#2Even a worm will turn.

「なんだ?」


 運転席の男が、半分割れたガラス窓から顔を出す。

 その声は低くて、突然しゃしゃり出てきたアリーを面白がるような響きのなかにも不機嫌さがあって、早くも心が折れかけた。


「あ、の」


 女を離すように要求するはずが、まるで意味のない音が喉に絡まる。

 男はアリーの頭のてっぺんからつま先まで舐めるように眺めまわすと、乾いた笑いをこぼした。


「一緒にドライブがしたいってか? 残念、俺のタイプはホットでセクシーな女。相棒は面食い。十年後にでも出直してきたら、考えてやるよ」


 胸とおしりのあたりにじっとりと視線が絡みつき、アリーはひっ、と悲鳴を噛み殺した。


 ヒーローたちのなかには数は少ないけれど女性だっていて、こういう卑猥な欲望の対象にされることも多い。彼女たちはどうやってこんな視線に耐えているのだろう。アリーは一秒だって耐えられそうにない。


 けれど今は、そんな甘ったれたことを言っている場合ではなかった。

 後ろで震えているブルネットの女よりも、アリーに関心を抱かせる。それができなければ、蟻の子みたいな勇気を振りしぼった意味がない。


「……面食い、なら、わたしでも、ちょっとは気に入る、はず」


 こんなこと、普段なら絶対言えない。自分の言葉なのに衝撃を受けて、卒倒しそうになる。

 もしアリーが無事にこの窮地を脱して、今日のことを振り返ったら、クローゼットのなかに永遠に引きこもっていたくなること請け合いだ。


 兄のコーディによれば、アリーは天使のように愛らしい、らしい。

 もっとも、シスコンをこじらせすぎたコーディの言葉などアリーはまるで信じていなかったが。

 とはいえ、女性たちから絶大な支持を受けるコーディと同じ遺伝子をもっているのも事実だ。そのせいでよくいじめられて顔をさらすのがトラウマになっていたけれど、今回ばかりは自分の顔が多少は見られるものであることを願うしかない。


 深く息を吸って、視界を覆う前髪に手をかける。

 ちょうどよく向かい風が吹いて、まごつくアリーの顔を露わにした。

 日にあたったことがないみたいな、陶磁器じみた白い肌。透きとおるように輝く宝石じみた青い瞳。小づくりな鼻はすっと鼻筋が通り、くっきりと濃い影を落としていた。


 運転席の男が、息を飲む。

 後部座席の男はドアを開けるなり、猫撫で声でアリーを呼んだ。


「おいで、お嬢ちゃん」

「んな――、ブルーノ?!」


 運転席の男が慌てた様子で後部座席を振り返る。


「名前呼ぶな、馬鹿。顔隠してる意味ねえだろうが」


 足で運転席を蹴りつけて、ブルーノと呼ばれた男が舌打ちする。


「だってよお。趣味疑うぜ。ロリコンの気でもあるんじゃねっすか」


 あのガキじゃ勃たねえっすよ、黙ってろ童貞ヴァージン、という応酬が繰り広げられる。


 ――アリーも言葉の意味がわからないほど、子どもでもない。


(もうやだ……)


 わけのわからない悪い人たちに、性のはけ口としてありかなしかを議論されている。そう思うと胃液が込み上げて、涙で視界が滲んだ。


(ううん、泣いてる場合じゃない。チャンス、なんだ。わたしのこと、か弱くてなにもできない女の子だと思ってる)


 実際アリーはなにもできないどんくさい少女にすぎない。けれど、同じどんくささでも、警戒されて近づけないよりは、状況がましな気がする。

 アリーは半泣きになりながらも、注意深く男たちを観察した。


(文句を言っているけど、運転席の人は、ブルーノって人に頭が上がらないみたい。……この二人は上下関係にある?)


