会話
「正義というのはある意見の一側面に過ぎないわけだよ。つまり他者から見ればそれは悪になりうる。つまりどういうことか。そうだな、例えば僕たちは当たり前に牛や豚を食べているね。食べなきゃ死んでしまうんだからそれは仕方ないという大多数の意見、つまり正義によってそれを正当化しているが、じゃあそのために生まれ、肥えさせられ、死んでいく彼らにとってもそれを主張出来るかな。そしてそれを理解、容認させることが出来るかな。彼らは僕らと同程度の知能を持っていないのだから人語で話したところで理解できるわけないだろう馬鹿だなあなんて言ってしまうのは簡単なことだが、そういう話はしていない。大体、人間だけが思考能力を持つと言う理念が僕はナンセンスだと思うね。傲慢だよ。僕たちは時々同じ人間でさえ何を考えているのかわからなくなると言うのに、ほかの種類の動物が何を考えているのかをばっちり理解出来ているわけなんかないんだ。理解出来ないからないものだとするなんて余りにもしようもなさ過ぎるでしょう。結局は罪悪感を押し隠すための一方的な押し付けだと言ってもいいね。そういう側面を持ったものなんだよ、正義って言うのは。えーっと、はい、王手」
「そうは言いますけど、結局は個々人考えや思想は違いますからね。その意見でさえ所長の正義に過ぎないと私は思います。それに、私は誰かにとっての悪でも構わないから正義を貫くわ、と言う人間に対しては全く響かない論理です」
「ははは、確かにそうかもね。でも僕はあれだよ、道楽だから。生きていること自体がね。いつ死んだって別にいいんだ。そういう人間の言うことにはご存知のとおり芯もなければ一貫性もない。これもどうせまた一過性の思考であって、脳内を目まぐるしく通過していく暗号を闇雲に拾った結果に過ぎない。合わさることのないパズルのようなものだ。だから完成図として朝霧くんに届かなくても別にどうだっていいんだけど。僕は今そう思うっていう話。ああいや、朝霧くんが悪だと思っているわけではないから誤解はしないでね。それ、王手飛車取り」
「……私は今でも考えるんです。あの村の人たちにとって正義とはなんだったのか。私の正義とは何が違ったのか」
「やった、飛車貰い」
「彼らは何を待っていたんでしょう」
「さあ、僕にはわからないね。それは彼らと直接話をした君自身が考えることだ。他人の知識に頼っちゃいけない。これはまあ、宿題だね。永遠に正解は与えられないけれど、考えてみること自体は無駄じゃない。元来勉強なんてそんなものさ。それに君、鶴さんのこと、結構好きだっただろう。だから余りないがしろな考え方を出来なくなっている。境界線のこちらと向こうと、それぞれ立場は違ったが、それでも何か通じるものを感じてもいた。だから彼らにも正義があり、理念があると思い込んでいる。理解できれば近づけるという誤解による思考だな。しかしま、僅か二日三日でも、人と人は繋がれるものなんだなあ」
「私には人との繋がりなんてものはないですよ。毎日事務所とアパートを行ったり来たり。父親の名前も知らないし、母や祖父母にもしばらく会っていない。同じ顔ぶれの中で同じような毎日をただ淡々とこなしている。きっと私が中町譲の事件に固執したのは、あの村の秘密を知りたいとか、事件の真相を究明したいとか、あるいはその手柄が欲しいとか、そういったことではなく、ただそういう埋没していく茫漠な時間の中に、一点の刺激が欲しかった、という欲求の表れなのだと思います。そう思うと、彼らも同じように何かひとつ、自分たちを活性化するものが欲しかっただけなのかもしれないと、そう感じてしまうんです。鍼灸みたいなものかもしれませんね」
「じじむさいことを言うようになったな。ま、あれだよ。結局誰も彼も生きている以上はないものねだりを続けている。彼らは彼らで何かを欲しかった。中町譲も、金子菜々美も、僕や生形も、自覚があるようにもちろん朝霧くんもそうだね。何かを常に欲している。喉の渇きと似ているよ。常に乾燥していて水を飲んでも飲んでも潤わない。人生って言うのはそういうやつさ。そして正義とか言う薄ぼんやりしたものに縋ってみたりして、何とか誤魔化し誤魔化し日々を消化していく。死ぬ瞬間に、自分は正義を全うすることが出来たし、ま、悪くない人生だったなって、ただそれだけを思うためにね。気付いてしまうとなんともつまらないもんだよ」
「……いっそ私も誰かに食べられる側になれば世界が変わるかもしれません」
