進展
目を覚まし、そこが自分の汚いアパートでないことを思い出すと、私ははっとして半身を起こした。周囲の様子を窺うと、鶴婆が台所に立って朝食をこしらえてくれていた。私はゆっくりと立ち上がると彼女の背後に回り、
「おはようございます」
と一声掛けた。
鶴婆は包丁を置き、割烹着で両手を拭うとこちらに笑顔を見せた。
「起きたかい。もう少しゆっくり寝てても良かったんよ。身体は大丈夫? 痛くないか?」
「ええ。大丈夫です」私も笑顔を返す。「泊めていただいてありがとうございます。何か手伝いますよ」
「いいのよ気にせんで。ほら、煙草でも吸ってきなさいな」
「それじゃあ」日本的な美徳観念だと無理やりにでも手伝おうとするものだが、私はノーと言われればそこですんなり身を引く。「失礼します」
ようやく時計を確認すると、時刻は十一時過ぎだった。普段はとっくに事務所に出勤している時間で、こんなに長い時間眠ったのは久しかった。一方で身体はいつも以上に硬く、悪い体制で眠っていたことがわかる。私は大きく伸びをしてから、ライターに煙草を叩きつけ、葉を寄せてから煙草を咥えた。
こうして見ると、まるで自分の祖母の家を訪ねたかのような暢気さがあった。
高台のほうへ視線を投げると、中町病院が視界に入る。もともとは清潔を示す真っ白な外観であったのだろうが、今は全体的に灰色に染まっている。いくつか見える窓も、割れていて物騒だ。当然ひと気はなく、赤十字はぽっかりと空洞になっている。
煙草を半ばほどまで消費したあたりで、鶴婆の家のお隣さん、と言ってもいくらか離れたところにあるが、そこの戸が開いて、老人が出てきた。老人は杖は使っていなかったが、腰が折れて小ぢんまりとしている。
私の視線に気付いたのか、老人はぺこりと頭を下げた。私も釣られて会釈を返す。鶴婆の孫か何かに思われたのだろうか。こうした閉鎖的な村にあって、余所者にあのような態度を自然に行えるものだろうか。
煙草を携帯灰皿にしまうと、今度こそ何か手伝おうと思い台所へ戻ったが、すでに朝食の支度は全て済んでいたらしい。せめてもの感謝を込めて、配膳を手伝う。
掘りごたつに足をしまいこんで、二人で「いただきます」と手を揃えた。柊所長や吉原美津子と外食に出ることはあったが、こうした一般家庭で誰かとご飯を共にするのは随分久しぶりだった。それこそ祖父母には長らく顔を見せていない。
食事を終え、洗い物を済ませてしまうと、鶴婆の淹れてくれたお茶で一息つく。テレビはつけず、代わりにカセットテープを流していた。
「今日はどうすんね」
「そうですね。とりあえず中町病院に行ってみます。入れますか?」
「うん、入れるよ。あそこはさ、中町さんがやってたんだけど、一家揃って心中しちまってね。そっからはずっと開けっ放し。時折人が来たりもするけど、荒れ放題だから、行くんなら気をつけなさい」
「はい。少し写真を撮るくらいです」
「そのあとはどうすんね」
「そのあとですか? そうですね、一応、病院を見に行くのが目的だから、早いうちにここを出て、ホテルで一泊して帰りますよ」
「どうせならもう一泊していきなさいよ」
「もう一泊ですか?」私はこの申し出に少々面食らった。「いやいや、そんな、お世話になるわけにはいきません。それに、昨日の分のホテルのキャンセル料も払いに行かないといけないし、今日もキャンセルしたら迷惑も掛かってしまいます。それに仕事もありますから」
鶴婆は本当に残念そうな表情をして、何か思案をめぐらせているようだった。私は彼女に気に入られてしまったのかどうか、そんなことを考えてみたが、当初の目的も忘れていないので、収穫がなければすぐに帰るつもりだった。
中町病院に中町譲が訪れたらしいことはふもとまで連れて来た本人が言うのだからほとんど確定的だと思われる。だがそこに彼の姿が見られなければ、もうここには居ないとするのが妥当だろう。昨日は鶴婆の左手小指の欠損に気を取られ怯えていたが、よく考えれば補整された道から約四時間、私のように疲れ果て、迷い、遭難して死んでしまった可能性もある。無事に村に到着していても、村人に見つからず病院を訪れ、そこで不慮の事故に見舞われている可能性もある。何も「指きり村」の村人に襲われたと決め付ける必要はない。
私はここで、自分の思考の欠点を見落としていた。