 運転席の男は、迂闊にも相棒の名前を漏らした。彼のリドルはマネキンを操る能力――あるいは無機物を操作する能力だろう。彼はまるでアクションゲームのように、目の前に現れた敵をぶちのめすくらいにしか能力を使っていなかった。

 対するブルーノは、芋虫スライムの腐食化作用を駆使して、辺り一帯の交通車両の動きを根こそぎ封じた。かろうじて機動力をもっているのは、このひしゃげたタクシーだけだ。追っ手を警戒してのことだろう。


(警察がきても慌ててなかった。ニューファーム市警が当然駆けつけるってわかってたんだ。そんなの、問題にならないことも)


 無計画な場当たり的な犯罪などであるはずがない。ブルーノという男はおそらくかなりの切れ者だ。


(それに――ヒーローがこない)


 わざわざ「HEROES SHOW!」の放送時間とほぼ同時に事を起こしているのも引っかかる。

 基本的にヒーローたちはレスキュー要請に応じて出動するが、「HEROES SHOW!」の放送時間はヒーローたちは基本的に同じ場所に集い、ヒーロー活動をしている。

 もし、ブルーノが国道13号線のリドルの集団発生と、それに伴うヒーローの不在も予期していたのだとしたら。

 握りしめた手に、じっとりと汗が滲む。


(……わたしなんかじゃ、太刀打ちできる相手じゃないよ)


 現にブルーノは、アリーが敵になるとはさらさら思っていないようだ。ちょっとした気まぐれで、アリーに付き合ってくれている。


 いつもの後ろ向きな思考回路。この卑屈さが人を苛立たせたりつけ込ませるのだとわかっている。だけど、そう簡単に治るものだったなら、アリーはもっとまともに学校生活を送れているだろう。

 アリーはかぶりを振って、俯いた。

 どうせ、アリーに太刀打ちできる相手なんていやしない。あのちょっと頭の弱そうな下っ端マネキン男にだって、アリーは敵わないだろう。「HEROES SHOW!」に出てくるヒーローみたいに目覚ましい活躍なんて、一生かかったってできやしない。


(でも――この場にいるだれかが、レスキューダイヤルに通報してる。リドル絡みならかならず、ヒーローが戻ってくる。それまで、時間を稼ぐんだ。それくらいなら、わたしでも……)


 アリーは後ろ向きなりに前向きな決意を固め、ぐっと顔を上げた。


「どうすんの、あんた」


 不機嫌そうに、指でハンドルを叩きながらマネキン男が呟く。そのたび、数え切れないほど嵌めているシルバーのリングたちががちゃがちゃと音を立てた。

 どこか拗ねたような声音は、想像していたより若い、ように思える。アリーは普段人とかかわるのを極力避けているから、自信はないけれど。

 アリーはマネキン男の言葉には答えず、ひたすらブルーノを見つめた。ここでは、アリーの意志など、道端の石ころほどにも重要ではない。そして、マネキン男の思惑もさして意味はない。ブルーノの関心を引き出せるか否か。すべてはそれにかかっている。


「わたし、の制服……見覚えがある、はず。人質、にするなら、わたしの方がたぶん、利用価値、がある」


 アリーの言葉に、ブルーノは校章のあたりに目をやった。合点がいったようにああ、と声を漏らす。


「エイムズ校――ニューファームでも有数のセレブ学校の生徒じゃねえか。いいのかな、リトル・レディ。社会のゴミとは関わるなって教わらなかった?」


 先ほどまでと変わらぬ軽い口調。けれども、男の言葉は、先ほどまでなかった険を孕んでいる。


(社会の、ごみ……)