「ほら、それがないものねだりなんだよ。今回の件だって君は十分、捕食される側に回っていた。彼らの正義によってね。君はきっと彼らの中で正当性を持って完結された話を聞いてもそれを理解できなかったと思う。こんなことで? とか、どうしてそんなものを振りかざす度胸があるんだ、とか内心で思っていたんじゃないのかな。殺される側はいつだって何もわからないままなんだ。不鮮明な正義に、いつの間にか刺されている。だから食べられる側になっても、わからないものはわからないまま。下手をすると食べられたことも気付かないかもしれない。人間は生まれもってして捕食する側だからね。内々の格差は些末なもので、全体として見れば自我を取り囲む世界なんてものは早々には変わらないよ」
「そうでしょうか」
「例えば僕の王と君の王はなぜ戦っている? 何が不満で自分の部下を犠牲にしてまで相手の王を捕ろうとしている? 君の王なんか右腕と呼ぶべき飛車を討ち取られているのに、なぜ降伏しない? こいつらにとっての正義とはなんだ?」
「これはゲームでしょう」
「そう割り切っているうちは、多分理解できないだろうね。君はゲーム感覚で人生を生きているうちにいつの間にか死んでいるよ。楽勝楽勝イージーモード、なんて歌っている間にゲームオーバーさ。蔓延する正当化された正義はいつパンデミックを起こすか知れたものじゃないのに。自分の立ち位置や行動理念はちゃんと持っておいたほうがいいよ。ありがたみを知れなんてえらそうなことは言わないが、なぜ自分が牛や豚を食べるのか、その理由くらいは語れるほうがいい。あらゆることを当たり前に思っていてはいけない。それは麻痺で、逃避だよ」
「所長は違うと言うんですか?」
「僕も同じだよ。だから何もわからないさ。僕にとって生きることは道楽だとさっき言ったろ。この事務所もそうだし、煙草も、酒も、女も、その他諸々、道楽で、ゲームだ。豚はまずいなあなんて笑っているうちに、いつの間にか刺されて死んでいる口だね」
「そうですか。確かに所長の言うことには芯がないです」
「適当なんだよ。いい塩梅という意味じゃなくて。雑なのさ。首尾バラバラ」
「知ってます」
「ま、それでも何とかなってしまうのが今の世の中ってことだね」
「……結局、私が眠っている間、何があったんですか?」
「何もないよ。鶴さんたちとは少し話をしたが、大したことは何もない。すまなかったね、いえいえこちらこそって感じ。後はお邪魔しましたって言ってぜえぜえ下山しただけ。重かったよ」
「そんなはずはありませんよ。もっとあったはずです。なぜあの人は私を助けてくれたのか、とか。そういう説明がきっと。あ、王手です」
「君の悪い癖だな。やはり何でもドラマティックに考えてしまう。劇的な別れなんてものは早々訪れないよ。彼らにとって君は英雄でも悪魔でもなかった。ただの人間が村に紛れ込んだからむしろ手をこまねいていたかもしれない。そこへ保護者が来たんでラッキーラッキーってね。呆気ないものだったよ」
「……なぜ私を解放してくれたのでしょう。彼女からその説明がなかったのだとしたら、所長の考えはどうなんですか」
「さあてね。人の心はすらすら移り変わっていくものだよ。スライドショーみたいなものさ。一瞬前には違うと思っていた主張を、あっさりと落とし込んでしまったりする。そういうものなんだ。僕ばかりではなく、誰しも一貫した自分というものを持っているわけではない。心とは何か? 精神とは何か? それを明言できないのだから、それについて考えを深めてみても仕方がない。煙と一緒だよ。あるのはわかるけど触れてみようと手を伸ばしても実感がない。人の中心って言うのはそういう曖昧模糊なもので出来ている。じゃあ人間なんてものを理解しようがないね。鶴さんもそういう当たり前の人間だった。気まぐれで、鬱陶しくなったのかもしれないね。君を囲った張本人でもあるし。……さて、どうしようかな」
「負けを認めてもいいですよ」
「まだ詰んじゃいないよ」
「彼らは救いを求めていると言っていました」
「おっとストップ。ぼんやりとしたものならばまだしも、あの村の秘密ははっきりと話しちゃ駄目だ」
「最深部には触れません。彼らの求めていた救いとは、なんでしょう」
「そんなものは知らないが、大抵の救いというやつは幻想だよ。救われていないと思ってしまうからいけないだけなんだ。みんな同様に誰かには救われているものだよ。それを綺麗事だと思ってしまう人間が居ようがなんだろうが、世界とはそういう風に出来ている」
「詭弁ですね」
「詭弁だよ。詭弁で何が悪いんだ、と僕は思うね。嘘を言わない人間は居ない。いかにうまく嘘を吐くかという話でしかないんだよ。真人間なんてものは居ないんだ。基準がないからね」
