調査

 金子菜々美の訪問の翌日には、彼女からさらに有力な情報がひとつ、もたらされた。中町譲は以前に「秋田に行ってみたい」と口走っていたことがあるというのだ。

 私はこの情報を手元に、中町譲の職場を訪れ、同僚の一人を捕まえると喫茶店へ連れ込んだ。「失踪中と見られる中町譲さんについてなのですが」と一言添えると、的場裕次郎という同僚の男は、好奇心に光る瞳を恥じることなく付いて来た。

 届いたホットココアに息を吹きかけ、恐る恐る口をつけているあたり、猫舌であることが窺える。同類だ。損得で考えれば、これは損の部類だろう。

 私は彼があくせくしながらココアを飲むのを待ってから、早速本題へと移る。

「中町さんは、職場ではどのような方でしたか?」

 的場はココアの熱さに顔をしかめながら、ペーパーを一枚抜き取って口を拭うと、

「中町はいいやつだったよ」

 軽薄そうに大声で言った。

 私は声のトーンを下げるよう手振りで示す。

 その意味に気付いた的場は周囲を見回し、照れ笑いを浮かべると、

「こういうの初めてで」

 顔を赤くしながら呟いた。

 刑事ドラマの見すぎだろう。最も、私は刑事ではないが。

 中町譲が勤めているのは、大手のシネコンであった。フリーターからマネージャー職、すなわち正社員に上がったばかりで、仕事の能率は決してよくないが、仕事熱心であったという。

「もともとは映写関係の部署に居てね。今はデジタル化が進んでフィルムを扱うことなんかはもうほとんどないんだけど、彼はフィルムの頃から居たから、かれこれ十年くらいは勤続してるのかな。確か高校卒業間近から始めたとか言ってたと思うし。あ、俺は中町より二年くらい後に入ったんだけど、同じ高卒組だったから良く話したんです」敬語とラフな口調が入り交じり、話し慣れていないことがわかる。「映写ってセクションはフィルム時代から人数少なめでさ。映写室に居るのは二人が基本で、時には一人で全体の面倒を見ることなんかもあったから、責任感は強かったと思います。それこそフィルムなんて傷をつけたら終わりだしね。俺はチケット売り場のほうを担当してからマネージャーに上がったんですけど、フリーター時代も、今も、映写関連はほとんど教えてもらわないから、バイトだろうがパートだろうが、何か起きたとき映像関係を対応するのは映写の人間になるんだ。だから常にトラブルのことを視野に入れていたり、異変を察知するために神経を尖らせたり。傍から見ても中町は、その中でも群を抜いて真面目なやつだったよ」

 ひとまず彼は自分のフィールドについて語ることで落ち着きたかったらしいが、私は容赦しない。

「的場さんはそれでは、中町さんが失踪することに関して何か心当たりなどは?」

「ないなあ。職場では確かに怒られっ放しだったけど、弱音は漏らしてなかったよ。彼女の、金子さんでしたっけ? うまく行ってるって聞いていたし。結婚するんじゃなかったかな」

「ええ、そうみたいですね」

「安月給なのに無理するなあと思いもするけど、俺なんかは独り身だから、どちらかというと素直に羨ましいなあって思ってる。幸せの絶頂なんじゃないかなと思うし、とてもとても、逃げ出すようには」

 私はアイスコーヒーに口を付け、話題を変える。

「二週間も無断欠勤していると、職場の状況はどうです?」

「ええっと……」彼はその転換に必死についてこようと頭をめぐらせているらしい。「一応、初めの一週間はもともと有給申請が出ていたから、無断欠勤になっていないんだ。つまり、ダメージはないね。でも残りの一週間は完全に無断だから、困ってる。本来なら首が飛ぶことなんだろうけど、何せ連絡も取れないし、とりあえずはそのまま有給消化ということにしておいて、籍は置いたままになってるよ」

「寛大な措置ですね」

「今はどこも人が足りないからねえ。使えないやつでも、帰ってこないやつでも、とりあえず籍だけは置いておきたいのが現状ですよ。支配人とか、本社の人は御冠だけどね。俺はその使えないやつなもんだから、たまにこっちにも飛び火する」

