#3A precipice in front, a wolf behind.

 車は途中で何回か乗り捨てられ、やがて行き着いたのは、ズワルト地区。リドル出現以前は黒人街と呼ばれていた地域だ。現在では、リドルの巣窟として悪名を轟かせている。黒人街時代から変わらず、治安が悪いとかで、アリーも足を踏み入れたのははじめてだ。

 落書き塗れの小路を曲がり、やがて車が停止する。

 かなり入り組んだ道だったが、まるで戸惑った様子がなかったあたり、ここが彼らの根城なのかもしれない。


 二人ともいつの間にか、目出し帽を脱いで目深にフードを被っている。顔立ちは濃く陰が落ちているせいで、ほとんどわからなかった。

 運転席のマネキン男が振り返ってアリーを見つめ、盛大なため息を吐いた。


「ハイスクール通いのくせに、発育悪すぎじゃね。つーかさ、いい加減、名前くらい言えよ」


 それを言うなら、あなただって名前を言っていない。

 そう言い返したかったけれど、もちろんそんなことがアリーにできるはずもない。

 ブルネットの女を逃がすまではなんとかやけくそみたいな勇気を振りしぼることができた。だけど、ここまでくるともはやそんな気力は残ってはいなかった。


「だんまりかよ。つまんねえ女」


(……つまら、ない……)


 その言葉は、アリーが今まで人生で何度も浴びせかけられてきた言葉だった。

 思いがけず、胸を抉られたような気がして、アリーはきゅっと唇を噛んだ。


「おいおい、女の子にそんなこと言うもんじゃないっての。だからおまえ、モテねえんだよ。なあ、子猫ちゃんキティ

「……知ら、ない」


 アリーは、自分側のドアに極力身体を寄せた体勢で唸るように呟いた。


「あっそ」


 マネキン男は吐き捨てるなり、力任せにキーを引き抜いた。ライトがふっと消え、世界がとっぷりと闇に沈む。

 いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。遠間隔に並んだ街灯の灯りは、あまりに頼りない。今にも影のなかからゾンビやゴーストの類が飛びかかってきそうな雰囲気だ。

 黒人街だった頃は、時代を下るほどに治安も上向きになっていったという。けれども今では街の評判は日増しに悪くなっていく一方だ。

 アリーが聞いたことがあるものだけでも、その悪評は枚挙にいとまがない。薬物中毒者が売人の前で列をつくっているだの、流血沙汰が朝から晩まで起こって救急車のサイレンがひっきりなしに聞こえるだの、住民の三割が前科もちだの。

 そういった噂は、さすがに誇張が過ぎる。アリーはそう思っていた。

 けれど、ブルーノ一味が出入りしているのを見るに、その評判は案外的を射ているのかもしれない。


 先に車を降りたブルーノに手を差し出されたけれど、アリーはその手をすり抜けるようにして小動物みたいな動きで悪名高い街に降り立った。

 細い路地に人気はない。いくつか向こうの通りからなにかを言い争う荒々しい声が響いているだけだ。スラング混じり、というよりスラングしかない罵声は耳を覆いたくなるほどで、アリーはスクールバッグの持ち手をますます強く握りしめた。

 アリーの頑なな態度にか、それともマネキン男の人目をまるで気にしていない大あくびにか、ブルーノがくすりと笑声をこぼす。


「で、マックス。俺の連れに会ってくれる踏ん切りついた?」

「うおい、ブルーノさんよお。あんた、どの口が名前呼ぶなとか言ってたと思ってんのよ」

「べつに、もう隠す必要はないからな」

「はあ?」


 マネキン男――もといマックスは、意味わかんねえなどとぶつぶつ文句を言っていたが、アリーはその影で色を無くした。


(わたしに隠す必要がないって意味だ……殺してしまうから、わたしひとりに名前がバレたところで意味はない……)

 握りしめた手のひらがじっとりと汗ばむ。


(コーディ……)

 車のなかで荷物を取り上げられてしまったので、隠れてSOSを出すこともかなわない。


(どうしよう、どうしよう、どうしよう)


 血の気が音を立てて引いていく。唾を飲み込むことすらままならなくて、蛇に睨まれたカエルみたいにアリーは立ち尽くした。


「ぎゃあああああ!」


 突如、響いた声は遠い。

 少なくとも、目視できる位置に発生源はないようだ。方角的には、先ほど罵声が響いていた辺りかもしれない。


「なんだ?」

 いぶかし気にマックスが顔を上げる。

 この街の騒ぎに慣れていそうなものを、どこか脅えたような声音だった。

 でも、それも無理はないのかもしれない。


(今の声、まるで――断末魔、みたいな……)


「静かにしろ」

 アリーの嫌な予感を裏づけるように、ブルーノの声からは茶化すような軽々しさが消え失せている。


「車を出す。てめえは後ろに乗れ、マックス。お嬢さんもだ」

 背中を押され、アリーは抵抗するように踏みとどまった。


(なんだか知らないけれど――焦って、る? 逃げるなら、今?)


