訪問
Uターンを終え走り去っていくタクシーを見送ってから、私は携帯電話を取り出して柊所長へ電話を掛ける。今はまだ空も明るく、再放送までも時間にゆとりがある。しかし、携帯にはつながらなかった。仕方なく事務所に掛けると、吉原美津子が出た。
「柊探偵事務所ですけどお」
「ああ吉原、私だ。君、その応対はやめたほうがいい」
「そんなことを言うのは、朝霧さん?」
「所長は?」
「今は出てますねえ。戻るのは四時前の予定ですね、ぎりぎりです」
「そっか。わかった、じゃあいいや。所長が戻ったら、とりあえず村の近くまでは着いたって伝えておいて。どうやら運良くここで正解のようだね。中町さんは村のほうに向かったらしいから、私も足取りを追ってみると」
「はあい」
通話を終えると、携帯電話をポケットにねじ込む。
途中まではある程度補整された道だったが、半時間ほど歩くとすぐに道らしいものがなくなった。人が踏み均し、自然に草木が生えなくなったスペースを、村への順路と信じて歩みを進める。
私は歩きながら、以前柊所長と将棋を指していたときの会話を思い出していた。
その頃私はまだ探偵助手としての日が浅く、毎日一局は将棋を指す猶予のある事務所に対して不安感を持っていた。今よりはきびきびしていたとは言え根本から変わっている訳ではないので、柊所長は基本的にのんべんだらりとした人間であった。
「歩って、私は扱いづらくて嫌いですね」
人間というものは暇があれば無駄口を叩きたくなる生き物である。私は盤上で、歩のせいで進攻出来ないで居る局面を、拡大に批判した。
「いかんなあ、朝霧くん。探偵なんて職業は、歩に似たものだよ」
有利な状況にある柊所長は、四口目のピースを吸ってそう言った。
私は可もなく不可もない、半端な手を打った。
「どういう意味ですか」
灰皿に煙草を押し付けると、柊所長は次のピースを叩き始める。
「一歩一歩敵の攻撃を避けて進めば、金にも成れる。最終的には王手を決めることも出来る。一見地味だが、大きな仕事をこなせたりもするんだよ」
私は眼前の男に感心していた。ピースを四口で捨てる無駄を極めた男が、こんなことを言うのかと。
――私は今、歩だ。一歩一歩目的に向かい歩いている。
そう思えば、多少はがんばれそうだ。
何事もひとつひとつ小さなことが大事になるものだ。
と言いつつ頭では、余計なことも思い出していた。
続いて、柊所長は二本目のピースを咥え火をつけると大きく吸ってから、
「まあ僕は、桂馬とか、金とかの方が好きだけどね。歩なんて捨て駒だよ」
と笑ったのだ。
あっという間に夜になっていた。あたりは暗く、ともすれば遭難しそうな気配もある。東京の暖気に慣れていると、夜の山は寒くてならない。慌ててこしらえた備品の中に羽織るものなどは入っていなかった。
夜行バスで眠ったとは言え、ああいった環境での睡眠はあってないようなものだ。夜気は確実に私の身体を蝕み始め、意識は朦朧とし、身体が言うことを聞かなくなり始める。一体何時間歩いているのだろう。
私は一度寝袋を広げて包まった。無理は良くない。一時の休息をとる。
すると、携帯電話が鳴った。柊所長からのコールである。
「もしもし」
「どうしたの、声震わせちゃって。寒いの? 馬鹿だねえ」
ひどい言い草だ。
「急でしたからね。ろくに天気予報も調べませんでした。寒いです」
「まだ着いてないのかい?」
「ええ。道を見失ったかもしれません」
「うんざりした声だねえ。まっすぐ行けばいいんだよ。もしかしてもう、歩きつかれて、飽きたかい」
「所長、寒いです」
「うん。まだ意識ははっきりしているようだね。僕も指きり村について少し調べてみたよ。再放送見ずに」
柊所長が煙草に火をつける音が電話越しに聞こえる。
「そりゃどうも」
