解放

「悪いね生形。遅くなってしまったよ」

 馴染みのある声がいつもの軽い調子で聞こえてくる。

 生形が笑い声を立て、

「遅い遅い。待ちくたびれて煙草を吸ってしまったよ。禁煙生活にも終止符だなこれは」

「いやあすまんね。しかしここまでは随分悪路だな。思ったよりも時間が掛かってしまったよ。それになにより、寒い」

「あんた誰だ。何しに来た」

 にこにこと交わされていた二人の短い挨拶を縫うように、石狩村長の怒号が居間に響く。

 柊所長はまるで物怖じもせずそちらに視線を投げると、

「いやはや、上がってからで失礼。遅ればせながら、僕は柊探偵事務所の所長をやっている者です」こんな場において懇切丁寧に名刺などを差し出している。「どうぞよろしく」

「ふざけおって」石狩村長はそれを叩き落とした。吼えるのも無理はない。「探偵だと? 探偵が一体なんの用だ」

 柊所長は叩き落とされた名刺を緩慢な動作で拾い上げながら、

「何の用とは驚いた。ご冗談はよしてくださいよ。まさかぼけ老人でもなかろうに。用件ならわかっていますでしょう? 僕の愛弟子がこの村のどこかに居るはずなんですけど」

 石狩村長は黙って彼の所作を見ていた。

 そうしている間に、先ほどの彼の怒号を聞きつけた老人たちが何人か姿を現したようだ。恐らくは取り巻き連中だろう。視界の中には入らないが、ひそひそと話し声が聞こえる。

 その合間を縫って一際大きく声を掛けたのは、

「あなたの愛弟子、というのは立花さんのことかな」田島老人である。彼の声音は柊所長の登場に対し全く冷静な風である。「もしそうならば、残念だけど彼女はもうここを去ったよ」

「去った? いやいやそんなはずはありませんよ」

 言葉とは裏腹に焦るような様子もなく、

「どうしてそう言い切れるのです? 立花さんは間違いなく、彼ら警察と入れ違いに出て行きましたが」

 柊所長は余裕の笑みを浮かべる。

「彼女が僕に何の連絡も寄越さずここを出ることはありえません」

 対して田島老人は冷笑を漏らした。

「随分な自信ですな」

「自信も何も、そりゃあ僕らは親子ですからね。帰るときには連絡を寄越すのが普通でしょう。うちの教育方針です」

「親子?」石狩村長は頓狂な声を出した。「親子だって?」

「とはいえ、彼女の母親とは離婚して長いので、上司と部下という関係が根付いてしまっていますがね」

「なんだお前、そういうことだったのか」生形が驚いたように声を出す。「そりゃあ心配ですっ飛んでくるわけだな」

「ま、そんなことは冗談で、余談だよ。それで? どこにいるんです?」

「そんなものを根拠にされては困りますな」しかし田島老人は変わらず冷静だった。「子どもとは存外すんなりと親元を離れていくものなのですよ」

「この村に滞在中何度も連絡を寄越してきておいて帰りだけそれがないっていうのは、不自然じゃあありませんかね」

「どうでしょうね。急に疎ましくなるものなんですよ。若い人間は大抵そういう風に出来ているんです。あなたの娘も例外ではなかった。それだけでは?」

「例外なんてものは最初からないんですよ。みんな違う人間なのだから。その前提に立つと、一日二日の付き合いのあなた方より、彼女のことは僕のほうがわかる。それが根拠ですよ。僕の知る彼女は、必ず連絡を寄越すはずです」そう言い切ると柊所長はもぞもぞとポケットをまさぐり、少し操作した後にそれを耳に当てた。「さて、今僕は誰に電話を掛けていますでしょうかね」

 さっと老人たちの視線がざわめくのがわかった。

 私の携帯電話が鳴りはしないかと何人かが焦ったものと思われる。

 柊所長は携帯電話を耳から話すと、おどけたように両手を広げた。

「正解は、誰にも掛けていない、なんですよ。さあさあ素直なあなた方のおかげで、少なからず彼女の携帯がここにあることはわかりました。それはどう説明しますか? 忘れて行ったと言うことにしますか? それにしちゃあ慌てていましたね。どうかなさったんですか?」にこにこと、あくまでも軽い調子を崩さないのが彼のやり口だ。「大体連絡なんてものは余談だと言いましたよね。今この仕草によってあなた方に彼女の携帯を連想させるためだけの、ただの前置き、冗談です。しかしその冗談をどこか本気に捉えてしまったようですが、あなた方が彼女の携帯を持っていないならば何も慌てる必要はない。そうでしょう?」今度は、いかにもわざとらしく笑い声を立てた。「さてさてそれはともかく、ではなぜあなた方は彼女が生形たちと入れ違いに出て行ったことを、彼らへ報告しなかったんですか? ここへくる道すがら生形と連絡を取りましたが、そのような話は聞きませんでしたけどね」

