蟲工場㉑
「でも!」
「いい加減にしなさい、君は何しにここへきているんだ? 男にかまける暇があるなら元素記号の一つも覚えることだ」
「男にかまけるって……!」
「間違っていないだろ? 初めて足を踏み入れた不安な『社会』で初めて優しく接してくれた年上の男、いかにも不安で押しつぶされそうな世間知らずの小娘がころりといきそうじゃないか?」
振り向かぬ背中が笑う。
「ちがっ!」
「昼じゅう突っ立っている暇があるならさっさと始めたらどうかな? 試薬の表記も読めない様じゃ仕事にならんぞ?」
鳴海は唇を噛み、目の前の女を怒鳴りつけたい衝動を飲み込む。
『図星を突かれた』そうなるのだろう。
玉城へのこの思いは兄に懐くようなものだと鳴海自身そう思っていたが、赤又の言葉に顔から火を噴きそうな程に熱くなる。
こんな感情が自分にあたとは。
強くなることばかり考えてきた柔道漬けの体育脳は、ぐるぐる回るが今はそんな事よりも一言も言い返せない自分が腹立たしい。
玉城の事はもちろん、仕事についても赤又の言う通り鳴海には出来ないことが多い。
ダン!
鳴海は、腹立たしさとぶつけようのないもどかしさを隠すように荒々しく実験室を飛びだし自分たちの研究室へと戻る為廊下に出た。
昼だというのに、その機能の特殊性から外界と完全に遮断され開閉できる窓一つ無い廊下は古びた蛍光灯の途切れ途切れ点滅する明かりのみで照らされ薄暗く不気味だ。
色あせた壁、ひび割れた床。
此処だけじゃない、基本的にこの建物は古びているのにも関わらず絶対に管理しなければならない大量増殖の区画をのぞいては修繕らしい修繕が行われていない。
あの時のまま。
正確には、ウリミバエの根絶宣言がされて国からの補助金がカットされた為に修繕に殆ど手が回らなくなったと言うのが正しいだろう。
だから、肝いりだった新規事業のイモゾウムシ・アリモドキゾウムシの根絶事業とそれにともなう補助金の追加はこの研究に携わる研究員にとって……取り分け、赤又にとっては重要だったのは言うまでもない。
が、初の散布を目の前に事もあろうにコンテナのイモウゾウムシ・アリモドキゾウムシは全滅した。
生ける屍のように不眠不休で、赤又は原因究明を急ぎ苛立つ。
そして、彼女にとって一番の不運はこの局面で採用された補助員が高卒体育科の柔道馬鹿で世間知らずのお嬢ちゃんだと言うことだろう。
そのお嬢ちゃんは、薄暗い廊下を足早に駆け抜け自分たちの研究室である特殊病蟲班へと戻り眉間に深々と皺を寄せ昼飯すら食わずに元素記号の一覧とにらめっこしていた。
「OH~なるちゃん、まさに般若さんね~くわばらくわばら~なう」
チェックのシャツに顔中を髭に覆われたイエティことクリプトン室長が、鳴海の鬼気迫らん形相で元素記号を念仏のごとく唱える様に恐々とする。
「不機嫌さんのなるちゃんにコレやるよ!」
デスクにおいた元素記号の一覧にキャンディーの小さな袋が転がるが、鳴海はゴミでも払うように手で払う。
「マジこわいよ、なにこの子、たんきーはそんきーとクリプトンさんおもうよ?」
「室長」
元素記号の詠唱を止め一覧に視線を落としていた鳴海が、毛むくじゃらの顔を見上げる。
「はい、なんでしょかよ?」
優しく微笑むイエティに鳴海は問う。
「室長はコンテナの蟲が全滅したのどう思います?」
「はい、それはとても残念な事だと思うますですよ」
「室長も犯人は小橋川さん達だと思いますか?」
「ou……」
鳴海の問いにふそりと顎髭をなでるクリプトン室長は、ふぅううっとまるでタバコの煙を吐くようにいきをつく。
「Mrs赤又の結果がでるまで何とも言えないけど、小橋川も立派な生物学者なのだですよ、クリプトンさん、そんな小橋川を信じたい気持ちあります」
そう言うと、クリプトン室長はコトリと鳴海の手の側にミルクティーの缶をおいた。
「あ、これ……」
「はい、なるちゃん最近こればかり買ってました、好きでしょかよと思って」
「あ、ありがとうございます!」
ばっ、と頭を下げた鳴海に『oh! ぶしどー』っと言いながらクリプトン室長は背を向け自分尾デスクへと戻って行こうとしたが不意に何かを思い出したように振り向く。
「あ、そーでした! この事件とにたような事が起きたと新聞に書いてありました~なるちゃんにもどぞ?」
ばさっと、置かれる新聞。
鳴海は見慣れぬ『業界新聞』のマニアックさに一瞬空腹をわすれた。
◆
『新聞』というのは、驚くほどに種類が多い。
一般的に読まれている大衆向けの誰でも知っている新聞各会社の発行しているものだけでも経済紙、スポーツ紙、芸能紙、などがあるが他にも『業界紙』と呼ばれるものがある。
この『業界紙』とは産業各分野に密接な関係があるのだ。
数は300紙以上あると言われ、その業界数も科学技術関連からはてはキノコやカビやゴムや果てはカルトに近い宇宙論までと幅広い。
例えば、『こんにゃく新聞』などは文字とおりこんにゃく産業に特化したものとなっているからこんにゃく芋も新しい品種だとか新しい製法だとかこんにゃくを梱包する機械の新しいベアリングがどうとか普段我々がお目にかかれない特集がされ実に興味深い。
クリプトン室長に勧められた新聞の記事を、鳴海は食い入るように見る。
『日本動物昆虫紙』
文字のとおり昆虫についての新聞らしく、内容もミミズを使ったプランテーションだとか食糧に適したカブトムシの幼虫のたんぱく質のみの培養だとかの特集の並ぶ端にあった小さな記事。
鳴海はそこから目が離せなかった。
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