鶴婆はお茶を啜りながら、
「ホテルって、どこ?」
と聞いてきた。私は予約していたホテルの名前を告げる。
すると鶴婆は満面に笑みを浮かべた。
「そこなら知り合いのやってるとこだ。事情を説明すれば良くしてくれるはずさ。だからもう一泊、してってよ」
そう言われてしまうと、私に逃げ道はなかった。
とにかく結論を先延ばしにし、私は中町病院へ行ってみると伝えて家を出た。歩きながら煙草を取り出し、葉を詰める。
道中畑仕事をしている老人や、軒先で会話に耽っている老婆たちを見たが、誰も私を気にしなかった。老いさらばえて視野が狭くなっているのだろうかと考えて、余りに下らないので自分に呆れ、ため息をついてから、いい加減煙草に火をつける。
中町病院にはすぐに着いた。高台にあるため緩い傾斜を上ったが、大して疲れる程度ではない。
病院は簡素なものだった。コンクリート二階建て。中央に廊下があり、ワンフロアに八部屋据えられている。上下合わせて十六部屋。この村の規模を考えれば、この程度で十分なのだろう。一階の端から一部屋ずつ覗いていったが、これと言った人影にはぶつからなかった。手術台やカルテ、聴診器などが無造作に朽ちていたが、恐れるほどの湿度もない。廃墟としては一級品なのかもしれないが、私にはその価値はわからなかった。
二階についても同様である。階段は資料などが散らかっていて滑りそうな要素もあったが、人が転んだような形跡もなければ、もちろん人が転がっていたりもしない。もとより、段数も少なく幅広に取ってあるので、滑ったとしても転げ落ちそうには思われない。左右には手すりもあり、これを中町譲が使ったかはともかく、病院らしく安全面には配慮された設計だ。
二階部分は全て病室だったらしく、ベッドが何床かある部屋もあれば、殺風景なところもあった。いずれにせよ床が抜けている様子はないし、身動きが取れなくなるほどの大怪我をするような場所ではなかった。
私は周囲に気を配り、朽ち果てたベッドに腰掛けると煙草を咥え、同時に事務所のほうへ連絡を入れた。吉原美津子が応答したので、私は緩慢に、火をつけてから話し始める。
「所長は」
「外出中です。何か?」
「金子菜々美から連絡はあった?」
「はあい、ええっと」残念な頭で記憶を掘り返す間だ。「一度だけ。進捗状況を聞かれましたよお」
「なんと答えた?」
「あとでメールを寄越しますと」
「オッケー」吉原にしては問題ない返答だ。「手がかりを探って秋田の山村に来ている、そこに中町病院という廃墟があって、名前に惹かれたのか彼がそこへ訪れたらしいことまでは確証を得ている、とだけ伝えておいて」
「朝霧さん今そこに居るんじゃないんですか?」
「うん、いるよ。どうしてわかった」
「後ろで話し声がしていますよ」
言われて振り返るが、誰も居ない。
くすくすと笑う声が、耳に届く。
「怒るよ」
「朝霧さん可愛い。とにかく病院にたどり着いたことは言わなくていいんですね」
「うん。どうやらここには居ないらしいが、あんまり早くに結論を出すと向こうが怪しむ。現在詳細な調査中とでも書いといて頂戴」
「了解でえす。所長に何か伝言は?」
「明日には帰ります、とだけ」
「わかりましたあ」
通話が終わる。
ゴールデンバットを踏み潰してようやく、私は先ほどの自分の穴に気付いた。
私は先ほど、中町譲は山中で遭難した、もしくはここで怪我に遭ったと想像した。だがそれらはどちらも現実味がない。後者に関してはたった今院内を散策したという結果もあるが、そもそも山中であろうと院内であろうと、今のように、携帯電話が通じるのだ。何か不測の事態に出くわしたとしても、連絡手段がある。通じないかもしれないと思うかもしれないが、だからと言って試さない人間は居ない。電源が切れていた恐れはあるが、これから山村に向かおうという人間が、充電を忘れて切らせてしまうような愚行を犯すだろうか。可能性は低い。
となるとやはり、何かしらのアクシデントに遭遇したと思うのが、自然だろう。
私は再度院内を散策する。端から端まで、もう一度、今度は人影ではなく、ここに不釣合いな物品が落ちていないかに目を凝らす。
すると、見覚えのある小さな人形が視界に入った。
ピエロのストラップである。
やはり中町譲は、確かにここに来ていたのだ。その上で、消えた。