 的場裕次郎は笑ったが、私は後半には触れなかった。

「それが普通だと思いますよ」

「うん。俺もそう思うよ」すぐに真顔に戻り、「でももともと研修期間だったからシフトの調整は少しで済んだんだ。それが大きな要因だったかもね。有給も確かに残っていたし。事後申請は本来駄目なんだけど、特別措置ですね。やっぱり辞められちゃうと、困るから」

 ココアで間を取る。

 時計を気にしているのは、休憩時間を割いて出てきてもらっているため、仕方ないことだろう。私は簡潔に済ませるために、早くも核心に迫る。

「そういったこと、つまり人員不足が彼にとってプレッシャーになっていたとは? 仕事量も当然増えたでしょうし」

「それはないと思いますよ。さっきも言ったけど、責任感は強いやつですから。本当は一週間有給使うなんて、辞めるとき以外ありえませんけど、そのあたりは、ほかのマネージャーが勧めたんです。結婚前、マネージャーの研修もそろそろ終わるから、ゆっくり休みを取っておいでよって。ただ、一人旅だとは聞いていなかったし、こんなに長くなるなんて、思ってもいなかったなあ」

 私は的場のほうを向いたが、顔はいたって真面目で、話していることは本心のように思われる。このような単純な人間がうまく嘘を吐けようはずもない。

 この男は中町譲の失踪には何ら関わりが無いなと判断する。

「そうですか。それでは的場さんは、彼の行き先についてどこか心当たりはありますか?」

「これといってないね」

「秋田に行きたい、と恋人のほうへ漏らしていたそうですが、それを聞いても?」

「初耳だよ。秋田だったら俺の母方の実家があるから、案内してやったのになあ」

 的場が時計を見たので、私は礼をひとつ言って伝票を取った。

 店を出ると再度礼を言い、頭を下げる。

「何とか探してくださいね。みんな心配しているんです。本当に、変な事件に巻き込まれていないといいけどなあ……」


 今のところ収穫らしいものも、当てもない。秋田に行きたいという呟きが、果たしてイコール目的地であると安直にものを考えていいものか。

 事務所の自分にあてがわれた回転椅子に腰を下ろし、吉原美津子の出した濃いインスタントコーヒーを啜り、ノートパソコンのキーボードを叩いて「秋田 廃墟」で検索を掛けてみる。一番目に「廃墟一覧」というページが出現したので開いてみると、名前と、星の数で表現したお勧め度、住所などがその名のとおり一覧になっている。これらを上から虱潰しに当たってみるしかないのだろうか。

 スクロールしていくと、「中町病院」というワードが目を引いた。いやいや、と自分でも思ったが、ここはいっそ安直を極めてみたほうがいいかもしれない。住所をコピーし、それを検索してみると、地図が表示される。秋田の山奥に矢印が立った。村の名前は出てこない。

 いやいや。

「秋田かあ。ちょうど今友人が行ってたかな。都合がいいや」

 振り返ると柊所長が腹を撫でながら立っていた。ラーメンに餃子でも食べてきたのか、にんにくの臭いが仄かに香ってくる。

「地図に載らない村ねえ」

「病院があったってことは少なからず集落はあったんでしょう」

「写真はないの?」

「ここに関してはありませんでしたね。検索してみます」

「中町病院」と打ち込んでみたが、出てくるのは今も立派に開いている病院のものばかりで、廃墟に該当するようなものはない。

「中町さんは関係なく、怪しげなところですね」

「村の名前が出ず、病院の写真も出ない。ただ、評判としてはネット上で存在するわけか。廃墟好きなら、そそられるものでもあるんじゃないのかな。僕はオカルトも廃墟も興味ないけど。怖いから」

 豪快に笑う。

「でも所長、幽霊は信じているんじゃなかったでしたっけ?」

「ああ、信じてるよ」

 きっぱりと言い切る。

「興味ないのに?」

 それこそ興味が無かったが聞いてみると、柊所長はにんまりしたまま、

「だってさ、幽霊を信じていない人間が幽霊を見てしまった場合と、幽霊を信じている人間が幽霊を見てしまった場合、どちらのほうがショックが少ないと思う? 信じているほうが少ないじゃない。つまりさ、嫌なものほど信じたほうが良いんだよ。忌避すべき死とかね。自分もいつかは避けられずに死ぬのだと信じていれば、いざその場面に至ったとしても、ああだこうだと考えず、やっぱりかあという簡素な感想で終わるじゃん。僕もついに死ぬかあってね」

