泣き虫アリーと銀の弾丸

雨谷結子

Prison or Hero

#1The dog that trots about finds a bone.

 彼はわたしのたった一人のヒーローだった。

 それは世界中の人から非難されたって絶対に揺らぐことがなかったはずの、わたしのたったひとつの真理。

 アリシア・エヴァンズという十六歳の女の子を形づくる、一番大事なエッセンス。

 だけどもう、わたしのヒーローは、どこにもいない。


   $$$


 はじまりは、いつもの喧噪。

 セントラルにある、ハイスクールからの見飽きた帰り道。


(……うるさい)


 アリーは眉間に皺をよせ、ヘッドフォンの音量を爆音に変える。

 この通りに差しかかると、毎日アリーは縮こまらずにはいられない。


 グリモア合衆国でも有数の観光地、ポスト・スクエア。そびえ立つ巨大なビルたちの間で虫のように人が蠢くこの街では、毎日馬鹿騒ぎが絶えない。

 まだ日も暮れきっていないのにごてごてしいネオンがちかちかと明滅し、あちらこちらで口やかましく囀るビルボードは次から次へと虚飾まみれのトピックを垂れ流しにしている。


 赤信号の向こうでは、この時期に被虐趣味でもあるのだろうかと疑いたくなるような格好をした女が、男の腕に絡みついていた。細くくびれた腰に回された手を見てはいられなくて、アリーはぎこちなく女の顔に目を向ける。

 女は、目鼻立ちのくっきりとした、派手な顔立ちをしていた。ブルネットの艶やかな髪が、秋風をふくんで踊るようだ。

 目が合った気がして、アリーはどきっとする。クラスメイトの“クイーン・ビー”レベッカによく似ていたのだ。


(……なんだ、ちがうや)


 よくよく見てみれば、女はレベッカに似ても似つかない顔をしている。

 ほっと息をついたのもつかの間、学校の外でまでレベッカを意識している自分がみっともなくて、アリーは俯いた。


 控えめに言って、アリーの学校生活はうまくいっていない。

 この世には厳然たるスクールカーストなる代物が存在する。レベッカはクラスの女王で、アリーは彼女の王宮の片隅に住まわせてもらっている小汚い貧相な家畜、という役割だ。

 もっともアリーの不遇は今に始まったことではない。昔から底辺が彼女の定位置だった。


目の前に停まったフォード車のなめらかなフォルムに、ぼやけた猫背の少女の姿が映りこむ。

 木枯らしに煽られた制服のスカートは膝を覆い隠すほど。

 蜂蜜色の長い髪はきつく三つ編みに結われ、かわいげの欠片もない紺の紐でくくられている。おまけに前髪は瞳にカーテンのようにかかり、背中には負のオーラが漂っていた。


 ダサいを通り越してちょっと近づきたくない根暗女。

 それがハイスクールでのアリシア・エヴァンズの評判だった。


 青信号に変わった横断歩道に踏み出せば、露出過多な派手女がアリーを見てささめくような嗤いをこぼした。いやな嗤いはすぐに隣の赤毛女に伝播する。

 すれ違いざま、ヘッドフォンの防御を突き破って、甲高い笑い声がアリーの鼓膜を刺激した。

 胸の前で鞄を抱きしめて、アリーはひたすら自分のつま先に意識を集中する。

こんなとき、ヘッドフォンだけでなくてアイマスクだとかフルフェイスヘルメットだとか、映画ですぐヒーローにぶちのめされる強盗が被っているような目出し帽でもあればいいのにとアリーは思う。

なんとか派手な若者集団をやり過ごして、アリーはやっと顔を上げる。


そのとき、アリーの目に飛び込んできたのは、三秒前に心の底から欲した代物――目出し帽だった。


(え……?)


 目出し帽なんて日常生活で早々目にするものではない。もちろんアリーが望んだから、神さまが目出し帽を用意してくれたわけでもないだろう。

 アリーは神さまが自分にやさしくないことなんて、もう十分に知っている。

 ゆうに百五十フィートは離れた通りを歩いていたその目出し帽の人影は、屋内へと掻き消えた。


 予感のままに、アリーは小走りに通りを駆けた。

 奇妙にうるさい心臓に、鎮まれ! と怒鳴りつけてみたけれど、まるで効果がない。


「あ……ッ」


 肩に衝撃がきて顔を上げると、一分の隙もないダブルスーツに身を包んだビジネスマンに冷ややかな目で見下ろされていた。

 どうやら周りが見えなくなっていたらしい。思いきりぶつかってしまったようだ。


「ご、ごめんな、さ――」


 けれど、アリーの謝罪の言葉は最後まで放たれることはなかった。


 爆音のハードロックの音色を、渇いた破裂音が切り裂く。

 世界から一切の音が消失する。あるいは、一瞬の時間停止。アリーは喘ぐような吐息を漏らすと、ヘッドフォンを取り去った。

 途端に溢れる、音の洪水。

 渋滞で列をつくった車たちがクラクションを鳴り散らす秩序の崩壊した音。道行く人々の会話の群れに時折混じる、知らない異国の響き。

そして、悲鳴。


 目出し帽は、通り沿いの角の銀行のなかにいた、、

 二人組の目出し帽を被った男が、銀行員の女に拳銃を押しつけ、黒い鞄のなかに現金を詰め込ませている。建物のなかにいる他の人間はみな、頭の上に両手をつけ、膝立ちで下を向かせられていた。

 まるで、映画を見ているみたいだ。目の前に広がる光景がとても現実とは思えなくて、アリーは間抜けにも頬をつねった。痛い。……痛い?


