将棋セット【ミートパイとカモミールティー】
将棋は一目でパッと形勢判断できれば上級者だ。
形勢判断をするには盤上にまんべんなく目を行き届かせなければならない。
たとえば詰将棋が好きで棋書(将棋の本)の小さな盤面図を目でずっと追っている人もいるが。盤面図の大きさに慣れてしまうと視野が狭くなってしまう。
つまり将棋盤に盲点が生じるようになるわけだ。
これはパソコンのモニタでも同じである。
盤の大きさはさほど変わらなくても、盤面の見方や姿勢が違う。
しかも現実と違ってコンピュータが自動的に駒の位置をマスの中央にビシッとそろえてくれる。
現実の駒は画面の中ほど綺麗に置かれてはいない。人が持ち上げて移動させるからだ。
きちっと整えられた盤面でなければ形勢判断できないのではお話にならない。
実際の将棋盤を使わなければ身につかない感覚というものが確かにある。
だから上の級、上の段へと貪欲に登ろうとする将棋指しは、常日頃から将棋盤に親しんでいなければならない。
重要なのは一目。
将棋盤と駒台を視界に収め、全体を見通す視野の広さと。
同時に将棋盤以外のものが視界から消えるほどの集中力。
それさえ身につけば一人前なのだが……
「じー」
「ん?」
やはりアマチュアでは集中力が長続きしない。
敗局を検討すること5分。
ちょこんと盤の横に正座し、俺の研究を眺めている影が一つ。
瑞穂だ。
「私のことは気にしないで」
「はぁ……」
気にするなと言われても土台無理な話だが。促されるままに研究を続ける。
「じー」
「……」
やりにくい。
上から見下ろすのは失礼なので、観戦する時は座るのが礼儀なのだが。それはあくまで対局の話であって、局面研究は観戦するものではない。
観るぐらいなら自分で並べた方がいいからだ。
せめて盤の横にではなく対面してくれればいいのだが。
「……興味あるなら本貸すぞ?」
「大丈夫。観てる方が好きだから」
最近流行の『観る将棋ファン』というやつだろうか。
世の中には物好きがいる。
「じー」
「……一局指すか?」
「まだ基本覚えたばっかりだし」
「だから指すんだろ。取りあえずこの通りに指してみろ」
壁に『矢倉24手組』の指し手を書いた紙を張る。
矢倉は玉の周りを駒で固めて守る『囲い』の一種だ。
囲いのことを海外では『城』と呼ぶ。
歩・歩歩歩
・歩銀金・
・玉金角・
香桂・・・
金矢倉
『相(お互いに同じ戦法を指すこと)矢倉』で戦う場合、最初の24手はプロもアマも同じ手を指す。
初級者には手の意味がわからないだろうが、24手組はプロが長い年月をかけて洗練した形だ。
一手たりとも無駄な手はない。
初級者は意味など考えず張り紙に従って自分の12手を指すだけでいい。
適当に指しているだけで自分の12手を、やがて相手の12手も自然に覚えてしまうだろう。
意味を考えるのはそれからだ。
9 8 7 6 5 4 3 2 1
香 桂 ・ ・ ・ 王 角 桂 香 一
・ 飛 ・ 銀 金 ・ 金 ・ ・ 二
歩 ・ ・ 歩 ・ ・ 銀 歩 歩 三
・ 歩 歩 ・ 歩 歩 歩 ・ ・ 四
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 五
・ ・ 歩 歩 歩 ・ 歩 歩 ・ 六
歩 歩 銀 ・ ・ 歩 ・ ・ 歩 七
・ ・ 金 ・ 金 銀 ・ 飛 ・ 八
香 桂 角 玉 ・ ・ ・ 桂 香 九
矢倉24手組
お互いに24手組を指し進める。
「これでいいの?」
「上出来だ」
24手も進めながら一度も駒交換が行われず、攻撃と防御双方の準備が整っている。
それも先後同型。
何度見ても美しい形だ。
ただこの時点ではまだ矢倉になっていない。
ここから数手かけて矢倉を完成させるか、攻めを優先するか。
仕掛けるのも守るのも指し手次第。
それが矢倉24手組の魅力だ。
「さて、ここで賭け将棋にしよう。なに食う?」
「お任せで」
「じゃあミートパイとカモミールティーにしよう。普通に矢倉で指してもお前に勝ち目ないから、25手目を問題にしてやる」
ホワイトボードに『矢倉は将棋の純文学』と書く。
