【短編】手切り殺人

 比較的穏やかな昼過ぎだった。

 ブラインド越しの日差しが事務所内の空気を静かに熱し、呼吸をする度に僅かな熱気が肺を満たしていく。秋の影が仄かに見え始めたものの、九月はまだ夏と言って相違ない。その中、エアコンを稼働させないでいるのは、経済事情もあったが、ほとんどは慈悲だった。この熱気の中、お前まで働くことはないんだよ、という無機質への労いである。

 額から頬へ一筋、汗の流れる感触が煩わしかったが、それも拭ってしまえばひとまず解消される。拡大解釈すれば、人生における如何なる煩わしさも同様であろう。不快なのは一瞬で、取り払うこともそう難くない。考えてから、いつの間にか随分と大人になったのかもしれないと、一人ほくそ笑む。

 そう、今事務所には私一人きりだった。他のものたちは三々五々、飯を喰らいに出払っている。生憎か幸いか、面談の希望もなく、パソコンに向かいながら今までの依頼を整理するくらいの余裕があり、またそれも、急かされているものではなかったので、苛立ちも少なかった。

 暑さだけが容赦なく蔓延し、私を食い殺そうと躍起になっているが、それを無駄な足掻きと後悔するのはいつになろうか。私にとっては依然、比較的穏やかと言える程度に違いないのだ。そこかしこのあらゆる殺意も同じようなもので、こちらに余裕があればさしたるものではない。認識、思考次第で事態は簡単に裏返ったりするものなのだ。

 ただ、そういう安寧というものは、往々にして唐突に破られるのである。

 詮無い思考を切り裂くようにノックの音が響いたのは、使命的に回転を続ける哀れな愚者が一時半を指した頃だった。

 予約されたものがないのは先程言った通りで、無論、そうして急に来訪するものがないでもなかったが、気を抜いて弛緩していた私には不意打ちに違いなく、この客に、不快感と不信感を抱きつつ、あえて間延びした返事を放る。

 恐る恐ると言った体で扉を開けたのは、二十代半ばと思しき女だった。洗練された佇まいは印象とは異なるが、去勢のようにも思え、私は笑みを浮かべて迎え入れる。

「どうされました?」

 軽く腰を上げ応対すると、女は視線を錯綜させ、今ここに居るのが私だけであることを確認したように思われた。たとえそうであったとしてそこにどんな意味が付随するのかは考えなかった。不安に思ったのかもしれないし却って安心したのかもしれないが、私が対応することに変わりはないし、女にとってもそれは同じだったからだ。

「すみません。ご相談があるのですが、お忙しいですか?」

 そうは見えなかったろうに、気遣いからか投げられた言葉に、両手を広げ、

「構いませんよ」

 恭しく応えると、女は少し笑って、歩みを進める。笑うと、より美しかったが、普段から余り笑うことは多くないのだろう、少なからず今は緊張の様子が透けて見える。

 簡素な応接セットに座らせると、エアコンを起動させてから冷たい麦茶を用意する。

「暑くて敵いませんね、しばらくしたら適温になるかと。ちょうど、我慢の限界だったんです」

 適当な話題に頷きを寄越したものの、向こうは両手を薄手のパーカーのポケットに突っ込んだまま、抜こうとはしなかった。彼女もまた、暑さには強いタイプなのかもしれない。

「それで、どうされました?」

 バインダーに数枚、白紙を構え、胸ポケットからボールペンを取り出す。ころころと転がしてインクの出ることを確認してのち、私は尋ねてみた。

「私、伊香いこうと申します。唐突にすみません。実は今申しましたとおり、ご相談がございまして」

「ええ、ええ。わたくしがお受け致しますよ」

 返して、名刺を一枚手渡すと、それをしげしげと眺めて、

「はい」と応えてから、僅かに、逡巡するような間をもって、「昨今、世間で手切り殺人というのが賑わいを見せているのは、探偵さんであれば、ご存知かと思います」

「それはもう、探偵でなくとも周知でしょう。これほどの大悪党は近年稀ですからね」

 手切り殺人と最初に宣ったのは昼時頃のワイドショーのひとつだった。左手から先の切断された遺体が都内を中心に三件、立て続けに発生したというものである。犯人は若い女性ばかりを狙っていることから男ではないか、との意見と並行し、性的暴行のあとが見られないことから女ではないか、との反論もある。ネット界隈、ワイドショーから報道番組、それからもちろん人の口において、連日犯人像についての議論が交わされている。確かに、世間を賑わせている話題と言って過言ではないだろう。かく言う私もその有象無象の一人であることは隠しようもなく、日々、世論の向きを見聞き収集しているものだ。