「それで終わるのは所長だけだと思いますけど。というか、そんな理由で根っから信じ込めるのも、所長だけです」

「褒められちゃった」

 呆れて意図せずため息が漏れる。ここに勤め始めてからどれほど息を漏らしただろうか。

「邪魔するなら席に戻ってください。そろそろ再放送の時間ですよ」

「おおっと失礼」

 柊所長がデスクに戻るのを、私はどんな顔で見ていただろう。


「中町病院」のワードで検索を続けるが、思わしいものは出てこない。

 何ページも進んでようやくそれらしい記事を見つけたときには、すでに二時間ほど経っていた。

「秋田の山村 謎の風習」と銘打たれたそのページでは、詳細な住所などはぼかされていたが、「中○病院」というお粗末な表記が確かにあった。

 中町病院があるのは住人三十名程度の小さな集落だという。地図にも存在せず、集落の明確な名称も掲げてはいないが、一部のオカルトマニアの間では「指きり村」と呼ばれているらしいということはわかった。何でもここに住む三十名全ての人間の指が、どこかしら欠損しているというのだ。諸説あるらしいがそれはこの集落の異常なまでの「約束」への執着によるものだと書かれている。

 残念なことにここにも写真などの掲載はなかった。筆者曰く「指きり村を訪れると二度と帰れない」らしく、写真を持ち帰ることが出来ないのだそうだ。実際、オカルト界では価値のあるものらしく、情報を独占掲載したいがために高値で募集しているところもあるという。しかしそれではこの記事は何を根拠に書いたのだろうか、という当然の疑問に対しては「筆者は指きり村へ向かった友人からリアルタイムで情報を得た」と言い訳が用意されている。それなら写真もメールで送れたのではなかろうか。

 などと思っていると、

「怪しいですねえ。いかにもですねえ」

 今度は脇から吉原美津子が覗き込んでいた。

「吉原はこういうの好きなの?」

「好きですよお。頭からすっぽり毛布を被って怖い映像を見るんです」一応、敬語を使ってくれることが、彼女を根底から嫌いになれない理由のひとつだろう。節度はある。最低限度の。「でも聞いたことないですねえ、指きり村は」

「ふうん。本当にオカルト好きな人間のみが知る場所なのか、この話自体、中町病院を利用したただの作り話なのか……。微妙なところだな」

「とりあえず金子さんに聞いてみたらいいんじゃないですか? 中町さんがオカルト好きなのか」

 じゃあと言って、吉原美津子に金子菜々美宛のメール作成を頼むと、たっぷり三十分かけて送信してくれた。何のために指が五本もあるのか。

 やり取りは次のような内容だった。

「中町譲さんはオカルト話のようなものに興味がおありでしたか?」

「幽霊は、彼の希望なんです。全てのものは老い、朽ちていく。それがわかって安心した後、それでも未来を渇望してしまう自分に、幽霊は希望を与えてくれるんです」

「指きり村、という言葉に聞き覚えは?」

「わかりません。ですが、彼は約束を重んじる人間です」

 それを放棄して消えたのはどこの誰だか。

 狂った恋人たちだ。


 翌日には、私は「指きり村」へ向けて行動を始めていた。他に琴線に触れるものがなかったからだ。

 まずは秋田まで向かう経路の検索。東京から秋田まで、夜行バスを使えと柊所長から指示が出た。もちろん、安いからである。ちょうど今日の便が今月の最安値らしいので、予約をしておく。

「駅からはタクシーを使っても良いよ。一応中町病院の所在地はわかるんでしょ?」

「ええ。一応。でも、割高じゃないですか?」

「お金なんて気にするなよ、らしくないな」

 これが柊所長という人間であることは、前にも言った。

 早めに事務所を出て、アパートで必要最低限の荷物をまとめる。基本的に調査過程においてもこのように遠出をすることは稀なので、何を用意しておけば良いのか、注意が散漫になってしまい、適当に手近にあったものをキャリーケースに詰め込んでおく。とりあえず下着と服さえあれば何とかなるだろうと思ったが、泊まれるような場所があるのか、そもそも村が本当に存在するのかなどなど不安になって、寝袋だけは何度も確認しておいた。

