#5The die is cast.

 狼型が、ふたたび跳躍する。もう少なくとも二人の命を奪ったのに、それでも飽き足らないらしい。

 意識を手放しそうになり、アリーは自分の腕を噛んだ。

 意識のない人間を運ぶのは、よほど骨が折れると聞いたことがある。マックスが捨て置いてくれれば、アリーも狼型を足止めするくらいには役立つだろう。

 けれども、彼はきっとそうしない。だから、今アリーがこれ以上彼のお荷物になるわけにはいかなかった。


 狼型とマックスの距離はみるみるうちに縮んでいく。

 このままでは、アリーもマックスも狼型の餌食だ。

 マックスの身体が、焦りからか強張っていくのを感じる。


(なにか……、なにか武器になりそうなものは――)


 スクールバッグは置いてきてしまった。

 アリーの手元に残ったのは、スマートフォンだけだ。

 ポケットのなかに手を入れ、アリーは苦しまぎれにスマートフォンを取りだし、あっと声を上げた。


「――んだよ!」

 耳元で声を出したからか、マックスが怒鳴る。


「あの、これ、武器に、なる?」


 マックスの眼前に、スマートフォンにくっついたうさぎのキーホルダーを差しだす。前にコーディが買ってきた、今合衆国で若い女の子に人気の『ピンクバニー』というキャラクターらしい。


「でかした!」


 マックスは自分の親指を口に含むなり、ピンクバニーを力任せに引っ張った。ぷちっと音がしてピンクバニーがスマートフォンから外れる。

 狼型スフィンクスが、ビルの上から一直線に襲いかかってくる。大きな赤い舌が、鋭い牙が眼前に迫る。生臭い吐息までもがつんと鼻を刺激したそのとき、間一髪でピンクの影が目の前に躍り出た。


(あ……うさ、ぎ)


 我ながらすごく馬鹿みたいな感想だ。

 ピンチを救ったのは、巨大化したピンクバニーだった。

 マックスの操り人形となったピンクバニーは、狼型の横っ面に容赦のない右ストレートをお見舞いした。

 狼型の歯の何本かが吹っ飛び、その肢体も壁に叩きつけられる。

 ピンクバニーは傍に落ちていた鉄パイプを拾い上げると、狼型の腹部に容赦なくそれを突き刺した。

 愛らしい外見と戦闘力のえげつなさのギャップは、もはやホラーといっても過言ではない。


「どんなもんだ、このケダモノヤロー!」


 マックスが中指を立てて、勝利の雄たけびを上げる。ピンクバニーがみるみるうちにキーホルダーサイズに縮んで、アリーの手のひらに収まった。

 興奮からかしばらく響いていた高笑いも、やがて沈黙に変わる。


「はー、しんど」


 大きなため息を吐いて、マックスがアリーを地面に下ろす。

 踏みしめた足の感覚が覚束ない。

 ぐっしょりとブルーノの血を吸った制服が、鉛のように重たい気がする。立つことすらままならなくて、アリーはふらふらとその場にしゃがみ込んだ。


 アリーにつられたように、マックスもその場に四肢を投げ出す。肩が触れ合うほどに近い。身を引きかけたが、結局そうはできずにアリーはスカートの裾を握りしめた。


 今はだれかの傍にいないと、息のしかたすら忘れてしまいそうだった。


 仰向くと、もうすっかり世界は夜に飲まれていた。

 地上で繰り広げられた惨劇なんてまるで関係ないとでもいうかのように、星々が淡く瞬いている。

 耳を澄ませば、人の生活音がかすかに聞こえてきた。


(そういえば――これだけの騒ぎが起こったのに、どうして人が集まってこないんだろう)


 いくら犯罪が日常的に起こる街とはいえ、スフィンクスの出現は異常事態にちがいない。

 通りの向こうのアパートからは、カーテンから薄く明かりが覗いていた。少し遅い夕食を囲んでいるのか、煮込んだスープの温かな匂いが漂ってくる。平凡な幸せな家族の情景が目に浮かんで、今の自分の置かれた状況とのちぐはぐさに違和感を通り越して肌が粟立つ。

 もっとも、争いごとを見てみぬふりをするのが、この街で生き残る流儀なのかもしれない。


 ぴこん、と間抜けな電子音が響く。

 スマートフォンを見ると、画面いっぱいに上から下までコーディの名前が表示されていた。着信とメールアプリの通知がほぼ交互に並んでいる。けれど画面をタップするのも億劫で、アリーはスマートフォンを伏せて腿の上に置いた。


