10-2 錯綜する心たち

 パーシュエイションの儀が終わったあと、リンは、遠縁の家で歓待された。族を違える眷属のひさしぶりの来訪だというので、家長を筆頭に、賑やかなもてなしが始まった。子供たちは興味津々で、リンの姿を物陰から覗いたりしてはしゃいでいる。


 もてなしに応え笑いながらも、リンの心は揺れていた。先程、伊羅将が涙ながらに王女への助力を願い出た姿に動揺したのだ。


 政治的立場を異にしているとはいえ、考えてみれば、自分だって王女のことが嫌いなわけではない。幸せになってほしいと願っているし、尊敬している。サミエルとの結婚が神辺花音という個人にとって最悪の選択であることも、痛いほどわかる。


 リンの部族であるナベシマ族は、武闘派だ。最果ての戦地にまで赴くため、情報がかなり入る。サミエルや鷹崎家が邪悪な存在であることは、部族の誰もが知っている。だから手こそ組んではいないが、他派が鷹崎と裏で握っていても目をつぶっているのは、鷹崎家が人類殲滅への支持と協力を申し出ているからだ。


 ――でも、それでいいのかな、あたし……。姫様を犠牲にしての繁栄なんて、意味があるのかな。姫様はご自分の辛い運命を厭いながらも、それをあえて受け入れ、必死でネコネコマタやネコとニンゲンとの和解に尽くしている。もう時間がないから。


 王族として最善を尽くそうとするその意志に従って協力するのが、本当のネコネコマタ貴族の行動ではないだろうか。伊羅将はあの場でクルメに協力を願い出た。自分もそうすべきではなかっただろうか。花音の幸せのためにも。


 ――それにそもそも、ニンゲンを滅ぼすなんて間違っていたのかも。伊羅将いらはたはいい奴だし。


 宴席を辞して寝台に収まると、リンの考えはまたそこに戻っていった。


 ――姫様を妨害するため付き合い始めたけれど、あたし、それだけじゃなくなってた気がする。さっき伊羅将が牙の跡をみんなに見せたとき、心臓が飛び出るかと思った。ドキッとして。恥ずかしくて。……でも、うれしかった。誇らしかった、これがあたしの彼氏だぞって。


 思い出すだけで恥ずかしくなり、リンはかけものを頭まで被った。


「あたし、あいつのこと真剣に好きなのかも。それも生涯に一度、ネコネコマタの本気の恋で」


 そう思うと急に、胸も心も頭も、伊羅将の姿でいっぱいになった。笑っている伊羅将、噛まれて痛がる顔、自分の乱雑な弁当をおいしそうに食べてくれる姿――。温かな気持ちが、心を満たした。リンは考えた。どう行動するのが、伊羅将にとって、もっともいいことなのだろうかと。


          ●


「想像以上にクズだったなあ。まさか人殺しまでとか」


 ベッドに倒れたまま脂汗を流すサミエルを見下ろして、制服姿のレイリィが呟いた。リボンを拾い上げて結び直すと、そこらにあったゴルフクラブで、死なない程度に頭を殴る。


 仙狸の力で眠らされているサミエルは、もちろん起きない。ただ悪夢にうなされているだけだ。


「あームカつく。夢の中でもう五千回くらいぶっ殺したけど、まだ全然足りないわ」


 部屋にセットされた機器の動画を全部処理してから、置き手紙を残した。



 ――お疲れだったのかな。話しているうちにうとうと寝ちゃったみたいだから、起こさず帰ります。今日はいろいろなお話をありがとうね。 レイリィ



「さて、伊羅将くんのほうはどうなったかな。ネコネコマタの残酷な連中に晒されて、ひどいめに遭ってなければいいけど。根付を持って行ってもらうわけにも、いかなかったしね。バレちゃうとヤバいから」


           ●


 クルメの里、あてがわれた居室の庭の露天風呂に、伊羅将は体を沈めていた。強い失望と落胆で、心が折れそうになっている。


 ――俺は失敗した。人類を救うことも。花音を救うことも。


 なにもかも忘れたくなって、頭まで湯に沈めた。


 ――このまま死ねたらいいのに……。


 こらえ切らなくなるまで息を我慢して、頭を水面に出した。頭がくらくらする。


「そりゃ死ねやしないな。潜ったくらいじゃ……」

「そんな悲しいこと、言っちゃダメだよ」


 背後に声がした。振り返ると、裸の花音が立っている。薄い布を、バスタオルのように体に巻いて。伊羅将は、あわてて前を向いた。


「花音……」

「あっちの温泉では、混浴っていう風習があるんでしょう」


 言いながら湯船に入ってくると、隣に並んだ。布を巻いたままで。


「……族長の娘のことがあったんだな」

「うん。花音も知らなかった。あれがなければ、説得は成功したと思うんだ」


 そのままふたり、黙り込んだ。


「……なあ、ヒトを滅ぼしたら、ネコはどの動物を下僕にするのさ」

「犬らしいよ」

「犬……」

「うん。飼い主に忠実だから扱いやすいし、人間ほどは知能が高くないけれど、猫のために餌を獲ってくるくらいはしてくれるし。頭が良くない分、むしろネコにひどいことはしないだろうって。……みんな懲りてるんだよ」

「そうか」

「まず犬を呪法で改良する。しもべに有用な能力を持たせるために。そのための術式が、裏で着々と編まれてるらしいんだ。その上で訓練して、時間をかけて世界中の猫に派遣するんだって」


