一度、馬に蹴られてみたらどうだろう



「小宮さん」


 そう大きく呼ばれた方へとゆっくり振り返ると、一車両半ほど離れた場所に氷室が立っていた。


 遠くからでも目が合ったことが分かったので軽くお辞儀をすれば、同じくお辞儀を返され迷うことなくこっちへトコトコ歩いてくる。


(一体、なんの用事なんだか)



 まさか「一緒に帰りましょう~」って言いに来ただけじゃ……


 いやそれより、あの状況の俺らに声を掛けるとは。

 というか、見なかったふりして静かに立ち去るだろ普通。


 あ、そこそこ遠めの背後から見てたんで、角野が俺の体に隠れて状況が分からなかったとかか? いやいや、そんなバカな。



(まぁ、今更グダグダ言ってもしょうがない……)


 とりあえずは、とベンチから気合いを入れて立ち上り、こちらへと歩いてくる氷室を真顔で眺めていたら隣から着信音が聞こえた。


 その音に反応しパッと振り返ると、角野がカバンからスマホを取り出しており、着信画面を確認したあと微妙な表情をしている。



(―――でた。その微妙顔は前にも見たぞ)



 メールか電話、どちらかは分からないが着信相手が誰なのかは分かった瞬間、「またかよ」イラッと声を掛けそうになったが


(いや待て。どういう対応をするんだろうか)


 急にそこが気になりだし、黙って体を氷室が来る方向へと戻してから、見てませんよ風のシラッとした横目で静かに角野の観察を始めた。


 微妙顔で画面を一回タップしてからすぐにスマホをカバンにしまった角野は、これまた違う意味での微妙な表情をして俺を見上げる。


 見上げてきた流れでスッと俺の背後に目線をやった角野は軽く息を吐き、ベンチからゆっくりと立ち上がった。


「電車、そろそろ来そうなんで」

「……帰る?」

「はい」


 その言葉を聞いたとたん、以前のような口先だけではなく心の底から本当に寂しくなってきてしまい、ボンヤリとなった雰囲気の中また頬へと手を伸ばし、日曜までの別れをじっくりと惜しもうとしたとき


 突然ピタっと横に寄り添われた気配を感じ、次に片手で腕を軽く持たれた。



(お、しまった。また氷室の存在を忘れていた)



 不意を突かれたので分かりやすく慌てふためき、伸ばしかけた手を速攻で降ろして無言で振り返れば、


 まるで、私が小宮さんの本命です…と言わんばかりの笑顔で、「お世話になりました」てな感じの会釈を氷室が角野に向かってしている所だった。


 はい? と体をのけぞらせ、驚きの気持ちで氷室を見ながら、


(おいおい。なぜお前は、俺の彼女ヅラしているのか)


 思いっきり心でツッコミを入れたあと、今度はもの凄く強い真っすぐな視線を氷室から送られまくっている角野の反応を見るため、恐る恐る視線を前へと戻す。


 角野は「凄いなー」という少しひるんだ様子で会釈をし返していて、俺と目が合うとすぐに別れの挨拶をしてきた。


「えっと、じゃあ私は帰りますんで」

「はい。お疲れ様です」

「あーうん、お疲れさま」


 まだ氷室につかまれている腕とは反対側の手で角野の背中をトンと叩き、寂しく挨拶を返していたら、ほんの数分前ベンチで起こった出来事を突然思いだす。


(そういや、何かを俺に言おうとしてたよな)



「角野」


 そそくさと逃げるかのように電車が来るホームへと歩いて行く角野へと一歩踏み出し、サッと手を伸ばして二の腕をつかんだ。それから顔だけで横を振り返り


「あ、すいません」


 そっけなく氷室へと声を掛け、俺のそのりんが電車に乗って無事帰るまでを見届ける気満々で腕を持ったまま一緒に歩き出そうとした。


 ……したんだが。



「はい?」 


 唐突にグイッと斜め後ろに引っ張られたので再び横を振り返ってみると、氷室が俺のコートの裾を両手でしっかりと持っている。


 コートを持ってる両手から氷室の顔へと視線を移すと、上目遣いのウルウルさせた大きな瞳で「行っちゃうんですか」と悲し気に訴えかけられ


 そして俺と目が合ったことに気づくとコテっと小さく首を傾げ、嬉しそうにホロ酔い加減な表情でニコッと笑われた。


 そんな女子力高めの仕草と表情が、氷室の元々の可愛らしい容姿を更に恐ろしい程パワーアップさせてしまっており―――



「あーえっと……」



(―――てか可愛いな、おい。)