「25手目の最善手候補は3つある。その3つを当てられたらお前の勝ちだ」
「えーと……」
俺がミートパイとカモミールティーを準備している間に、瑞穂がうんうんうなる。
「6七金と3七銀?」
「正解」
6七金右(6七に行ける金が二つあり、右側の金を動かしたということ)は矢倉に囲う無難な一手。
3七銀は相手が6四角と来ても飛車を守れるし、同時に攻めの態勢を作れる手だ。
9 8 7 6 5 4 3 2 1
香 桂 ・ ・ ・ 王 角 桂 香 一
・ 飛 ・ 銀 金 ▲ 金 ・ ・ 二
歩 ・ ・ 歩 ▲ ・ 銀 歩 歩 三
・ 歩 歩 ▲ 歩 歩 歩 ・ ・ 四
・ ・ ・ ・ ▲ ・ ・ ・ ・ 五
・ ・ 歩 歩 歩 ▲ 歩 歩 ・ 六
歩 歩 銀 ・ ・ 歩 銀 ・ 歩 七
・ ・ 金 ・ 金 ・ ・ 飛 ・ 八
香 桂 角 玉 ・ ・ ・ 桂 香 九
6四角と来ても飛車を守れる
ただ問題は最後の一手。相手の6四角が見えたのなら瑞穂が答える手は予想できる。
「4六角!」
「残念」
「え!?」
「正解は1六歩だ。あくまで25手目だからな、ここで角は出さない」
「そんなのわかるわけないじゃない!」
わかる問題を出したら金を巻き上げられないからな。
「うう、納得いかない……」
「カモミールティーでも飲んで落ち着け」
「そういえばなんでミートパイとカモミールティーなの?」
「ピーターラビットだ」
「カモミールティーとか出てきた?」
「腹壊したピーターに母親がやってたろ」
「あー、カミツレを煎じたやつね。カミツレってカモミールなんだ」
ちなみにピーターが腹を壊したのは、母親のいいつけを破ってマグレガーさんの畑に忍び込み、レタスなどを食べ散らかしたからだ。
「……あれ、ちょっと待って。ピーターラビットでミートパイってあんた!?」
「マグレガーさんが美味しくいただきました」
「ピーターのお父さんじゃない!」
ピーターの母親いわく『お父さんはマグレガーさんに捕まってミートパイにされてしまったから、畑に行っちゃダメよ』とのこと。
ピーターが馬鹿な真似をしないように話を盛ったのだろう。
もし本当にマグレガーさんにパイにされていたら、そんな話はしない……と思う。
「お父さん美味しい」
「ウサギ肉じゃないぞ」
「わかってるわよ」
イギリスならともかく、日本では中々ウサギ肉は手に入らない。
……手に入ったとしても喫茶店には置かないが。
「結局、矢倉の最善手はなんなの?」
「それがわかれば苦労しない。この25手目の最善手、いわゆる『神の一手』を見つけた棋士が次の名人になるって言われてた時代もあったぐらいだからな」
「神の手……」
「……ん?」
違和感を覚えて瑞穂の視線を追う。盤面ではなくじっと俺の手を観ていた。
そういえばさっきも盤上より俺の手ばかり眺めていたような。
ピンとくる。
「お前、もしかして手フェチか?」
「ち、違うわよ!? 色黒で血管も見えない肉厚の手なんて全然まったくこれっぽちも興味ないから!」
「なるほど。色白で血管がはっきり見えて、余分な肉もついてない骨ばった手がお前の好みか」
「ぁー……」
赤面して両手で顔を覆う。図星だったらしい。
「女は男の手が好きだって話はよく聞くが。もしかしてそれが目当てで囲碁始めたのか?」
「違うわよ!」
そういえばこいつネット派だった。見たくとも手は見えない。
「なに、恥ずかしい話じゃない」
そんなことには露も気付かなかったことにして、瑞穂の肩を優しく叩く。
「肉付きのいい男が好きで両国(相撲)に通う女もいる時代だ。手が好きで将棋や囲碁を観る女がいてもいい」
「そ、そうよね?」
遠まわしにからかったつもりだったのだが、安心して胸をなでおろしてしまった。
もしかして本当に手が目当てで囲碁を始めたのかもしれない。
「しかし俺の手ってそんなに酷いのか? 意識したこともないだけにショックなんだが……」
「そうね……」
瑞穂は難しい顔でしばらく考え込み、ぽつりと一言。
「これはこれで」
結局、男の手ならなんでもいいらしい。
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