 東京駅から夜行バスに揺られる。最初のうちは駅近くのホテルの空室状況などを調べていたが、朝まで掛かると思うとひとまず寝ておくのが懸命な判断だ。安い割りにゆったりとした席だったので、堅苦しい思いをせずに眠ることが出来た。

 秋田に到着したが、今回は観光ではない。タクシーを拾い、キャリーケースをトランクに詰めてから、行き先を告げる。

「指きり村というのを、ご存知ですか」

「指きり村?」余り訛りのない運転手で、少しほっとする。「知らんなあ」

「じゃあ、中町病院というのは?」

「ああ、中町病院ならわかるよ。あそこだろ、山奥の、今は廃墟になってる」

「そうです。わかるなら何よりです」

「いやあこの間、あそこの近くまであんたくらいの歳の男の人を乗せてったからさ」

 ウインカーを出して走行を始めると運転手は言った。

 思わぬところで魚が釣れそうだ。

 私は動揺を、また、私がその男性を探していることを、今は隠した。

「へえ、そうなんですか」

「あそこ、若い人に人気なところなのか? 特に何もないように思うけどなあ」

「まあ。一部の人間には、ですね」

「廃墟ってことはオカルトかねえ。俺はオカルトは無理だなあ。だってよ、怖いじゃん」

 軽快に笑い声を立てる。

「怖いと思うから怖いんですよ。信じてしまえば、ショックは少ないです」私は笑いながら、適当に柊所長の主張を参考にする。「嫌なことほど信じたほうが良いんですよ。人生、そういうものです」

「変なこと言うねえ。ああでも、この間連れてった人も似たようなこと言ってたな」

「なんて?」

「なんだったかな。本当は怖いけど、自分でそれにふたをするんだ、みたいな感じだったかな」

「自分でふたを……。怖いというのは、幽霊が、でしょうか」

「さあね。なんだか暗い顔をしていたけどねえ。かれこれ三十年くらい運転手やってるけどね、ああいうのは、なんて言うのかね、よくないよ。死ぬんじゃないかねって思ったわ」

「自殺、ですか」

「うん。いろんな人間の顔を見てきたからね。わかるときもあるんだよ。バックミラー越しにさ。オーラって言うのかい、ああいうの、俺は見えないけどさ、こう、いやあな雰囲気をさ、感じるんだよ」

「運転手さんもなかなかオカルトじゃないですか」

「いやあ、俺が相手してるのはいつだって人間だよ。摩訶不思議を乗せて案内してるわけじゃない」

 至って生真面目に答える。

 私は鞄から、金子菜々美の携帯電話のデータから印刷した中町譲の写真を、信号待ちのタイミングで運転手に見せた。

「その、この間乗せた人って、この人ですか」

 運転手は写真を受け取ると一度首を傾げたが、

「うん、確かこの人だったと思うよ。なに、お宅、刑事さん? ……には見えないけど」

 バックミラー越しに顔をじろじろと見られる。

「まあ、似たようなものです」愛想笑いをくれてやる。「ちょっとした用事があってこの人を探しているんですよ」

「それじゃあれか、探偵さんかあ」感慨深げな表情である。「探偵さんって本当に居るんだねえ」

 私はあえて隠す必要もないかと思い、

「居ますよ。暗躍してます」

 笑って答える。

「なかなか面白いね。それで、何を聞きたいの?」

 信号が青になる前に写真を返してもらい、走行を再開した車内で、質問を続ける。

「この方を乗せたときの様子を、もう少し詳細にお願いしたいのですが」

 運転手は唸りながら、首を少し傾げた。

「そうだねえ。もうしばらく前のことだから、余り覚えちゃいないんだけど。印象としてはさっきも言ったように、とにかく暗かったな。でも会話がなかったわけじゃないよ。ご存知のとおり俺、おしゃべりなほうだからさ」