 その事件の中心にいるのだという興奮を顕に彼女の言葉の先を待ったが、そんな気は露ほども知らぬと言うか、彼女は何も言わなかった。そこで、

「しかし我々は市民の方が想像されるような名探偵ではありません。殺人事件というのは管轄外で、その犯人を探せというのであればまた別の場所へ赴いていただく必要がありますね、残念ではありますが」

 けしかけてみると、女はいたいけな少女のようにふるふると首を振った。そこに、場違いな妖艶さを感じていると、

「私が探してほしいのは犯人ではありません」

 一言一句据え置くように断言し、彼女はすっとパーカーから両手を取り出した。

 その驚きたるや、筆舌に尽くしがたい。

「もの探しならば、管轄内ですよね。もちろんこの話題を出したからには通常のもの探しではありませんが。見ての通り、探しものは、私のこの手なのです」

 二つ並ぶと、片方は明らかに異形であり、その違和感もまた、言葉で形容するにはなんとも表現のしにくいものである。あるはずのものがないだとか、そういうタイプの通念が覆されるのは、全身にサブイボが立つようなねっとりとした気持ちの悪さを人に与えるのだ。すなわち、ともかく彼女には、片手がなかった。

「お金は弾みます。足りるかどうか、それなりの額は用意させていただきました。どうかあなたに、探していただきたい」

「いやいやしかし」私は愚か極まりと言われて仕方のない狼狽ぶりで、「手切り殺人に、生存者が居たなんて話は。だってあの事件、切断されてこそあれ、持ち去られてはおらず、すぐ近くに立てて置かれていたのでしょう?」

「探偵さんが知らなくても無理はありませんよ。だって、殺人事件は管轄外なのでしょう? それに、そんなことは今回私がしている依頼には全く関係のないことではないですか」

「とはいえですよ。そのあたりの話題は耳に入りやすい立場にあるかと思います。それにそれこそ、警察に伺われたほうがよいのではないでしょうか」

 殺人事件は管轄外、とは言え、警察とのパイプがないわけでもない。無論、彼らの邪魔になるようなことは御法度で、我々は善良な市民として知り得た情報を提供する側であり、また一方で、向こうができる範囲のお溢れを頂戴する程度のつながりではあるが、行方不明者が事件に巻き込まれた可能性もひとつとて否定はできない限り、こうした連続的な事件に関しては注意喚起も含め通達が渡される仕組みになっているのだ。

 それになにより、そんなパイプが存在しなかったとしても、私は間違いなく、全てを完遂したはずである。

 そこではたと、女の欠損が右手であることに気が付いた。ひどい狼狽の中にあっても、不自然は不自然として認識できるものだ。そこで私は、

「こんなことを言っては身も蓋もないですが、模倣犯かなにかでは? 本当に手切り殺人の被害者であるとはどうも……」

 と言ってみると、女は合点が行かない様子で、

「どうしてそのように?」

 と尋ねてくるので、思うままに答えてやる。

 すると今度は納得のいかない顔になり、

「どうして被害者に共通しているのが左手の欠損であることをご存知なのですか?」猜疑の視線を寄越してくる。「テレビでは、片手が切断された、としか報道されなかったかと思いますが。それが右か左か、そんなことを言ってしまうとそれこそ模倣犯を生み出すきっかけになりかねませんし、こういう情報は往々にして、警察が犯人を特定するための切り札として、世間には秘匿にしておくものかと思いますが」

 しまった、と思ったのもつかの間、女の右手は殻を破った雛のように、するすると伸びてきて、蓋をしていたシリコン製の肌が床に落ちた。それは脱皮と言ってもいいくらいに自然な所作で、そうなれば今まさに、眼前の女は客から別のものへと変容したとも言える。

「私、柊探偵事務所の立花と申します。鴻巣こうのすさん、僭越ながら問わせていただきますが、あなたが手切り殺人の犯人なのですね?」

 羽化したばかりの蝶の揺らめきが如く、美しい彼女の右手が、すっと私を指さした。

 私は耐えられず、心の底から微笑みを彼女に捧げ、

「如何にも」

 返答を献上する。

 あるいは私はこの彼女の気付きに、歓喜さえしていたのかもしれない。

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