これはつまり、どういうことになるのだろうか。
鶴婆の家に戻り、お茶を一杯貰った。
私は彼女のほうに向き直り、話がある旨を伝える。彼女は流していたテレビの電源を落とし、同じように、こちらへ身体を向ける。
「本当はね、病院に行くことが目的ではなかったんです。いや、そう言うと語弊がありますが、本来私は、ある人を探してここを訪れたのです」
鶴婆は私の言葉をちゃんと聞いていた。
しかしそこに驚きや、落胆の色はない。
「それで?」
「その人は中町病院を訪れたらしいので、後を追ってきたのです。しかし先ほど見た限り、あそこにひと気はありませんでした。この人なのですが」そう言って私は鞄から中町譲の写真を取り出した。「見覚えはありませんか」
鶴婆は写真を手に取り、しげしげと眺めていたが、しばらくして写真を突き返してくると、首を振った。
「知らないねえ。見たこともない」
「そんなはずはありません。ここに、来ているはずなのです」
「さあてねえ。どうだか……」
「よく思い出してください」切り札はまだ切らない。「中町譲さんという方です」
鶴婆はもう一度写真に手を伸ばしたが、数秒見ただけでまた首を振った。
「やっぱり知らないよ。立花さんはこの人の、なんなの?」
見つめられる。私は視線を逸らさず、まっすぐに受けた。
彼女は嘘を吐いている、そう思ったからだ。
「今は言えません。ですが、私は彼を探しているのです」
鶴婆は困ったように首を傾げた。所作は自然だが、彼女は本音を言わないだろう。
「わからないよ。でも、そんなに大切な人なら、みんなに聞いてみよう」
すると鶴婆は立ち上がり、そそくさと玄関口へ歩いた。私は最低限の荷物を身につけ、あとを追う。
鶴婆は振り返ることなく、
「ちょうど今日は月に一度の買出しの日だから、みんな村長の石狩さんちに居るはずだよ」
語りながら一軒の家へ歩みを進めた。
石狩村長の家はこれと言ってほかの家と差別化がされているようなことはなく、強いてあげるならここだけが二階建て家屋だったが、老人の家としては利便性に欠ける。
鶴婆はノックをすることも声を掛けることもなく玄関の戸を開いた。靴脱ぎにはすでにたくさんの草履やスニーカーが散在しており、靴を脱ぐのが一苦労だった。
居間には老人たちが集まっており、あれが欲しいこれが欲しいと声を出していた。
「わあったわあった、わあったから一人ずつ言ってくれ。ちゃあんと買ってくるって」
声を上げる老齢の男は顔中に皺が走っていたが、髪もまだ豊富で、若々しく見えた。鶴婆が私の裾を取り、あれが石狩村長であることを教えてくれる。
一人が私たちの存在に気付くと、それが波及して、全員がこちらを振り返った。私はそのどれとも視線が合わなかった。
テーブルに付く手、髪を掻き揚げる手、鉛筆を取る手。村人たちは全て例外なく、どこかしらの指を欠損していたからだ。私の目は、そちらに注がれていた。
指きり村。
その名前を頭に浮かべる。
「鶴、それは誰さ」
「余所者か」
「見知らぬ顔だべ」
「説明せんか」
口々に、言葉が囁かれる。男か女かもわからない。
顔たちの中には、今朝会釈をくれた老人も居た。彼は何も言わずに、顔を伏せている。
「こりゃ私の知り合いだ。害はねえ。しばらくうちで預かることになったんだ」
私は促され、頭を垂れた。
「立花と申します。失礼します」
平静を装ったが、内心では心臓が飛び出てきそうなほど跳ね上がっていた。そこにある全ての視線が自分に集中するというのは、人間を極度の緊張状態へ誘う。
鶴婆の手引きで私は部屋の隅に腰を落ち着ける。今は買出し前の会議中らしく、話を出来そうにはなかった。あの道を歩いて降りていくのだろうから、少しの買出しでも一苦労だろうと考える程度には、徐々に冷静になった。年若いことだけが取り得の私でもあれだけ疲弊するのだから、彼らにとってはまさしく骨の折れるような作業だろう。
会議が落ち着くと、ようやく話の出来る間が生まれた。鶴婆が先導し、
「この子がみんなに聞きたいことがあるんだってよ」
と声をかけてくれたので、スムーズに話を始められる。
「実は私、ある人を探しておりまして」そして写真を手近に居た老婆に手渡し、全員に回してもらうようお願いした。「高台にある中町病院を訪れたらしいことまではわかったのですが、どうやらそこにはもう居ないらしく……、何か皆さんに心当たりでもないかと存じまして」
