12-3 奇跡
「そこまでだっ!」
魂の奥にあるなにか熱いものが噴出し、
静寂に包まれた聖地に、思ったよりずっと大きく、自分の叫びが響く。周囲だけでなくずっと遠くに立つ人物まで、参列者が一斉にこちらを見たのがわかった。
――くそっ、やるしかないかっ!
もはやこれまでだ。たとえ死神が待っていようが、暴走列車のように結末まで突き進むしかない。フードを脱ぎ去り、顔を晒した。
「サミエル。お前の悪巧みは、ネコネコマタの祖霊が許さないぞ。見ろっ」
一歩踏み出すと、手に高々と王家の珠を掲げた。王家の樹のスポットを浴びて、珠は強い光を放った。琥珀色も今は強い。怒りのように。駆け寄ろうとした警備の兵たちが、その輝きに思わず躊躇するのがわかった。
「あれは……!」
「王家の珠。そんな……姫様が片時も離さず身に着けているはずなのに」
あちこちから叫び声が上がる。
「お前は悪性のガンも同じ、獅子なんとかの虫って奴だ。王家の珠を偽造して王室に潜り込んだんだからな。それどころかお前の親父は神明学園の
自分の声が、まるで他人のように響く。内容などなにも考えていなかったのに、心の底から言葉が湧いてくる。ネコネコマタの祖霊が自分に乗り移ったかのようだ。
聖なる儀式に突然現れたまさかの闖入者に、聖地に混乱が広がった。動揺のざわめきが聞こえる。
「イラくんっ!」
花音の叫びが聞こえた。
「花音っ!」
花音はこちらに駆け寄ろうとしているが、サミエルが離さない。サミエルは怒鳴り声を上げた。
「なにを呆けている、バカ者ども。それでも近衛兵か。王者の成婚を邪魔する狼藉者、ニセの珠を掲げて王家を侮辱する不心得者だぞ。取り押さえなくていい。殺してしまえっ!」
気を取り直した近衛兵が、剣を抜く。その前に陽芽が立った。
「いけませんっ」
手を広げて近衛兵を睨む。
「このお方こそ、お姉様の真なる婚約者。お前たちの王となるべき者ですよっ」
「姫様っ、しかし」
「陽芽様、なぜ……」
「なにをしている。姫は乱心した。すぐに狼藉者の前から引き剥がせ。陽芽の命が危険だぞっ」
サミエルのわめき声に応じ、誰かが陽芽を抱えて駆け去る。その瞬間、近衛隊長と思しき偉丈夫が、一気に間合いを詰めてきた。歯を食いしばっているのに、瞳が妙に冷静だ。プロの凄みを感じた。
――殺される。
悟った。身を捻ってかわそうとしたが、想像以上に速かった。鞘から抜かれた剣の輝きが一瞬見えたと思ったら、もう胸に激痛が走っていた。
なんとか踏ん張って立ち続けようとしたが、無駄だった。なすすべもなく、崩折れる。王家の珠が転がり、悲しげに乾いた音を立てた。痛さのあまり、硬直したように体が動かない。遠ざかる意識に、花音の絶叫がかろうじて届いた。
「伊羅将っ」
なにかが凄まじい勢いで駆け込むと、自分を横抱きにして脇に跳んだ。リンだ。
「しっかりしろ、伊羅将」
「……へい……き」
強く突かれ息が詰まりながらも、かろうじて笑顔を作ってみせた。痛みは激しいが、身体を貫かれた感覚はない。少なくとも、激しい出血はない。
リンに手早く体を探られた。胸に傷はなかった。突かれた箇所が青く内出血しているだけだ。胸ポケットからは、破れた布地と、血の色の石が出てきた。割れかけている。
「これは……」
「お守りさ。……吉野さんの言ったとおりだった」
「吉野?」
「それよりリン、お前、なんて格好だ……」
リンは服をすべて脱ぎ去っていた。その肌は尋常ではない。全身にふさふさした毛が生えていた。
「ふふっ惚れ直したろ。……殺されるなよ、伊羅将。姫様が悲しむし……あたしも」
「大丈夫、伊羅将くんは私が護るから」
レイリィがリンに微笑みかけた。
「頼むぞ。伊羅将を姫様のところに……」
立ち上がると、リンは近衛兵に向き直った。
「お、お前……」
「その柄はナ、ナベシマ……」
近衛兵が、じりじり後退した。隊長らしき男だけは、抜剣したまま、リンの隙を探っている。
「やる気なら相手になるぜ。ナベシマは、猫又一の戦闘部族だ。あたしだってその血を引いているからな。命の要らない奴からかかってこい。近衛隊長、お前からか?」
天を仰ぎ、獣のような太い吠え声を上げた。
「隊長、ここは俺が――」
近衛隊長を押しのけて、大きな猫又が現れた。二メートルを超える巨大な体躯。太い腕。
「お前……」
落ち着いた声で、リンに話しかける。
「お前の部族は、人類殲滅派のはず。その主張に理解を示す婿殿に、なぜ反旗を翻す」
「知るか、そんなの」
リンは大声で笑った。
「そういうややこしい理屈は、あたしにはよくわからない。伊羅将の願いを、あたしは叶えるだけだ。……仕方ないじゃないか。好きになっちゃったんだから」
「そうか……。女だからか」
唇を曲げて、闘鑼は笑みを浮かべた。
「俺は戦いが好きだ。同じ魂を持つナベシマには、共感を抱いている。殺したくない。ここは引いて、狼藉者を俺に渡せ」
「やなこった。そっちこそ、どうすんのさ。やんのかやらないのか」
残念そうに、闘鑼は首を傾げた。
「なら選択の余地はない。死んでもらうか」
闘鑼が飛びかかった。リンは飛び退き、闘鑼の気を引いて陽動する。
「伊羅将くん。行ける? 花音ちゃんのとこまで」
レイリィに支えられ、伊羅将はようやく立ち上がった。リンが時間を稼いでくれたおかげで、なんとか体が動かせるようになっている。呼吸と共に胸が痛む。肋骨にヒビくらいは入ったのかもしれない。でもこれくらい、花音の苦悶と比べれば、なんということもない。頷いてみせると、レイリィは微笑んだ。
「それでこそ私の契約者だわ」
ふたりの前に近衛兵が立ち塞がった。剣を構え、殺気を発している。
「あーもう。野暮だなあ、ネコネコマタは」
レイリィは溜息を漏らした。
「始めるしかないかっ。どうなっても知らないよ、私を怒らせると」
手を上げると、レイリィの周囲に突風が巻き起こる。それが止むとツアーTもデニムも破れ去って、奇妙な衣服があらわになった。艶のある白い糸を撚り合わせたしめ縄を、ビキニのように素肌に巻いているのだ。
胸も腰も六尺褌のような形。しめ縄同様、白くてギザギザの
「貴様、ニンゲンではないなっ!」
「妖怪、名を名乗れっ」
剣を構えたまま、近衛兵はレイリィを睨んでいる。
「あーあ、やだやだ。ネコネコマタって、馬鹿すぎ。自分が滅ぼした相手の姿、たった百五十年で忘れるなんて。ネコ頭のおばかさん、ひい爺様に聞いてないわけ?」
レイリィは腕を組んだ。
「私の真名は
「せ……仙狸」
満場が息を呑む。
「はるか昔に消えたという……」
「さあ大暴れするよー。百五十年分、ムカついてるんだからね」
レイリィが手を上げるとまた突風が巻き起こり、近衛兵をなぎ倒した。
「そもそも勝手だし、くそネコネコマタっ。人類を滅ぼすとか。自分たちの汚れた過去を棚に上げて。そこ邪魔っ!」
リンを襲っていた闘鑼を、突風が吹き飛ばした。
「だいたいなに。猫又は自分たちだけみたいな顔でさあ。ヒトとネコの運命を、勝手に決められてたまるかっての。伊羅将くんはねえ、ふたつの種族が幸せに共存できるよう、必死で考えてるんじゃない。……たしかにバカだけど。でもバカはバカなりに、バカな考えでも必死じゃない。この私、仙狸の皇女は、バカの可能性に賭けるし」
身も蓋もない。ほめたのかけなしたのかよくわからないが、とにかく伊羅将をフォローしているつもりのようだ。
「父上や母上を皆殺しにしたネコネコマタは、私が滅ぼす。そしてネコとヒトとは、仙狸の私が必ず和解させてみせる」
「待て。仙狸を滅ぼしたのは我々では……」
「問答無用っ」
踊るように体をくねらせると、レイリィの腕から次々に旋風が乱れ飛んだ。巻き込まれると危険だと本能的にわかったので、伊羅将はレイリィの背後に位置取った。そこなら旋風の死角だ。
「あはははははっ。死ね死ね死ねーっ」
ひときわ大きく腕を振ると、雷鳴を伴った旋風が巻き起こった。それが竜巻のように会場を襲うと、人々が巻き込まれ、宙に舞う。ニュースで見た海外のハリケーンより凄い。これをたったひとりで巻き起こせるとは……。仙狸の力に、伊羅将は舌を巻いた。
暴風は切れ目なく続いた。悲鳴と怒号が飛び交い、会場の飾り付けが次々に倒壊する。床に倒れたままなにかの下敷きになっている参列者、ぐるぐると宙に舞ったまま、がっくりと頭を垂れている兵士――。まるで地獄絵図だ。
しかも旋風は近衛兵や参列者だけでなく、闘鑼と一緒にリンまで弾き飛ばしている。
「よせ、レイリィ」
後ろから、伊羅将は抱きついた。
「もう十分だ」
「なにすんのさ」
レイリィに振り払われた。振り返って睨んでいる。それでも暴風は止まった。一時的だろうけれども。宙を舞っていた参列者や飾り付けが無造作に落ちて、悲鳴や破壊音が響く。
「契約者のくせに協力しないなんて――。しなびて死にたいわけ? それならそれで、こっちにも考えあるけど」
瞳を細めて唸った。睨まれるだけで失神しそうな、鬼気迫る闘気を感じる。まさに妖怪。猫又そのものの姿だ。
「目的は、花音を救うことだぞ」
レイリィは哄笑した。
「はあ? もうそんなのどうでもいいし」
憎しみと喜びに、瞳が輝いている。
「小娘っ」
耳をつんざくほどの大音声が響き、皆静まった。興奮し切ったレイリィでさえ、声の主に視線をやる。闘鑼だ。
「覚えているぞ。お前。どこかの神社の参道で会った奴だ。まさか子供が妖怪を召喚するとは思わなかったから不意を打たれて敗れたが、今度はそうは行かんぞ」
闘鑼の体から、黄金の光と共に、闘気が立ち上った。その姿を前にするだけで崩折れてしまいそうなほどの。部下が武器を手渡す。受け取ったのは太い棒だ。棒の先には鎖がつながり、その先に、バレーボールほどの大きさの、刺の生えた金属の球がぶら下がっている。その球は熔けた鉄のように赤く燃え、激しく熱を発している。
あの大きな体のどこにそんな敏捷性が……と思わせる素早さで、闘鑼が飛びかかってきた。レイリィの頭に、灼熱のモーニングスターを叩きつける。レイリィはかろうじて身をかわしたが、球に破壊された床のかけらが飛んできて、頬が切れた。血が一滴、すっとつたう。
「あわてんなっての、闘鑼とか言う奴」
頬を拭うと、血の着いた手を舐めている。それで興奮が収まったのか、唇の端を曲げ、困ったような笑みを浮かべた。
「ネコネコマタは頭が悪いぞ。なあ闘鑼よ。あのとき私は、誰を助けていた?」
「なにを今さら……」
困惑したように、闘鑼が唸った。
「姫様を悪党から救った子供だ」
「なら今は、どっちの側にいるのさ。目の前の私は」
「聖なる儀式に乱入した不届き者だ……。むっ!?」
「やっとわかった? これに見覚えあるんじゃない」
カマイタチが伊羅将の服を切り刻んだ。上半身を覆う服が落ちると、下半身の巻布だけが残る。
「ほらっ」
伊羅将の背中を見せつけた。むごたらしいミミズ腫れが走り、周囲は赤黒く変色している。
「これは……」
自分の咬み傷を目の当たりにし、闘鑼は絶句した。
「傷、そして本物の王家の珠……。もうわかったかな。誰が『運命のお兄ちゃん』なのか。誰が嘘をついていて、誰が猫又やネコの本当の味方なのか」
「まさか……」
闘鑼は壇上を見やった。暴れる花音を抱えたサミエルは、それでもまだ残忍な笑みを浮かべている。
「なんだなんだ、この茶番は」
鼻で笑っている。
「そいつが誰かなど、どうでもよい。婚姻の儀は聖なる儀式。始めた以上、中断は許されん。そうだったな、長老」
「は、はい……。たしかに……」
どうしていいかわからないようで、長老は狼狽していた。
「続けるぞ。そいつは皆で押さえつけろ。たかが数人、なんとかできずに王家の誇りもないだろう。お前ら、揃いも揃ってクズかよ」
「花音っ」
気持ちが届けばいいがと願いながら、呼びかけた。
「イラ……くん」
サミエルにぎりぎり胴を絞められるように抱えられ、苦しそうに花音が呟く。伊羅将は声を張り上げた。
「俺んとこに来い。そこにいると不幸になる」
いったん言葉を切って、唇を舐めた。どこか心の奥から、また言葉が流れ出してくる。伊羅将は、魂が叫ぶに任せた。
「いいか、俺はお前の『運命のお兄ちゃん』として呼んでるんじゃないぞ。『運命のお兄ちゃん』だの『王女の義務』だのに縛られた人生なんてクソだ。親の離婚でひねくれてたけどさ。お前に会って、人類とネコを思うお前の純真な心に触れて、俺は思ったよ。家のせいにするなんて、自分は、なんてガキだったんだって」
そう、ガキだから無力なんじゃない。無力でもなんでも、できることはある。それすらせずにひねくれてるから、ガキなんだ。
「負けるのは悔しいじゃんか、宿命に。そんなもん笑い飛ばしていこうぜ。仲間だっているさ。陽芽、リン、……それにレイリィだってネコネコマタの敵とはいえ、お前の友達だぞ。王家も宿命も捨てちまえ。俺んとこに来いっ」
「行くよイラくん。花音のすべてをあげる。だから受け止めてっ!」
花嫁の髪飾りでサミエルの手を突き、花音は両手を広げて駆け出した。固く結われた花音の髪が、自由を得てさらさらと広がる。袖を掴んだサミエルは花音を引き戻し、力任せに頬を叩いた。
「あっ……!」
花音が倒れ込む。逃げられないよう、聖なる服を、サミエルは踏みつけた。
「なにするんだ、このアマ。言うことを聞けっ。俺様のおもちゃのくせに」
吐き捨てた。
「てめえええええーーーーーーっっっ」
我知らず、伊羅将は走り出していた。沸騰するような怒りと共になにか得体の知れない力が体内から噴き出し、ステージの高い段差をいつの間にか飛び越える。兵は動かず、誰も止めない。
「っええええええーーーーーっっっっっ!!」
血が出るほど固く握り締めた拳で殴った。
「ぐはああああああーーーーーっっっ!」
頬が拳の形に歪むと、サミエルは無様に倒れ込んだ。殴った手が、尋常じゃなく痛んだ。こんな奴、手が触れるだけでムカつくが、仕方ない。
「イラくんっ」
花音がすがりついてきた。
「貴様……許さんっ」
黒い刃のナイフを、サミエルは懐から抜き出した。
「ネコネコマタの連中は、どいつもこいつもクソだ。王者を護ることすらできんとはなっ」
血の混じった唾を吐くと、刃物を目の前に構えた。
「こいつの毒で死んでもらうぞ。物部」
「卑劣なクソだな、てめえ。どこまでもよ」
「黙れっ。カネも家系もない下層野郎のくせにっ!」
ナイフを振りかざして突進してくる。
「危ないっ!」
花音の悲鳴が響いた。
花音をかばいながらかろうじて切っ先をかわすと、不射水はサミエルの腹を蹴り飛ばし、もう一発殴った。
転倒したサミエルは、苦しげになにか吐いた。朝食だろう。唸りながらも、なんとか立ち上がる。鼻血が垂れている。
「き、貴様……。ここ殺してやる」
ナイフを逆手に持ち直した。――と、その腕が誰かに掴まれた。近衛兵の隊長に。
「あっ! な、なにをする」
サミエルの腕をなんなく捻ると、ナイフを取り上げている。
「いててててっ。は、放せ。貴様っ」
突き飛ばすように、隊長はサミエルを突き放した。何歩かよろけてから、サミエルが転ぶ。立ち上がったサミエルは、悪夢から覚めたかのように、周囲を見回した。聖地全体が、異様な沈黙に包まれている。
「……なんだ?」
長老がサミエルに近づいた。
「サミエル様」
「貴様、なにをぼんやりしている。狼藉者を殺せっ」
わめき散らした。それには答えず、冷徹な瞳を、長老はサミエルに向けた。
「花音様の……王族の身体は神体として崇められており、何人たりとも意に反した暴力に訴えることは許されません。花音様を誘拐したテロリストでさえ、その禁忌を守ったのに。まさか手を上げるとは……」
「だからどうした。俺様はあいつを娶った男。花音の主人。お前らの領主。人類、そして世界の支配者だぞ。問題なかろう」
「たしかに……」
長老は溜息を漏らした。
「それはたしかに、仰せのとおりです」
「なら早く――」
「ただそれはすべて、婚姻の儀が最後まで終わってからの話でございます。――近衛兵っ! この不心得者を捕縛せよ。極刑に処す」
「はっ!」
居並ぶ近衛兵たちが、うれしそうに声を揃えた。サミエルを取り囲む。
「こ、こら、お前らなにを勘違いしている。そうだ。長老と隊長を取り押さえよ。王家に対する反逆罪だ」
早口で命じる。
「無礼者。黙らんかっ」
「この悪党めが」
口々に、近衛兵が
「あの……その……。お、親父が黙っていないぞ」
切れた唇を舐めた。瞳が泳いでいる。
「そそそそうだ。ウチの親父を敵に回すと、王家だろうがなんだろうが――」
万感の思いを込めたかのように、近衛隊長が殴り飛ばした。サミエルが壁まで吹っ飛ぶ。偉丈夫に
「この者は邪悪な蛇の舌を持っている。刑が執行されるまでの間に、焼いたナイフで舌を切り落としておくように。連れて行けっ」
「よせっ。俺はへはいの……しはいひゃ……ら……」
両腕でひきずられるようにして、サミエルが裏に連れ去られて行く。失禁したのだろうか。ナメクジのような跡を残しながら。
「イラくん……」
花音が見上げてきた。
「花音……」
「信じてた。イラくんが、花音を助けてくれるって」
伊羅将の心を、安らぎが包んだ。この笑顔だ。純真な、けがれを知らない微笑み。命を懸ける価値がある。護りきれて本当に良かった。自分のようなハンパ者にも、生きる喜びを与えてくれる存在を。
「約束したろ。護ってやるって」
「二度目だね、花音を救ってくれたのは……」
花音の瞳から、清らかな涙の粒がこぼれた。悲しみの涙でなく、希望にあふれた涙が。
「花音。かわいいぞ、花嫁姿も」
「バカ……」
涙を落としながら、花音は幸せに満ち満ちた笑顔を浮かべた。頬を愛しげに撫でてくる。
「イラくんのための衣装だよ……」
唇が近づいた。
「い、いけません姫」
長老の制止が聞こえた。
「その衣装のまま聖地でくちづけすると、永遠の絆が発動――」
瞳を閉じ、唇を合わせた。花音の唇は柔らかく、かすかに震えていた。鼓動と魂の温かみを感じる。なにか、パズルのピースがかっちりハマったかのような感覚が、奥底に感じられる。
唇を離し瞳を開くと、花音が微笑んでいた。自分と花音は、不可思議な白銀の輝きに包まれている。
「……遅いか」
長老の溜息が聞こえた。苦笑いを浮かべている。
「神聖なる儀式も滅茶苦茶だ」
レイリィに荒らされた会場を、長老は眺め渡している。ネコネコマタ王家創建以来の伝統を誇る聖地は今や、見る影もない。清らかな飾り付けがあちこちに無残な姿を晒し、神木の枝すら何本も折れて転がっている。
「ワシはもう知らん。王家一万二千年の縁起に申し訳ないわい」
祭儀用の大帽を脱ぐと、頭をかいている。
「イラくん……もう……一度。今度は……ねっ」
「わかってるよ、花音」
またくちづけした。花音の唇から、言葉にならない溜息が漏れる。伊羅将の心に、花音が現れた。天を指差している。
――そうだな花音。今こそ……。
抱き合った体から、七色の光が渦を巻いて立ち上ったのがわかった。それは王家の樹の頂きに螺旋を作ると上空に飛び、そこで花火のように弾け飛んだ。
「あれは……王家の呪法。そう……、愛と喜びの力なのですね」
陽芽の呟きが聞こえた。王家の成婚を祝う大観衆の歓声が、聖地を包んだ。喜びの雄叫びが渦を巻き、聖なる神木の枝々を揺らしている。
はるか時空を超えた多摩の地。「ネコはあなたを愛す 永遠に」と書かれたポスターが、午後の陽光にも負けず、煌々と輝き出した。周囲のポスターも次々に、共振するように七色に発光してゆく。
それぞれの文字が踊るように振動を始めた。魔法陣の形に上空に雲が湧き、雷鳴を轟かせながら回転を始める。人々が空を指差し、なにごとか叫んでいる。
神明学園の学生寮では、はるかに大きな騒ぎが起こっていた。コンパニオンアニマル科を中心に多く在籍するネコネコマタの留学生が屋上に集まって、口をあんぐりと開けている。彼らだけは理解していた。ふたつの種族の和解をもたらす呪法が、今まさに発動したのだと。
七色に輝く雲がゆっくり消え去ると、誰にもわからない形で、ヒトの心に優しさが舞い降りた。ネコの心にも。その夜、春の椿事「発光雲」のニュースが流れる家庭のネコ皿には、とっておきのネコ缶が開けられ、ネコは普段の二割増しでヒトの足元に擦り寄った。ネコとヒトとの幸せな関係は、ほんの少しだけ、世界を素敵なものにした。それは今後何百年も続くだろう。
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