09 レイリィの危機

09-1 奥多摩猫ノ巣渓谷

 ネコネコマタの国の入り口は、意外に近い場所にあった。奥多摩鳩ノ巣渓谷から支流に入った奥に、猫ノ巣渓谷がある。そこから廃棄された林道を進むと、朽ち果てた木の鳥居が放置されている。そこが入り口という話だった。


「あの鳥居か?」

「お兄様、もう少しですわよ」

「わ、わかった……」

「だらしないなあ……。こんなに涼しいのに」


 青息吐息の伊羅将いらはたを横目に、リンはあきれたように腕を広げた。


 森林の渓谷にはたしかに涼やかな風が渡っており、苔の匂いと樹々の香りを運んできている。高い樹木から漏れる金色の木漏れ日も気持ちいい。冷たく透き通った水が滝を落ちる音も聞こえてくる。


 そんな風景の中、伊羅将だけは馬のように汗を流していた。なにせ自分の荷物に加え、花音や陽芽、リンの荷物まで背負わされている。いくら「唯一の男子」とはいえ、ものには限度がある。


「ならお前持てよ。自分の荷物くらい」

「へへっ。お前、あたしの彼氏じゃないか。彼女の荷物運ぶくらい当然だろ。……それにニンゲンはネコの下僕だしな」


 ぺろっと舌を出す。


「イラくん、やっぱり花音、自分の荷物、持つよ」

「……いいよ花音。もうすぐそこだ」


 やせ我慢して、重い足を運んだ。


         ●


「着いたね……」


 鳥居の根元に腰を下ろすと、休憩を取った。


「ほら、飲みなよ」


 リンがペットボトルを放ってくれる。喉を鳴らしながら、伊羅将は水を飲んだ。


「ひさしぶりですわね、お姉様」

「うん。イラくんには悪いけれど、やっぱりネコネコマタの国に近づくと、落ち着くね。ヒトの社会はせわしなくて……」

「姫様は、クルメの一族を訪れるのは何度めですか?」

「三度めだよ、リンちゃん。でも赤ちゃんと子供のときだから、あんまり覚えていなくて」

「お父様の訪問に従っただけですものね」


 陽芽が付け加える。


「うん。だからひとりで行くのは初めて。……ちょっと不安かも」

「ご安心ください姫様」


 リンは誇らしげだ。


「あたしはナベシマの一族。クルメとは縁戚がありますから、万事、ご案内できます」

「お願いするわね、リンちゃん」

「はい、姫様」

「でもリンは人類殲滅派なんだろ。王族の敵じゃないか。信用できるのかよ」

「イラくん、それは……」


 花音に柔らかく制された。


「いいのです、姫様。――こら伊羅将。あんたたとえあたしの彼氏だっていっても、侮辱は許さないからな。あたしだって、自分の政治的立場と公務の使い分けくらいできる。ニュートラルな立場で姫様をご案内するのは、忠誠心あふれるネコネコマタ貴族の誇りだ――んがあっ」

「いたたたたたっ! 噛みつくなっての」


 噛まれた腕を振りほどこうとしながらも、伊羅将は思い出した。昨日の夜、申し訳なさそうな顔をしたリンが、寮の部屋を訪ねてきたときのことを――。




「あした、ひ……花音さんと一緒に『旅行』に行くんだろ」

「うん」

「あたしも行くことになった」

「そうか……」

「驚かないんだね……。あんたは一応彼氏なのに、今まで隠していてごめん。あたし、人間じゃない。実は姫様と同じで、ネコネコマタなんだ」


 一気に告白すると、リンは頭をペコリと下げた。気まずそうに下を向いている。


「そんなの、とうの昔に知ってたし」

「へっ? ど、どうしてその重要機密を……」


 目が点になっている。


「お前から聞いたも同然だけどな。言葉の端々からダダ漏れというか」

「あ、あたしが自分で……」


 リンは、耳までまっかになった。


「そうさ。ダダ漏れどころか、ジャージャー流れ出る締まりの悪い蛇口みたいなもんで。頭のパッキンが緩いんじゃないか」


 花音のことを考えると辛く、イラついて思わず意地悪な言い方になった。


「頭の……パッキンが……」

「月に一度くらいは頭を開けて中身を取り替えないと――」

「――んがあっ」

「ったたたたたっ!」

「があああああっ」

「わかった。謝るから、もう噛むな。腕がえぐれるっ」


 伊羅将は、なんとかリンの頭を押しのけた。


「はあはあ……」

「ってー……。リンごめんな、八つ当たりして。噛んでもらって、なんかすっきりしたわ」

「伊羅将。お前……」


 リンが抱きついてきた。


「あたしはお前の彼女だ。辛いときはなぐさめてやる」


 伊羅将の肩に、頬をそっと沿わせた。


「……もう一度噛んでやろうか?」

「遠慮しとくよ。けど、ありがとうな」


 伊羅将は、ほっと息を吐いた。




「――昨日も噛まれたけど、今日もかよ。なにかというと牙を立てるんだな……。見ろっ」


 腕まくりすると、リンの噛み痕があちこちに残る腕を見せつけた。


「バッバカッ。そ、そんな恥ずかしいものを、みんなに……」


 リンの目が飛び出る。花音と陽芽は、気まずそうに瞳を逸らした。


「……あれ。俺、なんか悪いことしたか?」

「お兄様……。恋人の牙の痕が多く残るのは、ネコネコマタでは仲の良い印なのです」

「えっ?」

「か、花音もイラくんのこと、せめていっぱい咬んでおけば良かった。噛み付いたり、大きく咬んだり……」

「わたくしも、お兄様に体中、歯を立てていただくべきでしたわ。……愛の印として」


 花音と陽芽が、妙に色っぽい流し目を送ってくる。伊羅将は恥ずかしくなった。


「そ、そうか……。ならまあ……」


 ワケのわからない言い訳をしつつ、噛み痕を隠した。


「それより早く行こうぜ。ネコネコマタの国に」

「そうだねイラくん。忘れてたよ」


 鳥居の前まで来ると、花音は目をつぶって手を合わせた。鳥居は山に向かい建てられている。どうやら、かつて修験道の修行者が入った山らしい。ネコネコマタと共に鳥居にアクセスすると、異界が開くという話だった。


「さあ、行きましょう」


 皆で手を取り合って鳥居を潜ると、目の前がくるくる回り出し、体の横から妙な重力がかかって、伊羅将は気分が悪くなった。思わずしゃがみ込みそうになる。


「ダメです、お兄様。今動いては、どこに飛ばされるかわかりませんよ」


 陽芽が抱きついてきた。反対側を、リンも支えてくれる。そのまま奇妙な力に耐えていると目の前が真っ暗になり、はっと気づくと、そこはもうネコネコマタの国だった。

         ●


 森の中のようだ。人が五人手をつないでも周囲を囲めないほど太い樹木が、そこら中に生えている。樹々は普通の広葉樹のようにも思えるが、幹も枝も、葉っぱでさえ奇妙な光を帯びていた。


 手元の葉を一枚取ってみると、葉自体は緑色なのだが、オーロラのように変化する七色の光で、表面が覆われている。


「……ここが、ネコネコマタの国」

「そうです。ここはヒトの世界とネコネコマタの世界を結ぶ分岐点。ここからネコネコマタの各地方に向かう『導管』が通っているのです」


 陽芽の声には、心なしか誇りのようなものが感じられる。


「では、クルメの連中のところに向かうぞ」


 ある大木の前まで行くと、リンが幹に手を触れた。全員吸い込まれる。「導管」に入ったのだ。

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