写真が一周して戻ってきたが、誰も何も言わなかった。
「私は知らないと言ったんだがね」
「ご存知ありませんでしょうか」
「知らんなあ」
石狩村長が声を上げる。
「わしも知らん」
「私もや」
「見ん顔だね」
「大体、若い人はこんなとこめったに来んよ。来てたらみんな覚えてるはずさ」
「知らんっちゅうことは、ここに来たかどうかも怪しいな」
老人たちは口を合わせそのように言ったが、私は彼らが嘘を吐いていることを知っている。このカードをここで切るべきか、思考をめぐらせる。
「無駄足だったなあ。ここにはその人は来とらんよ」
私は写真に視線を落としながら、
「そうですか、わかりました。そういうことで、良いんですね?」
言うと、石狩村長は目を細めた。
「どういう意味じゃ。なんか言いたそうやな」
「いいえ。何でもありませんよ。ただ、確認しただけです。あなた方の意見は、この男性はこの村には来ていない、ということで、良いんですね?」
「良いも悪いもねえよ。来てねえんだから」
「わかりました。お邪魔しました。失礼しました」
今はこの程度の攻撃でいいだろう。
私は立ち上がり、場を辞した。
鶴婆は、追いかけてこない。
煙草を吹かしながら、もう一度中町病院のほうへ歩いてみる。明確な意図や目的があったわけではないが、私が見落としているだけで、あそこにはもっと重大な証拠品となりうるものが存在するのかもしれない。
とは思っていたのだが、改めてデスクの引き出しや棚の隅々まで視線を這わせてみたが、収穫はなかった。私は手術台の上で煙を吐きながら、ピエロとにらめっこをしていた。
現状わかっていることは、中町譲は間違いなくこの場に来ている、ということのみだ。そして村人たちはどういった理由からかはともかくとして、それを隠匿している。
もし仮に、これが鶴婆のみの発言であったならばよかったが、まるで口裏を合わせたように全員が知らぬ存ぜぬを突き通すということは、裏がある可能性が高い。彼らは私がこのピエロを拾得していることを知らないのだから、それで済むと思っても無理はないだろう。
問題となるのは、当初からの目的どおり、果たして今現在、中町譲がどこにいるのか、という点である。この村で歓迎されているようには思われないし、かといってすでにここを出ているのだとしたら、村人たちが嘘を吐く理由がなくなる。「来たが、もう帰った」と言えばいいだけなのだから。安直に考えれば、何かしらの必要を得て、中町譲はこの村のどこかに監禁されているのではなかろうか。
私はこの重大な手がかりとなるピエロを、無くさぬようにと携帯電話に繋いでおいた。たった一つのおそろいを落としてしまうとは、中町譲とはいかなる人間なのか。一方では責任感があると言われていたが、実態は茫洋としている。
すると突然、それが着信を知らせるので、うっかり煙草を落としそうになるほど大仰に驚いた。事務所からであった。
私は周囲にひと気のないことを確認してから、通話を受けた。
「もしもしい。私ですう」
緊張感の欠片もない声音である。
「ああ吉原。どうしたの」
「あのですねえ、依頼人の金子さん、直接朝霧さんと話がしたいんだそうですよ」
「直接って、そりゃ無理だよ。私は今秋田に居るんだから」
「電話で良いんですって。今、来てますから」
「ちょっと待って、そこに居るの?」
「居ますよお。代わりますね」
「ちょっと待って」
と言ったが、すでに吉原美津子は受話器から離れたらしい。
「こんにちは」
事務所との通話ではまるきり馴染みのない声が聞こえてくる。
私は極力動揺を悟られぬよう、
「これはどうも。立花です」
名乗ってから、今吉原美津子は依頼人の前で「朝霧」と呼ばなかったか、と疑問に思ったが、彼女に落胆するだけ無駄なことだと悟る。
金子菜々美はそれに気付いているのかどうか、
「話を聞くのはあなたで、調査するのもあなたなのに、報告はこの子なのね」
「ええ。うちの大事な秘書ですから」金子菜々美には通じるはずのない皮肉である。「ただいま鋭利調査中でしてね。用件がありましたら手短にお願いします」
「譲は、見つかりましたか?」
ここは誤魔化す必要もなかろう。
「今のところはまだですが、感触として、近くまでは来ていると思いますよ」
