08-3 王女の決意

 翌日もその次も、花音は授業に顔を出さなかった。竹内やリンに聞いた噂では、寮の部屋から一歩も出てこないらしい。気になってメッセージを送っても、「大丈夫」とだけ返ってくる。


 もう明日からゴールデンウイークだ。心配していると、寮の扉がノックされた。


「花音か?」


 扉を開けると、陽芽が立っていた。


「……陽芽か」

「申し訳ございませんお兄様、お姉様でなくて」


 笑顔を浮かべている。


「とはいえ、お姉様もじきに参ります。その前に、どうしてもお兄様にお伝えしたいことが」


 出された茶を口に運びながら、陽芽は語り出した。


「お姉様は、自分ひとりの幸せより平和が大事だとおっしゃっています。王家の珠が出てきてもなおサミエルを拒否すれば、『運命のお兄ちゃん』を優先するとしてきた自分の主張すら覆すことになる。そこまでして伝統を破れば、賛成派と反対派の間で血が流れると」

「……それって」

「ええ。王家のしきたりに従うおつもりですわ」

「サミエルと……か」


 唇を固く結んだまま、陽芽は首を縦に振った。


「お気持ちはもちろん別です。毎日泣いておられます。授業に出られないほど憔悴されて」

「そりゃそうだろ。サミエルなんかと……」

「いいえ。お姉様は、あの方がお嫌で泣いているのではありません」


 陽芽は、きっぱり言い切った。


「ではない……?」

「そう、違います。そうではなくて、お兄様と結ばれないのが悲しくて泣いておられるのです」

「……」

「そのようなことを、お兄様の前で、お姉様はけっして口にされないでしょう。ですから、わたくしの口から申し上げておきたかったのです」

「そうか……。なあ陽芽、俺が花音を連れ出すのはどうかな。一か月ならなんとか暮らしていける金はある。なんとなれば、そのまま働いたって――」


 悲しげな瞳で、陽芽は微笑んだ。


「お気持ちはうれしいですが、それではなんの解決にもなりません。すぐに見つかります。そうなれば血が流れるのは変わらない上に、お兄様の命すらなくなります」


 伊羅将いらはたは唇を噛んだ。


 自分がただの高校生で悔しい。ガキで悔しい。


 なにかを成し遂げられる男として、ネコネコマタの王でも貴族でも説得できればいいのに……。


「イラくん……いる?」


 花音が入ってきた。余計なことを言わず、伊羅将はお茶を出した。


「わあ、おいしい……」

「ああ、やっとヤカンを盗み出したからさ、家の。お茶もガメてきた。いちばんうまい奴を」


 花音はにこにこしているが、目が赤い。無残に感じ、伊羅将は心が痛くなった。


「……ねえ、陽芽に聞いた? 旅行のこと」

「旅行? いや」

「お姉様、これからお話しするところだったのですわ」

「そう……。じゃあ話すね。花音、イラくんにお願いがあるの。明日からゴールデンウイークでしょう。あさって、花音に付き合ってくれないかな。ネコネコマタの国に行きたいの」

「ネコネコマタの……国」


 花音は伊羅将の手を取った。


「前にお願いしたよね。ヒトを救うための、パーシュエイション第一弾。……というか、もう最後になっちゃったけれど。五月一日に、花音は十五歳になる。その日に……結婚しないとならないから。ここまで来ては、もう花音には覆せない」


 一瞬、訴えるような瞳をしたが、花音はすぐ視線を落とした。


「そのあとは儀式で忙しくなる。国に籠もるから、学園にもめったに来られない。パーシュエイションもポスター貼りも、続けられそうにないの。だからこれが最後の機会だね。えへへ」

「人類滅亡を防ぐためのか」

「でも式のあと王家に戻れば花音、中から全力で戦うから。そんな事態にならないように」


 きっと唇を結んでいる。


「このパーシュエイションで分派ひとつでも説得できれば、それに向けて勢いがつけられる。だから花音、頑張らないと」

「花音、お前……やっぱり王族だ。凄いんだな」

「全然たいしたことないよ。力が足りないから、ここまで和解派が追い込まれたんだもん」


 花音は謙遜したが、伊羅将は心底感動していた。大嫌いな奴、クズな奴との縁組を強要されるというのに、ネコネコマタやネコ、人類の未来のために、全力で取り組むなんて。意に沿わない結婚を強いられても、それすら利用して動こうとしている。


「俺もベストを尽くすよ。花音が望むことなら、なんでもやる。いや、やらせてほしいんだ」

「イラくん……」


 おそるおそる、伊羅将は花音の手を取った。そうしていいだろうか、かえって花音を苦しめるのではと悩みながら。手を包まれると、花音は優しい瞳になった。


「あったかい……イラくんの手」

「そうか」

「うん。なんだか、すごく落ち着く。きっと花音とイラくんは、やっぱり運命で結ばれてるんだよ。この世界じゃない……どこか遠い世界で」


 ぽろりとひと粒、涙がこぼれた。


「ご、ごめん。俺、お前を苦しめるつもりじゃ……」


 あわててひっこめようとする伊羅将の手を、花音はぎゅっと握った。


「ううん。このまま……」

「……」


 ふたりしばらく、寡黙に手を取り合っていた。


「さて、今晩も泊めていただきましょう、こちらに」


 陽芽がベッドに座った。


「今日は普通のお寝巻きを持って参りましたのよ。この間の羽毛の猫じゃらしも」

「……またやるのか、あれ」

「もちろんです。わたくしと……お姉様もじゃらしていただかないと」

「でも……」

「これも思い出です」


 陽芽は強く言い切った。


「……これ以上、言わせないでくださいませ。お兄様」

「わかった」


 難しい顔で、伊羅将は頷いた。

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