◆作り置きの硝子の靴は熱くない

 「困るよおばさん。こっちとしちゃどうこうしてやりたい気はないんだけどなぁ」

 「ふん、血の匂いをぷんぷんさせた官憲風情がこんな夜分に何の用だって言うの?」


 寝間着のまま飛び出して、辛うじて目に入ったお気に入りのミュールを足に引っ掛けて、外付けのタラップに似た階段を降りて一階の管理人室の前に立つ。

 いつになく険悪な会話が漏れ聞こえていた。

 「調べはついてるんだよ、人さらいが。返してもらうぞ、アレを――」

 「人……ね。ああ確かにアレはだろうわ」


 片方は慣れ親しんだココン=コラ女史のものだったが語調はいつもとは程遠い苛立ったもので、もう一方は剣呑な響きを持った聞き覚えの無い男のものだった。

 少々迷ったが、そっとドアの片手を当てて鍵がかかっていないことを確認。


 「さん……コラさん!」

 か細い声のままだった。いくら呼びやすい名字だからと言って、精一杯上げた声の量は多くない。叫ぶ練習をしなければいけなかったけど、今はいい。

 他の住人は起き出してこようとしない。本当に眠っているのか、面倒に巻き込まれまいと寝たふりをしているのかまではわからない。

 だけど、今はどちらでもよくそのままでいてほしいと心の底から願った。


 丁度良く冷えたノブを掴んで、うっかり扉を壊してしまうんじゃないかと上下左右に振り回すようにして勢いよく押したり引いたりする。

 ……今だ! 曇り窓から見え隠れする男の気配に辛うじて当てないようにして、勢いよく開く。


 むっとした熱気に吐き気を催しそうになり、汗ばんだ男の手をかわして床に手をつき、転んでいませんよとアピールをしながら立ち上がる。

 男が女を密室に閉じ込めてどういうつもりか、咎めるのだ。男、困惑の表情。大切な大家さんの盾になる。

 

 「あなたの血は何色ですか?」

 見上げる私からすれば冴えない三十男。顎から首にかけて剃り残しの跡が目に入ったからか、あまり質は高くなさそうな印象を受けた。一歩後ずさる。赤みがかかった制服と、安っぽい肩章の形は知っていた。


 「そうだ。あんたの血は何色なのさ?」

 私の言葉を受けて、コラ女史は手にしたを自分の方に向ける、そんな仕草をした。

 「何の、つもりか」

 いささか声が上擦っていた気がしたのは気のせいではないだろう。

 この言葉には、互いの誇りへ問いかける、強制する力が宿っている。高圧的――、妙齢の女性をおばさん呼ばわりする小役人にはきっともったいなかった。


 そして、それ以上に力ある瞳は軒先から落ちる雪が肩口に降りかかることも気にならないほどに、男を外へ外へと押し出していた。


 「私の血は黄色い。なら、坊ちゃんあんたは?」

 振り返る。


 自裁するには浅いけれど、手首に線が引かれる。しっかりとした軌跡を描いて黄金色の雫が舞った。誰もが赤い血潮が流れているとは思わないことだ。


 「憲兵伍長……、ひとりではダメ……」

 兵卒に毛が生えた程度、辛うじて官ではあると言い切れるその程度の権限で無辜の外国人の懐をどうして探れるというのだろうか?

 首都直卒の国家憲兵隊の質はこの程度かと、私はこの国に対する評価を一段階ほど下げる。つまり、私はこの人ココンが好きだった。


 伍長殿の腰に提げた金属が開け放たれた扉に当たって甲高い音を立てた。

 ここは赤の帝国。彼の血は赤いのだろうか? わかりきった答えを見る前に、伍長は精一杯、国家の威儀を保つように、だけど彼が背負う分にはちっぽけな背筋を伸ばしてお辞儀をひとつ。何も言わずに去っていった。

 

 殿方の矜持が保てたかは知らないけれど、お互いのためにもう会いたくないと思った。


----


 「…………」

 「嬢さん、すごいでしょ? 治外法権ってのはこのことっさー」

 わずかな沈黙に答えてくれる声がある。わざとらしく明るくした声色が嬉しくて、だから自分が嫌になる。


 半分警察、半分軍隊。剣呑な国家の暴力装置がずかずかと女性の家へと上がり込む。警邏に当たったにしては横暴、だけどそれ以上の脅しとも取れる自傷行為で追い返したのは、私の一言あったからこそだ。

 

 血の色を訊くこと、それはつまりあなたのすべてを包み隠さずに言え、と迫ることに等しい。血の色を見れば、その人がどれだけ尊いかわかってしまう。

 この“世界”は残酷だと誰かは言った。親から子に流れる血脈は文字通り見ればわかってしまう。肌を透かすほどに鮮やかな血の色を保とうと、古くから貴人は頭を悩ませてきた。


 例えを引くと青い血という慣用句だってけして安くない。

 指先を針で突いた時の膨らみが瑠璃の宝珠と等しくなければ、青の王族を名乗ることなんて出来やしない。


 この、い加減な大家さんがどこの生まれなのか、私は知らない。

 “父”の紹介あっての出会いなのだけど、あれ以来人付き合いを絞ったあの人が残した友人関係である以上、ただの人ではありえない。

 

 だから――。

 「私の周りが騒がしくなるって? おーおー、構わんさ。嬢さん、あんたの問いに答えるのは敵手だけなんだから、その言葉は飲み込むといい」

 頭に血が上るなんてことは無いはずなのに、強い強い言葉をぶつけてしまう。私は口下手だ。


 だから、私が血を流す前に割り込むことになった。私の代わりに傷口を開く羽目になった。

 

 「傷が! ごめんなさい!」

 慌てて冷たい手を熱い手首に押し付ける。私のせいで流れる血は熱すぎて、指先は少し溶けてなくなってしまう。

 私は当たり前のヒトでない。冬とほんの少しの秋と春しかこの国にいることは出来ない。


 氷は溶けてなくなって、水になって血を洗い流す。

 最近読んだ神話ものがたりの設定ではヒトは土くれから生まれたという。私は幻想小説ファンタジーからしても外れた、ヒトの形をした氷塊に過ぎない。

 

 そんな、動く理不尽を“父”もこの人も受け入れてくれた。

 

 「ごめんなさい! ごめんなさい!」

 「落ち着きなさい、落ち着きなさいったら……」

 どうして、この手を止められるだろうか。普段は働かない舌先が今だけは仕事をする。言葉なんて鉛筆で紙に書き留めないと残らないって知っているのに、不毛な言葉が流れていく。


 私からすればしばしの時間が経ったが、やってきたのは唐突だった。

 「いいよ。もうすぐ十二時だ。そろそろ明日になるから、シンデレラは眠りなさい……」

  

 いいよと言ってくれた……? いいよいいよと繰り返す言葉が遠くなる。二の腕に走った感覚は切り裂かれる痛み、それ以上の冷たさだった。

 やってきたのは私の中から何かが切り離される喪失感。ふわふわとしたまどろみを越えて、意識を失う感覚はわたし生まれた死んだあの日以来になるだろう。


 薄れゆく視界の中で最後に見たのはコラさんの、霜の降りた掌に握られた手鏡……? 顔の下半分が唇を動かす「おはよう」の言葉だけだった。

   

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