 いや。


 ……そうじゃないだろ。

 つい、本能で反応してしまったじゃないか。


 えっと、とりあえずはだ……

 そう、この手を離してもらおう、歩けない。



「すいません。あとで必ず戻ってくるので」


 申し訳なさそうに微笑みかけてから、手を離そう…という意味を込めて手首を軽く持ち、安心させるかのように伝えると氷室は裾からパッと両手を離し


「はい。待ってます」


 キラキラした満面の笑みで返事をしてきた。




 するとタイミング良く……なのかどうかは不明だが、そこで電車到着のアナウンスが流れ、ホームの向こうに角野が乗る予定の電車が見えてくる。


 アナウンスを聞いた角野が俺と氷室の顔を交互に見たあと、焦ったように素早く一人で歩き出しながら手を振った。


「電車、来たので行きますね」



(待て待て……)


 慌てて角野の後を追い、横に並んだところで顔を覗き込んだ。


「さっきベンチで何か俺に言おうとしてた?」

「あ、いえ。別になにも……」


 すでにホームに入ってきている電車に早くたどり着きたいのか、話し掛けても全て適当な対応をされてしまう。


 乗車位置マークの前に立った辺りでやっと落ち着いたのか、横に立った俺を角野がクイッと見上げてきたので、おかしそうに目を細めて笑いかけた。


「まさか、帰ったはずの氷室が現れるとは」

「はい、ほんとに」


 軽い笑いを含んだ返事のあとすぐに電車のドアが開いたので、「じゃあ」と手を挙げた角野が慌ただしく乗り込んで行く。


 発車の音楽が鳴りはじめたのと同時に少しかがみ込み、角野と同じ高さに目線を合わせてから肩近くの腕に手を置き


「家に着いたら必ず連絡しろよ」


 心配だからな…と真剣に優しくお願いをすると、一瞬の沈黙のあとなぜか眉をひそめた角野に単調で棒読みの言葉を返された。


「小宮さんって、ホントウに、優しいですネー」


「………」



 ―――角野、俺の気のせいだろうか。


 今の言い方に、とっても棘を感じたんだが。



 思わずムッとし、かがんでいた体を起こして手を離したそのとき目の前でドアが閉まり、動き出した電車の中から手を振って角野は帰っていった。



「なんだあれ」


 去っていく電車を見送りながら小さくつぶやいたが、ふと


(今までの、ノリでの冷たさとは、何かが違う……)


 そこに気づいた瞬間、ただただホームで突っ立ってるだけの男前―――に、たぶん見えるであろう小宮の頭の中で、久々の大騒動が巻き起こる。



 ・

 ・

 ・


 やばい。まさか、だが。

 小宮は無理だ…と本気で思わせるような何かを、俺はしてしまったのか?

 

 考えろ、考えるんだ小宮。



 そういえば、新年会で氷室の頭をポンポンしたような。

 あとは、そうだ。酔ったと言われ腕を組んでしばらく歩いた。


 そして、他にも―――


 やばい。

 思い当たることが多すぎる……



 いや待て。


 角野なら、あの程度の言動は全く気にしないはずだ。

 現に新年会終了時点では、いつも通りの態度だったしな。


 じゃ、この駅での出来事が原因か?


 いやいや、それは無い。

 今までになくいい感じの雰囲気になってただろ。


 でもまぁ残念ながら、それは氷室が現れるまで、だったが。


 しっかし氷室は俺を引き留める時、なんだか超・気合いが入った媚びを見せてこなかったか? だから思わず、ついつい甘めの対応を―――


 …


 …


 て、おや?



 ……いや、そこなのか? 