「四時前に歩き始めたんだったら、もう三時間半くらいは歩いているのか。道があっていれば、あと半時間くらい歩いたら見えてくるはずだよ」煙を吐く間がある。「いやあしかし、最近は何でも調べたら出てくるんだから、便利だよねえ。そのうち浮気相手とかもインターネットで簡単に検索できるようになるんじゃない? そしたら我々、廃業だけど」
「そんなことにはならないですよ。人間はハイテクの中にあってもハイテク自身にはなれませんから。不合理なことをするから、合理的なテクノロジーには屈服しません」私は寝袋から這い出て身体を起こした。「さて、休憩は終わりです。じゃあもう少し、がんばってみますよ」
「うむ。まさか人一人探すのに、こんな手間が掛かるなんてねえ。僕も探偵稼業を始めて長くなるけど、初めてだよ。もしかしたら今回はイレギュラーなことが起こるかもしれない。そんな気もしてくるね」
「それでも私がすることは、中町譲を見つけたか見つけられなかったか、それを金子菜々美に報告するだけです」
「さすが朝霧くんだ。優秀ここに極まり」
「じゃ、そろそろ本当に」
切ろうとしたとき、
「この先、電話が通じるかわからない。何かあったらすぐに引き返しなさい。依頼人は大事だが、それより僕には所員が大事だから。そんじゃ」
柊所長はそう言って、一方的に通話が切られた。
私は寝袋をキャリーケースに押し込むと、歩みを再開する。
目的地に着いたときには、八時半前になっていた。あと半時間なんて、嘘八百である。ただしキャリーケースを引きずっていたという付加を思えば、妥当なところかもしれない。
点々と平屋の木造家屋に灯りが点っているのが窺える。外に人の気配はない。噂の中町病院は、高台の上にあるようで、建物の輪郭がぼんやりと見えた。
私は手近な家の戸をノックする。派手な音が山に響く。そんな気がした。
「すみません。私、立花と申す者です。開けていただけますか」言ってみたが返答がないので、今度はもう少し声を張る。「すみません」
「はいよはいよ。大声出さんでも聞こえとるよ」
老婆が一人出てきた。
私の顔を見ると、ぎょっと驚いたように目を見開いた。若い人間が訪れることなどほとんどないのか、もしくはこのくらいの歳の見知った誰かと勘違いしたのかも知れない。
「どうしたの、こんなところに一人で」
「いやはや、道に迷ってしまいまして。面目ない」
「迷い込むようなところじゃないだろうに」
「その辺は、色々事情が複雑なんです」
「まあええわ。寒かろう寒かろう、とにかくお上がんなさい」
老婆はしわがれた手を振り、私を招いた。
私はその歓迎に、反応を示せなかった。
それよりも彼女の手に、視線が釘付けになってしまっていたのだ。
指きり村。
なるほどこういうことか。
老婆の左手には、小指がなかった。
老婆は私の視線がそちらに向いているのがわかったのか、一瞬、私の顔を覗き込むように見た。そしてゆっくりと、全身を嘗め回すように眺めた。
だが次には、優しい声を出し、
「さあさ、お上がんなさい」
私の手をとり、家の中へ連れ込むのだ。
冷静を装い、私は感謝の意を伝え、靴を脱いだ。靴脱ぎから廊下が伸びており、左右にふすまで仕切られた部屋があるらしい。私はその向かって左側にある居間へ通された。中央には掘りごたつが鎮座し、それを囲むように桐箪笥やテレビが置かれている。全てが手の届く範囲にある、老婆の城なのだろう。
私は勧められてこたつの中に足を入れた。場違いにも生き返る心地が全身を支配する。思えば最初から彼女に敵意はない。私が無駄な空想を広げたに過ぎない。そう、思うことにして、いっそのこと寛ぐことを憚らない。
老婆は半纏を私の肩に掛けると、自身もこたつの中に足を入れた。バラエティを流していたテレビを切ると、こちらにみかんを差し出してくる。
「それでどうしたの、こんなところに」
そして再度問いかけを繰り返す。
私はまごまごしながら、
「道に迷ってしまって」
と同じようにして解答を繰り出した。
「こっちのほうに、若い子が好んで来るような場所はなあんもないよ」小指の欠損した手を使い、みかんの皮をむいている。「本当に迷ったの? 引き返しもせず?」