「例外がないのと同じに、ですか」
「うん、そう。誰かに対して自分を当てはめようとするから苦しいんだよ。自分は自分でしかない。ほかの誰かではありえない。ならその条件下において生きていくしかない。そうでしょ。誰某のようになりたいと思っても、思うだけ無駄なんだよ。救いなんてものは幻想だと言ったね。結局はその幻想とやらでうまく自分を騙していくしかない」
「彼らにはそれが出来なかった、という話ですか」
「いや、ある意味では騙せていたんじゃないかな。それで統率されていたんだから。ただ方向性はよくなかったと思うね」
「中町譲は不運でしたね」
「不運かどうかは僕らにはわからないよ。そういう運命だったと思えば楽かな。ともかく彼の死に僕たちは関係がない。全くね。たまたま巻き込まれてしまっただけ。彼が不運なら、僕らも同様に不運だよ」
「金子菜々美はどうでしょう」
「そこに至っては僕は全く興味がないよ。彼女が何をしたかったのか、何をして欲しかったのか僕には理解できなかったね。お金もプラスマイナスで言えばマイナスになってしまったし。いい迷惑だ」
「中町譲を心配していたのは本心のようです。でも指きり村に導いたのは自分だから、どこかで諦めもあった。そんな感じですかね。女心はわかりません」
「君も女じゃないか」
「私の乳房は大きくないですから」
「細かいことを覚えているなあ朝霧くんは」
「所長はお釈迦様を信じますか」
「おや、今度はそういう話? それなら即答できるが、僕は神も仏もないと思うね。あれも、誰かによる正義の象徴でしかないよ。大体姿かたちが合理的じゃない」
「合理的じゃない?」
「大抵神や仏は人間の形をしているが、世界全てを見回すならば目はもっとたくさんあったほうがいい。それに飛び回るためには羽も必要だね。ま、こいつはあるやつも居るには居るが。そもそも神は自分に姿を似せて人間を作らせたのだ、という考え方がナンセンスだ。僕ならそうだね、神は蝿の形をしていると思う。ある意味ではベルゼブブは僕の考える神に近い」
「蝿、ですか?」
「ああ。神様は全ての頂点なわけだろ? だから何をしてもほにゃららパワーで誰にも負けない。僕がそんな生活をしているんだとしたら、自分のコピーをもミニチュアの頂点に置こうとは思わない。むしろ自分の姿が蔑まれ、叩き潰され、忌み嫌われているほうがすっとすると思うね。見ていて楽しいだろう」
「しかしベルゼブブというと、悪霊の君主では。確か七つの大罪でいう暴食でしたか」
「一方では神でもあるんだよ。これは実に正義の話と似ている。物事は表裏一体、要は見方次第なんだよ。君もあの村で様々なものの見方を学んだんじゃないかな。人生は日々勉強ですな。がんばりたまえよ若者」
「早く打ってくださいよ」
「まあまあ待ちたまえ。これだから若者は結論を急いていけない。いいかい、敵というのは己の内に居るんだ。僕は今そいつとの戦いに忙しない」
「一体どういう主張の食い違いで争っているんですか」
「僕が今脳内で考えている次の一手は二パターンある。どちらがより良いか、争いの種はそれだね。朝霧くん。敵というのはそこかしこにいるものだ。気をつけた方がいいよ。最たるは自分自身だが」
「自分自身ですか」
「ああ。君はたった一点の刺激のためにどれだけ犠牲を払おうとしたか。瞬間的であれ、まあいっかなあ、なんて考えたりしたんじゃないか。誘惑も制御も自分の中で行われるものだからね。君はもう少し修行を積んだほうがいい。何も感じないくらいのほうが探偵としてはすばらしいと思うよ」
「雑念だらけの所長に言われたくはありません」
「はっはっは、そりゃあそうかもしれないね。美津子ちゃん、コーヒー頂戴」
「目がいやらしいです」
「朝霧くんには向けないよ」
「失礼です」
「おっとおっと、そんな冗談をぼやいていたら最善の手が浮かんだよ」
「争いは終わりですか?」
「争いなんてものは無駄だからね。はい、これで詰みね」
「参りました」
「まだまだ甘いなあ朝霧くんは」
「所長」
「何?」
「一手、もうひとつ打っても宜しいですか?」
「起死回生の手があると?」
「いえ。所長は、なぜ鶴さんのことを知っているのですか? 私は一度も所長に対してあの人の名前を呼んではいませんが。大した会話がなかったのだとすると、当然お互い名乗りもしないとは思うのですが」
「はっはっは、朝霧くん。今さっき言ったばかりだ。敵というのはそこかしこにいるってね」
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