蟲工場㉚
あの時見た上へと昇ったバットはここへ来ていたのかと鳴海は妙に納得したが、今はそんな事に構っていられない。
この銀ラックの迷路の中に赤又がいる。
鳴海は、まるで葉っぱの上に雨が落ちるような跳ねまわるような不気味な音が支配する静寂に神経をとがらせた。
天井に届くような銀ラックが人一人がようやく通れるほどの間隔を保って立ち並ぶ羽化室は、どうやら鳴海が思っていたよりもはるかに広く感じる。
取りあえずと中に飛び込んだのは間違いだったと後悔するも、後の祭りだ。
赤又の気配を探そうとときおり耳をそばだてるも、ラックの中のバットから聞こえる雑音が邪魔して足音一つ聞こえやしない。
「ちっ……どこだ……つか、なんでここ湿気てるし……ソレに蒸し暑い」
廊下は作業着の上を着ていても肌寒いくらいだと言うのに、羽化室の中はまるで夏のように蒸し暑い。
「ソレは、蛹の羽化を促進するためだ」
不意に聞こえた赤又の声に鳴海は辺りを見回すが、見えるのはまるで柱のようにそびえ立つラックばかりだ。
「全く……ここにいると言う事は、やはり彼の言う事を聞かなかったんだな」
「!」
ある角を曲がって正面、10mくらい離れたちらつく蛍光灯の真下に顔色の悪い落ちくぼんだ様に見える青黒い隈の目がやつれたように恨めし気に鳴海を見る。
「ふぅ、まさか小橋川と行動するとはね、悪い子だ」
「赤又さん! もう、止めてください……」
鳴海の言葉に赤又は首をかしげた。
「何をやめろというんだ? 私は、君に止められるような事は何もしていないのだけれど?」
「この期に及んでまだとぼけて……ここの蟲を使って一体何しようとしている! それに、玉城先輩に何を手伝わせているんだ?」
まだ少し、薬品で腫れた目で鳴海は赤又を睨みつける。
「仕事だけじゃなく、言葉使いまで雑になってきたね……まぁ、さっきの事は玉城君の案だから私を睨むのは筋違いってものだよ……」
「嘘だ!」
「いいや、かなり乱暴な方法だったが危なっかしい君の身の安全を確保するためには有効だと思ったんだけど……まぁ、見事に当てが外れたってところか? 彼も失敗する事はあるようだ」
赤又は、ため息をつきながら自分の着ている白衣の襟をただす。
「身の安全……?」
「何を不思議がる? 君は彼のお気に入りじゃないか?」
訝しがる鳴海に赤又は言葉を続ける。
「なにを聞かされたは知らないが、むしろ何かしようとしているのは小橋川の方だ」
口を動かしながら一歩また一歩と鳴海に向けて歩を進めてきた赤又は、すっと細い手を伸ばす。
「君がここに来たのは、小橋川の指示があった言う事……出せ!」
刺された指に鳴海は思わずポケットを抑える!
「やはりな……あの男なら間違いなくウリミバエを選ぶと思った……しかし、この予想ばかりは外れてほしかったよ」
赤又の表情は、薄暗い蛍光灯を浴びてどこか悲し気に鳴海の目に映った。
どういう事だ?
後ずさりながら鳴海の頭は混乱する。
二人の言葉がかみ合わず、互いに互いが悪いと一歩も譲らない。
「君が持っているものをこちらに渡せ……ソレを解析すればあの男がどんな危険な人物か分かる」
「嫌です! 自分は貴女の事も信じられません!」
それは、鳴海が踵を返そうとした時だった!
バチッツ!
暗転。
突如、蛹の羽化室は深淵に落ちる。
漆黒の闇の中で、鳴海は凍り付いたように動きを止めた。
全く何も見えない。
立っているのに、地面の感覚も暗闇の所為か曖昧に感じ一歩もその場から動けない。
ガサガサ……パキパキ……。
パラパラ……パラパラ……。
ザザザザザザザ。
ガサガサ……パキパキ……。
パラパラ……パラパラ……。
ピッピピピピピピピピピ……。
漆黒の静寂に、蟲の蠢く音や気にも留めなかった機械音が耳を襲い肉体が感じている筈の蒸し暑さがあっという間に引いていくのに汗ばかりが伝うを感じ鳴海は身震いした。
「はぁ、はぁ、はぁ、」
______苦しい、呼吸がつらい_____
緊張状態に陥った心臓が、鳴海の鼓膜を叩き折角封をしていた『恐怖心』をもたげる。
そう、ブレーカーが落ちたと考えるにはあまりにタイミングが良すぎた。
「ぁ、っ……!」
先程の手も足も出せずに捕らえられた恐怖が、しみるような目の痛みをおこす。
ここにいるのは、当然だが自分だけじゃない。
また攻撃されたら?
冷静に考えれば、鳴海の方が赤又の何倍も強い筈なのにまるで背後に大きな化け物でもいるような錯覚に陥り恐怖のあまり呼吸は荒くなる。
正直、叫び声をあげながらここから逃げ出したい衝動に駆られた鳴海だったがその足は踏みとどまる。
いや、恐怖ですくんだと言うのが正しいのかもしれない。
逃げたい。
多分、今自分がそうしても誰も咎めないだろう。
けれど、このままでいいのか?
此処で逃げたら、あの人を小ばかにしたヘラヘラ顔に……玉城に笑われる!
鳴海は、闇の中で自分の位置を確認しようと探るように手を伸ばすと固いものに触れた。
感触からしてこの固さと冷たさは金属、沢山あるバットの入った銀ラックだ。
蟲の蠢く音の響く空間に、カツ、カツ、っと床を踏む足音に耳をそばだてながら鳴海はラックに手を這わせゆっくり移動する。
「砂辺、小橋川に渡されたものをこちらによこせ……それは危険だ」
真っ直ぐこちらに迫る足音には一切の迷いがない。
恐らく、赤又は何らかの方法を使ってこの暗闇でも鳴海を補足しているのだ。
カッ。
カッ。
カッ。
鳴海は、身じろぎ一つせず背後から迫る足音を数える。
「さぁ、良い子だか______!?」
真っ暗闇で向き直った鳴海の左手が、赤又の白衣にかかった!
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