「あの……、あり、ありが、とう」


 夜の静けさにすら溶けてしまいそうな声で、アリーが囁く。

 マックスはアリーに向きなおると、乾いた笑いをこぼした。


「あんた、立場わかってる? 俺、一応、誘拐犯なんだけど。あとついでに強盗な」


 言って、マックスはパーカーのフードを取り去った。

 アリーは目を見開く。思ったよりもずっと若い。それ以上に、彼の顔かたちはアリーに衝撃を与えた。


 短く刈られた髪から覗いた耳には、無数のピアス。首筋から下には、アートのような刺青。鼻筋は通っていたが、鳶色の瞳は三白眼で、とにかく目つきが悪い。


(ふ、不良――ううん、ギャングかなにかかも――)


 アリーの瞳に怯えを見てとったにちがいないのに、マックスは愉快そうに笑い声を上げた。

 どこか疲れたような声に、この恐ろしい人が先ほど小さな男の子みたいに泣いていたことを思いだす。


「死んだ――よな。……は、人間てあんな簡単に死ぬのな。いや、リドルが人間なのか、知らねえけど」


 マックスが呟き、ブルーノがいた方角に視線を向けた。

 返す言葉が見つからない。

 俯いて唇を噛む。

 こういうとき、もう少し人並みにコミュニケーションのとれる人間だったらよかったのにと思う。


 アリーは人が怖い。

 だから、極力人と関わりたくないのも本当だ。けれど、こうやってだれかが悲しい思いをしているときに寄り添う言葉すらもたない自分は、なんて貧しい人間なのだろうとも思う。


(……この人、強盗犯だし見た目は怖いしギャングかもしれないけど)


 でも、彼がブルーノを慕う気持ちは本物だった。


「……あんた、なんだっけ」

「え――?」

「名前だよ、名前。俺に礼言うくらいだ。名前なんて安いもんだろ」


 マックスはそう言って、くしゃっと笑う。苦さこそ残っていたが、はじめて見る彼の本当の笑顔だった。

 そうしていると、ギャングみたいな外見でも、蟻の子一匹ほどにはかわいげがある。


「……アリシア」


 短い逡巡ののち、兄以外にはほとんど呼ばれることのない名前を舌に乗せる。

 有名人の兄をもったおかげで、アリーはほとんど自分から名乗らずとも相手が名前を知っていてくれるか、コーディの妹というレッテルでしか見られることがない。

 自分から名乗るという行為はひどく新鮮だった。


「……ふうん」


 大して興味なさそうに逸らされた視線に、ちょっとがっかりする。

 強盗犯にそんなことを思う自分の心が理解不能だが、たぶん、血の繋がらない赤の他人とこれほど濃い時間を過ごしたのが久しぶりなせいだろう。

 誰かのことをもっと知りたい。知ってほしい。そう思えるようになったと言ったら、過保護な兄はどう思うだろうか。

 そっと横目でマックスを窺う。

 マックスはまだ少し赤い目を擦ると、ああ、煙草が吸いてぇやと言って、顎を逸らした。

 アリーは煙草を吸ったことなんてまるでなかったけれど、その気持ちが何故だかちょっとわかるような、そんな気がした。


 ぽつりと頬を叩く感触に顔を上げる。

いつの間にか、細い雨が降りだしていた。

 身体に絡みついた服は、いっそう重くなる。けれど、空からの雨はブルーノの残り香を洗い流してはくれなかった。

 そのとき、アリーはありえないものを目撃した。

 霧雨に煙る視界の向こうがわ――先ほどピンクバニーがとどめを刺した狼型スフィンクスがいなくなっている。その躯が横たわっているはずの場所には、血まみれの鉄パイプが転がっているだけだ。