 畳み掛けるように質問を続ける柊所長に対して、田島老人は低く笑った。

「あなたは面白い人だな」

「そりゃどうも」子どものように頭を掻いている。「照れますね」

 田島老人はふいと視線の向きを変えると、

「すまないが生形さん、あなたには出て行ってもらいたい。ここから先は私たちと彼で話がしたい」

 静々と申し出たが、

「ああ、そんな必要はないですよ」

 柊所長は淡々と言った。

「警察が居ては話しにくいことがあると、私は言っているのですよ。わかりませんか?」

「いやあ、心配には及びません。ここには警察など居ないのですから」柊所長が言うと、数人の老人が首を傾げた。「生形をはじめ、ここへ警察と名乗ってやってきた人間はみな、実際には警察なんかではありませんよ」

 柊所長がさも当たり前のように言うと、場はしんと静まり返った。

「何を言っているんだ?」その沈黙を破って、田島老人が初めて怪訝な声を出した。「警察ではない?」

「そうです。警察ではありません。彼らはただの僕の友人、つまり生形が座長を務める劇団の、劇団員です。大して働いていなかったでしょう。当たり前ですね、本職じゃないんですから。死体の近くで吐いている輩などは居ませんでしたか?」

 柊所長が可笑しそうに笑っていると、

「困ったもんですよ。連絡が来たから何かと思えば、お前のところは今どんな演目をやっているんだと聞かれてしまって。生憎とうちは今旅行に来ているだけだと答えると、すぐに衣装を用意してこの村へ向かってくれと言うんだから」生形が呆れた調子で解説をくれる。「悪いね石狩さん。切れ者だなんだと褒めてくれたけど、私は警視なんて大層なものでもなければそもそも警察関係者でもないんだ」

 石狩村長は頓狂な声を上げ、生形は楽しそうに笑った。

「じゃあなぜ死体の向きを変えたことがわかった?」田島老人は不平の声を漏らしている。「彼らが囲碁なんて打っていなかったと、なぜ見当が付いた?」

 これには柊所長が答える。

「そんなことは言わずもがなですよ。僕が愛弟子から仕入れた情報を、生形に横流ししていただけです。彼女はあなた方との約束に関して行き詰まり、僕に連絡をくれたんですよ。そのときに細かい状況は聞き入れていましたから。僕はそれを移動中の彼に伝えただけです。電波が入るのは幸いでしたね。お互いに情報を共有できましたから。より不可解にするためだったんでしょうが、余計な嘘は吐かないのが身のためですよ」

「だからか」石狩村長が呻く。「だからあんたは煙草のことも」

「ええ。申し訳ないが、最初からもう一人、つまり柊の娘がここに居ることは、前提として知っていたんですよ。頭が切れるんじゃなくて、私は持っていた情報を駆け引きに使ったまでですよ。いかにも頭の切れる警視殿を演じてね」

 死体を見たはずの生形が指の欠損についてただの一言も言及しなかったのは、全国各地で起きているという村人たちの犯行を知らなかったからか。その話を私が聞いてからは柊所長へ電話を掛けていないから、生形はそれらと関連付けるための情報は持っていなかったと言うわけだ。

 一人合点していると、

「許されんぞ。そんな話は許されん」

 誰かが悲鳴のように声を上げる。

「ちょっとした嘘じゃないですか。あなた方がしていることと同じことをしたまでです」生形は白々しく言ってのける。「そんなに悪いことですか?」

「待て」田島老人が呆けたような声を漏らした。「なぜだ?」

「何がです?」

「なぜあなたは、警察に連絡するチャンスをふいにして、彼に連絡を取ったんだ。なぜ本物ではなく、劇団員に真似事をさせたのだ? 娘が心配だったんだろう? 助けたかったのだろう? なぜだ」

「僕は」柊所長が煙草に火をつける間があった。「彼女から連絡を貰ってあなた方と約束をしたという話を聞いたとき、あなた方が警察を呼ぶはずがないと思った。密室殺人が起きたにも関わらずそんな約束を取り付けるような余裕があると言うことはつまりあなた方は少なからず犯人を承知している、あなた方にとってこの事件は全く不可解ではないのだと考えるのが妥当です。理由はわからないがあなた方はどうにも彼女の指に関心を示している風でしたからね。犯人側がわざわざ自分たちが不利になるように警察を介入させる必要は全くない。当たり前のことですね。どうせ最初から彼女が真相を究明しようがどうしようが適当に言い負かして指は頂く算段だったのでしょうし。警察が来たら邪魔になるのは決まっている」

