二年目.十二月十日――残り二年と三百五十七日

◆ガラスの靴より硝子の剣を

 夢を見た。

 それはいつぞや見たものとまるっきり同じもので、きっと幻灯機が映し出す記録映像のようなものだと思う。

 電熱の代わりに心の熱で動かすという違いはあるのだろうけど。


 あたたかな人家から離れて、山を分け入って、風雪かぜとゆきにうずもれて当たり前の大地、わずかに生えた下草さえ懸命に掘り進めないと見つけることができない。

 雪原にはふたり以外誰もいなかった。

 

 誰かが誰かを剣で刺し貫いた。血が流れる。血の色は見えない。わからない。

 誰かが誰かを覆い隠してしまったから。折り重なって倒れるのは両方で、なぜ? という疑問が生まれると同時になにかが奪い去られていく感覚が走る。

 ねつ

 ひょっとしたら落ちたそのすぐそばから蒸気をあげて雪を雨に変えてしまうのではないほどに、血は熱かった。


 「一滴さえ奪われてなるものか。わたしのものだ! これはわたしのものだ!」


 吸血鬼だなんて物語の怪物が母親だと誰が思うでしょうか?

 その時、わたしを第一に襲った感情は困惑で、続いて恐怖だった。わたしを構成していた常識がもろくも崩れ去っていく。

 

 “世界”が奪われていく。外の世界、蜜蜂をおそれて逃げ出したり、水切りの音を聞きたくて何回となく石を投げつけたり。

 世界に関わるために体が必要になるというなら、モノを考えるのに不可欠だというのなら、肉体すなわち“世界”と言いきれてしまう。


 急速に視界が歪み、だんだん聞こえなくなる。体温を雪の結晶と分け合いたくなんてないのに、奪われる。痛みのすぐあとは熱くて、今は寒い。


 さむいよ。


 指先がだんだんと動かなくなることだとか、肌が自分の色だとは思えなくなってしまうことだとか、寂しさを通り越して怖くて寒くてどうしようもない。

 誰かが誰かを切り裂いている。流れる血を零すまいと、掌で作った盃で受け止める、そんな仕草がひどく滑稽に思えた。


 この光景を見ているのは誰?

 だから、きっとこれは夢。

 かつて現実だった、だからこれは夢で――、今だからこそわかってしまう。


 ああ、“母”は取り戻そうとしているのだ。十七年前に生まれた娘が奪い去っていった血肉を、いいえその“血”のみを返してもらおうとしているんだ。

 出生時三二七〇グラム、あの時わたしが流した血の重さはイコールそれくらいの分量だろう。


 貸し与えた血を取り立てて、利子分の肉はぽい捨てか。

 ほんらいわたしのはずだったものを取り立てて、なにがおかしいのか? 自分の腹を痛めて産んだ子であるから文句を言われる筋合いはないだろうって、勝手な言い分を思い出す。


 きっと、若さが憎かったんだろう。十七歳の自分が欲しかったんだろう。もっとありふれていない理由が欲しかった。

 やがて、わたしに似たわたしでないわたしが立ち上がると、胸を張るようなことはなくてとぼとぼと立ち去っていく。

 ソレを止めるために喋ろうとする口も、なにかを掴もうとする手も血がなくなってしまっては役に立たない。


 最初は遠慮していたはずの雪がわたしだった死体に降り積もっていく。

 まるで鋳型みたいだ。熱々の金属を隙間に流し込むわけではなくて、最初から熱が失せてしまった雪を積み重ねていくという違いはあるけれど。

 

 雪は固まって氷になって、わずかに吹きこぼれた黄金の血が氷を濡らして、それも固まって――。

 

 「スーラ=トーラ!」


----


 目が覚めた。

 寝汗がひどい。いいえ、それは勘違いだと思い直す。

 大家さんが運んでくれたのか、寝間着姿のままの自分を発見した。地下室の小部屋を作るために、いくら払ったかなんて思い出したくない。


 氷室ひむろに籠っていたのに、熱の錯覚さえ覚えてしまう。この体は、肉の塊ならぬ氷の塊だというのに、どうしてこんなところはよく出来ているんだろう?