 おっと、マジかよ……


 待て、さすがにそれは無いか。

 いやでもな、どうだろ。


 ・

 ・

 ・



 しばらくその場で思い悩んでいたが、このままずっとホームに突っ立っている訳にもいかない。


(それに、どうせどれだけ考えたとしても、正解なんぞ出ない)


 経験上、もう早々に原因の追究をすることなど諦めることにし、むっつりとした表情でゆっくりと顔を上げた。


(とりあえずは、氷室の所へ行こう……)


 





 角野を見送ったあと、気分を変えるつもりで勢いよくクルっと踵を返し歩き出すと、氷室がまたまた満面の笑みで「小宮さん!」と駆け寄ってくる。


「……じゃ、帰りましょうか」

「はい」


 一緒に帰るため目的のホームへと並んで歩き、新年会での出来事などを話している途中、いま気づいたんだけど…という顔を作る。


「で、何か用事でした?」


 それを聞いた氷室はふっと鼻から息を吐くように小さく笑ってからコテッと首を傾げ、楽しそうに俺の顔を見てきた。


「あ、はい。ちょっと聞きたい事があったのと……。あと正月旅行のお土産を渡しそびれたのも思いだしたので、急いで追いかけたんです」



(また土産か。そんなのいつでも良かったのに)


 その土産のせいで…と思わずイラッとしてしまったが、そのこと自体が悪い訳ではないのでとっさに笑顔を作り、なるほどと納得した感じでうなずく。


「お土産……あーそうだったんですね」

「はい、これ」


 氷室がカバンから小さめの袋を取り出し笑顔で手渡してきたので、それを両手で受け取りつつまた笑顔を作りお礼を言った。


「ありがとうございます」




 それからホームにたどり着き、タイミングよくきた電車に二人で乗って並んで座席に座り、仕事や社長のことなどをつらつらと流れ作業で話していたんだが、突然会話がスッと途切れてしまう。


 また途切れただけでなく、二人して別々の方向に顔を向けた変な無言の時間の始まり、気まずいどんよりとした雰囲気がだんだんとその場に漂い始める。


(なんだこの沈黙は。……いやもう、ここは適当にやりすごそう)


 そこで、意味なく「ふっ」と笑うことで場の雰囲気をごまかしてから、再び当たり障りの無い話題を選んで会話を始めようとすると、


 窓の外を憂いがちに眺めていた氷室が、あさっての方向を向いたまま何でも無いことの様に静かにつぶやいてきた。


「角野さんと付き合ってたんですね」



(おいおい。なぜ急にそんな話になるのか)



 一瞬、何と答えるのがいいかと考えを巡らせたが、別にそこまで悩まずともただ単に事実を言えばいいだけだ。


「あ、いや。付き合ってない、ですけど」


 軽く眉を寄せてから氷室の方を向き同じく静かな声を出すと、それを聞いた氷室がこちらをサッと素早く振り返ってから俺を驚きの表情で見上げた。


「嘘! 付き合ってないんですか?」


 そのあと、あれ? という顔に変わり不思議そうに首を傾げる。


「……え? じゃあ、さっきのあれは?」


 何気なくまたつぶやくように言ったがすぐに「あっ…」という表情になり、今の言葉に対する反応を確かめるかのように俺を窺ってきた。



(―――おい。なんだかんだで、しっかり見てたんじゃねーか)



「あれ、とは一体?」


 わざとらしく軽く首を傾げ、分かりません風の曖昧な微笑みを浮かべて尋ね返すと、氷室は動揺した仕草をしてから正面を向きつぶやく。


「いえ、別に」


 そこからまたしばらく無言が続いたが、さっきとは違い何かを聞きたそうに氷室が定期的にチラ見してくる。



 いやいや。


 いくら俺が、恥じらいが薄くなった36歳のおっさんだとはいえ

 さすがにあの場面の事を、これ以上追及されるのはちょっと。




 少し面倒な気分になってきた事もあり、もう何事もなかったかのように他の話題へと強引にでも移してしまえと


「そういえば、明日は……」


 まずは営業らしく天気の話でもしようかと口を開いた時、ふいに氷室が勢いよく顔を上げた。


「あ、じゃあ。ずっと好きだという女性も別の人……」



(おっと、そこにきたか。また氷室相手には、答えにくい事を―――)



「あー、えーっと。それは何と言うか、はい」


 おでこを触りながら再び曖昧な微笑みを浮かべ、言外に意味を読み取ってください…という照れた雰囲気を醸し出すと、正面を向きうつむき加減になった氷室がポツと言った。


「片岡さんにも言われたんですよね」

「――片岡さん?」


 片岡がなにを言ったのかと不審げに聞き返したが、そこは華麗にスルーされ氷室はそのまま黙り込んでしまう。



 まぁ彼女にとっては暗に振られたようなものなので、申し訳ないという気持ちは多少ある。あるけれども、氷室が電車を降りるまでこの状態が続くのか?