「ええ」私は、どのようにはぐらかすか、頭をめぐらせる。「いや、実は、この近くにある中町病院という廃墟に訪れてみたくて」
「どうして?」
「廃墟が好きなんです」
老婆はちらりと荷物に目をやると、
「カメラも持たずに?」
鋭いことを言う。
私は内心慌てて、
「ええ。最近は携帯に内蔵されているカメラも高性能ですから……」
苦しい言い訳かと思ったが、老婆はそれ以上その件に関して詮索しなかった。
「泊まるところは決めてあったの?」
「ええ、駅の近くのホテルを予約していました」
「駅ったって、ここからじゃ遠いべ」
「まさかこんなに山を登るとは思っていなくて」と言ってから自分の言葉の穴に気付いて急いで埋める。「まあ、すっかり迷ってしまって中町病院にはたどり着けなかったみたいですけど」
「中町病院なら、すぐそこだよ。高台のところにある。見えなかったか?」
しわがれた声は緩慢で、責め立てるような調子ではない。
「本当ですか? 気付かなかった」
「まあ無事目的地に着いていたってことさね」老婆は笑う。「みかんお食べ」
「ええ、いただきます」
私は素直に受け取り、皮をむく。
「それにしたって、どうするの? これから降りたんじゃ、すっかり深夜だよ」
「考えていませんでした。どうしましょう」
「泊まってくか?」
「いえいえ、みかんを頂戴しただけで十分ですよ」
「そんなこと言ったって、泊まるところなんてなあんもないよ。帰られないんだから、泊まって行きなさいよ。私の家に来たのも、何かの縁さ」
「ええ、そう仰っていただけるなら嬉しいんですけど……。場所もわかったので日を改めようかと思います」
「だから、危ないって。これから山を降りるのは」
「ええ……」さて、すっかり老婆のペースである。「そうですよね……」
「これから雨も降り出すかもしれん。遠慮しないで泊まってお行き」
にこりと笑って私の手を握る老婆の左手から、私は目を離せなかった。
老婆は高橋鶴と名乗った。私は訪問したときと同様、立花優という偽名を伝える。
左手小指の欠損が目に付く以外、鶴婆は非常に人情味に溢れたいい人間だった。みかんどころかお風呂や食事まで頂いて、私はすっかり旅人気分に浸っていた。
外に出て煙草を吸いながら、携帯電話で柊所長を呼び出す。幸いにも電波は無事に通じるようだ。時刻は十時半ごろだったが、柊所長はすぐに電話に出た。
「無事に到着しましたよ」
「おお朝霧くんか。心配したよ」電話の奥でぱちりぱちりと音が鳴っているのを聞く限り、詰め将棋でもしていたらしい。心配の仕方は人それぞれだ。「どうだい、手がかりはありそうか」
「いや、どうですかね。とりあえず今は村人の家に厄介になってます。外で電話を掛けていますが、辺りはほかに物音ひとつしません。家は二十軒ほど。間隔も都会のようにそう狭くないので、話し声は届かないと思います」
「病院は?」
「ありました。高台にあるので、なかなかの存在感ですよ。まだ立ち入っては居ません」
「村人の家に、と言ったけど、中町譲については?」
「それもまだです。私は一応、病院に興味があってやってきた廃墟マニアってことになっています」
「まあいきなり核心を突くのは賢くないからね。ひとまず身体を休めて、ゆっくり調査してくださいな」
「はい。今日はこのまま何も知らない人間を装っておきます。周囲の様子もいまいちわかりませんから。明日、明るいうちに聞いてみますよ」
「よろしく頼むよ。依頼人は、見つけてくれれば金は弾むと言っている」煙草を吹かす間があった。「でも、見つからなくても構わんよ。僕には無駄に人を雇う程度には金がある。そういう意味じゃ、道楽だから。損得勘定はしなくていい」
「本心ではないですね」
すぐに言ったが、柊所長は楽しそうに聞いてくる。
「どうして?」
「金に執着していないならば、この会話自体なくて良いからです」