(つまり、現実?)


 思考停止したアリーの耳に次に飛び込んできたのは、白バイのサイレンの音だった。

 はっと振り返れば、徒歩五分にも満たない地点に、警察署の「POLICE」の字がはっきりと見えた。アリーの脇を軽やかに駆け抜けていったハーレーのフロントには、赤灯と青灯が爛々と輝いている。


(徒歩五分圏内にニューファーム市警? 銀行強盗ってもっと用意周到にやるもの、じゃないの?)


 犯人は底なしの間抜けか考えなしのようだ。

 銀行強盗に及ぶには、立地が悪すぎる。

 でも、たった十六の小娘にも思いつくような愚を犯すだろうか。それも、銀行強盗だなんて大それた犯罪を実行に移すような人間が。


(なにか、見落としてる?)


 アリーが悶々としている間にも、事態は劇的に展開していく。

 サイレンの音に勇気づけられたのか、客らしき男が覆面男の拳銃を吹っ飛ばし、タイミングよく警官隊が建物に雪崩れ込む。すかさずスマホで現場の動画を撮りはじめた野次馬の数は二十人を下らない。

 さながら茶番のごとくあっけなく片がついたと誰もが確信したそのとき――それは発動した。


 先ほどの銃声がおもちゃかなにかに思えるほどの、大砲をぶっ放したような爆発音。

 銀行からゆうに三十フィートは離れた場所にいるのに、アリーにもはっきりと緑の火花、、、、がバチンと弾けるのが見えた。

 野次馬が忽然と姿を消したかのような、一瞬の沈黙。

 そして。

 津波のように、狂った叫び声が伝播した。


 どうやら嫌な予感が的中したらしい。

 外れろ外れろと願っていたのに、こういうときのアリーの嗅覚はまるで獣じみている。


 銀行内は緑の煙幕で覆われ、まったく様子がわからない。

 けれども異変はアリーのすぐそばでも起こった。


「や……!?」


 アリーの足元のマンホールの蓋が端から溶けはじめ、緑色の物体がうねうねと這い出てきた。外見はよくRPGでレベル1の主人公が戦うことになるスライムによく似ている。動きは芋虫そのものだった。

 芋虫スライムが這ったところから、じゅわじゅわ、ごぽっと音を立てて物質が溶解する。

 ニューファーム市警のロゴの入ったハーレーも、芋虫スライムに纏わりつかれてぐずぐずに溶けてしまった。


(腐食反応、を引き起こしてる?)


 人体にも影響があるならば、事だ。

 芋虫スライムはアリーに数えられるだけでも五体は出現していたが、幸いにも、あるいは意図してか、芋虫スライムの餌食になった人はいないようだった。


 アリーはできるだけ芋虫スライムから距離をとって、もう一度銀行のある方角を見た。

 いつの間にか、覆面二人組は銀行の外に出ていた。

 慌てんぼうのサンタクロースみたいに抱えきれないほどの大きさのずた袋を抱えている。中身は札束にちがいない。


 しかし、アリーが食い入るように見つめているのはずた袋ではなかった。

 体格がいい方の覆面男。その指は、緑に発光していた。芋虫スライムの色に酷似した色だ。

 もう片方の男の手には、糸のようなものが絡みついている。よくよく見てみると、彼らを先導するように、マネキンが道を切り拓いていた、、、、、、、、、、、、、、

 雄たけびを上げて突進をしてきた警官相手に、ひょろ長い覆面男がついと指を動かす。マネキンの右の拳が警官のみぞおちにクリーンヒットした。どうやら、あの糸とマネキンの動きは連動しているらしい。

 マネキンの拳が炸裂するたびに、覆面男たちは腹がよじれそうなほど笑っている。

異常に凍りつく人々のなかで、けたたましいほどの哄笑を響かせる覆面たちの姿は、アリーの肌を粟立たせた。


(……あの、ひとたちは……)


 認めまい、認めまいとしていたけれど、もう気づかないふりをしているわけにはいかないようだ。

 嘘みたいな話だが、この国にはときどき、日常に非日常が迷い込む。

 その名を、リドル。

 ほんの数世紀前に歴史の表舞台に躍り出た、異能者たち、そして異能そのものを指す言葉だ。

 世界人口の3パーセントほどにも迫りつつある新人類であり、このグリモア合衆国の大都市ニューファーム市は、そんなリドルが市民権をもつ数少ない街のひとつだ。

 とはいえ、リドルの能力は、ある特定の職業につく者たちを除いて、使用することが堅く禁じられていた。


 逃げ惑う市民たちのなかで、アリーは耳慣れた「HEROES SHOW!」のオープニングBGMを聴いた。街角の大型スクリーンには、赤と青と黄色の目に痛い配色で彩られたタイトルが映し出されている。