「そうですか」割合あっさりと返答が来る。「中町病院でしたか、そこにはたどり着いたんですね?」
断定的に問われたので、私は肯定の旨を伝える。
金子菜々美は向こうで、黙った。僅かに吉原美津子と、柊所長の話し声が聞こえるが、内容まではわからない。どうせ大した内容ではなかろうが。
「見つからなければ、引き上げていただいて結構ですよ」
背景の言葉に耳を傾けていたため、思わず聞き逃しそうになった。
「引き上げる? 依頼を取り下げるということですか?」
「ええ。今日明日のうちに見つからなければ、帰っていただいて結構です」
「それはまたどうして?」
金子菜々美は間断なく返答を寄越す。
まるで用意していたみたいに、と思うのは、私が穿ちすぎだろうか。
「どうしてもこうしてもありません。お金の問題です」
「お金の問題? 我が事務所はさほど多額の請求をしてはいないと思いますが」
「それにしても、です。結婚費用と思い貯めていたお金はもうそろそろ底を尽きそうです。譲が見つからなければ、もう私は諦める心積もりでおります」
日割りにしても、五万弱を三日分程度しか頂戴していないはずだが。
だが私はそこには突っ込まなかった。
「わかりました。それでは、今日明日の二日のみ、調査を続けます。その結果如何を問わず、そこで打ち切りとさせていただきます。成果に関わらず報酬は頂きますが、構いませんか」
「そういう契約ですから。結構ですよ」
「話はそれだけですか?」
「ええ。今、あなたがどこでどのようにしているのか、声を聞いて確かめたかっただけです。お金の無い中、実は調査が為されていないとなったら、訴えるつもりでした」
金子菜々美は小さく笑ったが、私はそれを無視する。
「わかりました。それでは追って、また秘書のほうから連絡を差し上げます」
「よろしくお願いします。それでは、失礼します」
空気の擦れる音がした後、今度は柊所長の声がした。
「ということだそうで。無理はしなくて結構だよ」
「ということ、と言われても、腑に落ちません」
柊所長は音が割れて伝わるほど、向こうで笑った。
「依頼人とは気まぐれなものだよ。いやいや、人間誰しも気まぐれなものなのさ。結婚を約束した恋人が失踪し、警察には簡単にあしらわれ、最後の砦の探偵気取りも金をふんだくるばかりで大した報告も寄越さない。もしかして婚約者は何かの拍子に嫌気が差して連絡を絶っただけかもしれない、そう思い直して、というよりも思い込むことにして、新しく人生を歩む決心がついた、ということだな」
私は講釈を無視し、
「依頼人は?」
「もう帰ったよ。さすがの僕も本人の前でこんなことは言わないよ」またしても豪快に笑う。さぞかし腹が揺れていることだろう。「さて、そんな冗談はそこそこに、実際どうなんだい。見つかりそうかね」
「感触は確かにあります。依頼人とおそろいのストラップを、件の病院で拾いました。中町譲が廃墟を訪れたところまでは確かなものだと思われます」
「ふうん。それで?」
「依頼人から頂いた写真を元に聞き込みを行いましたが、結果は誰も知らないという一点張りです」
「へえ。そりゃまた、キナ臭いね」
「ええ。私もそう思って、今再度病院を訪れて、ほかに手がかりがないか探していたところです」
「ありそうかい」
「いや、見たところ、もうここにはこれと言ったヒントは残されていないと思います。もっとも、ストラップを発見できたことは本当に運が良かったと思いますが」
「ふうん。そうだね」
柊所長はそれだけ言うと、少しの間黙った。
発言がないので、私は報告を続ける。
「今のところ、ストラップを拾ったことは、村人には話していません。彼らは、ここに中町譲が訪れたという確たる証拠を私が握っていることを、知りません」
「揺さぶってみるか」
「私もそれが手っ取り早いと思います」
「どの時点からかはわからないが、中町譲がそこへ行き、村人によってどこかで隔離されているのだとしたら、手を打つのは早いほうがいい。指きり村なんて物騒な名前がついているところだ。覚悟はしたほうがいいね」
「ええ……」私は根元まで存分に味わった煙草を、靴底で踏み潰す。「依頼人は、指きり村に関して、本当に何の知識もないのでしょうか?」
「どういうこと?」
「いや、どうということでもないのですが。先ほどの応対が、妙にあっさりとしすぎていたように感じて」
