#4You can’t make an omelet without breaking a few eggs.

「くそったれ! 新手かよ」


 マックスの言葉に顔を上げれば、建物の上に異形の影があった。狼もどきのスフィンクスとはまるでちがう形をしている。砲塔を搭載し、足はキャタピラ式。戦車そのものといった形はまるで生物らしさの欠片もない。

けれどもこれは、スフィンクスだ。

 脳天がびりびりと震えるような、全身の産毛が逆立つような感覚。今まで喰われる側に回ったことなんて一度としてない。だけど、アリーの全身が壊れた警報機みたいに危険を訴えている。


(わたしたちを、食べるつもりなんだ)


 寒くもないのに、身体が震え、アリーは自分自身をきつく抱きしめた。

 戦車型スフィンクスの主砲の周囲で、光が収縮し始める。あの主砲から発射されるのは、砲弾ではなく、エネルギー体かなにかなのだろう。


 舌打ちをして、ブルーノがアリーの首根っこを掴む。おへその中心がふわっと浮き上がり、気づいたときにはアリーはマックスの腕のなかにいた。口元から、かすかに胃酸の酸っぱいにおいがする。

 マックスの身体は固く強張っている。けれどもブルーノに腕を叩かれるなり、マックスは走りだした。

なにがなんだかわからないが、どうもこの二人は銀行強盗のくせにアリーを助けてくれている。


 通りの角を折れたところで、爆音とともに物凄い衝撃が押し寄せた。

 反射的に閉じていた目をそっと開くと、辺りは土埃がもうもうと立ち上っていた。

 肩が熱い。見ると、なにかぶつかったのか、制服が破れて血が滲んでいた。

 アリーを抱きかかえていたマックスの状態はより悪い。背中には看板の木片のようなものが突き刺さり、腕も足も出血していた。

 マックスが「わり」と呟いて、アリーを地面に下ろす。

 荒く息を吐くと、マックスは背中に手を回して乱暴に木片を引き抜いた。


「……!」


 アリーは両手で口元を押さえた。

 黒のパーカーがどす黒く変色していく。押し殺したようなうめき声が聞こえて、アリーは耳を塞ぎそうになった。

 いくらなんでも、荒っぽすぎる。思ったほど深くは刺さっていないようだったが、適切な処置とは言いがたい。


 アリーは深呼吸して辺りを見回した。

 視界は不明瞭だったが、先ほどよりもだいぶ頭がすっきりと回転している感じがする。少なくとも、手足は震えていない。すぐ近くにスフィンクスもいないし、切れ者のブルーノの姿も見えない。


(このひと、弱ってる。全速力で走ったら、わたしのほうが速い? スフィンクスは、弱ったほうを狙う、はず……)


 人喰いの化け物と、銀行強盗犯。二つの脅威から逃れるなら、今が絶好の好機だ。

 でも。


「あ、の……」


 アリーは青ざめるを通り越して蒼白な顔でハンカチを差しだした。

 理由はどうあれ、相手が悪魔であれ、彼がアリーを助けてくれたのもまた、事実だった。

 マックスは呆けたようにその白いレース飾りのついた布を見つめていたが、事態を思いだしたのかうるさそうに頭を振った。


「それどころじゃねっての。おい、ブルーノ! どこだよ。もう先行っちまったか?」

 スフィンクスを警戒しているのか、マックスの声は囁くように小さなものだった。

 それに、くぐもったようないらえがあった。

 だがマックスは気づかないのか、先に行こうとしてしまう。


「あ……あの、左の方から、なにか聞こえる、と思う」

「はあ? んなの、なんにも――」


 瓦礫を踏む音に、荒い吐息が絡まる。

 アリーの心臓が、どくり、と奇妙に跳ねる。

 なんだか、怖くてたまらない。

 物陰からスフィンクスが飛び出してくるかもしれない恐怖よりも、たしかにブルーノの気配がするのに彼が合流してこないことの方がはるかに恐ろしかった。


(合流しないんじゃなくて、できない――?)


 後ろ向きにしか考えられない自分の思考回路をこれほど呪ったことはない。アリーは慌てて頭を振ると、マックスの背中を追いかけた。


「――ス。マ、ッ、こっち、だ」

 今度こそマックスの耳もその音を拾ったらしい。はっと顔を上げ、辺りに目を凝らす。


「ブルーノ、どこだ?」

「下、だ、馬鹿」


 ごふ、と咳き込むのを失敗したみたいな音が響く。視線を落として、アリーは声を失った。


「うそ、だろ」


 マックスの間の抜けた呆けた声。

 けれどそれも無理はない。ブルーノの胸から下は、倒壊した家屋の下敷きになっていた。瓦礫の大きさは、直径一ヤードほどもあるだろうか。周囲には、おびただしいほどの血溜まりができている。ようやく露わになったブルーノの顔は土気色で、唇から頬にかけて、鮮やかな赤い液体が伝い落ちていた。

 アリーは、まるで医学には明るくない。だけど、これだけは確信できる。

 彼はもう、助からない。


 立ち竦んだアリーの横から、マックスが飛びだし、瓦礫に手をかける。


「待ってろ! 今助けてやっから!」

 マックスの叫び声を、ブルーノは一笑に付した。


「馬鹿、助かるわけ、ねー、だろ。そこの、お嬢さんのほうが……よ、ほど、物分かりが、いいぜ」

「うるせえな! 怪我人は黙ってろ。俺が助けるっつったら、助かるんだよ!」


 マックスはめちゃくちゃな暴論を振りかざし、小さな瓦礫を投げ捨てはじめる。その声も腕も、アリーにもわかるほどに震えていた。

 たぶん、彼にも本当はわかっている。ブルーノの命はすでに、神から見放された。もうどう足掻いたところで、その分かれ道に戻ることすら叶わない。


 ブルーノの顔を見ていられなくて、アリーは彼から顔を背けた。

 ブルーノは罪を犯した悪人で、アリーのことなんて性欲を満たす玩具くらいにしか思っていないにちがいない。アリーのことまで守ろうとしてくれたのだって、きっとろくでもない理由があるに決まっている。アリーを売り飛ばしたらいい金になるだとか、そんなところなのだ。

 彼らが実はいい人だからだとか、そんなコミックみたいなオチがあると信じられるほど、アリーは夢見がちなんかじゃない。そんなふうに思える女の子になりたかったけれど、そうはなれなかった。なれるはずもなかった。

 だから動揺するべき局面などでもなければ、彼を悼んで泣くだなんてもってのほかだ。そんなことはわかっている。わかっているはずなのに、視界がじわりと滲んだ。


「なら――、三人で、仲良く奴らの胃袋におさまるか?」


 ひどく冷えた声がして、アリーは顔を上げた。

 ブルーノの顔は土気色で、今にも命のともし火が掻き消えてしまいそうなのに、その瞳の光はなによりも強かった。ともすれば、人の目をまともに見ることすらできずに無駄に命を消費しているアリーよりも、よほど彼は生きて、、、いた。

 よくよく見てみると、ひどく端正な顔をしている。三十手前くらいだろうか。日に焼けた肌には、たった今負った傷だけでなく、たくさんの古傷が刻まれていた。荒々しい野性味のある男性的な顔のつくりと相まって、研いだ刃のような印象を抱かせる。


「アリシア」


 低く呼ばわれ、吸い寄せられるようにアリーは彼の深い緑色の瞳を見つめた。

 たぶん二分前のアリーなら、彼が名前を知っている不自然さに気づけた。けれど今のアリーにはそんなことを疑問に思える余裕なんてまるでなかった。


「手を」


 乞われるがままに右の手のひらを差しだす。

 どこでぶつけたのか、人差し指から血が流れていた。思わず手をひっこめかけたが、それよりも早く、手を引かれた。

 どこにそんな力が残っているのかと思えるほどの、強い力だった。


 息が止まる。生暖かい血液が、アリーの右手を伝ってシャツを赤く染めていく。アリーのものではない。彼の血だ。

 彼は、微動だにしないアリーをちょっと笑った。そのまま、アリーを引き寄せると、その人差し指を口に含んだ。アリーの血を貪るみたいに、舌先で指を転がされる。奥歯で甘く食まれ、肩がぴくりと跳ねた。


(な……に?)