「はっは、さすが朝霧くん。鋭いね」調子のよさを聞く限り、見破られることは承知だったらしい。「僕が四時の再放送をきっちり見れるよう、精々働いておくれ。ま、安全第一でね」
「わかってますよ。それじゃあ、余り長電話をしていては怪しまれますから。随時報告は行います。また明日」
「はいよ、おやすみなさい」
通話を終える。
まさしく森閑とした村の中に、何かの囀りが響く。
私は居間に戻り、図々しくも当たり前のように掘りごたつに足を放ると鶴婆を見たが、彼女のほうもそんな私の横柄な態度を気にするそぶりも無く報道番組を眺めながらみかんを頬張っていた。
テレビの中では都内で起きた主婦殺人事件のニュースが流れている。
「怖いですね」
私は何気なく、鶴婆の表情を観察しながら話しかけた。
鶴婆はみかんを貪る手を止めずに、
「怖いことなんてないよ。毎日誰かは死んでいる。当たり前にね。みいんな誰かの夫で、妻で、親で、子どもで、友達なんだ。でも、こうして窓越しに眺めると、自分ばかりは無関係なんだと思ってしまう。違うのにね。みんな同じようにして、同じ可能性を持っている」
訥々と呟いた。
私は余りの表情の変化の無さに驚きながらも、
「鶴さんは、旦那さんは」
視界に入った遺影から、その話題を切り出した。
鶴婆はそれでも表情を変えず、視線もテレビに向けたままである。
「とうの昔に死んじまったよ。戦争で、特攻した。若い人にはフィクションみたいな話だろうけど、本当に、呆気なく。契るとき、私より先には死なんとも約束しとったんだけどね」
約束。
それが私の胸にずんと重くのしかかる。
小指が欠損しているのは、約束のせいなのか?
「あんたは、結婚は?」
ふいに質問を返された。
「していません。今のところは」
「そうかい」存外、返答自体には興味がなさそうだった。「若い時分に相手もらっといたほうが良いよ。老いるというのは、悲しいもんだ。そういうときに一人で着々と、死ぬ準備をするって言うのは、辛いもんだよ。時間も限られている。長く一緒にいたいなら、なおさらね」
「ええ、頭に入れておきます」
「最近の若い人は、年寄りの言うことなんてなあんも聞かん。その点あんたはいい子だね。話も聞くし、丁寧だ」
「いえいえ」私は事務所でいつも柊所長から「結論を急くな」と言われていることを思い出して、微笑んだ。「変な言い回しですが、十分に未熟者ですよ、私も」
鶴婆はそれから、自分と夫との馴れ初めなどを、ぽつぽつと、淡々と語ってくれた。彼女の幼馴染であったという夫は、野心家で、愛国心が強い、立派な男だったという。今は右を見ても左を見ても存在しない人種である。
寝る段階になって、鶴婆は自身の布団の横へ私の分を敷いてくれたが、私はこれを遠慮した。
「掘りごたつで十分ですよ。馴染みがないから、こういうところで寝られるのがかえって嬉しいです」
「そうかい? 別に気にせんでいいんだよ。襲ったりなんかしないんだから」
鶴婆は笑ったが、私が懸念しているのはまさしくその部分だった。
昔気質の人間は何かと世話を焼いてくれるが、私はここへ旅行で来ているわけではない。タクシー運転手の話から、中町譲は確かにこの村へ訪れ、そして帰っていないのだ。襲うと襲わないと、そういう文句が、今の私には冗談には聞こえなかった。
掘りごたつに足を放り、横になってこたつ布団を肩まで掛けたが、眠気はやってこない。長すぎる散歩ですっかり身体は疲弊していたが、妙な緊張感が張り詰めていて、休まろうという意識に変換されない。
中町病院は確かにここに存在し、そして中町譲もここへ訪れたらしい。
これはまさしく運が味方したと言ってよかろう。
明日からが本格的な調査の開始となる。
私は頭の中で、柊所長の言葉を反芻していた。
「何かあったらすぐに引き返しなさい。依頼人は大事だが、それより僕には所員が大事だから」
何もないことを、祈るばかりだ。
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