「どのような会話を?」

「行き先を聞いたら中町病院と言われたんで、今は二回目だから覚えているけどそのときは初めて連れて行く場所だったからさ、どの方面か聞いたんだよ。もともと俺はこの辺の人間じゃないからさ、まだまだ疎くてね。そしたら詳細な住所をくれたから、かえって怪しく思えてね。何しに行くんだって聞いたら、カメラを掲げて、撮りに行くって」

「撮りに行く、と言ったんですね」

 最初から中町病院を行き先として告げているあたり、中町譲は「指きり村」についての前情報は持っていなかったと思われる。また、目的も確かに廃墟の撮影だったらしい。

「うん。廃墟が好きなんだってさ。俺はああいうところは駄目だから、変なやつもいるもんだなと思って。どうしてだって聞いたら、安心するって言うんだな」

 主義も一貫している。精神は正常であったということだろう。

「なるほど」

「しかし東京からわざわざこっちに来て廃墟を撮るなんてなかなかの熱心さだからさ、どうして中町病院に行くんだって聞いたら」

「俺と同じ名前だから、と?」

 運転手は再度バックミラーでこちらをちらりと見たが、調子は変えずに、

「そう、全くそのとおりに言っていたよ。近々結婚するからこうして遠くへ写真を撮りに来るなんてもう出来ないだろうと思って、最後は少しでも遠く、少しでも自分に縁のあるところにしようって。でもこういう話をしている最中、終始顔が暗いからさ、こりゃあもしかして望まない縁談だったのかなと思ってね。それで、自殺するんじゃないかって。廃墟なんて打ってつけだろ? あんな山奥、誰も近寄らんし」

「そうですね」そこに今なお村があるらしい、と言う話は彼には詳細に伝える必要はないだろう。「暗い顔をしている理由については、聞かなかったんですか?」

「聞けないよ。人間誰しも踏み込んじゃいけない領域って言うのはあるからね」

 おしゃべりを自認する運転手でも、最低ラインは守る。

 タクシーは時折足を止めるが、基本的にはスムーズに目的地へ進んでいるようである。とはいえ、中町病院もとい「指きり村」がどこにあるのか、私は正確には把握していない。今現在どの程度近づいているのか、メーターは回転を続けるが、実感には乏しい。

 会話は一時止まった。運転手も、一度行ったとは言え道順をうろ覚えにしか把握していないらしく、周囲を見るのに忙しない。

 私は頭の中で、中町譲が暗い顔をしていた理由について考えてみた。

 ひとつ挙げられるのは、金子菜々美が警察に言われたように、何か結婚に対してナーバスになってしまう部分が存在し、こうして遠出をして撮影に来られることももうない、これきりになってしまうのではと考えていたから、というものだろう。しかし同僚の的場裕次郎曰く、結婚に対しては前向きで、逃げ出すようには思われなかったらしい。職場では隠していたが実際にはナーバスだからこそ安心を求め中町病院へ向かったのかもしれないが、恋人の金子菜々美に憚らないところを見る限り、安心云々は平素からの理念であって、今回ばかりが特別ということではなさそうである。

 それでは次に考えられることは何か。それは、彼自身が「指きり村」の逸話を把握していた場合である。彼は中町病院に対して何か底知れぬ魅力を感じていたが、この逸話を知っていたため、恐れもあった。病院を撮影して居るうちに誰かに見つかったら、どうやら二度と帰ってこられないらしいと、恐れていた。しかしこれも、余り現実的ではない。最初から「指きり村」の存在を知っていたならば、そして恐れていたならば、行くのを諦めるか、最低限馬鹿にされようとも恋人の金子菜々美に自分の行き先とそこに付随する逸話を語っていないのは可笑しい。彼女の弁を信じるならば、彼女は「指きり村」に聞き覚えはないという。

 あるいはそもそも暗い顔なんてしていなかったのでは。そんな考えも浮かんだ。

 運転手は器用にハンドルを回す。

「そろそろ着くよ」

 バックミラー越しに目が合った。

 タクシーが止まったのは、周囲に住宅のない、山のふもとであった。

「悪いね、ここからは歩いてくださいな。車は抜けられないんだ」

「大丈夫です。この道をまっすぐですか」

「うん、そう」私が払ったお金を受け取ると、運転手はにこりと笑った。「ずっとまっすぐ。気をつけていっておいでね」

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