 こんなときだというのに、ひどくいけないことをしている気がして、のぼせそうだ。甘い痺れが、全身を冒していく。

 先ほどとは別の意味で、瞳が潤んだ。


 ブルーノは、まばたきひとつせずにアリーを見つめつづけていた。まるで、その姿を瞳に焼きつけようとでもしているみたいに。


「……嫌だろうが、我慢、できるな?」


 言うなり、唇を親指でなぞられる。渇いていた唇が、血で湿り、まるで紅を引いたように赤く色づく。

 思わず唇を噛むと、鉄錆の味が唾液に絡まり、口腔を滑っていった。嚥下すると、喉が燃えるように熱くて、ひどい渇きに苛まれる。


「……いい子だ」


 満足したように、ブルーノが吐息を漏らす。

 人を食ったような空恐ろしい笑みが崩れ去り、どこかやわらかな隙めいたものが生まれた。その場を満たすのは、潮騒のような穏やかな気配。

 はじめて見るやさしい表情に目を見開いたのもつかの間、アリーは顔を強張らせた。

 引き波のように、彼の身体から命が遠ざかっていっている。


「おい!」


 マックスが怒鳴り声を上げる。そうすればブルーノの命を繋ぎとめられるとでも思っているような声音だった。

 うるさそうに、閉じかけたブルーノの瞳が開く。もう視界も利かないのか、焦点が合っていない。


「二度も――言わせるなよ」


 三人で、仲良く奴らの胃袋におさまるか。

 彼の冷えた声が、リフレインする。


 アリーは人喰い怪物の存在を今さらのように思いだした。周囲に目を凝らして、声を失う。驚いたことに、ブルーノのリドルはいまだに効力を発揮していた。

 青いスライム状の防御壁が結界のようにアリーたちを取り巻いている。

 リドルの力は体力も気力も削る。強力なものであれば、命すらすり減らす。コーディがそう言っているのを、アリーは聞いたことがある。

 こんなぼろぼろの身体で、リドルを使い続けるなど自殺行為だ。


 なのに。


「死にたいのか」


 そう低く問うたのは、ブルーノだった。

 乾ききった無感動な声に、マックスが身体を震わせる。握りしめた拳は、血も通わないほど力を込めたのか、白くなっていた。


 ブルーノの表情はまるでやさしくない。けれども、まるで虫けらを見るようなその瞳にこそ、彼のわかりにくい情の一端が垣間見えたような気がした。

 彼がいまだ自分に楽になることを赦さないのは、マックスの存在があるからだ。彼を生かしたくて、たぶんきっとブルーノは業火のような生にその身を焼かれつづけることを選んでいる。


「自分の……望みも、忘れた、か?」

「――忘れて、ねえ」


 歯の根から絞り出すように漏れたマックスの声は、思いのほか力強かった。

 俯いているせいで、どんな顔をしているのかわからない。だが、ずず、と鼻を啜る音が彼の心情を物語っていた。


「なら、生きろ。そのお姫さまも連れていけ。……いいな。のろい……デカブツのほうは、俺が仕留める。ケダモノのほうは……、ッ、たぶん……無理、だ。てめえで、どうにか、し……ろ」


 言って、ブルーノが指先をかすかに動かす。口から、どろりと赤黒く濁った唾液が吐き出される。

 瞬間、結界の端に亀裂が生じた。あそこから逃げろということらしい。弾かれたようにマックスが顔を上げる。けれどもなお、彼の身体は亡骸一歩手前なブルーノの隣で膝をついている。


 その彼の瞳が、ぐりんとアリーを向いた。


 どうやら、アリーは無意識にマックスの服の袖を掴んでいたらしい。

 自分の行為がひどく卑しいものに思えて、アリーはぱっと手を放した。

 マックスのついでとはいえ、ブルーノはアリーのことも身を挺して庇ってくれている。それなのに、自分が助かりたいあまりに、アリーはブルーノをがらくたのように使い捨てて、今度はマックスに縋りついた。アリーのしたことは、つまりはそういうことだった。


 だが、マックスは逃れようとしたアリーの血まみれの手をむちゃくちゃな力で掴んだ。フードで覆われた目元が、てらてらと光っている。泣きながら、彼はアリーを抱き上げた。


「口、閉じてろ。舌噛むぜ」


 言うなり、マックスは走り出した。それまで少年のように泣いていたとは思えない、野生の獣のような走りだった。


 後方で、青色に発光していた結界が津波のようにスフィンクスへと襲い掛かった。宣言通り、スライムが戦車型スフィンクスを捕え、どろどろに溶かしはじめる。だが、獣型の方は、スライムをすり抜けた。先ほどまでアリーたちがいた場所に降り立ち、咆哮する。


 数秒後、青く発光していたスライムが消失する。

 アリーが、声にならない声をあげる。嗚咽が漏れそうになるのを、手で無理やり押さえつける。


 ひとつの命の終わりは、驚くほど呆気なかった。

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