「――え?」


 まさか、ガンアクションゲームよろしく、倒した敵が一瞬で自然消滅してくれるわけでもあるまい。

 アリーがはっと顔を強張らせるのと、マックスの後方で捕食者の牙が光るのは同時だった。


「なんだよ、ゴーストでも見たみたいな顔しやが――うわっ」


 マックスに体当たりをして、なんとか二人して地面に倒れ込む。

 腕を狼型の前脚が掠めて、制服が破けた。

 マックスも派手に後頭部を打ちつけながらも事態を飲み込んだらしい。起き上がるのにもたつくアリーを立ち上がらせ、じりじりと後退する。


「あいつ、不死身かよ!?」


 半ばパニック気味に、マックスが叫ぶ。

 マックスがそう思うのも無理はない。普通の獣であれば、あれほどの損傷は致命傷だ。だが、スフィンクスはあらゆる生物のなかでも、もっともタフな部類だと言われる。


「……ううん、見て」


 アリーはこわごわ狼型を指さした。

 狼型は、上手く着地できずに地面に転がっている。何度も前脚で地面を掻いても起き上がれていないあたり、ほとんど死にかけといっていい。

 その様子に勇気づけられたのか、マックスの全身が緑色の輝きを放つ。ピンクバニーに再び命が吹き込まれかける。けれども、その光が途中でふっと消えた。

 ピンクバニーのキーホルダーが道路に転がる。


「ここでガス欠かよ……」

 青ざめた顔で、マックスが空笑いをする。


 どうやら、リドルの行使可能限界を超えてしまったらしい。

 折悪しく、狼型が立ち上がる。あらぬ方向に前脚が曲がっているのに、響いた遠吠えには愉悦すら滲んでいた。

 狼型の咆哮がズワルト地区に木霊する。


(ううん――木霊じゃ、ない?)


 東から、南から、獣の啼く声が聞こえる。

 もしかしなくても、これは――仲間を呼んでいる――?


「まじかよ」


 マックスが舌打ちして、鉄パイプを拾い上げた。もう片方の手でアリーの手を握る。


「ぼさっとしてんな! 囲まれたら終わりだぞ!」


 アリーがつんのめるのもおかまいなしに、マックスが全力疾走を始める。

 すぐに息が上がり、足が縺れて転びそうになる。アリーに運動神経なんてものは皆無だ。

 振り向けば、百ヤードほど後方に狼型が五頭も群れて疾走している。

 あれに捕まったら一溜まりもない。

 アリーたちとの距離は刻一刻と狭まっていく。このままでは、あと三分ともたないだろう。


 曲がり角を折れ、マックスの足が止まる。

 肩で息をしながら顔を上げれば、行き止まりだった。三方を壁に囲まれている。十ヤード後方にスフィンクス。分かれ道はそのさらに三ヤード先だ。


「……これまでかよ」


 マックスがどさっとその場に尻もちをつく。

 しかし、その指先は往生際悪くもかすかに緑色に発光していた。脂汗が浮かんでいるあたり、何度もリドルを使おうとしていたらしい。


 アリーの喉がこくりと鳴る。


(死ぬ、の? ここで)


 こんな生ごみの腐臭の立ち込める、小汚い路地裏で。

 アリーはたぶん、コーディの四分の一ほどにも人生を謳歌していない。そして、このままずるずる生きながらえたって、それが劇的に変わることはないだろう。

 自分がひどくつまらない人間だなんてことは、もう十分すぎるくらいにわかっている。


 ――それでも。

 灼けるようにただ願う。


(死にたく、ない)


 生きてなにがしたいわけでもない。

 たいそうな願いも欲望も持ち合わせがない。

 いや、だからこそ、なにもない自分のままこの世界から忘れ去られることに耐えられなかったのかもしれない。


 アリーは目をつむった。

 イメージするのは、兄の背中。マックスの指先。ブルーノの手のひら。常ならざる異形の力。

 日曜礼拝でだってこんなに一心に祈ったことはない。

 皮膚の下、おなかの奥、まぶたの裏。それらが火で炙られたように熱い。

 身体の半分がつくりかわっていくような、体内の違和。まるで異物が血管を這っているかのようだ。呼吸がままならなくて、身体がバランスを失ったように崩れ落ちる。


 その身体を、めちゃくちゃな力に引っぱりあげられた。

 見れば、マックスの腕が、アリーの腰を抱きとめている。


「――あんた、まさか――」


 ブルーノにキスされた指先がじくじくと疼く。お腹の底が、マグマを飲み込んだみたいに熱い。痛みが麻痺して、やがて甘やかな刺激に変わっていく。

 血が巡る。熱も巡る。異物が、違和が、やがて身体になじんでアリーそのものになっていく。


(ああ、なんて……)


 なんて甘美な美酒だろう。

 お酒なんて一滴も飲んだことがないのに、今自分がひどく酔っていると感じる。

 ふわふわと夢心地の頭で、とろんと潤んだ瞳で、アリーは狼型の群れを見つめた。


(――あふれろ)