 断末魔じみた悲鳴のことは気になるけれど、どうせブルーノと一緒にいたところで行く末には死が待っている。

 アリーは振り向き、もっとも効率のよさそうな逃走ルートを頭に叩き込もうとして――呆けたように口を開いた。


「え……?」


 最初に視界に飛び込んできたのは、疾風のような黒い影。けれども、影は一瞬にしてアリーの視界から消え失せた。


(気の、せい?)


 瞬きする間もなく、肩が鉛のように重くなる。耐えきれず、気づけば地面に倒れ込んでいた。いや、そうではない。この生暖かいごつごつした感触は――。


「ひ、ひあ、は、はなして……!」


 どうやらアリーは、ブルーノに突き飛ばされ、その腕に抱きこまれているらしい。しかも、全身で抵抗しているのに、ブルーノの拘束はまるで緩む気配がない。


「……くそったれ。自己紹介くらい済ませておくべきだったか?」


 アリーの後頭部に顔を埋めて、ブルーノが囁く。荒い息が首筋にかかり、震えがきた。

 けれども彼から感じるのは、薄汚い劣情などではない。焦りなんて言葉が生ぬるいくらいの、本能的な、野生動物めいた恐怖。そして、それに飲まれまいとせめぎ合う、熱のような昂揚。まるで、負け知らずのコーディが強力なリドルに相対したときに見せる危うい笑みのような――。


「な、んだよ。あれ――」

 すぐそばで尻もちをついているマックスの言葉に導かれるように、アリーは顔を上げる。


「な――」


 アリーの瞳は、今度こそそれ、、を認識した。


 コンクリートで塗り固められた街にまるで馴染まない、四本足の細身の獣。動物で言うなら狼に近い。けれども、普通の哺乳類ではありえないことに、青黒い毛並みはメタリックな鈍い輝きを放ち、明滅する街灯の光を反射していた。極めつけは、サバイバルホラー映画にでも出てきそうな、鋭く尖った不揃いな歯列だ。そこから滴っているのは、この不明瞭な薄暗さでも鮮明に瞼の裏に焼きつけられる、赤黒い――。


 ぼたぼたぼた、と地面に液体が落ちる嫌な音が響く。

 獣の上顎と下顎の間には、なにか挟まっている。そのなにかには、ストライプ柄の布のようなものが巻きついていた。


 あれは――あの、赤く染まった肉塊は―― おそらくほんの数分前には人間のかたちをしていたもの、だ。


「うげえええ、え」

 マックスが車のボンネットに手をついて、えづく。


 アリーは、ただ目を見開いていた。指先ひとつ自由に動かすことができない。ただ決壊したダムのように、生理的な液体が目からこぼれ落ちて輪郭を伝っていく。胃液のような酸っぱいなにかが、食道を逆流してくる。胃のなかのものをぶちまけそうになったけれど、仰向けという態勢のせいか、戻すまでには至らない。咳き込むと、上手く息が吸えなくて、陸にあげられた魚みたいにみっともなくアリーは喘いだ。


  視界が反転し、空がぐるりと廻る。背中を軽く叩かれてようやく、深く息を吸い込んだ。


「近頃の若者は、繊細だな」


 軽く笑いを含んだ声で、ブルーノが囁く。両手が青く発光し、ぼこぼことスライムが出現する。どうやらブルーノは、あの人喰い狼と戦うつもりのようだった。


(人喰い?)


 そこでようやく、アリーの脳味噌はいくらかまともに働きはじめた。


「まさ、か……あれ、」

「そう、そのまさか。ありゃあ、スフィンクスだな」


 長らく人間は、食物連鎖の頂点に君臨しているなどと言われてきた。けれども、今やそんな説にしがみついている者など、どこにもいない。


 スフィンクス――人類を主食とする生物の出現は、文明に胡座をかいていた人間をその玉座から引きずりおろした。


「おい、やべえぞ、また来る!」


 マックスが車の持ち主のものらしきスーツで口元を抑えながら叫ぶ。

 スフィンクスが駆けだすのと、ブルーノが腕を一振りするのは同時だった。一面にスライムの防御壁が展開する。

 ブルーの半透明の壁に、スフィンクスが頭から突っ込む。ギャイン、と悲鳴じみた鳴き声が響いた。

 すかさず、マックスが車の扉を開け、ブルーノがアリーに手を差し出す。


「お嬢さん、俺たちの手をとるか、それとも奴の胃袋におさまるか、だ」


 開き直ったのか、ブルーノの口調には少し前までのおどけた調子がすっかり戻っている。

 アリーはほんの一瞬押し黙った。

 人喰いの化け物よりは、人間の犯罪者のほうがいくらかましな気がする。


 意を決してブルーノの手のひらに指先を重ねかけた次の瞬間――盗難車が爆発した。

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