 この身を抱いても、冷たくて冷たくて寒くて寒くて仕方がないのに、ほのかにやわらかくて、私を癒してくれるんだ。


 「トーラ、スーラ=トーラ、いい名前だね! 素敵な名前だね?」

 「まだ……夢、みたいですね……、幻聴が聞こえる……」

 何度となく悪夢を見せてくる青の悪魔、その声が聞こえる。


 「ところが夢じゃあないんだな、ないのです。僕は、いいや“私”の右手を見るといいなと思います」


 熱された炭を脳の奥底で焚いているような感覚があって、定まらない思考の中でまあいいやと思って目は手を見る。

 

 剣が握られていた。

 二度見る。三度見る。

 何度見てもそれは変わらない。これは現実だ。


 それは透き通っていて、そっと指先を寄せただけで手折れてしまいそうなほどに繊細で、古の幼き女神をかたどったのように冒しがたい剣のかたちをしたなにか。

 透明な光線によってのみ構成された、持ち手があって刃があって、何かを注ぎ込めそうな孔が空けられた無色の剣、自分自身の光以外すべてを拒む傲慢な光の御物。私に何をさせようというのか、それだけでわかってしまう。

 

 これは剣ですか? いいえ、これはペンです。

 ……、場を和ます言葉を言うには勇気が足りなかった。


 「君に叫ぶための声はない、私が奪い去ってしまったから。だから僕が口下手な君の代わりになろうと思ったの」

 唇を奪われて、代わりに命を与えられた。まるで悪魔との契約みたいだったと思った。

 だから、私はこの声の持ち主を悪魔と呼んでいる。その悪魔からの贈り物なんてロクなものでないとわかっていた。


 「声を奪われたなんて『人魚姫』みたいね、約束を守らないといられない辺りは『雪女』だね!

 この『硝子の剣』は突き立てた者を確実に滅ぼして、引き換えに自身も砕け散る。君の手から離れることは絶対にないけれど、そうと望まない限り無いも同然!

 しかも、この『世界』の連中程度に気取られることはないよ!」

 

 「だから……、ココンさんも気づかなかった……?」

 いや……、ココンさんは確実に認識していたはず……。この見えない剣が手の内にあって、ご自身の手を切って血を含ませて――。

 「これは私のレコースであるスーラ=トーラ、君のために特別にあしらえたものだからね? そんじょそこらの有象無象に扱えるとは思わないことなの? 

 ま、あいつも僕のことをただの透明な文房具だと思っていたみたいだけどね?」


 文房具と言われてドキッとするけれど、ありふれた発想だと思って聞き流すことにする。それより聞きなれない単語があった。

 「レコース?」


 「私たちの言葉で『欠片かけら』という意味、うーん、眷属や一族、郎党、好きに解釈してくれていいよ。

 んじゃ、がんばってねー。前も言ったよーに、あと三年、たぶん君が二十歳はたちになる前に『絵画祭』で優勝しないとぶっ殺すから」

 「……」


 語調はあくまでも軽く幼くいとけなく、けれどどこまでも気まぐれな声は遠く、消え去っていった。

 だけど、力ある言葉だった。

 名残惜しい熱が引いて、冷たい私が戻ってくる。


 わかりきった話だって、これを人生の目的にするのは当然だって思いこむくらいには納得、説得されていた。

 声の先は、手に握られたままの剣から。右手に向かって話しかけていた姿が誰かに見られていたらどうしようか?

 

 「……!」

 私専用の氷室の厚い扉を開いてココンさんがやってくる。変な女だと思われるのは辛かった。

 「よかった……。三日も眠っていたのよ?」


 幸い、私のぼそぼそ喋り以外は耳に入っていなかったみたいだ。それより三日――私は、

 「はじめまして。僕に名前を付けてください、トーラ様」 

 右手から流れる少年か少女のすてきなメッセージを聞いた、すっごく真顔になった大家さんを見た。

 ……私は三日坊主で終わる前に一日目で休む羽目になった日記帳について心を飛ばすのだった。

 

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