 漂う雰囲気と俺の気分がかなり重くなってきた頃、ハッと思いついた表情で氷室が俺の方を振り向いた。


「そういえば、お手洗いに立った時に『このあと待ち合わせしよう』てメールが来てたんですが、あれも小宮さん?」


「……メール? 角野に?」


「はい。ラブラブっぽく嬉しそうに読んでたんで……だからさっき駅で二人を見た時、てっきりそれは小宮さんからだったのかと……」


「いえ。そのメールは送ってないですけど」


 俺が手を横に振り否定をするのを聞いた氷室は、目を大きく見開いて驚くと


「え、ひどい……」


 ボソッとした声を出し、次にとても可哀想な人を見る目で心配そうに俺を見つめだす。



(はい? まだ21時過ぎだし、別に誰かと帰りに会ってもいいだろ)


 なぜそんな目で俺を見るのかと眉をひそめいぶかしげに氷室を見返せば、怒りをにじませた低い声でゆっくりと怒りの言葉を吐いた。


「他に男がいるのに、小宮さんにも手を出すなんて……」


「―――はい?」


 なに言ってんだ? と氷室の顔をマジマジ見ると、まるで悲劇を見てしまったかのように辛そうに目をそらされる。


(よく分からない展開だが、どうやら角野に男がいる、と誤解しているらしい)


 だが、このままなんの弁解もせず黙って氷室を放流してしまうと、角野と付き合うどころか俺の「存在価値」自体が怪しくなる。


 とりあえずは角野の名誉を守るため、頑張って誤解を解いておこう。



「いや、そのメールの相手が男性だ、とは限らないのでは……」

「いえ、絶対にあれは男です」

「そうだとしても、ただの友達かも」

「まぁはい。でも違うと思います」


「それと、手を出そうとしてるのは、角野ではなく自分の方で……」

「ふ、あーいう地味な人に限って、隠れ肉食系だったりするんですよ小宮さん」


「あー角野はそういうタイプでは……。それに駅での事なら、どうみても仕掛けたのは俺……」


「甘い。甘いです小宮さん。そんなんじゃ、気づけば結婚に持ち込まれてますよ」


「いや。現時点で結婚に持ち込まれて困るのは、角野の方ではないかと」

「小宮さん、優しすぎます」




 ――――なぜだ。全く話が通じない。


 優しくて誠実、かつ一途な男前の小宮がいいように扱われ騙されている、と思い込んでいる。何度も言うが、俺が、角野を狙っているんだ。角野が、俺をじゃない。


 思い込みで人の恋路を邪魔するなよ、氷室……




 目の前の氷室から感じる角野への静かなる闘志が、さっきからひしひしと十分すぎるほど伝わってくる。


(どうして俺は、いつもこういうタイプの女に追い掛け回されるんだ……)


 氷室に言い返すのを一旦やめ、角野に迷惑を掛ける予感しかしないこの今の状況にガックリと深く落ち込みかけていると


 その暗くなった気配に気づいた氷室は俺の横顔をジッと見つめ、それから悲し気に俺の手を取り慰めるように優しく言う。


「いつでも私は味方ですから、いつでも相談して下さい」


 するとそこで、駅に着いたという救いのアナウンスが車内に流れた。


「あ、降りないと」


 氷室は急いで立ち上ると、また心配そうな様子をみせてからふんわりとした笑顔で手を振り、開いた電車のドアへと歩き出す。


「じゃあ小宮さん、また」

「―――はい。お疲れ様でした」



 まぁ、なんというか。


 氷室が気にしてるメールの相手は、たぶん元カレだと思う。

 ラブラブな様子ってのは、氷室が大げさに話を盛っただけのはず。


 ん?


 いやただ、確かに氷室と一緒にお手洗いに立ってからの角野は、どうも様子がおかしかった。まさか『待ち合わせしよう』の部分は、本当に怪しい意味なのだろうか。



 ……うわ、やばい。気になってきた。


 氷室の策略にうまくはまった感じで腹が立つが、こればっかりはしょうがない。


 日曜にシラっと聞いてみるか?

 そうだな、そう。気になる事は早めに解決するに限るよな。




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