 毎週金曜日、午後六時半。人々から煙たがれがちなリドルが、脚光を浴びる一時間が始まった。

 唯一、リドルの行使が法的に認められている職業。それこそが、ヒーロー。もっとも、合衆国法では、リドルヒーロー単独での職務遂行は認められておらず、健常者とのバディ制度がとられていることが多い。

 ともあれ、この数十年の間に、人はかつて夢に見るだけだった職業を現実のものとした。そしてその活躍を取り上げたライブ中継番組が、「HEROES SHOW!」だ。


 アリーはこの番組が嫌いだった。けれど、今日ばかりはヒーローの登場を願わずにはいられない。

 陽気なナレーションの後に映し出されたのは、ここ、世界の交差点ポスト・スクエアのきらびやかな街の光景――ではなかった。

 のどかで、喧噪とは無縁のどこか牧歌的な情景に、思わずがっくりと膝をつきそうになる。

 どうやら、今回のヒーローたちの出動場所は、ここポスト・スクエアではないようだ。

 ニューファームの南、スタンシルヴェニア。国道13号線でリドルの大量発生が起こり、大渋滞が起こっているらしい。


『残念だけど――君たちの悪事は、お・み・と・お・し、だよ』


 お決まりの決め台詞は、アリーが毎週耳にたこができるほど聞いているヒーロー、ゴールデンアイのものだ。

 スクリーンいっぱいに映し出される、ウインクする青年の姿。メガバンク前での騒動を知らない女たちの黄色い声が、林立するビルとビルの間に木霊する。


 ゴールデンアイ――ジャスティス・カンパニー所属のリドルヒーローで、本名はコーディ・エヴァンズ。

 なにを隠そう、彼はアリーの実の兄だった。甘いマスクを活かしたそのキャッチコピーは、ヒーロー界のプリンス、だ。

 アリーがこの世で一番大切で、一番苦手な人間でもある。


『僕のアリーがピンチのときは、どこからでも駆けつけるよ』


 それが口癖のくせに、全然駆けつけてくれる気配がない。


(……ヒーロー、はこない)


 このままでは、メガバンクの人々の預金は闇に消える。もっとも、アリーには預金なんて微々たるものしかないから、関係ない。関係ないけれど。


「いやあああああ!」


 悲痛な叫び声に顔を上げれば、先ほどの若者集団のブルネットの髪の女が覆面男の腕に囚われていた。

 強盗犯たちは、路肩に突っ込んでボンネットがひしゃげたタクシーのドアを蹴り開け、女を押し込んでいた。

 ひょろ長い方の男が、運転席におさまる。

 図体が大きい方の男は、女と後部座席に乗り込んだ。ここから無事に逃走するための人質としての役割もあるだろう。けれど、たぶん、それだけでは済まない。このまま放っておいたら彼女がどんな目に遭うか、火を見るよりも明らかだ。

 友人らしき赤毛の女はなにかを叫んだが、そこから一歩も動こうとしない。ボーイフレンドらしき男に至っては、我先にと背中を向けてその場から逃げ出していた。

 女の顔に絶望が広がる。


(……いい気味?)

 脳裏に、女の人を小馬鹿にした薄笑いが蘇る。


 アリーは首を振った。

(そこまで性根は腐ってない、つもり)


 昔、アリーもすべてに見棄てられ、ヒーローに命を救われたことがある。

 今でも瞳を閉じれば、瞼の裏に鮮やかに蘇る。

 踊る黒い炎。崩壊する家屋。散らばった友だちの屍と、血だまりに浸った自分の素足。

 すべてを諦めた瞬間、霞む世界に突然現れた、少年の小さな、けれどあのときのアリーには神様みたいに思えた大きな背中。


 あの遠い日、アリーはこの世の絶望と希望を同時に知った。


 あれから十年近く経って、アリーのヒーローという存在に対する思いは複雑なものに変わりつつある。けれど、あの日の魂が震えるような想いを決して忘れやしない。

 あの日の彼の声が、腹の底から聞こえてくる。


 ――動け、と。


 アリーは髪をしばっていたゴムを解く。最後の躊躇いを打ち棄てるように吐息をひとつこぼすと、タクシーの方へと足を一歩踏みだした。

 けれど、そんなにすぐには昔日の恩人や兄みたいにはなれないようだ。指先が震えているのをごまかせない。

 スーパーヒーローの妹だからって、なにができるわけでもない。自分になにかを期待するのはとうの昔にやめた。


(だけど、)


 だけど。

 ヒーローはこない。

 ヒーローはこないのだ。

 警官はみんな地べたに転がっていて、アリーよりは使いものになりそうな男たちもただ青ざめて気配を殺している。

 そして女が泣いている。いつかのアリーみたいに、泣いている。


 なら。


 アリーは駆けた。はじめは小走りに。次第に、スピードを上げて。最後には息を切らして、ヘッドライトの灯ったひしゃげたタクシーの前に躍り出た。

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