女の子たちにするように、小首を傾げて口の端を持ち上げる。


「うちの会社ならそうかもね。でも、万年人員不足の弱小ヒーロー事務所があるじゃない? ねえ、ネイトさん」


 雨音に紛れて、砂利を踏みしめる足音がかすかに響いた。

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