「我々のほうから、指きり村というワードを彼女に知らしめているからね。気になって検索をしてみたら随分お粗末な都市伝説が出てきてが、恋人が帰ってこないことは真実だからと、すっかりそれを信じてしまったのかもしれない。いや、そんな阿呆な子でもなさそうか」
「そうですね。私の印象も同様です。彼女は最初から、妙に冷静だったように思われます。結婚を前にした恋人が居なくなって、ああも淡々としていられるでしょうか」
「その辺りは人間性も関わってくるところだから、一概になんとも申すことは出来ないな。ただ、何かあるような気がする、という漠然とした感想は、僕も持ってるよ」
病院を後にし、私は鶴婆の家へと戻った。たとえ言い争おうと、今のところ私にはここ以外帰る場所がない。荷物も置きっぱなしだ。
鶴婆はすでに帰宅していた。私が戸を開いた音を聞きつけると、そろそろと居間のほうから顔を出した。
私はまず、先ほどの非礼を詫びた。彼女は笑みを貼り付け、いいのよいいのよ、と言った。
掘りごたつで暖を取りながら、鶴婆は次のような話を始めた。
「あんたは、私ら村人の指が、必ずどこか欠損していることを、不思議に思うだろ。でもこれは、もちろん事故や怪我などではなくて、私らにとって、とても大切な意味を持つものなんだ。だから、恐れんで欲しい。私らは、あんたを取って喰おうなんて思っておらん」
私はなぜ鶴婆がこのような話を始めたのか、疑問に思う以外なかった。
「ここが指きり村と呼ばれているのは、一体どのような理由からなのですか?」
鶴婆はひとつこちらに視線を寄越したが、その後はじっと、こたつの上で組んだ両手に視線を注いでいる。
「聞いたところで、あんたに得はないよ」
「約束に執着する、という話を聞きましたが。指きりげんまん嘘吐いたら針千本飲ます、というあの歌と、何か関係があるんですか?」
「どうだかね」
「話したくないと?」
「話したところで、あんたも信じやせん。理解も出来んだろ」
私は鶴婆の何気ないこの一言に、違和感を覚えた。
「最近、誰かにその話をしたのではないですか?」
言うと、鶴婆はじっと私の目を見た。
私はそれをまっすぐに受けながら、呼吸を鎮め、追い討ちを掛ける。
「それは、私が見せた写真の、あの男性ではありませんか?」
鶴婆はしばらく何も言わなかった。
私たちは睨みあったまま、時間を浪費する。
「あんたはお釈迦様を信じるか」
「お釈迦様、ですか?」私は話題の変異に、頭を追いつかせることが出来ない。「何を突然」
「私らはみんな、信じてる。そして同時に、嘘を信じるしか潰すことの出来ない茫漠とした退屈を、抱えとる」
「何の話をしているんですか?」
「私の指は、夫との契りの際、切り取った」鶴婆はすぐに話題を変える。「痛くもかゆくもなかった。夫は私の指を持って、死んでった」そして私を見る。「立花さん。余計なことはどうか、しないでほしい。私らはその写真の男は知らん。引き止めてしまったのに申し訳ないが、出来れば、もう帰ってほしい」
「どういうことですか」
「あんたは若い。まだなんとでもなる。ここで私らの話を聞いて、大人しく帰れはせん。この話をしてしまうと、私らもさっさと帰すわけにはいかなくなる。どうかわかってくれ。わかってくれ」
鶴婆は何度もそうして頭を下げたが、私に、わかることはひとつもなかった。
困惑し、彼女をなだめていると、戸を叩く音が聞こえた。こちらの返事を待たず、それは開かれ、どかどかと足音がしたかと思うと、石狩村長が眼前に現れた。
「やああんた、まだ居ったか。あの後わしらで話しての、思い出したで。その男、確かに来おった。話したいもんで、今からわしの家においでなさい」
「どうか、この子は連れていかんでくれ」
悲痛な叫びが漏れたが、石狩村長は逆に笑った。
「何を言っとる、鶴さんが良くした人じゃ。なあにも心配せんでええとも。さあさあ、あんた、付いておいで」
石狩村長と鶴婆の板ばさみに遭っていたが、ふいにポケットから携帯電話が落ちると、それに驚きでもしたのか、鶴婆が私の手を離した。
急激に片方からの力が抜けたので、私は石狩村長のほうへ、ずるずると為されるがまま、引きずられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます