11 仙狸護の「決意」

11-1 仙狸護

 伊羅将いらはたにはわかっていた。あれは花音との今生の別れだと。眠れず千々に乱れた心のまま床を離れると、リンが迎えに来た。花音も陽芽もいない。


 気まずそうなリンはなにか説明しようとしたが、表情を目にして黙り込んだ。悟ったのだろう、伊羅将はもうすべて知っていると。


 言葉少なに帰路を辿り、猫ノ巣渓谷に戻った。学園前で別れ、自宅に戻った。


 レイリィはなにか言いたいことがあるようだったが、伊羅将の暗い顔を眼前にすると、無言でお茶を淹れてくれた。


 四月二十九日――。あさって、花音はサミエルのものになる。


 じっとしていると、花音のことを考えてしまう。笑顔、優しさ、……昨夜の涙。とにかく頭を空にしたくて、ゲームをした。何度も何度も。


 夕食もまるでお通夜のようだった。伊羅将だけでなく、いつも明るいレイリィも押し黙る。能天気な父親まで口数が少なく、食後はすぐに部屋にひっこんでしまった。気を遣っているのか、レイリィは夢に出てこなかった。


          ●


 翌朝、腫れ物に触るようなふたりの態度が辛くて、伊羅将は家を出た。山道を歩くうちに、自然と足が南部神社に向かった。本殿の高床に座って、ぼんやりと街と空を眺めた。参道の階段を駆け上がり鳥居を潜って、今にも花音が顔を出す気がする。「ごめーんイラくん、遅れちゃったあ」と笑いながら。


 ここで、この場所で花音の弁当を食べ、膝枕で眠った。ついこの間のことなのに、今でははるか昔の出来事に思える。あの幸せな日は、もう二度と来ない。


 明日、花音はサミエルのものになり、その苦しさもささやかな楽しみも、自分には手が届かない場所に行ってしまう。もう助けることも護ることもできない。


「伊羅将くん、どうした。ゴールデンウイークとはいえ、今日は平日。学校は」


 声がかかった。吉野さんだ。伊羅将の有様を見て、顔を曇らせる。


「……泣いているのか」


 じっとこちらを見つめている。


「辛いことがあると、よくそこに佇んでいたよな、昔から……。いいか、神様はね、なんにもしてくれないよ。それが神様だ」


 放り出すような口調だ。


「ただし、すべてを見ている。魂に恥じない行いをしているのかどうか、じっと見守ってくれているんだ。だからこそ、お参りすると心が休まるのさ。母なる自然と祖先が迎えてくれるから。……ほら」


 懐からなにか取り出すと、投げ渡してきた。


「南部神社の仙狸護せんりのまもりだ。これを持って行きなさい」

「お守り……ですか」

「生きていれば、そりゃ辛いこともあるだろう。でも、自ら道をひらく者には、運も味方するものさ。私はそう信じている。……お守りに誓いなさい、後悔しないよう生きるって」


 それだけ告げると、吉野さんは竹ぼうきで境内を清め始めた。


 家には帰りたくなかったので、寮に行った。林先輩に訊いたら、ゴールデンウイークに入ってから、サミエルの姿がないらしい。式の場所、王家の聖地にすでに詰めているのだろう。


 寮のベッドに横になると、もらったお守りを取り出して、しげしげと眺めた。一般的なお守りよりは多少大きめで、厚みもある。藍色の布地に銀の糸で雲の模様が織り込まれていて、「仙狸護」とやはり銀の糸で刺繍されている。


 白い紐を解いて覗くと、中には紙と大きな珠が入っていた。紙には狐ともネコとも思えるご神影が印刷されている。珠は濃い紅色で、勾玉の形だ。当然だが、王家の珠のはずもない。この珠を収めるため、このサイズなのだろう。


 溜息と共に中身を戻すと、花音の名刺も一緒に入れておいた。


 ――八百円のお守りでこんなにコストをかけてちゃ、そりゃ火の車になるわけだわな。吉野さん、良心的すぎるよ。


 伊羅将は、仙狸護を握り締めた。そのまま上を向いて、天井を眺める。もう夜も更けた。


 ――明日はいよいよ結婚式。今頃、忙しく準備に明け暮れているんだろうな。それとも寝床で泣いているのか……。


「花音……。会いたい。花音……」


 同じ考えが、ぐるぐる頭を回る。優しい声、ポスターを抱えて微笑んだ姿、自分を頼って抱きついてきた花音。泣きながら走り去った後ろ姿。


「くそっ」


 ふと気づくと、夜が明けたようだ。窓はないが、外で小鳥が鳴き始めたからわかる。数時間後には、花音はサミエルのものになる。さすがに疲れて、伊羅将はうとうとし始めた。

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