リドルの呼び名は数多くあるが、日常生活でもっともよく耳にするもののひとつが、そんな不名誉な呼び名だ。

 コーディのようにヒーローになって、ノーマルまでも虜にしているリドルもいないではない。けれど、それはほんの一握りのリドルだけだ。

 大多数のリドルには、まともな教育の機会も就職口もほとんどない。結果、非行や犯罪に走るリドルは増加の一途を辿っている。

 コーディでさえ、時折入店拒否されるレストランがあるし、彼の公式SNSには連日目を覆いたくなるような罵詈雑言が並んでいる。


 アリーはブルーノではないから、彼の気持ちなんてわからない。

 だけど、アリーもハイスクールでは虐げられているから、少しは彼の胸のうちを想像できる。

 妬みと羨望と、皮下までひりつくような憎しみ。

 それらがアリーに向けられたことはない。むしろ、アリーはたくさんの人を羨んで、ないものねだりをする側の人間だった。


「……わたし、が、幸福と愛しか知らない、女の子に見えるなら、あなたの目は節穴、だと思う」


アリーの口からこぼれ落ちた言葉に、ブルーノはちょっと目を上げた。

 なにが彼の心を捕らえたのかわからないけれど、ブルーノの瞳が爛々と光り、唇が笑みの形に釣り上げられた。

 節穴なんて言葉を使ったのに、怒っていないのだろうか。


「……いいぜ、こいよ」


 ブルーノは言って、人質の女の細い首に腕を回した。

 あわよくば彼女を解放させて、アリーもどさくさに紛れて逃亡、というシナリオも考えていた。けれど、さすがに先に人質を解放するほどの下手は打ってはくれないようだ。


 アリーは意を決して、タクシーのドアに手をかけた。

 心臓がうるさいくらいに鳴っている。

 タクシーに乗り込み、ブルーノの指示通りドアを閉めると、すかさず背後で無情なロック音が響いた。ドアロックは運転席からしか操作できない仕様のようだ。

 間近でブルネットの女と目が合う。美しい女だったのに、今はマスカラもアイラインも溶けて、ひどい顔になっていた。アリーと目が合うと、また瞳に涙の膜が張る。


「なんで……」


 女がアリーから目を逸らして、擦れた声で呟いた。

 こんなとき、ヒーローだったら彼女を安心させるような笑顔のひとつでも浮かべるのだろう。けれど、アリーは自分のことでいっぱいいっぱいでそれどころではなかった。

 代わりに、睨みつけるような激しさでブルーノを見つめる。


「わかってるっての。女を放せってんだろ。ったく、そんなに信用ねえわけ?」

「そら、そうだぜ。なんせ、俺たち強盗犯じゃん。くー、最高にクールだわ。強・盗・犯!」


 運転席でなにやら一人で盛り上がっているマネキン男のことは、ブルーノもアリーも捨て置いた。


「はやく、して」

 青ざめた顔で、アリーが要求する。


「ハイハイ、フロイライン」

 肩を竦めて、ブルーノが向かいの扉を開けて、女を外へと押し出す。


 赤毛の女が駆け寄ってきて、泣きじゃくりながら彼女のことを抱きしめた。

 アリーの胸に、安堵が広がる。同時に、こんなときだというのに、彼女のことがうらやましくてたまらなくなった。同じ目に遭ったとして、アリーに駆け寄ってきてくれる友だちなんて一人もいない。

 たぶん、一生。

そんなことをしてくれるのは、コーディだけだ。


(ううん、コーディがきてくれるだけ、しあわせなんだよ)


 言い聞かせるように胸のうちで呟いた言葉がむなしい。

 考えれば考えるほど、深く沈んでいく思考を断ち切るように、アリーは首を振った。


「……美酒、とはよく言ったものだ」

 握りしめた拳に視線を落とすアリーを見て何を思ったのか、ブルーノが言った。


「さて、どうしてあげようか」


 ねっとりと耳元で囁かれ、アリーは反射的に後ずさった。どん、と背中に固い感触。狭い車内では、逃げられるような場所なんてあるはずもない。

 そっとうかがうようにブルーノに向きなおる。捕食者じみた舌なめずりが聞こえるような気がして、アリーは自分自身を抱きしめた。


 直後、車が唸るような音を立てて発進した。

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