 またしばらく沈黙が下りた。


 露天風呂の先には、七色に輝く幻想的な森が広がっている。天空には大きな満月があり、万物に平等に冷徹な光の恵みを降らしている。ここには虫もいないらしく、静か。涼し気な風が森林の葉を鳴らす音が、ただ聞こえるのみだ。


「……ねえ、ここで術式を紡いでみようよ」


 花音が言い出した。


「王家の呪法か? ネコとヒトとの和解をもたらすっていう」

「そう」

「ふたりで?」

「そうだよ」

「できるのかな」

「できる……はず。ネコネコマタとヒトとの愛の力で発動するものだから。ポスターからは離れているけれど、それは関係ないし。……それにここはクルメの聖地、つまりネコネコマタの聖地だから、地の力も味方してくれる」

「やってみるか。ダメもとだ」

「そうだよ。イラくんはそうして前向きで元気なほうが、花音うれしい」


 花音に聞いて、やり方を教わった。


「じゃあ始めるね」


 ふたり湯船に沈んだまま、花音がそっと腕を伸ばした。伊羅将も従い、花音の手を握る。


「これで祈るんだな」

「うん。ふたつの種族が、幸せな結婚をするイメージで。結ばれて、一生共に過ごすの。……心から祈るんだよ」

「わかった」


 目をつぶり、伊羅将は祈った。ネコとヒトとの幸せな婚姻を。脳裏に花音の笑顔が浮かぶ。花音と自分が結婚し、魂が固く結ばれた状態をイメージした。と、不思議なことに、心に花音が現れた。――そう、イラくん、その調子だよ――。そう語りかけてくる。


「花音……」

「イラくん……」


 魂が裸で触れ合った。花音と伊羅将の体が七色に輝き始め、ふたりの頭上から光が立ち上る。




 時空を隔てた神明学園周辺。花音と伊羅将が貼って回ったポスターが、ふたりの魂の波動を感知して閃光を放った。共鳴している。


 ――「ネコの裁きは近いかも」――

 ――「ネコはあなたを赦す」――

 ――「ネコは見ていますよー」――

 ――「人類とネコが平和だといいなあ」――


 文字が七色の光を帯びた。酔っ払って駅前をふらふら歩いていたサラリーマンが驚き、目をこすってポスターを眺めた。しかし文字の輝きが徐々に強まったのは短い時間で、電源が落ちたかのように、それは急に消えてしまった。


「な、なんだこりゃ」


 近寄ってよく見ると、特段変わり映えのない、ただの「ヘンな」ポスターだ。


「気のせいか……」


 ――気味が悪いから、厄払いにもう一杯どこかで飲んで帰ろう。


 自分に言い訳して、酔っ払いは雑居ビルに吸い込まれていった。




 握っていた手を、花音と伊羅将はそろそろと下ろした。ぽちゃんと、わびしげな水音がする。


「……あと少しだったね。残念」


 優しい声で、花音が囁いた。


「もう一度やろうぜ」

「えへっ」


 悲しげに微笑んだ。


「もう無理だよ、イラくん」


 伊羅将の手を、湯の中で花音がまた握ってくれた。


「花音とイラくんは……やっぱり結ばれない運命だったんだね」


 悔しさに、伊羅将はうなだれた。やはりダメなのか……。花音を助けることも、失われつつあるつながりを回復させることも。


「さっきねえ、うれしかった」


 顔を上げると、花音は星空を仰いだ。伊羅将も、つられて見た。


 空は澄んでいるが、月が明るいので、星はあまり見えない。それでも月に負けてなるかと、ひときわ明るい星々が、ぽつぽつと存在を主張している。


「無理と知りつつも、イラくんがみんなに花音のことを頼んでくれて。……イラくん、泣いてた」

「花音……」

「……花音、イラくんのものになりたい。抱き合ってキスして。そして花音のすべてを、イラくんのものにしてもらうの」


 伊羅将の瞳をじっと覗き込むと、囁いた。瞳が潤んでいる。


「わかってる。王位継承者の義務があるから、それはできない。でも……」


 薄衣をそっと解くと、立ち上がった。


「……でも、見てもらうだけなら」


 立ち上がると月を背にして歩き、伊羅将を振り返った。


「見て……イラくん」


 満月の青い光に照らされて、花音の裸身が輝いていた。はかなげな肩、伊羅将の心を掴んで離さない胸、たおやかな曲線が愛らしいへそや腹、そして、純潔を語る下半身……。


「きれいだ……」

「イラくんに見てもらってうれしい。初めて見てくれるのがイラくんで」


 悲しさを隠し切れない、せいいっぱいの笑顔だ。


「一生……一生覚えていて。きれいだった花音、サミエルくんに汚される前の花音を」


 感情をこらえ切れないかのように言葉を切ると、伊羅将をまっすぐ見つめてくる。


「花音はもうイラくんの前から消えるけれど、忘れないでね。イラくんの記憶の中の花音は、いつでも隣にいるから。いつまでも大好きで。イラくんが卒業して働き始め、世間の重圧に泣くことがあれば、花音が心の中でなぐさめてあげる。うれしいことがあれば一緒に喜んで……。イラくんがおじいちゃんになるまで、花音はこの姿のままで一緒にいるよ。イラくんだけの花音として。永遠にイラくんの幸せを願って……」


 王女の頬を、涙がひと筋流れた。


「さよなら、イラくん」


 涙と共に心を残し、花音は走り去った。伊羅将の制止を背中に受けながら。

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