その依頼を聞いたとき、最初に声を上げたのは他でもない、柊所長だった。眼前の依頼人がそちらに視線を向けてしまうのも仕方ないと思いつつ、私は先を促す。

「どうして恋人が殺人犯人であると?」

「ええ。これはほとんど直感というか、私個人の考えでしかないのですが」一つ前置きを打ってから、「彼の手への執着は、どうも尋常ではなくて」

「手への執着、ですか?」

「ええ」少し言いにくそうにして、「特に、左手への」

 付け加えたところを見ると、そのきっかけもすでに心得ている、と言ったところか。

 懐からゴールデンバットを取り出し、ひとつ、目で了承を得てから、とん、と葉を詰める。貧乏性もいつの間にかただの習慣になり、金を得たとして、銘柄を変えることはないだろう、などと、どうでもいい思考がくるくると頭の中で踊り狂っている。

 それも仕方あるまい。

 昨年末に巻き込まれた指きり村での一件以来、ただの漫画や小説でさえ、どうも殺人事件というものを忌避するようになった。動機も手段も犯人も、私の人生にはまるきり関係はなく、私はただただ平穏に暮らしていきたいのだという、強い願いの体現だ。

 それがどうしてかうまくいかないもので、こうして、あまつさえ自分の恋人が殺人犯人かもしれないなどと嘯く輩が眼前に現れてしまった。冷静さを欠如し、また、冷静さを獲得しようと頭が回転するのも、理解されるものではなかろうか。

 紫煙をくゆらせ、長い灰を落としてから、我が愛しい指の先へ視線を向ける。

 柊所長に言わせれば、私はすっかり丸くなった。街の探偵事務所の身の丈にあった事件しか取り扱わないし、食指を伸ばそうとも思わない。安い給料と騒がしい事務所で毎日をそつなく過ごしている。そうしていつか、彼が隠居するために事務所を引き継ぎ、残りの人生を全うする、そんな予定だったというのに。

 これは断るべき案件だろうか、と考えを巡らせていると、衝立の奥から柊所長が顔を覗かせた。五時を回った頃で、タイミングがよかったのだろう。あるいは再放送の刑事に影響され、信条に反し余計なことに首を突っ込みたくなってみたのか。ともかく彼は、

「ひとまず話を聞きましょう。ただし我々の手に負えないと判断した場合、今回、ここでの話はお互いに、すべてなかったことにしようではありませんか」

 いかにもこちら側の都合からそんなことを言う。依頼人の掛布凛子もまさしくそう思ったのだろう、

「本当に私の恋人が犯人だった場合、私にとってそれではメリットがありません」

 最もな意見を頂戴する。

 探偵事務所にやってくるからには皆何かしらの悩みを抱えているものだが、その中でも、知的な部類の人間はこちらとしてはやりづらい。暗闇の中で手探りの状態であればあるだけ、こちらの思惑の通りに動かせるというもので、一点でも信じるもの、信じられる何かがある場合、反論を寄越すのはもちろん、こうして、取引のようなものを持ち掛ける者もままいた。そうなると、零細企業である我々としては金を逃すことにもなりかねず、とにかく、扱いが難しいのである。

「そこはそれ、我々を全面的に信頼していただくしかありません。なあに、こう見えて、約束に関しては頭一つ抜けて、きちんとしているんです」もしくは、と彼は続ける。「反故にした場合でも、掛布さんにメリットがあるよう、なにか取り決めを行っても構いませんよ。私はこのやり方は嫌いですが、例えば、いくらか積んでみる、とかね。そんなことで安心できるのであればいかようにも」

 しかしそのような事情にあっても、柊所長はいつも通りののんべんだらりさを発揮し、のらりくらりと向こうの骨を抜いてしまう。この彼の人間性は、探偵に向いているかどうか、私にはわからないが、少なからずこちらも扱いの難しい部類の人間に違いなく、たいてい、彼に任せるといかなる依頼人の複雑さも相殺される。

 掛布凛子は少しの間、考えるように間を持たせた。すっかり隣に腰を落ち着けた柊所長は、ピースの葉を詰めると余裕を見せつけるためにか、ジッポをカチカチと開閉し、緩慢に火をつける。恰幅の良さもあいまって、相手に威圧感を与えるには十分である。

「わかりました。お金は結構ですが、とにかく、話をさせていただきます」

 そうして掛布凛子の語るところが、以下のような内容であった。

 恋人である鴻巣良助は、我々と同業者であり、またその職務態度も勤勉さを極め、街を歩けば以前に依頼を解決してやった客たちが軽い挨拶と深いお辞儀を寄越してくるような、信頼に厚い人物である。掛布凛子との交際も先月十年の節目を迎え、その間、彼は浮気の一つもせず、彼女に尽くしていた。模範を体現したような人間で、一部の隙も無く、ひとえに完璧と評して恥ずかしくないと、上司、恋人、両親に思われるような、そんな男であった。

 それが手切り殺人の起き始める少し前から、どうも動向が判然としなくなった。同棲こそしていないものの、常時取り合える連絡が不意に途絶えたり、かと思うと深夜遅くに興奮した様子の電話を掛けてきたりと、徐々にその異常性が露呈され始めたと窺えた。