 指先が、ベビーピンクに色づく。

 電子レンジでポップコーンがはじけるみたいな、一瞬の衝撃。

 スライム状の液体が、どろりと指先を這う。


 頭の奥が、きんと冷える。

 涎を垂らして牙を剥く狼型の群れを睥睨する。心臓が奏でる拍子は狂ったメトロノームみたいに早いのに、心は嘘のように凪いでいた。

 つい、と腕を動かす。スライムは、まるでアリーだけに忠実に動くよう躾けられた犬のように、言うことを聞いた。


 突っ込んできた狼型に、白桃ゼリーにしか見えないスライムがのろのろとのしかかる。

 まず嗅覚を刺激したのは、鼻を覆いたくなるような腐臭だ。

 昔、夏場に車に撥ねられて何日か放置されていたらしい野良猫を見たことがあるけれど、ちょうどこんなにおいがした。

 スライムが触れたそばから、狼型の毛も肉もぐずぐずに溶け落ちていく。けれども、すべてを溶かすまでには至らないのか、溶かし損ねた脂身や筋肉が、べしゃっと血だまりに落っこちた。

 赤黒い海に埋もれて、月明かりをはじいて白々とひかる骨が、嘘のようにうつくしい。

 スライムは次々に狼型を骨と血だまりに変えた。

 スフィンクスたちは、逃げ出してもおかしくないのに、縫いとめられたようにそこを動かない。

 呆気ないほど簡単に、眼前に異形の骸が積みあがっていく。


「……おい、」


 ひどく強張った男の声がしてようやく、身体を離れてどこかに行っていた心が還ってくる。


(あ、れ……?)


 目の前に広がる光景がつくりものめいていて、アリーは二度三度と瞬きをした。

 けれども、悪夢は消えない。

 こらえきれず、アリーは地面に今日の昼食をぶちまけた。


 緊張の糸が切れたのか、ぐらりと身体が傾ぐ。自分の吐瀉物に埋もれるようなことはしたくなかったけれど、頭にもやがかかって、指先ひとつ満足に動かせない。

 だが、アリーは制服がゲロまみれになる事態をなんとか免れた。

 マックスがまたもや助けてくれたらしい。


 吐息が夜気と重く縺れあう。

 どっと疲労感が押し寄せ、身体が鉛のように重たい。なすすべなく、アリーは背中をマックスに預けた。触れたところから彼の熱が伝わってきてはじめて、自分がひどく冷えていることに気づく。

 見上げると、怯えたように視線が逸らされる。

 それが、かすかな痛みをもたらしたのは一瞬のことだった。

 彼は先ほどスフィンクスの命を摘んだアリーの右腕を引き上げると、恭しく額に押し戴く。


 それだけで、すべてを赦された気が、した。


「あー……、いい加減しつこいっての」


 開き直りにも似た響きのマックスの言葉に、なんとか目線を上げる。血だまりの向こうに、青黒く光る狼型の姿が見えた。

 どうやらまだスフィンクスが一頭残っていたようだ。


「わ、わたし、まだ燃料切れしてない、よ」


 マックスはアリーの身体こそ支えてくれているけれど、腕が痙攣を起こしていてとてもではないが戦えるような状態には見えない。

 対するアリーも、ゲロをぶちまけるわ、出逢ったばかりの男に無防備に寄りかかるわ、酷い醜態をさらしている。

 けれどまだ、スイッチは切れていない。


 身じろぎをすると、マックスの手のひらに視界を奪われる。


「バァカ、いくら好みじゃなくたってな。女ばっか、矢面に立たせておけねえよ」


 マックスはそう言って鉄パイプを拾い上げると、アリーの肩を軽く後ろに押した。

 思った以上に消耗していたのか、アリーの身体はまるで糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちた。


 狼型の牙がマックスに迫る。

 マックスは歯を食いしばって、鉄パイプを握りしめた。さながら、テレビのなかの、バッターボックスに立った打者のような構えだ。

 なんとか一撃目を鉄パイプでしのぐ。だが、相手の身体能力は人間の比ではない。

 次の攻撃で呆気なく鉄パイプが吹っ飛び、狼型の爪がマックスの肩口を抉った。鮮血が噴き出し、アリーの頬に生温かい飛沫がかかる。

 フラッシュバックするのは、ブルーノの命のともし火が消えた瞬間のあの虚無感。


「いや、だ……!」


 透明な膜をはった世界が溶けだす。

 こんなときに泣くしかできない甘えたな自分の心が、憎らしくてたまらない。

 爪で地面を引っ掻き、なんとか身体を起こす。マックスの悲鳴に、立ち竦みそうになる臆病な心を、覚えたてのスラングで罵る。


(だれか……!)


 こんなときに、奇跡みたいなタイミングで助けがくると思えるほど、アリーの頭はおめでたくない。

 だけど、理性がいくらそう諭したところで、幼いころの純粋なアリーの残像が叫んでいる。


 ――たすけて、ヒーロー、と。


「呼んだ?」


 そのとき響いたのは、いっそ軽薄なほどの、待ち焦がれた声だった。

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