「だからこそあなたが」田島老人は後半の皮肉を無視した。「警察へ」

「警察へ電話を入れようとも思いましたよ。そりゃあ、殺人事件なんてものは我々素人の手に負えないものですからね。しかし僕は思いとどまった。僕の信念は、余計なことには首を突っ込まないというものです。ここで僕が警察を入れれば、探知するなり何なりして、事務所のほうにまで警察がやってこないとも思われない。なぜお前は通報してきたんだ、なんて言われて腹を探られるなんて、とてもとても、喜ばしいことじゃあないですからね」

「自分本位な」誰かが呟いた。「そんな理由で」

「人間なんてものはそういう生き物ですよ。きっとあなた方もそうでしょう。ともかくそこで、生形一行に一芝居打ってもらうことにしたって話です。僕が到着するまでひとまず彼女に対し手が出せないようにしておいて欲しかったのです」

「しかしそれでは」

「ええ、本当に解決はしない。でもそれがなんです? 殺人を犯した人間が罰せられることがそんなに美しいことですか? 殺人犯を見せしめに殺すことが正義だと言うのですか? それは法という独裁者が国を治めている構図に過ぎません。僕には関係のないことです」柊所長は一口に言ってから、「ま、殺人自体は容認しがたい事実ですけどね。今回は天秤のもう片方が重すぎた。僕は依頼人より僕自身や所員を大事に思うしがない探偵、ただそれだけの話です」

「余計なことに首を突っ込みたくないと言うのはわかったが、むしろ天秤が重いならば警察を呼ぶべきではなかったのか」田島老人はもはや自分の立場も忘れて、純粋に疑問をぶつける。「私らは殺すことさえ厭わない」

「歩は」柊所長が微笑んだように見える。「歩の働きをするまでです。僕は今回のこの村での殺人事件自体に、我が探偵事務所は関係がなかった、ということにしたいんですよ。あなた方が自らの愚行を悔い改め警察へ自首するのは構いません。本来そうあるべきだとも思います。自ら行かなければ更生なんてしませんからね。ただそのときに僕たちの存在は秘匿にしていただきたい、ということです」

「わからんな」

「僕はあなた方がなぜ約束や指に固執するのか、いとも簡単に人を殺してしまうのか、そんなことには興味がないし関わりたくなんてないと言っているんです。だから警察を呼ばないし、逆に関係のない生形たちに時間を稼いでもらった」柊所長が何を言わんとしているのか、私には判然としない。「ま、ここまでは前置きですね」

「前置きだと?」

「ええ。なんやかんやと御託を並べましたが、再三言ってのとおり僕はただ生形たちに時間を稼いでもらいたかった、という話なんですね。それはわかりますか? じゃあなぜ時間を稼いでいてもらいたかったのか。もちろん、僕自身がこの村に来て、あなた方と話をしたかったからです。存在自体をなかったことにして欲しいと言っていますが、事実彼女がこの村に、そして中町譲殺人事件に足を踏み入れてしまったことには代わりがない。じゃあそういうことで、と帰してもらえるとは当然思っていないんですよ」柊所長はここに来ても、笑みを絶やさない。「そのくらいは僕でもわかります。だから郷に入っては郷に従えということで、ここはあなた方のルールに乗っ取ってひとつ約束をして、手打ちとしてもらいたいんです。本当に警察を呼んだんじゃあこんなことを言う時間もないだろうし、何よりこれからする約束を呑んでもらえないと思いましてね」

「約束、だと?」

「ええ、至極シンプルなものですよ」話を聞き入れるのに夢中で確認していなかったが、すっかり四口目を吹かし終えたらしく、ざりざりと灰皿をこする音がする。「僕は二度と彼女をこの村に近づけませんし、この村の秘密を口外させません。あなた方の今後の生活にも一切関与しない。その代わりにあなた方は彼女を解放し、彼女や僕、そして生形たちが来たことも、同じように口外しないと約束して欲しいんです」

「そんなもの」

 田島老人が口走るのを手で制し、

「指一本で済むとは思っていませんよ。賭ける指は両手十本、全てです。ひとつでも破ったら全て差し上げます。そしてあなた方には何もペナルティを与えない。どうですか? もし満足いかないのなら、ここでひとつ切り落としてもいいですよ。僕の本気が伝わるならね」

 柊所長はそれまでと変わらず穏やかな調子だった。

 生唾を飲む音さえ響きそうな、重厚な沈黙が降りる。

 誰も何も言わなかった。

 静かな時間だった。


「わかった」

 小さく鳴ったのは、田島老人の声だった。

「話のわかる方でよかったです。それじゃあ」

 こんなことに意味があるのか、柊所長は歩み出ると田島老人の手を取った。

 

 指きりげんまん。

 嘘ついたら針千本飲ます。


 そして指を切る直前、

「そんな約束せんでいい。立花さんは上に居る。これが鍵だ。連れて帰ってくれ」

 聞こえた声は、鶴婆のものだった。

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