 極めつけに、会っている最中、鴻巣良助はずっと、掛布凛子の左手を愛でている、というのである。外であれ屋内であれ、常に両手で彼女の左手を包み、擦りすりと温めるように握ると。果たしてそれだけで手への執着が尋常ならざると言えるものであろうか。理由は語られない。

 私はそれらの話を聞き終えてから、大仰に顔を向けて柊所長の感想を待った。

 正直に言えば、確証に欠ける。まったくもって、鴻巣良助が犯人であると疑える要素はなかった。特にこうした大きな事件のあとは、自分やその周囲の人間がその犯人であると言いたがる自己顕示欲の塊たちが、我が事務所のような小さなところにもやってくるものなのだ。彼女もそうした連中の一人にしか思われなかった。

 しかし柊所長は、

「なるほどわかりました。調べてみましょう」四口目のピースを深々と吸い込み、それを吐き出しながら、「私も鴻巣さんが犯人である可能性はあると思います」

 言うものだから、半ば呆れてしまう。

 掛布凛子が連絡先を残して去ってから、私はインスタントコーヒーを啜り始めた柊所長を糾弾するように、

「ついに金欲しさに依頼を受けるようになったんですか」

 頭上から言葉を落としたが、

「何が?」

 彼は全く意に介さず、という調子で返答をくれる限りだった。

「もういいです。私は帰りますので」

「はいよ、気をつけなさいね」

 言い切り、次には吉原美津子にどうでもいい世間話を繰り出しているので、漏れるため息は行き場を失い、開く前の扉に跳ね返り、私の中へまた吸収されていくのだった。


 翌日になって、柊所長は出勤したばかりの私のデスクに近寄ってくると、

「黒だね」

 声を掛けながら、肩を叩いてくる。

「今日は白です」と、寝ぼけた頭で応えてから、「鴻巣良助、ですか?」

「ああ、うん。間違いないね」そしていくつかの書類を広げる。「鴻巣なんて珍しい苗字だからもしかしてと思っていたけれど、親はあの鴻巣誠一だったよ。と言うことは医療関係においての知識は彼が得ようと思えばどれだけでも手に入る。加えて事件があったと思われる日の鴻巣良助の動きもはっきりした。現場へ向かうための経路を確かに利用している」

 ぷかぷかと煙を上げながら、柊所長はそれぞれを指さしながら説明していったが、その表情の、なんともつまらなそうな気配が、嫌に気になり、

「どういうことですか?」

 尋ねると、

「と、言う風に事実はいくらでも積み上げられる、という話さ」

 空いた両手をすっと広げる。

「偽造、なんですか?」

「偽造ではないよ。事実さ。ただ、朝霧くんの思っている通り、確証は一つもない。でも掛布凛子はこれだけで納得するんじゃないかな」

「つまり、やはり金欲しさ、と言うことですか? はっきり言って、失望します。可笑しいと思ったんですよ、殺人事件には関わろうとしないくせに今回はえらく簡単に引き受けた。かと思うと私の言っていることはほとんど無視だ。加えて翌日には資料を揃えるなんて。全然わかりません」

「掛布凛子にとっても、鴻巣良助にとっても、これが最善なんだよ。朝霧くん、僕は本心から鴻巣良助が犯人であると思っているよ。ただし、掛布凛子にそこまでを伝える必要はないと、そういうことなんだ」

 柊所長の言いたいことは判然とせず、また、明言も避けられているために何がどうなっているのか、私には一つも理解できなかった。

 それも仕方ないのだろう、柊所長は裏側を説明し始める。

「実は警察関係者に知り合いがいる。守屋と言うやつなんだが、そいつから今回の手切り殺人に関して協力するよう頼まれていてね。いろいろな情報を貰っているんだよ。探偵としてはある意味裏技と言ってもいいかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいいんだけど。守屋曰く、警察はすでに鴻巣良助の名前にも辿り着いているが、これと言う確証がやはり、ないんだ。怪しい、限りなく黒ではあるものの、現状はグレーである。だから調べてみてほしいとね」

「じゃあ今回も」と私は思わずため息が漏れてしまう。頭の中では指きり村での種明かしが浮かんでいた。「タイミングよく、掛布凛子がやってきた、と」

「運命的にね。まあ、守屋もそうだったが、この事務所は事件が起きた三か所のちょうど近くにある。鴻巣の家もそうだし、掛布もこの近辺に住んでいる。うちは選ばれるべくして選ばれたというか、なんというか」

「それで」

「物的証拠は薄いものだから、証言がほしいんだね、警察は。つまり鴻巣自身から、私が犯人であるという言葉がほしい。しかし警察と言うのは動きづらいものだからね。直接対決はしづらいと」

「で、自由な我々の登場、と言うことですか? そんな馬鹿な」

「馬鹿な話だねえ。しかし世の中そんなものさ。我々は善良な市民であり、殺人事件に自ら首を突っ込んでいくなんて言うのは不本意だけれど、管轄である警察から直々に頼まれてしまったんでは、断るわけにもいかないだろう?」

 やはり、首尾バラバラな人間だ。さては守屋と言う人間に何か貸しでもあるのかもしれない。

 煙草をくわえてから、

「でも、どうやって?」

「鴻巣はどうも完璧主義者のようだからね。こちらは彼の想定していないことをしなければならない。なあに、作戦は考えてあるし、生方にいろいろ小道具も用意してもらっているよ。あとは朝霧くんのやる気次第、ってところかな」

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